※主人公の長瀬ひろの嬢は魔法で女の子にされてしまった浩之ちゃんです。

前回までのあらすじ
 ひろのの身柄を賭けて勝負する事になった葵と好恵。そこへ、アメリカより帰ってきた芹香の妹、綾香が現れ、葵に力を貸してくれる事になった。しかし、綾香もまたひろのの事を虎視耽々と狙っていたのだった。四面楚歌の状況下で、ひろのに明るい明日はあるのだろうか…

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第十話

「決戦!裏の神社」


 決戦前日。3日前から続く葵と綾香の特訓は、いよいよ大詰めを迎えたこの日も続いていた。
「やあっ!!」
 どんっ!!
「く、やるようになったわね!」
 綾香が楽しそうに叫ぶ。通背拳を覚えた葵は、ガードの上からダメージを与える事ができるようになり、咄嗟に葵の掌底を受けた綾香の右腕にはなんのダメージも与えずに胴体にダメージを与えていた。
「綾香さんのおかげです!」
 葵はそう言いながらキックを繰り出した。しかし、それは読まれており、綾香は素早くその足をさばきつつ内懐に飛び込んで肘打ちを放つ。中国拳法に伝えられるカウンター技、裡門頂肘。それがまともに入った葵は弾けるように飛ばされた。
「攻めが単調よ、葵!こういうカウンター技は自分が使えるようになる事はもちろん、相手にも使わせない戦術の組み立てが重要よ。さ、もう一本!」
「はいっ!」
 そして、再び激しい組み手が始まる。
「凄いな…」
「あぁ、全く勉強になるよ」
「メモっておかねば…」
 他のエクストリーム部員たちはその組み手をじっと見学していた。「見取り稽古」と言って、見るのも練習のうちである。ハイレベルな2人の組み手は、見取り稽古の対象としては申し分の無いものだった。
 やがて、正規の部活時間が終わって他の部員が帰っても、稽古はまだ続いていた。

