※このお話の主人公、長瀬ひろのちゃんは魔法で女の子になってしまった浩之ちゃんです。
という事はもはや気にしないのが吉です(っておい)。

前回までのあらすじ

 北海道への修学旅行にでかけたひろのたち東鳩高校2年生一同。普通なら大ピンチのはずのトラブルも何とか切り抜け、無事に帰還を果たす。今日から改めて通常の学校生活が始まるのだが、さて今回の事件は…

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第十八話

「ひろののアルバイト日記」


 修学旅行が終わってから二日後、旅行休みも終わり、二年生たちも登校してきた。久々に何時もの活気を取り戻した東鳩高校だったが、2−Aでは欠けた部分があった。
「それでは出欠を取るぞ。赤坂…井上………雛山。…雛山?今日は休みか?」
 出欠を取る木村先生が、理緒が返事しない事に気がついて問い掛ける。
「あ、雛山さんは熱が出たとかでお休みです」
 女子生徒の一人が手を上げて事情を説明した。
「む…そうか。仕方ないな。では保科…」
 納得した先生が出欠を取り、HRが終わった後、ひろのの机の周りに何時ものメンバー…あかり、志保、智子、レミィが集結した。
「理緒ちゃんが休みかぁ…珍しいなぁ」
 ひろのは言った。理緒は家計を助けるために新聞配達など厳しいアルバイトをしているが、それだけに身体は丈夫で、今まで欠席したのを見た事が無い。
「やっぱり旅行の疲れやろか。いろいろあったさかいなぁ」
 と智子。「いろいろあった」と言うよりは「あり過ぎた」と言う方が正しい気もするが。
「ちょっと心配だね。お見舞いに行った方が良いんじゃないかな」
 と提案したのはあかりである。その意見は満場一致で可決され、5人は放課後に理緒の家に様子を見に行く事になった。しかし… 「あ、しもうた。私、今日塾のテストの日やった。悪いけど代わりに様子を見てきてな」
 まず智子が抜けた。
「ごめぇん。新聞部の原稿の締め切りが近いのよ。あたしも抜けるわ」
 という事で、志保もメンバーから外れた。
「え?お母さんが調子が悪いの?うん…わかった。早めに帰るね」
 あかりも行けなくなってしまった。
「Oh、アタシ今日がバイトの日だって事すっかり忘れてたネ。Sorry」
 レミィまで事情ができてしまい、気がつくと理緒の家に行くのはひろの1人だけになっていた。
 仕方なく、放課後、ひろのは担任から貰った地図を片手に理緒の家を目指していた。途中でお見舞いにとケーキを買い、線路を越えて歩いていく。
「え〜っと…確かこの辺のはずなんだけど…あ、ここかな?…って、うわぁ…」
 ひろのは絶句した。「メゾン・ド・岩倉」という優雅な名前に反して、築30年以上は確実だろうと思われる安アパート。災害を待たなくても、力士を連れてきて柱に一発「てっぽう」をぶちかませばそれだけで潰れそうだ。
「こんな所に住んでたのか…って、住んでる人に失礼な言い草か、それは。ともかく部屋は…105か」
 ひろのは敷地に上がると、105号室のドアの前に立った。表札には確かに「雛山」の二文字が記されている。ひろのはインターフォンを押した。
 びー…
 電子音が響き、奥からいくつもの声が上がった。
「おーっ、姉ちゃん誰か来たぞーっ!!」
「おきゃくさーん、おきゃくさーん!!」
 何やら騒がしい子供の声が聞こえる。
「もう…騒がしくしないの、良太、ひよこ。で、どちら様でしょうか?」
 理緒の声が聞こえてきたので、ひろのは声を掛けた。
「あ、理緒ちゃん?長瀬だけど…」
「え?長瀬さん?ちょ、ちょっと待っててね…」
 ぱたぱたと歩いてくる音がして、ドアが開いた。熱で上気した顔の理緒が現れる。彼女のトレードマークのぴんと立った前髪も、今は元気無く垂れ下がっていて、いかにも具合が悪そうだ。
「いらっしゃい…どうしたの?長瀬さん」
 とろんとした目つきの理緒が言う。
「え?あ、あぁ…お見舞いに来たんだけど…だめだよ、そんなに具合悪そうなのに出てきちゃ」
 ひろのは理緒の肩を抱いて布団まで連れていった。パジャマの上からでも熱さが伝わってくるほどだ。
「う…ごめんね」
 布団に潜り込んだ理緒が言う。ひろのは気にしないで、というと傍のちゃぶ台の上にケーキを置いた。
「お見舞いに、と思って買ってきたんだけど…今食べられる?」
 ひろのが聞くと、理緒はふるふると首を横に振った。
「ごめん…嬉しいんだけど、ちょっと無理みたい」
「そう…」
 ひろのは理緒の答えに残念そうな顔になり…そして、じっとケーキの箱を見つめる視線に気がついた。小学生くらいの男の子と、それより小さい女の子。
「えっと…紹介するね。弟の良太と妹のひよこ。ほら、ふたりとも挨拶しなさい」
 理緒が言うと、良太はばっと手を上げて言った。
「良太だ!おねーちゃんは理緒ねーちゃんの友達なのか?」
 いかにも生意気盛り、という感じの良太の挨拶に、ひろのは苦笑して自分も名乗る。
「うん。長瀬ひろのって言うんだよ。よろしく、良太君」
「おう!よろしくするぞ、ひろのねーちゃん!!」
 続いてひよこが挨拶する。良太と違って、こっちは大人しい、礼儀の良い子だった。人見知りするのか、ちょっとはにかんだ様子で言う。
「ひなやま…ひよこです。はじめまして」
「はじめまして、ひよこちゃん」
 ひろのは笑いかけた。まだ2人がケーキの箱に注目している事に気がつき、苦笑に変わる。
「…食べたいの?」
 ひろのが聞くと、2人はぶんぶんと首を縦に振った。ひろのは理緒の方を向いた。
「早めに食べた方が良いから…2人にあげたいんだけど、いいかな?」
 ひろのが聞くと、理緒は首を縦に振った。
「うん…もったいないからね。ありがとう、長瀬さん。2人ともお礼を言うのよ」
 姉の許しが出ると、良太が箱に飛びついた。中身はいちごショートとチョコタルトが一つずつ。
「うっわー、すっげぇうまそう!ありがとう、ひろのねーちゃん!!」
「ありがとうございます、ひろのお姉さん」
 すかさず手掴みでいちごショートを頬張る良太。一方ひよこはちゃんとスプーンでチョコタルトを崩して食べている。なかなか個性の別れた兄妹のようだ。ひろのは実に微笑ましい2人の様子を目を細めてみていたが、やがて理緒に向き直った。
「それで…身体の方は大丈夫?」
「うん…風邪だとは思うんだけど…熱が8度5分も出てて…」
 理緒は言った。
「このままじゃバイト代にも響いてくるし…早く良くなりたいんだけど…ごほっ、ごほっ…」
 咳き込む理緒に、ひろのは慌てて彼女の背中をさすってやる。それでちょっと楽になったのか、理緒はふぅ…と溜息をついた。どう見ても、あと2〜3日は寝ていなければならなさそうな体調だ。  良く見ると、ちゃぶ台にはカップ麺やコンビニ弁当の容器が積み重なっている。たぶん、良太とひよこが食べた分だろう。ご飯を作る元気も無いようだ。
(う〜ん…大変だなぁ…)
 ひろのが思っていると、良太が彼女の制服のすそをくいくいっと引っ張った。
「なーなー、ひろのねーちゃん。一緒に遊んでくれよ。理緒ねーちゃんはずっと寝てるし、ひよことだけ遊んでてもつまんねーんだもん」
 その良太の言い分に、理緒が怒って上体を起こそうとする。
「こら、良太っ!長瀬さんはお客さんなんだからねっ!そんな失礼な事言わないのっ!!」
 興奮すると熱が上がりそうだったので、ひろのは慌てて理緒をなだめた。
「あ、あはは。いいよ、理緒ちゃん。遊んであげるくらい…で、何をするのかな?」
 ひろのが尋ねると、良太は迷う事無く答えた。
「ウルトラマンコ○モスごっこ!おれがコス○スの役な!」
 当然の如く主役を取った良太に苦笑しつつ、ひろのは自分の配役を尋ねた。
「じゃあ、私は?」
 すると、良太はとんでもない事を言い出した。
「ひろのねーちゃんはちきゅーをせーふくしに来た悪のおっぱい星人だっ!」
 ひろのの顔が「ぼんっ!」と音を立てそうな勢いで真っ赤になる。
 がんっ!
 理緒が良太の頭をどついた。当然である。
「な、何とんでもない事口走ってんのよこの子はぁ!!ご、ごめんね、長瀬さん」
「い、いや…別に良いんだけ…ひゃぁっ!?」
 ひろのが最後まで言い終える事ができなかったのは、良太が抱き着いて来たからだ。
「うわーん!ひろのねーちゃーん!!理緒ねーちゃんがいじめるよぉ!!」
「ひうっ!?り、良太君そこダメ…顔押し付けないで…っひいっ!?」
「こらーっ!!良太っ!!この子は本当にーっ!!」
「あ、暴れちゃ駄目だよ理緒ちゃん!また熱が上が…ひゃふぅっ!?」
………
……