「…今日もまだやるの?明日の事を考えるとゆっくり休んだ方が良いんじゃない?」
 夜の7時、部員たちの道着を洗濯し終わり、きっちり干してきたひろのがエプロンで手を拭きながら出て来た。最近すっかりエプロン姿に違和感が無くなっている。
「ん、あとは今日の技伝授をやっておしまいかな」
 綾香が言うと、ひろのは何故か胸を隠し、身をかがめるようにしてさっと後ずさる。
「…なぜ逃げる?」
「…そりゃ逃げるよ」
 昨日通背拳の実験台と称して、綾香に散々胸を揉みしだかれた時の快か…もとい、恐怖が蘇ったらしい。
「大丈夫、今日はやらないから」
「…本当に?」
 じっと上目遣いの視線で見つめられ、綾香轟沈。
「ほ、本当に本当よ…」
「ならいいけど」
 そう言うと、ひろのはエプロンを外してきちんとたたみ、見学スペースに座り込んだ。
「さて…今日は…厳密には技とは言えないけど、必ず役に立つものを教えるわ」
 そういうと、綾香はまたしてもひろのを呼んだ。
「ひろの、ちょっと手伝って」
「…やだ」
 ひろのはやはり上目遣いで綾香を睨んでいた。
「やっぱり揉んだりする気でしょう」
「ち…違うわよ。それは一応体に触ったりはするかもしれないけど…えっちな事はしないから」
 綾香は慌てた。手篭めにすべく仕掛けた心を操る技のせいか、やたらと女の子らしい仕種になったひろの。綾香的には非常に萌え萌えなのだが、こうなると萌え過ぎで却って危険だった。
 とにかく、何とかひろのを説得して立ってもらった綾香は、葵にこれからやる事を説明し始めた。
「今日教えるのは、一時的強化のツボよ」
「ツボ?」
 葵が首を傾げる。綾香は百聞は一見にしかず、とばかりにひろのの体に手を伸ばす。
「まずは…ここ」
 ひろのの額を軽く指で突く。
「次にここ」
 今度はお腹の部分。
「く、くすぐったいよ…綾香…」
「後三ヶ所だから我慢して。次は…」
 ひろのの抗議を無視して綾香は全部で五ヶ所のツボを押した。そして、ひろのの前に試し割り用の杉板を差し出す。厚さが2センチ近くある、かなり厚手のものだ。
「ひろの、これに思いっきりパンチしてみて」
 綾香の言葉にひろのは驚いた。
「ええっ!?そんな事したら怪我しちゃうよ!」
 しかし、綾香は大丈夫とばかりに板を押し付けた。
「私を信じなさい。絶対大丈夫だから」
 迫ってくる綾香に、仕方なくひろのは拳を振りかぶる。
「…えいっ!」
 ぱこんっ!!
 意外にも軽い音がして、ひろのが突き出したパンチはたやすく杉板を真っ二つに割っていた。
「え…うそ」
   ひろのは驚いて、自分の手と杉板を交互に見ている。葵も同様で、華奢そのもののひろのの手に注目している。
「さっき押したツボの効果よ。このツボを押せば、ほんのちょっとの間だけ、体のパワーをアップできるわ」
 綾香は言った。
「人によって効果は違うけど…どうしようもないピンチの時は有効ね」
「へぇ〜…」
 ひろのは面白くなったのか、綾香の持っていた杉板を取って、チョップしてみた。
 ばぎょん。
「あううううぅぅぅぅっ!?」
 妙な音がして彼女の手は杉板に跳ね返され、ひろのは手を抑えてうずくまった。
「いだい…」
 泣きかけのせいか変な声でひろのが呟く。
「…だから、ちょっとの間だけだってば…」
 綾香が呆れたように言い、葵は思わずクスクスと笑ってしまった。
「さて…葵」
 綾香は真面目な表情になって言った。
「好恵は…強いわ。この4日間、できる限りの戦い方と技は教えたけど、それでも今のあなたが好恵に勝てるかどうかは四分六分…いや、三分七分も無いかもしれないわ」
 葵は頷いた。たかだか一週間の特訓で好恵に勝てると思うほど、彼女は傲慢ではない。
「そんな時に、少しでも相手との差を縮めるもの…それは、メンタルな面よ。揺るぎ無い必勝の信念は、時として人の力を何倍にも引き出すわ。自分を信じること。これが私ができる最後のアドバイスね」
「はい…ありがとうございます!」
 葵は深々と頭を下げた。ここに、対好恵戦に向けた全ての特訓は終わったのだ。
 しかし、最後の綾香のアドバイスを聞いて、ひろのは不安になっていた。
 心の持ちようで出せる力は変わる。それは確かだが、葵はどっちかというと自分に自信を持っているタイプではない。綾香みたいにある意味自信の塊みたいな人間ならそれで良いのかもしれないが…
「…相談してみるかな」
 ひろのは思った。精神面でうんぬん、となると相談相手は一人しかいない。

「…というわけで、何か精神面を強くする方法って無いですか?」
 家に帰ったひろのが聞きに行った相手、それは芹香だった。現代の魔女であり、精神世界に通じた彼女なら、何か良い手があるかもしれないと判断してのことである。
「…」
「え?ありますよ、ですか?さすが芹香先輩!で、どういう方法なんでしょうか」
 ひろのが訊ねると、芹香は首に掛けていたペンダントを外した。金の鎖でできていて、牙のような形をした、青い透明な宝石が取り付けられている。芹香はそれをゆらゆらとひろのの前で揺らした。
「…催眠術?」
 ひろのは訊ねた。こくこくと芹香が頷く。
「…」
「これを目の前で揺らして君は強い、と暗示を掛ける?そうすると、暗示にかかって実際以上の強さが出せる…と。そんな簡単な事で良いんですか?」
 芹香はまたしてもこくこくと頷いた。
「え?これは昔隆山の名家で貰った特別な石だから大丈夫?そうですか…」
 ひろのは実際にその石を良く見てみた。最初はサファイアか何かかと思ったのだが、良く見ると中に何か光が揺らめいているような、そんな不思議な石だった。じっと見ていると魂が吸い込まれそうな、そん感じが…
「くー…」
「…(くす)」
 何の暗示にもかかっていないのに、石の力で眠ってしまったひろのを見て、芹香は思わず苦笑した。結局、ひろのが目を覚ましたのは翌日の朝であった。しかし、石の力が本物だと分かったひろのは、芹香に頼んでペンダントを貸してもらう事にした。