「はぁ…はぁ…疲れた…」
 ひろのは天井を見上げながら呟いた。良太は今、彼女の右のふとももを枕にして寝ている。ひろのに憧れる東鳩高校男子が見れば、血涙を流して羨ましがる事請け合いのシチュエーションだ。そして、左には良太のあとで人形遊びに付き合ったひよこが寝ていた。
「ね、寝顔は可愛いんだけどなぁ」
 ひろのが言うと、理緒が申し訳なさそうに言った。
「ごめんね。本当に言う事聞かない悪たれで」
「うん?あはは。良いよ。私は兄弟いないから、こういうのがちょっと羨ましかったりするから」
 ひろのは言った。男の頃なら良太には蹴りでも入れるか、さもなくば頭をド突き倒しているところだが、今は全然そう言う気にならない。むしろ、無心に寝ているところを見るとこう、きゅっと抱きしめたくなるような感じである。
 本人は意識していないが、ますます母性本能が強くなり、可愛い女の子道を突き進むひろのだった。
「うん…まぁ、確かに生意気だけど可愛い弟ではあるんだけどね…でも、このままだとプレゼント買ってあげられないなぁ…」
 理緒の言葉に疑問を感じ、ひろのは尋ねた。
「プレゼント?」
「うん…来月が良太の誕生日で、先月がひよこの誕生日だったから…一緒にあげることにしてるんだけど…でも、この調子で休むと、この子にプレゼントを買ってあげるだけの余裕が無くなっちゃう…」
 理緒は溜息をついて頭を枕に埋めた。ただでさえ家計が苦しく、できればバイトをした方が良いのに、修学旅行が入ったために休日もバイトする事になってしまい、一気に疲れが来て風邪を引いてしまったのだ。それに気がついたひろのは申し訳なさでいっぱいになった。TFPの一件と言い、今回と言い、理緒には迷惑ばかり掛けているような気がする。
(う〜ん…何とかしてあげたいなぁ。…そうだ!)
 名案を思い付いたひろのは理緒に言った。
「あのさ、理緒ちゃん…良かったら、私が理緒ちゃんが休みの間、バイトを代わってあげようか?」
「…ええっ!?」
 そのとんでもない提案に、理緒がぶんぶんと首を振る。
「そ、そんな…長瀬さんにバイト代わってもらうなんてできないよ!」
「いや…やらせて欲しいんだ。理緒ちゃんには北海道でいろいろお世話になったし迷惑を掛けたし。それに、こう見えても私体力には自信あるよ?」
 ひろのは少し強い調子で自分の決意を伝え、それからにっこり笑うとガッツポーズを取ってみせた。
「でも…」
 理緒はそれでも迷っている。
「理緒ちゃんが駄目って言っても勝手にやっちゃうもんね」
 ひろのがとうとうそうとまで言うと、遂に理緒は頷いた。
「うん…ありがとう、長瀬さん。それじゃあ…ちょっと電話するね」
 理緒は布団から起き上がり、居間にある電話の方に向かって行った。ひろのは両ももに良太とひよこを乗せているので動けない。
「…ええ。すいません…こほっ…はい。そうです。…代わりの人が…はい。良いですか?…ありがとうございます」
 そんな会話が続き、十分ほどして理緒が戻って来た。
「どうだった?」
 ひろのが尋ねると、理緒は頷いた。
「うん。大丈夫だって…新聞屋さんは明日から来てくれって言ってたけど…ちょっと待ってね」
 理緒は手近の新聞のチラシを手に取り、裏にバイトのスケジュールを書き始めた。書き終えると、それをひろのに差し出す。
「はい、これだけあるから…」
 ひろのはチラシを受け取ってそれに目を通した。
「…え?こんなにあったの…?」
 その量の多さに、一瞬ひろのの後頭部を大粒の冷や汗が伝った。
「…やっぱりやめる?」
 その理緒の言葉に、ひろのは慌てて首を横に振った。
「と、とんでもない!言い出した以上はちゃんと引き受けるよ。まぁ、この量はちょっと予想外だったけど」
 とは言え、チラシの裏にびっちり書き込まれたスケジュールを見ながらちょっと早まったかな〜と思うひろのだった。

 そして…翌朝5時少し前。
「はふぅ…ん…にゅ…はぁぁ…やっぱりちょっと朝は苦手だなぁ…」
 朝刊を入れた袋を肩から提げてひろのは言った。遂に、バイト開始である。
 夕べ、理緒の家から帰ったひろのは早起きに備えて普段より2時間近くも早く就寝。起きた後も真帆さん特製の目の覚めるような濃いコーヒーを飲んで、理緒のバイト先である新聞販売店にやってきた。
「あぁ、君が雛山さんの代理?彼女の推薦なんだから間違いはないと思うけど…しっかりやってくれよな」
 販売店の店主はそう言ってひろのを出迎えた。真面目な理緒だけあって、信頼度は高いらしい。普通なら代理を立てるなんてことは認められないだろう。
「で…配達区域は南東鳩、鳩が丘団地の全部と緑葉公園の1〜3丁目と5丁目。大丈夫かな?」
「え…っと、はい。大丈夫です」
 意外な事に、配達区域はひろのの良く知っている場所だった。というか、(昔の)自分の家のある辺りだ。言うなれば自分の庭のようなものである。
「じゃあ、よろしくね」
 店主に見送られ、ひろのは配達区域に向けて歩き出した。服装は以前綾香が買ってくれたスウェットの上下。髪は普段のリボンより少し細くて小さ目のものでポニーテールに結わえて動きやすくしている。
「さてと…眠がってばかりもいられない。どんどん行こう」
 ひろのはポストや新聞受けにどんどん新聞を放り込んで行った。
「う〜ん、こういうのも意外と楽しいかなぁ」
 ひろのは動き始めた朝の街並みを見ながら思った。人々の営みが動き出す時間。なんとなく心を浮き立たせるものがある。
 やがて、彼女は順調に配達を続け、何時の間にか一件の家の前に辿り着いていた。
「…あ…」
 ひろのは表札に刻まれた名前を見た。「藤田」と記されている。数ヶ月前まで、まだ藤田浩之だった頃の自分が暮らしていた家だ。自分の部屋はあの日出て行った時のまま、カーテンが引かれている。ポストには何通かの郵便物が投函されていた。
「…懐かしいな。なんか、もう何年も前の話みたいだけど…」
 かつての自宅をじっとひろのが見ていたその時、がちゃっとドアの開く音がした。
「ん?」
 隣の家――神岸宅からあかりが出てきていた。新聞を取りに来たらしい。
「どうぞ」
 ひろのはあかりに新聞を差し出した。
「あ、ご苦労様…って、ひろのちゃんっ!?」
 あかりは驚いた顔でひろのの顔を見た。
「どうしたの?そんな格好で」
「実は…」
 ひろのはあかりに理緒のアルバイトを肩代わりした事情を話した。あかりは妙に感心したような顔になった。
「へぇ〜…えらいね、ひろのちゃん」
「そうかな?ところで…俺の家は最近どうなってる?」
 懐かしい景色を見たせいか、あかりしか周りにいないせいか、ひろのは久しぶりに「俺」と言う一人称を使った。
「うん、時々掃除しに行ってるから、奇麗なはずだよ」
 あかりは答えた。長瀬邸に移る時に彼女に予備の鍵を預けて後の事を頼んだのだが、ちゃんとやってくれているようだ。
「そっか。サンキュ、あかり。じゃあ、俺続きがあるからまた学校でな」
「うん、頑張ってね、ひろのちゃん」
 ひろのはまた配達に戻った。角を曲がって見えなくなるまで手を振っていたあかりに答えて、鼻歌を歌いながら仕事を続ける。まぁ…この時はまだ余裕があったのだが…

「そっか…ここがあったのを忘れてた…」
 ひろのは後頭部に汗を浮かべた。鳩が丘団地。この街でもかなり大きな団地の一つで、6階建てのマンションが7棟に4階建てが4棟。全部で318世帯が入居している。
「ちょ、朝刊だから全部の家を一軒ずつ回るのか…ひえぇ」
 こうしてひたすら階段を上り下りするひろのの苦戦が始まった。

「や、やっと終わった…」
 午前6時45分、配達を終えた後、販売店に戻って制服に着替えたひろのは近くのヤクドナルドで朝ヤックを食べて学校に向かった。行く道すがら、理緒に貰ったスケジュールに目を通す。
「えっと…3時半から駅前のスーパーで風船配り…6時からレストランでバイト…終わるのは9時半か…帰るの遅くなるなぁ」
 そう呟いたとき、学校が見えてきた。ひろのはスケジュールを書いたチラシをポケットに仕舞い、校門をくぐった。