 そして、いよいよ決戦の刻。
 葵との待ち合わせの場所に選んだ神社参道の入り口には、既に葵が来て待っていた。体操服に拳サポーターと言う格好である。
「葵ちゃん、昨日は良く眠れた?」
 ひろのは声を掛けたが、葵のメンタルに関する嫌な予感が当たっていた事を悟って暗い顔になった。葵は青ざめた顔で細かく震えていたのである。
「せ、先輩…大丈夫です」
 あまり眠れなかったらしく、目の下に隈ができている。
「葵ちゃん…正直な事を言って。本当は緊張しているんでしょ?」
 ひろのは緊張をほぐす為、できるだけ優しい声で言った。そして、芹香に借りたペンダントを葵の前に吊るす。
「大丈夫…葵ちゃんは勝てる。葵ちゃんは強い。葵ちゃんは負けない」
 そう言いながら石をゆらゆらと揺らす。それに従って葵の表情がうつろになった。
「葵ちゃんは勝てる」
「私は…勝てる?」
「葵ちゃんは強い」
「私は…強い」
「葵ちゃんは負けない」
「私は負けない」
 暗示がかかり始めたのか、葵がひろのの言葉を鸚鵡返しに続けて言い、だんだんその調子がはっきりし始める。
「葵ちゃんは勝てる!」
「私は勝てる」
「葵ちゃんは強い!!」
「私は強い!」
「葵ちゃんは負けない!!!」
「私は負けない!!」

 頃合と見たひろのはぱちんと指を鳴らした。その瞬間、葵がはっと我に返る。
「あ、あれ?私…」
 自分が何をしていたのか、咄嗟には思い出せずうろたえる葵に、ひろのが肩を叩いて言う。
「大丈夫。勝つようにおまじないをしていただけ。もうドキドキしてないでしょ?」
 ひろのはそうやってにっこりと笑う。必殺の1000万ドルの笑顔だ。葵もつられて笑う。もう、不安を感じてはいなかった。自分はやれるという自信が心の底から湧いてくる。彼女にとっては初めての経験だった。
「はい、もう、大丈夫です!!」
「よし、それじゃあ行こう!!」
 二人の少女は神社への石段を登り始めた。