 びしっ!
「…はっ!?」
 突然の衝撃でひろのは目を覚ました。頭に何か弾力性のあるもので打撃が加えられたらしい。頭を上げたひろのの視界に、うすぼんやりとグレーの電柱のようなものが入る。そこから生えた細い茶色の物体が自分の頭を押さえている。
「…あれ?」
 意識がはっきりしてくるにつれ、彼女はそれが先生の体であり、今自分の頭に打ち込まれたのが、先生の持つ30センチものさし(竹製)であることを理解した。
「…長瀬、なかなか可愛らしい寝顔だったぞ。しかし今は授業中だ。お前が寝ていると黒板を見ようとせんヤツが増えるので起きていろ」
 数学担当の宮田先生が言った。どうやら、授業中に爆睡してしまっていたらしい。
「す、すいませんでした…」
 真っ赤になって謝ると、教室のあちこちからくすくすという笑い声が聞こえてきた。
(うぅ…結構疲れてたんだなぁ…)
 ひろのは思った。考えてみれば足が少し張っているような気がする。思えば女の子になってから3ヶ月以上にもなる。その間、登校はセバスチャンの運転するリムジンかバスだし、体がなまっているのかもしれない。
(今度から、部活も見ているだけじゃなくて少しは体を動かそうかなぁ…)
 いろいろと考えているうちに、またもうとうとし始めるひろの。すかさず飛ぶ先生のツッコミ。結局、この日は授業中ほとんど朦朧としていて全く勉強に身が入らなかったひろのだった。クラスメイトたちはひろのの寝顔を見て「眼福眼福」と思っていたが。

「…眠い」
 ひろのは目をこすりながら校門を出た。極端な低血圧の彼女が早起きして、なおかつ新聞配達をやろうと言うのはさすがに無理があったかもしれない。
「でも、理緒ちゃんに約束したからなぁ…頑張らなきゃ」
 頬をぴしぴしと自分の手で叩き、気合いを入れてひろのが向かった先は、駅前のスーパー。男だった頃は良く晩飯の惣菜を買いに来た場所だった。
 ここでも担当の人ははひろのが理緒の代理である事を伝えると、快く了承してくれていた。
「君のお仕事は、子供連れのお客さんがメイン。子供たちに風船をあげてください」
 担当者はそう言ったが、ひろのを見て、少し困った顔になった。
「う〜ん…困ったな。サイズが合わないかもしれない」
「…サイズ?」
 ひろのが制服でもあるのかと思って尋ると、担当者はひろのを手招きして倉庫まで連れていった。
「実は、これを着てやるのが本当なんですが…」
「…うわぁ…」
 ひろのは担当者に紹介された「それ」を見て絶句した。茶色をした奇妙な生物の着ぐるみだったのだ。
「…ネズミですか?」
「ラッコです」
 担当者はひろのの間違いを訂正した。
「雛山さんくらい小柄な人でしたら、問題はなかったんですが…長瀬さんではちょっと」
「…確かに」
 ひろのは頷いた。着ぐるみはどう見ても173センチの自分より小さい。とても着られる大きさではなかった。無理に着込めば破れる事うけあいである。するとバイトの肩代わりは無理かな…と悩み始めたひろのに、担当者が言った。
「まぁ…そう言う時のために別の衣装もあります」
 彼は戸棚をごそごそと漁り、やがて小さな箱を取り出した。
「これです」
 かなり小さな箱で、大きさはピザボックス程度。ちょっと厚さがあるかな、程度のものだった。衣装を入れるには小さいと思うのだが。ひろのは不思議そうな顔をしながら箱を開けた。
「…何これ」
 黒のうさぎ耳付きカチューシャとうさぎ尻尾。
 黒のストラップレスのハイレグ水着。
 網タイツとハイヒール。
「バニーさんセットですが」
 担当者は何故か嬉しそうに言った。
「…嫌です」
 ひろのは拒否した。と言うか、なんでそんなモノがここにある。
「似合うと思うのに…」
「絶対に嫌です」
 未練がましい担当者の言い分を問答無用で却下する。結局、ひろのが選んだのは「ピーターパン」のような緑色の衣装だった。彼女にサイズが合うところを見ると、本来は男物だったのかもしれないが、なかなか似合っていた。
「うん、こんなものかな」
 ひろのは満足げに笑ってみせるが、担当者はしくしくと泣いていた。
 肝心の風船配りだが、この時間ともなると子供を保育園や幼稚園に迎えに行った帰りらしい母子連れや、玩具売り場を見に来たらしい子供だけのグループが結構いて、配る相手には不足しなかった。そうやって働いているうちに、ひろのは見覚えのある2人組を見つけた。玩具売り場の前で、理緒の弟妹が何かを熱心にみつめている。
「…あれ?良太君にひよこちゃん。どうしたの?」
 ひろのが声を掛けると、2人は走り寄ってきた。
「ひろのねーちゃん!頑張ってるか?」
 相変わらず生意気な良太の後ろで、ひよこがぺこりと挨拶する。
「おつかれさまです、ひろのお姉さん」
 ひろのは笑いながら2人の頭を撫でてやり、改めて何を見ていたのか聞いてみた。すると、2人はさっきまで見ていた場所の前にひろのを連れていった。
「おれ、これが欲しいんだ」
 そう言って良太が指差したのは、「モンスターバトルッチ」と言う最近流行のゲーム。子供用の腕時計にモンスターの育成と、赤外線通信による対戦機能を付けたもので、単純だが奥の深いゲーム性もあって爆発的に売れていた。
「わたし、これ」
 ひよこの方は人気アニメ「お子様は魔女」、通称「お子魔女」の変身グッズ。振ると七色の光を放ちながら変身シーンの音楽が流れるステッキと、主人公の衣装がセットになったものだ。
「理緒ねーちゃんが買ってくれるって約束したんだ!」
 良太はえっへん、と言う様に胸を張る。ひろのは値段を見た。バトルッチが8800円で、お子魔女グッズは7700円。しめて16500円。
(最近の子供用の玩具って高いんだな…)
 ひろのは唸った。理緒の月のバイト代は不明だが、かなり家計に入れていそうな事を考えると、お手軽に出せる金額だとも思えない。理緒が無理してまでバイトに励んだ理由がひろのには良く理解できた。
「そっか…楽しみだね」
 ひろのが言うと、2人はにっこり笑った。
「おう!楽しみだぞ!!」
「はい、すごく」
 いつの時代だって子供たちの笑顔は眩しいものである。ひろのは胸がきゅんっ、となるのを感じ、もう一度2人の頭を撫でた。
「よし!じゃあ、お姉ちゃんは仕事があるから。理緒ちゃんを心配させない様に早く帰るんだよ?」
 ひろのが言うと、2人は「おう!」「はーい!」と返事して、走り去って行った。それを微笑んで見送ったひろのは、気合いを入れて仕事に復帰した。
「す、凄いねぇ…長瀬さん…」
 仕事完了後、担当者は感心したように言った。ひろのが必殺「1000万ドルの笑顔」を発しながら配り歩いた風船は、普段の倍はあったのだ。
「どうだい、これからもこのバイトを続けてみる気はないか?」
 担当者はかなり本気だった様だが、ひろのは断る事にした。
「ごめんなさい…私、普段は部活をしているものですから…」
 担当者はかなりがっかりしたようだったが、気が変わったらいつでもおいで、と名刺をくれた。
(やったなぁ…良し、この調子で次も頑張るぞっ!!)
 ひろのは張り切って次のバイト先へ向かった。場所は<ブルースカイ>というレストランで、ウェイトレスの仕事らしい。
 そして、そこでひろのは目を丸くするような事実を知った。