 好恵は既にそこへ来て待っていた。厳しい目つきで、全身から闘気を発散させている。戦う前から相手を威圧しようとしているかのようだった。実際、ひろのは寒気にも近い感覚を覚えた。
 しかし、葵も負けてはいない。好恵の氷のようなそれとは違う、炎のような熱い闘気を放っている。
「…すごい」
 ひろのが思わず呟いた時、好恵がすっと1歩前に踏み出た。
「良く来たわね、葵」
 好恵が言った。
「条件は覚えているわね」
「はい。私が勝てば、好恵さんは私がエクストリームを続ける事を認める。そして、好恵さんが勝てば…」
 そこで、葵はちらりとひろのを見た。ひろのは「信じてるよ」という気持ちをこめて微笑んだ。葵は頷き、好恵に向き直った。
「ひろの先輩は空手同好会へ移籍する。そうでしたね」
 好恵は頷いた。
「では…はじめましょうか」
 好恵がそう言った瞬間、声が響き渡った。
「ちょっと待ったぁっ!!」
「…その声は!?」
 好恵と葵、少し遅れてひろのもその声のした方向を見る。そこにいたのは…
「綾香!」
「綾香さんっ!?」
「…ちょっと罰当たりなんじゃない?」
 そう、そこにいたのは来栖川綾香であった。神社の屋根の上に腕を組んで仁王立ちしている。
「この勝負…」
 そう言いながら、綾香は跳んだ…いや、飛んだ。空中で華麗に三回転を決め、葵と好恵の中間点に着地する。
「私が仕切らせてもらうわ」
 その一方的な宣告に、好恵の顔が不快げになる。
「…どう言う事?葵、あなたが呼んだの?」
 その好恵の言葉に、葵が「違います」と言うより早く綾香が口を開いた。
「まぁ、そう突っかかるもんじゃないわ、好恵。これは私の勝手な行動よ。葵は関係無いわ」
 ひろのは関係あるけど。それを言うほど綾香は馬鹿ではなかった。
「それに、審判がいなきゃ公平な勝負とは言えないでしょ?私なら空手もエクストリームも両方のルールを熟知しているし」
 綾香はそう言ってウインクした。さすがに、それは好恵も認めざるを得ない事実だった。
「いいわよ。綾香なら武道に関しては嘘は言わないでしょうから」
 好恵は綾香の審判を受け入れた。しかし、さすがの彼女もひとつ見落としていた事があった。
 綾香は武道では嘘をつかないかもしれない。しかし、ひろののためなら容赦無く嘘をつくだろう、という事を。
「さて…はじめましょうか。ルールは単純。どちらかが倒れるまで、よ」
「ちょ、ちょっと待ってっ!!」
 綾香の危ないルール設定にひろのが慌てて止めに入った。
「…何か?」
 問題あるの?と言う表情の綾香にひろのは言った。
「その…こういうのってポイント制なんじゃないの?なぜにセメントマッチ?」
 ひろののその素朴な問いに、綾香は何故か吹いてきた風に髪とスカートをなびかせながら虚空を見つめつつ答えた。
「…試合ならね。だけど、この戦いは…お互いの誇りを賭けるが故にそう、死合。勝負の終わりはどちらかが完全に戦闘力を失った時点でなければいけないのよ…」
「いつからそうなったの?それに勝負の賭け物は私なんだけど…」
 ひろのはツッコんだ。
「所詮格闘家はそんな不器用な生き方しかできない人種なのよ…」
「いやだからね…」
「始めっ!!」
 綾香は号令を掛けた。所詮一般人であるひろのには、格闘家の生きざまなど一生かかっても分からない事だった。
 わかりたくも無いけど…
 ともかく、勝負は始まった。5メートルほどの距離を置き、葵と好恵が向かい合う。お互いに構えを取り、隙をうかがう。
「…これは…」
 綾香が感心したように言う。
「さっきからセリフがないと思ったら、葵ったら凄い集中力じゃない…まさに明鏡止水の境地…」
「…明鏡止水?」
 ひろのが訊ねた。
「文字通り、鏡の如く、水面の如く迷いの無い、精神の集中が極限に入っている状態ね。まさか葵がここまでの腕に達するなんて…」
 しきりに感心する綾香に、ひろのは汗を流す。
(まさかさっきの暗示が…?確かに葵ちゃんは素直な娘だけど、だからって…)