「こ、これを着るんですか…!?」
 ひろのは店のマネージャーに会って簡単なミーティングをした後、その店の制服を見せられた。
 フリルとリボンを多用した可愛らしいデザインの制服だが、大きく開いた胸元と短いスカートは十分にひろのの度肝を抜く効果があった。
「いやぁ…長瀬さんだったら似合うと思いますよ。どうです、これだけ出しますから本格的にうちでバイトしてみませんか?」
 マネージャーはにこにこと笑いながら電卓を差し出した。そこには、考えていたのよりもかなり高額のバイト料が提示されていた。
「え…本当ですか?」
 ひろのの心がぐらりと揺らいだ。しかし、ひろのの弱点の一つに、露出度の高い服装は苦手と言う事があった。ひろのの持ち服には綾香が買ってくれたミニスカートやショートパンツ、キャミソールワンピースなども存在するのだが、ミニスカートは一度着てみたが、あまりにも足がスースーする感覚に断念。ショートパンツはそれよりましだったが、むき出しになっている自分の脚を見ていて恥ずかしくなったのでやめた。キャミソールワンピに至っては想像するだけで顔から火が出そうな思いをしたので中止である。
 それに、お小遣いはセバスチャンが月に5万円ほどくれるし、この制服を着てお金を稼がなくても全然困らない。よって、断る事に決めた。
「あ…でも、やっぱりやめます。あくまでも理緒ちゃんの代理なので…」
 そう言うと、マネージャーはかなりがっかりした表情になったが、気が変わったらいつでも連絡して下さい、とやはり名刺を渡された。そして、ひろのは彼に連れられて店の裏手へやってきた。
「それではここが更衣室です。同じシフトの宮内さんならいろいろとアドバイスしてくれると思うので、頑張って下さい」
 そう言うとマネージャーは事務室の方へ戻っていった。ひろのは更衣室のドアを開ける。が、まだ誰も来ていなかった。
「う〜ん…」
 そこでひろのは制服を広げた。それを着ている自分を頭の中で想像してみる。
 ぼんっ!
 自分でもそういう音が立ちそうな勢いで顔が赤くなるのを感じた。しかし、今更引き下がるわけには行かない。覚悟を決めてひろのは制服に着替え始めた。
 そして、数分後。
「あうぅ…これは恥ずかしい…!」
 更衣室の隅にある大きな姿見を見て、ひろのはマルチのように「あうぅ」を繰り返しながら真っ赤になった。膝上20pはあろうかと言うミニスカート。ちょっと油断すると下着が見えそうだ。胸も腰の周りにベルト代わりに巻くリボンと、エプロンの肩ひもで周りから絞られるように強調され、普段よりも更に大きい様に見えるうえ、首の周りが大きく開いているため、強調されて深くなった胸の谷間が覗けてしまう。
 全体的にデザインが可愛いのでいやらしさは感じないが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
「う〜…これでお店に出るの?」
 肩を抱く様にしてうずくまり、予想以上にぱっつんぱっつんな自分の格好を見て悶えるひろのに、声を掛ける人物がいた。
「…ヒロノ?こんなトコロで何してるノ?」
 レミィだった。うずくまっているひろのを不思議そうな目で見ている。
「あ、あれ?レミィ?…あ、マネージャーさんの言ってた宮内さんってレミィの事だったのか…」
 マネージャーの言葉を思い出すひろの。一方、レミィの方も何かを思い出したらしい。
「あ、そう言えばボスが言っていたネ。リオがお休みだから代わりのヒトが来るって。ヒロノの事だったのネ」
 ぽんっと手を打って納得するレミィ。その後、まだうずくまったままのひろのに向かって重要な事を言った。
「それは良いとシテ…ヒロノ、その座り方は止めた方が良いヨ。パンツが丸見えになるカラ」
「えっ!?」
 ひろのは咄嗟に姿見を見た。短いスカートがふとももに引っかかってめくれあがり、空色のショーツがその裾から覗いていた。
「わーっ!!??」
 ロケットのような勢いで立ち上がるひろの。顔だけでなく全身が真っ赤になっている。
「どうしても屈む時ハ、こうやって膝を揃えて跪くようにすると良いヨ」
 レミィはそう言って、自分も制服に着替えると実演してみせた。すると、スカートはちゃんと脚に沿って垂れ下がり、中身が見えない様になっている。ひろのは日頃からレミィや志保は制服のスカートがあんなに短くて大丈夫なのかな、と思っていたが、ちゃんと着こなすコツと言うのがあるらしい。
「やってみて、ヒロノ」
「う〜ん、こう?」
 ひろのはレミィの真似をして、両膝を突くようにして屈んだ。姿見で確認するが、確かにどんな角度から見ても下着は見えない。
「そうそう、OKネ。あとは仕事の中デいろいろ説明するヨ」
 そう言うと、レミィはひろのを休憩室に連れていった。そこには、6時からのシフトにでるウェイトレスやウェイターが集まっていた。
「今日からしばらくリオの代わりにシフトに入るヒロノネ。ミンナ、ヨロシクしてネ」
 レミィがひろのを紹介した。どうやら、彼女はこの中ではリーダー格の立場らしい。
「長瀬ひろのです。よろしくお願いします」
 ひろのがぺこりと挨拶すると、いきなり歓声が沸いた。主に男性陣からのものだ。
「うおお!すげえゼ、レミィちゃん級の娘が来るとは思わなかったよ!」
「理緒ちゃんとはタイプが違うけどひろのちゃんも可愛いなぁ!!」
 レミィの影響なのかどうかは不明だが、かなりアメリカン…というか、フランクな雰囲気らしい。
「よろしくね、長瀬さん」
「困った事があったらなんでも聞いてね」
 ウェイトレス陣も気さくで良い人たちのようだ。ひろのはこれなら働きやすいかな…と思った。