 焦っていたのは好恵も同じだった。
(くっ…隙が無いわ。確かに葵の才能は凄いけれど、たった一週間でここまで伸びるものなの…!?)
 将来はともかく、今はまだ実力では勝っているはずだと思っていた好恵の信念が揺らぐ。そして、今の葵はその隙を見逃さなかった。
 だんっ!!葵が地面を力強く蹴る音が境内に響き渡った。
「速いっ!?」
 一瞬で踏み込んだ葵の突きが好恵のあごを狙う。それを慌てて捌く好恵。しかし、葵の勢いは止まらない。パンチとキックの嵐が好恵に襲いかかる。好恵も決死の形相でそれを受け止め、隙あらば逆襲に転じる。お互いの攻撃がぶつかり合う音が無数のドラムロールのように響き渡った。
「葵が好恵の速度に付いていっている!?信じられないわ」
 綾香でさえ呆然と見守る中、葵は好恵に付いていくどころか更に速度を上げる。致命的ではないにしても、それなりの打撃が好恵を襲った。ガードが追いつかないのだ。
(どうなってるの!?このままじゃまずいわ…)
 事態の打開を図る好恵。その時、微かな呟き声が聞こえてきた。
「…は…けない」
 葵の漏らす声だった。
「私は強い。私は勝てる。私は…」
 その繰り返しを聞いて好恵は全てを悟った。
(暗示によるパワーアップ!おのれ…綾香の仕業ね。こういうえぐい手で来るのは)
 思い込みとかイメージとか言うのは本当に怖いものである。実際に葵に暗示を掛けたのは綾香ではなく、ひろのなのだが。
(ならば、手は一つ!)
 好恵は気合いを込めて葵の打撃を跳ね飛ばし、一気に息を吸い込んだ。そして、裂帛の気合とともにそれを吐き出す。
「かああああぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
 空手の鍛練法の一つ「息吹き」である。そこに込められた好恵の渾身の気合が葵に襲いかかった。
「…はっ!?」
 凄まじい気の圧力に、葵の自己暗示が解けた。同時に、彼女の動きが目に見えて鈍る。
「え?え?あれ?」
「いけない、集中が…!!」
 綾香が叫ぶ。そして、その隙を見逃さずに伸びた好恵の必殺の一撃が葵を捉える。
 がすうっ!!
「くっ…かはっ!?」
 葵がたまらず身体を「く」の字に折った。
「葵ちゃんっ!?」
 ひろのが叫ぶ。その目の前で、好恵の蹴りが葵の小柄な身体を一撃で吹き飛ばした。数メートルも宙を飛ばされた葵が境内の樹に叩き付けられる。
「葵ちゃん!!やだ、葵ちゃんっ!!」
 思わず駆け出そうとするひろのの身体を、綾香が押さえ付けた。
「やめなさい、ひろの!今出ていったら葵の負けになっちゃうわよ!!」
「…でも…!!」
 力では完全に負けているため、綾香の腕に囚われたひろのは身動き一つ取れない。潤んだ目で綾香を見つめ、抗弁しようとする。
「だ、大丈夫。あの娘はまだ負けていないわ。見なさい」
 ひろのの「うるうる目」の破壊力に揺らぎながらも綾香が言った。
「…え?」
 ひろのは葵の方を向いた。すると、そこでは強烈な打撃を二発食らったはずの葵が立ち上がっていた。
「…まだです…私は負けられないんです」
 まだダメージが残ってはいるのだろう。震える足取りではあったが、葵は自力で自分の体を支えていた。
「私が賭けているのは、私の道だけじゃない…ひろの先輩の身柄もかかっているんですから!」
 葵は力強く言うと、再び構えを取った。暗示による明鏡止水の境地に達していた時に比べれば、隙がある。しかし、気迫は負けていなかった。彼女の心はまだ折れてはいない。
「ね、大丈夫でしょう?」
「うん…」
 綾香の言葉にひろのがまだ心配げではあったが頷く。そのまま、真剣な目で葵に視線を向けるひろの。だから、彼女はまだ自分が綾香に抱きしめられている事に気が付かなかった。
(んふふ…役得役得。はぁぁ…やわらかーい。気持ち良い…)
 それを良い事に、綾香は先日セバスチャンに邪魔されて楽しむ事のできなかったひろのの体の感触を思いっきり味わっていた…

 そして、その綾香の行為は葵にとって思わぬ福音をもたらす事になる。
(あ、あぁぁっ!?あ、綾香ぁ〜っ!?こんな真っ昼間からなんてうらやま…もとい、けしからん事をっ!?)
 そう、ひろのを抱きしめて(抑え付けているのだが、傍目からはそうは見えない)その感触を楽しんでいる綾香の姿は、好恵に強烈な嫉妬の炎を燃やさせたのだ。
(こうなったら、早く葵を倒して、さっさとひろのさんを連れ帰るわ!!)
 かつて、葵を「愛していた」らしい好恵。勘違いと嫉妬から、葵を取り戻すためにひろのに対する襲撃を二度も敢行した事さえある。しかし、その葵への想いは…
 どうやら、すっぱりひろのへのそれに置き換えられたらしい。
 葵にとっては幸いな事だろうが…
 しかし、一瞬でもひろのと綾香に気を取られた事は、好恵にとっては致命的な錯誤だった。
 その一瞬の隙の間に、葵は額、お腹、とそこにある自分のツボを突いて行く。さして、最後の一ヶ所を押した瞬間、体の中の「気」が爆発的に膨れ上がるのを感じた。
(やれる!)
 そう感じた葵は、好恵に向かってダッシュした。

 葵の「気」の膨張は好恵も気が付いていた。
「な…何時の間に!?」
 光となって見えると思うほどの「気」をまといつつダッシュしてくる葵。その足取りには、さっきの二発のダメージなど微塵も感じられない。
 しかし、好恵は気づいていた。これは捨て身の技だ。葵が出せる最期の切り札。すなわち、これを凌げば勝てる。そして、葵の技は一つしか考えられない。
(通背拳。それしかないわ)
 綾香が得意とする、敵の防御を無視する必殺の一撃。綾香に憧れる葵がその技を知らないとは思えない。必ず使ってくるはずだ。
(知ってさえいれば…防げる!)
 通背拳は空手の技ではない。しかし、似たような「徹し」という技はある。それを参考に、好恵は綾香の通背拳を破る研究を重ねてきた。要は打撃が「気」という形でガードを貫通するのだから、自分もガードする部分に「気」を込めれば防げるはずだ。
「終わらせてあげる…」
 好恵は言った。
「貴方のエクストリームを、今ここで終わらせてあげるわ!葵っ!!」
 凄まじい速度で伸びてくる葵の掌底。その前にクロスさせた腕でガードを組み、全身の気合を込める。その防御は、葵の通背拳を完全に防ぎ得るはずだった。好恵は勝利を確信する。
 インパクトの瞬間、葵の掌底が拳へと変化するまで。
(しまった!)
 好恵は心の中で叫んだ。
(これは…通背拳じゃない!!)
 次の瞬間、ダンプにはねられたような凄まじい衝撃と閃光が好恵を襲った。彼女の最後の記憶は、自分の体が宙を舞っているという感覚だった。

 ひろのの目には、それがスローモーションのように見えた。拳を突き出す葵と、弧を描いて地面に落ちる好恵。彼女は呆然と呟いた。
「や…やった…の?」
 技を叩き込んだポーズのまま固まった葵の前で、地面に倒れたまま動かない好恵。審判の役割を思い出した綾香はそばに近寄り、閉じられた好恵の目を開く。その目は焦点が合っておらず、何も映し出してはいなかった。
「坂下好恵、戦闘不能と認定。勝者、松原葵!!」
 綾香が葵の右腕を取り、高々と差し上げる。その途端に、葵は脱力したようにその場にへたり込んだ。
「葵ちゃん!」
 ひろのは今度こそ駆け出し、葵の身体を抱きとめた。
「…先輩…私、勝ったんですか…?」
「うん。勝ったよ。葵ちゃんは勝ったんだよ!!」
 そう言ってひろのは葵の身体を抱きしめた。葵の顔がひろのの胸に押し付けられ、葵が抗議の声を上げる。
「先輩…苦しいです」
「あ、ごめん」
 ひろのと葵がそうやって勝利を喜んでいるそばで、綾香は倒れたままの好恵に活を入れていた。うっと声を上げて好恵が意識を取り戻す。
「…綾香…?」
 まだ意識がはっきりしないらしい好恵の肩を抱き起こしてやりつつ、綾香は言った。
「ナイスファイトだったわよ、好恵」
「…そうか、私は葵に…くっ」
 好恵は葵の技を食らった腕を見る。空手着をめくってみると、そこには真っ赤な跡がくっきりと浮かび上がっていた。それを見た綾香が言う。
「…これは…やっぱり崩拳ね」
「崩拳?」
 打倒綾香のために様々な格闘技を調べた好恵だが、それは知らない技だった。
「究極の基本技よ。絶え間ない突きの反復練習の末に生み出される、完璧なる神の拳。ただの突きにこれだけの威力を持たせるためにどれだけの練習を重ねたのか…真面目な葵ならではの技ね」
 綾香は好恵を立たせてやると、爽やかに微笑みながら言った。
「好恵、あなたは前に私に言ったわよね。エクストリームなんて子供の遊びだって。いろいろな格闘技から見栄えのする部分だけを抜き出したショーアップに過ぎないって。それは一面では正しいわ。私自身、そういう連中と何度も戦ってるし。でも…」
 綾香は葵を見ながら言葉を続けた。
「エクストリームは決してそれだけのものじゃない。その中で、何かを極めたり、何かを追求したりする事もできるわ。あなたを倒した葵の一撃がその証明だとは思わない?」
 好恵は黙って綾香の言葉を聞いていたが、やがてふっと微笑んだ。
「どうかしらね…ただ、葵は真剣にやっているって事は分かったわ。エクストリームを認める事とは別にね」
 その答えに、綾香は吹き出しそうになる。
「意地っ張り」
「ほっといて」
 と、そこまでなら爽やかな格闘家の友情のシーンで終わったかもしれないのだが。