「いらっしゃいませーっ!!何名様ですか?…4名様ですね。お煙草はお吸いになりますか?…ではこちらへどうぞ」
「ただいまメニューとおしぼりをお持ちします」
「ご注文はお決まりになりましたか?…ご注文を確認させていただきます。ブルースカイハンバーグセットのライスとホットコーヒー、海老とあさりのペスカトーレとジンジャエール、つみれうどんとミニまぐろ丼セットとアイスグリーンティ、飲み物は食後で。以上でよろしいですね?…しばらくお待ち下さい」
「お待たせしました。本格四川麻婆豆腐セットのお客様…アメリカンステーキセットのお客様…こちら伝票になります。ごゆっくりどうぞ!」
「お会計の方…みぞれとんかつセットが1330円、イタリアンチキンソテーディアボラ風セットが1280円、マスカレードサンデーが380円、フルーツワッフルが360円…合計で税込み3517円になります。…10000と20円お預かりします。先に大きい方6000円と、細かいお釣503円のお返しになります。お確かめ下さい。ありがとうございました。またお越しくださいませ!」
 店内は戦場になっていた。お昼はランチメニューがあるので、「Aランチいくつ、Bランチいくつ!」と叫ぶだけで良いのだが、夜はメニューもバラバラなので、注文を受ける方も作る方もまさに修羅場。
 ひろのも忙しく駆け回っていた。幸い、注文を受けるためのPOSは使いやすいからメニューを記憶して復唱する必要はないし、運動神経にはそれなりに自信があったので、料理をバランスを崩す事無く運ぶ事もできた。意外とウェイトレスに適性があるのかもしれない。
「ヒロノ!頑張ってる?」
 レミィが笑いながら聞いてきた。
「なんだか頭の中がぐるぐるするよ〜」
 ひろのは答えた。無難にこなしてはいるが、やはり6〜8時台は戦場だ。忙しさで目が回りそうな思いをしている事に違いはない。
「この時間帯はいつもこうよ。頑張って!」
 別のウェイトレスも応援してくれる。その時、またしても来店を告げるブザーが鳴った。
「ああ、また来た。長瀬さん、応対お願い!」
「はい!」
 ひろのは入り口へ飛んでいき、メニューを手に取るとマニュアル通りに口上を言おうとした。
「いらっしゃいませーっ!何名様で…すかっ…!?」
 ひろのは絶句した。それは、とてつもなく怪しげな5人のグループだった。銭○のとっつぁんを思わせる季節外れのトレンチコートと帽子で武装し、サングラスを掛けている。一人は190以上は有りそうな巨体の男性…だと思う…で、後の4人は対照的に女性かな?と思わせるほど小柄だが、その怪しげな格好のせいでわからない。先頭の男性が指を5本立てた。5人、という事だろう。
「ご…5名様ですね。お煙草はお吸いになりますか?」
 1人がふるふると首を横に振る。
「わかりました。禁煙席へどうぞ…」
 ひろのはその威圧感(と言うか怪しさ)に気圧され、ちょっと震えながら彼らを席へ案内した。店内もその異様な雰囲気にあてられ、静まり返っている。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを押してお呼び下さい。ごゆっくりどうぞ」
 ひろのが言うと、彼らは一斉に頷き、そしてメニューに目を通した。ひろのは逃げるように待機スペースへ戻る。
「な、なんだろ…あのお客さん」
「…初めて見るタイプネ。チカンとかじゃないみたいだケド…」
 レミィも困惑顔だ。
「チカン…?」
 レミィの聞き捨てならない一言にひろのが不安そうな顔をすると、ウェイターの1人が事情を説明してくれた。
「いや…ほら、この店、制服が可愛いだろう?酔った勢いでウェイトレスさんたちに嫌がらせしたりとか、こっそりカメラを持ち込んで盗撮したりとか…そう言う不届きな輩が多いんだよな」  さらに、別のウェイトレスも言う。
「まぁ…あの人たちなんかロコツにあやしーわね」
 彼女が指摘したのは、6番テーブルの2人組だった。眼鏡を掛けた神経質そうな、何故かやたらと「ござる」を連発する背の高い痩せた男と、対照的に身長よりも横幅のありそうな体系で、リュックに武蔵坊弁慶の狩った刀よろしく無数のポスターを挿した、「…なんだな」を連呼する男。
 これ以上ないほど典型的な「痛いオタク」と言う外見の連中だった。
「…外見で決め付けるのもどうかと思うが怪しさ大爆発だな…」
 ウェイターのリーダーが呟き、ウェイトレス陣に向き直った。
「まぁ、あの辺はできるだけ男性陣で応対するから、君たちは安心するように」
『はーい!』
 いい加減ざわめきの戻って来た店内へ向け、再び彼女たちは散って行った。

 しかし、接客と言うものは時として望まぬ相手にも接しなくてはならないのが宿命と言うものである。
 ちゃりーん…
 その音が響き渡った時、その近くにはひろのしかいなかった。振り向くと、例の6番テーブルの横に広い方(コールサイン:ヨコ)の足元にフォークが落ちている。
「ひ、拾って欲しいんだな…」
 ヨコ男が言った。一瞬自分で拾えよ、と思ったひろのだったが、事前に見せられたマニュアルではこういう時は応じてやるのも仕事のうちだった。
「はい、少々お待ち下さい」
 ひろのは愛想笑いを浮かべ、屈み込んでフォークを拾おうとした。レミィの言った事を思い出し、両膝を揃えてフォークに手を伸ばす。背の高い痩せた方(コールサイン:タテ)の方が何故か小さく舌打ちをしたが、その音はひろのには聞こえなかった。
 しかし、次の瞬間2人ともある一点に視線を釘付けにされていた。ひろのがしゃがみこんでいるため、胸の谷間がバッチリ視界に飛び込んできたのだった。
 そのチャンスを逃さず、ヨコ男が行動に出た。手の中に忍ばせた何かのスイッチを押す。どこかで、カシャカシャと言う小さな音が響き渡ったが、それに気づいた者はひろのを含めてほとんどいなかった。
「ただいま替えのフォークをお持ちします。少々お待ち下さい…」
 立ち上がったひろのがそう言って立ち去ろうとしたその瞬間。
 彼女の視線を、五本の銀の光が走り抜けた。それはまっすぐヨコ男の頭部に吸い込まれた。
 ざくぐさぶすどすさくっ!!
「のごおおおぉぉぉぉぉっっっ!!??」
「わぁっ!?」
 ヨコ男とひろのは同時に悲鳴を挙げた。ヨコ男の頭部にフォークやステーキナイフが突き刺さっている。その数合わせて5本。なかなかに怖い光景だった。
「と、友よっ!大丈夫でござるか!?」
 のた打ち回るヨコ男にタテ男が駆け寄り、フォークを抜いて行く。激しく突き刺さっていたように見える割には、何故か出血はない。
「これはどういう事でござるか!?説明と謝罪と補償を要求するでござる!!」
「い、痛かったんだな…許せないんだな」
 ヨコ男に刺さった凶器を抜いたタテ男は、激しくひろのに詰め寄った。立ち上がったヨコ男も不気味ににじり寄ってくる。
「え?え?いえ…その…私には何がなんだかさっぱり…」
 ひろのは不気味な2人の接近に、激しく脅えながら後ずさった。そこへ、マネージャーの男性が駆け付けてきた。
「いかがなさいましたか、お客様?うちの者が何か粗相を致しましたでしょうか」
低姿勢のマネージャーに、オタクズは嵩にかかって居丈高に振る舞う。
「どうしたもこうしたも無いでござる!この店では客に凶器が飛んでくるような仕掛けでも作っているでござるか!?」
「す、すっごく痛かったんだな…!!」
 彼らが指差すフォークやナイフを見て、マネージャーが頭を下げる。
「申し訳ございません」
「謝って済めば警察は要らないんだな!!」
 わめき散らすオタクズ。そんな連中に頭を下げるマネージャーに、ひろのは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、下げられた彼の頭を見つめた。その時だった。
「…あれ?」
 ひろのはヨコ男の手から何かのコードが延び、テーブルの下へ続いている事に気が付いた。
「ん…?」
 彼女はそっと頭を下げ、テーブルの下へ視線をやった。コードはそのテーブルの下に固定されたデジタルカメラに繋がっていた。
(こっそりカメラを持ち込んで盗撮したりとか…そう言う不届きな輩が多いんだよな)
 ウェイターの言葉を思い出したひろのは、そっとマネージャーの後ろを回り込み、テーブルに近づく。そして、手を伸ばし、ガムテープで固定されたデジカメを引っぱがした。
「あっ!?何をするんだな!?」
 驚愕するヨコ男の目前に、ひろのはデジカメを突きつけた。
「…失礼ですがお客様…これは一体なんですか?」
「せ、説明の必要はないでござる!返すでござる!!」
 タテ男がひろのに突進しようとしたが、何時の間にか来ていたレミィがすかさず足を引っかけ、彼は床にダイブを決行してそのまま滑走していき、柱に頭から突っ込んだ。
「ヒロノ!今のウチ!!」
「おっけー、レミィ!」
 ひろのはシャッターに通じていたコードを外し、スイッチをメモリーチェックに切り替えた。液晶ファインダーに画像が映る。
 かあっ!!
 一瞬でひろのの顔が紅潮した。手がぶるぶると震える。液晶には、しゃがんでいるひろのを隠し撮りした画像が映っていた。胸の谷間のアップから、カメラ位置が低いために見えてしまっている彼女の空色のショーツまで、バッチリである。
「や、ヤバいんだな、逃げるんだな…!!」
 慌てて逃げようとしたヨコ男の首根っこをマネージャーが引っ掴んだ。その顔が憤怒で燃えている。
「き、客に何をするんだな!離すんだな!」
 この期に及んで自分を客と言い張るヨコ男に、マネージャーは言った。
「やかましい。うちの店員を隠し撮りするような野郎は客じゃねぇっ!!田辺っ!そっちのも引き摺ってこいっ!!」
「了解、マネージャー」
 ひろのに盗撮に気を付けろと教えてくれたウェイターが柱に突っ込んだタテ男を引き摺ってきて、出口へ向かう。マネージャーはひろのから受け取ったデジカメのメモリーカードを抜き、真っ二つにする。
「ああ!?」
 悲痛な叫びをあげるヨコ男。しかし、マネージャーはそいつも出口に連れて行くと、タテ男とまとめて蹴り出した。
「金は要らんからとっとと失せろ!今後二度とうちの店に近づくんじゃねぇぞ!!」
 マネージャーの啖呵に、ほうほうの体で逃げていくオタクズ。期せずして拍手が湧いた。
「いやお騒がせして申し訳ありませんでした、お客様。どうかお食事を続けて下さい」
マネージャーが頭を下げると、拍手が大きくなり、「良くやった!」の声がかかった。
「いや、良く気づいたね、長瀬さん」
 待機所に戻ったマネージャーはひろのを労った。
「いえ…たまたまですよ。誰かがあの時ナイフを投げてくれなかったら…」
 そこで、2人は同時に首を傾げた。
「そう言えば…」
「誰がやったんでしょうかね?」