「私は…これからも勝負するわよ。今日は負けたけど、必ずひろのさんを奪ってみせる」
 その好恵の一言がすべてを破壊するきっかけとなった。
「ふうん…そういう事を言うわけ?」
 綾香の笑顔が変化した。顔は笑っているが、目が笑っていない。好恵もその気配を敏感に察知した。
「…綾香?」
「ひろのちゃんを狙うのなら…黙ってはおけないわ」
「ちょ、ちょっと待ってよ綾香!」
 好恵は慌てて言った。
「あんた、葵狙いじゃなかったの!?ひろのさんみたいな大人っぽい娘はストライクゾーン外だと…」
 綾香は横に首を振り、少しづつ好恵に近づいていく。
「違うわ…好恵。私は…」
 拳を振りかぶる。
「萌えられればオールオッケーなのよ…」
「ま、待ってよ…今の私はもう戦闘力が…それに攻撃するのは格闘家としてどうなのよ!?」
 何とか逃げようとする好恵。しかし、綾香は容赦しなかった。
「ごめんね。私も格闘家である以前に人間だし」
 拳が振り下ろされる。
「綾香ぁぁぁっっっ!あんたって娘はぁぁぁぁっっっっ!?」
 めごしっ!!

「ん?」
 背後で何やら凄い音がした事に、ひろのと葵が振り向いてみると、そこには気絶した好恵を担いだ綾香がいた。背中の好恵はぴくりとも動かない。
「綾香さん…好恵さんは?」
 傍に寄ってきて訊ねる葵に、綾香が臆面も無く答えた。
「まだ目を覚まさないみたいね。あとは私が介抱するわ。葵は帰ってゆっくり休みなさい」
 やさしげな声には、今その手で好恵にトドメを刺したという気配は微塵も伺えない。
「…好恵さん、大丈夫なのかな…」
 ひろのが好恵の顔を覗き込む。
「…なんか、ちょっと顔が違うような」
 葵に倒された時は何が起きたのかわからない、というような呆然とした顔で宙を舞っていたが、今は何故か怒りと恐怖に引き攣った顔のまま気絶していた。おまけに、攻撃を受けていないはずのこめかみに強烈な打撃の跡がある。
「…気のせいでしょ」
 綾香は誤魔化した。
「まぁ…急所は外れてるし、単なる衝撃で気を失っただけだったから。そんな心配しなくてもすぐに目を覚ますわよ」
 実際には綾香が好恵にトドメを刺した時のブーメラン・フックはかなりヤバイ所に突き刺さっていたのだが、それは内緒だ。いかに好恵が人外でも当分目を覚まさないだろう。
「そうですか…では、好恵さんの事、よろしくおねがいします」
 葵はぺこりと一礼し、石段を降りていった。
「今日はめいっぱい身体を振り回しただろうから…明日が辛いかもね。筋肉痛で」
 綾香が言った。
「それじゃ、私も帰る。葵ちゃんを送っていくから」
「ちょっと待って」
 ひろのも綾香に一礼して帰ろうとする。しかし、石段に踏み出す前に綾香に呼び止められた。
「…どうしたの?」
 くるっと振り返ったひろのに、綾香はウィンクして言った。
「約束…覚えてるわよね?」
「約束?」
 ひろのが首を傾げる。しばらくして、彼女は綾香に臨時コーチを頼んだ時の会話を思い出した。