 その頃、追い出されたオタクズはふらふらと道を歩いていた。
「ううう…酷い目にあったでござる」
「僕のメモリーカードが…覚えていろなんだな」
 全く反省の無い様子の2人だったが、公園に着くと鞄の中から何かを取り出した。良く見ると、その鞄には小さな穴が空いていた。その穴にはめ込まれたレンズから伸びる光ファイバーがそれに通じている。なんと、この2人はもう一個カメラを仕掛けていたのだ。
「こ、こっちのは大丈夫だったんだな。あれよりも過激な映像が映っているんだな」
「楽しみでござるな」
 2人が邪悪な笑みを浮かべたその瞬間。
 がすっ!
 ヨコ男の手からカメラが吹き飛んだ。
「あああああ!?僕のカメラがぁ!?」
「こ、これはさいばし…?何者でござるか!」
 悲鳴を挙げるヨコ男と、カメラに突き刺さったさいばしから、この攻撃を仕掛けた何者かを察知して辺りを見回すタテ男。すると、彼らの視界にトレンチコートとサングラスで武装した5人組が飛び込んできた。彼らは知らないが、あのレストランにいた謎の5人組である。
「一つ、ひろのちゃんに害を及ぼす!」
「二つ、不埒な盗撮マニアを!」
「三つ、見事に滅殺ですっ!」
「…」
「という訳で迷わず地獄へ落ちるが良い!!」
 夜空に彼らの脱ぎ捨てたコートが舞い上がる。
 どかばきぐしゃぼこばがっ!!
「一体なんなんだなぁぁぁぁぁ…」
「せめて説明を求めるでござるぅぅぅぅ…」
 夜空に向かって消え去るオタクズ。こうして、人知れず一つの悪がこの世から滅び去った。

「まったく…ひろのがアルバイトをするからと聞いて来て見れば、あのような胡乱な輩がいるとは…ワシはこれ以上続けさせるのは反対ですぞ」
 セバスチャンが言った。実は、ずっと朝からひろのを心配して、変装して見守っていたのである。本当はオタクズがひろのを盗撮している事を悟った時点で奴等をぶっ飛ばしたかったのだが、店で暴れるとひろのに怒られそうなので、ここまで我慢していたのだ。
 まぁ、キレてナイフを投げるのだけはやってしまったが…
「…」
「は?ひろのがしたいと望んだ事だから、邪魔してはいけません…ですか?」
 こくこく。学校終わってから付いてきた芹香がセバスチャンに頷く。
「そうだね。大変そうだけど働いているところは楽しそうだったし」
 やはり付いてきたあかりも言った。
「はわわ…わたしもひろのさんとアルバイトしてみたいですぅ…」
「私も…」
 と、これはマルチと琴音。
「むうう…まぁ、ワシとてひろのが望むのであれば…」
セバスチャンは困り切った声で言った。どうしてもひろのにはベタ甘い彼だった。
 「ともかく、後2日見守ろ。それからひろのちゃんの意志を聞くと言う事で良いよね」
 結局、このあかりの意見が通って一行は解散となった。

 それから数日後、風邪が治って登校してきた理緒は屋上で一緒にご飯を食べながらひろのにお礼を言っていた。
「ありがとう、長瀬さん。おかげで2人のプレゼントも買えそう。でも、本当に良いの?」
「差額の事?良いよ。そうだね…じゃあ、私からあの良太君とひよこちゃんへのプレゼント代って事で」
 ひろのは答えた。彼女の働きぶりはかなりのもので、バイト先の担当者は少しバイト料をおまけしてくれていたのだ。理緒はその差額を返そうとしたのだが、ひろのは笑って受け取らなかった。
「そう…?本当にありがとう」
「あはは、だから良いってば。それにしても、理緒ちゃんは本当に凄いと思う。私はあんなきついバイトはできないよ」
 ひろのは本心から言った。新聞配達は早起きが辛すぎるし、スーパーの担当者は「バニーさん」としつこいし、レストランの制服はやっぱり恥ずかしい。セバスチャンにバイトを続けるのか?と聞かれても、ひろのは笑って否定した。
「そう?みんな長瀬さんの事褒めてたよ。ブルースカイのマネージャーさんなんて是非スカウトしてきてくれって言ってたし…」
「う〜ん…ま、そのうちね」
 友達も多くできた事だし、また働くとすればブルースカイだろう。でも、当分はバイトは良いや、とひろのは思った。
 まだ筋肉痛が取れていないからだ。

(つづく)

次回予告

 夏休み目前。でも、学生には楽しくそれを過ごすために避けては通れぬ試練がある。そう、期末試験。
 試験勉強のため、長瀬邸にて開催される合同勉強会に出席する東鳩高校の少女達。そして乱入する綾香。さらに、彼女の連れているあの少女が遂に秘密のベールを脱ぐ!?
 次回、第十九話「学生の本分」
 お楽しみに。
 季節が全然違う?気にしないで下さい(爆)。

後書き代わりの座談会・その18

ひろの(以下ひ)「いらっしゃいませ〜。何名様ですか…って、作者じゃない」
作者(以下作)「よ、働きぶりを見に来てやったぞ。で、一名様で禁煙席な」
ひ「(迷惑な)…こちらへどうぞ。メニューになります」
作「なかなかウェイトレス姿も様になってるじゃないか…えっと、トリコロール・ケーキセット。飲み物はアイスアールグレイティーをミルクで」
ひ「かしこまりました。少々お待ち下さい」
作「うむ。で、バイトは続けないんだな。ちょっと勿体無いぞ。その制服似合っているのに」
ひ「…そうやって男の人から遠慮無しに見られるのが嫌なんだけど」
作「何を言っている。見られるうちが華だぞ」
ひ「そんな華は嫌だ」
作「残念だな…」
ひ「はいはい…どうぞ、お待たせしました。トリコロール・ケーキセットとアイスアールグレイのミルク。ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
作「ああ。…なかなか美味いな、このケーキ」
ひ「ん?あぁ、結構人気あるよ、それ」
作「制服が可愛い店にしては、ちゃんとしたファミレスと言うか…値段も鑑賞料抜き(爆)だし」
ひ「そこ、不穏当な発言をしない様に」
作「紅茶も丁寧にいれてあるな…」
ひ「ティーパックじゃないしね」
作「うん、ご馳走様。あ、さすがにレジは任されてないのか」
ひ「3日限りの代理に何を期待してるのかな?」
作「…やっぱりバイトやれ、お前。レミィと並んでるところ想像してみろ。凄いぞそれは。ばいんばいんだぞ」
ひ「…やかましい。オヤジ発言してないではよ帰れ!」

※トリコロール・ケーキ…普通のスポンジ生地と、にんじん生地、抹茶生地を積み重ねてクリームを挟んだケーキ。

収録場所:ファミリーレストラン「ブルースカイ」(2回目)


前の話へ   戻る    次の話へ