「ただし!一応お礼は欲しいな」
「…お礼?」
「うん。なになに、簡単な事よ。私と一日付き合ってくれればオッケーよん」
「なんだ、そんな事か。もちろん良いよ」




「あぁ、あの事?もちろん覚えてるよ」
 ひろのは微笑んだ。
「で、期日はいつにする?」
 何も心配していない、綾香がアレな趣味だとは微塵も思っていないひろのの微笑み。これのために格闘家の良心を悪魔に売り渡して好恵を葬った綾香にもさすがに眩しいものだった。
「そ、そうね…今度の土日、で。場所は東鳩ファンタジアパークでどう?」
 綾香は市の郊外にあるテーマパークの名前を口にした。おとぎの国をモチーフにした、最近全国区級の人気になりつつあるプレイスポットである。
「…東鳩ファンタジアパーク?買い物とかじゃなかったの?」
 不思議そうに言うひろの。綾香はさすがに東鳩ファンタジアパークと言っては露骨にデートに誘っているようなものだと気が付き、慌ててごまかす。
「ほ、ほらっ!あそこ色んなオリジナルグッズも売ってるじゃない!!だから良いもの探そうと思ってっ!!」
 端から見ると妖しいくらいの慌てっぷりだったが、今のひろのは素直に信じた。
「あぁ、なるほど。でも、ちょっと意外だね」
「…なにが?」
 くすくす笑うひろのの反応に綾香は戸惑った。
「綾香がそう言うファンシーグッズを欲しがるタイプとは思えなかったから」
「…あ」
 綾香の顔が赤くなった。
「じゃ、また後でね」
 そう言うと、ひろのは葵の後を追って階段を駆け降りていった。後には綾香(と気絶している好恵)だけが残される。
「ふ、ふふふ…どうやら私、本気になりそうだわ」
 綾香は言った。ひろのの容姿と、綾香の精神操作技の組み合わせが生む、理想の美少女像…それが今のひろの。これを完全に我が物にせずにはいられない。
「そうと決まれば早速、準備が必要ね」
 綾香も神社を降り始めた。デートの日まで後1週間。仕込みをする時間はたっぷりある。

 こうして、一つの戦いは終わった。だが、1週間先…「ひろの争奪戦」最初の決戦の一つ、「ファンタジアパークの戦い」はこの時静かに幕を開けたのだった…

(つづく)

次回予告

 ひろのと綾香の「デート」の日が迫る。それを快く思わない人々が動き始めた。ひろのを守るため、ひろのを手に入れるため、あるいは復讐のため。それぞれの思惑を秘めた強者たちの集結は、のどかであるべき遊園地を阿鼻叫喚の巷に陥れる。
次回、第十一話
「地獄のカオスでーと」
 お楽しみに。
 予告と本編が違っても怒らないで下さい。

後書き代わりの座談会・その10

作者(以下作)「この壊れたお話もとうとう10回目です。どんどんぱふぱふ〜」
セバスチャン(以下セ)「相変わらず浮かれておるのう」
作「おや、長瀬さん。ひろのはどうしました?」
セ「…綾香様とのデートに来ていく服を買いに行った。故に今日はワシが代理を務めさせていただく」
作「これはご丁寧に…で、どうしました?顔が暗いようですが」
セ「暗くもなるわ…綾香様の前ではひろのは狼の前の羊も同然…一体どうなる事やら」
作「はぁ…確かに綾香嬢はああいう趣味の人ですからねぇ」
セ「そう設定したのはお前だろうが!?」
作「でも、大半のキャラが作者の思惑を超えて暴走しているんで…もう私にも止められませんな」
セ「無責任な奴め…」
作「まぁ…ひろのも作者の思惑を超えて女の子化が著しいですし。これはちょっと是正せなあかんとは思っているんですが」
セ「いや、それはやらなくて良い」
作「却下(一秒)」
セ「…あのままの方が可愛いと思うがのう」
作「そうは言ってもTSものなんで、あんまり主人公が男である事を忘れてしまうと意味が無いんですよ」
セ「…そういうものか?」
作「少なくとも私はそう思ってますが」
セ「…まぁ、良いわ。少なくともワシの前では可愛い孫娘でいてくれれば…」 作「…綾香よりこの人の方がよっぽど壊されているのに…何も言わないとは良い人だ…」

収録場所:来栖川家庭園にて


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