<アーク>

 右の眼窩に収められたS2機関を再びサングラスで隠すゲンドウ。その衝撃的な光景を目にしたショックから立ち直ったカヲルが、それでも微かに震える声で聞く。
「副司令…何時からそんな事に?」
 ゲンドウは<ロンギヌスの槍>を肩に担ぎ直して言った。
「そうだな…長い話になる。ここから出る途中で話をする事にしよう」
 ゲンドウが初号機、アスカが弐号機の補助シートに座り、一行は元来た道を引き返し始めた。


新世紀エヴァンゲリオンREPLACE

第弐拾八話「まごころを、君に」



2000年7月

 ゲンドウが目を覚ましたのは、脱出カプセルが海へ続く地下トンネルに入り込んでからだった。
(葛城博士は…そうか)
 目の前にミサトが眠っているのを見て、ゲンドウは自分達を逃がすために葛城が後に残った事を悟った。
(これからどうやって生き延びるか…む?)
 大音響と共に世界が鳴動し、同時に全身を不快な感覚が包んだ。
(!?な、何だこれは)
 ゲンドウは唸った。身体の細胞の一つ一つまでもが悲鳴をあげ、自分と言う存在が希薄になって行くような、そんな感覚だ。
 見ると、ミサトの方も顔が青ざめ、自分と似たような感覚に苦しめられているらしい。
 この時、地上では自壊した<アダム>を中心としてアンチATフィールドが拡大していた。二人もそれに捉えられかけていたのだ。
(なんだ…自分が、俺と言う存在が無くなる…!?馬鹿な…俺はまだ何も償えていない!この子を守らねばならんのだ!ここで消えるわけには…)
 全身の気力を奮い起こし、ゲンドウはその不快さに抵抗する。その時、彼の心の中に声が響いた。
(力が欲しいか?)
「!?だ、誰だ!!」
 思わず声を上げるゲンドウ。しかし、カプセルの中には自分とミサトしかいない。
(脅える事はない、遠き同胞よ。我が名は<アダム>。贖罪を求める者よ、お前はそのための力を望むか?)
 再び声が響いた。今度は、ゲンドウにも落ち着いて考える余裕があった。
(<アダム>と言ったな。お前は何者だ?なぜ私に声を掛けてきた)
 ゲンドウの問いに、<アダム>が答える。
(汝の望みと我が望みが一致したからだ。我もまた、贖罪を求めるが故に。それに、このままでは汝もその娘も助からぬ。心の壁を打ち破られればいかなる生物も滅びを免れぬぞ)
 その答えにゲンドウは苦笑した。
(選択の余地はないと言う事か。それなのに確認を求めてきたと言う事は、信頼できそうだな、<アダム>とやら。わかった。私に力をくれ)
(良かろう。我が力を汝に託そう)
 その瞬間、カプセルの中がオレンジ色の光に満たされた。同時に、ゲンドウの右目に灼熱した感覚が走った。
「ぐおおおおぉぉぉぉぉっ!?」
 悲鳴を上げるゲンドウ。しかし、その痛みも一瞬の事で、すぐにカプセルの中は平穏に戻る。
(…む?)
 怪訝な顔になったゲンドウだが、その時、あの不快な感覚が消滅している事に気がついた。ミサトの顔も安らいだものになっている。
(夢か?…いや、これは…!!)
 カプセルのカバーグラスに映る自分の顔を見て、ゲンドウは唸った。右の眼球が赤い球体に変化している。視力はあるようで、視界に変化はないのだが。
 その変化を自覚した時、ゲンドウの頭の中に奔流のように情報が流れ込んできた。50000年前から存在した先史文明、そして、12000年前に起きたそれらの悲劇的な崩壊。それに果たした<アダム>とその作成者の役割。
(私も、贖罪者の系譜に名を連ねたと言う事か…)
 ゲンドウはこれから先の自分の役割を見定めた。そして、変化した右目を隠すためにサングラスをかけ、素顔を隠して生きる事となったのである。


現在

「そんな事があったのですか…」
 ゲンドウの回想を聞き終わったカヲルが言った。
「まぁ、<アダム>の継承者と言っても暫定的なものだし、人間の身では大した力も使えないがね。遺伝子レベルで使徒の力に覚醒しているレイやアスカとはそこが違う点だな」
 ゲンドウがそう答えると、レイが尋ねた。
「お父さん…アスカはわかるとしても、わたしにはそんな力はないような気がするんだけど」
 レイはアスカやゲンドウのように生身でATフィールドを展開し、S2機関を介さずにエヴァを直接操作する事はできない。第二使徒<リリス>の継承者である事はわかっていても、使徒としての覚醒はしていないのではないか、というのがレイの疑問だった。
「いや、お前はもうとっくの昔に使徒としての力を目覚めさせているさ。ただ、それが我々のように破壊的な力ではないと言う事だ。考えてみろ、お前が司るのは癒しと絆の仲介だぞ」
「え?」
 ゲンドウの答えに、レイは思い当たるところが無く首を傾げる。しかし、その時シンジが声を上げた。
「…そうか、姉さんの力ってそう言う事なのか!」
 シンジはレイが来てからNERVに起こった変化を思い出した。
「アイスドール」と呼ばれた、冷徹なミサトが、優しく情のある性格を取り戻した事。
 修復不能とさえ思えた対立のあった、ゲンドウとリツコの和解。
 そして、人間らしい感情を持つ事が出来た自分。
 本人たちの努力はあったにしても、その中心にはいつもレイがいた。彼女の持つ、人を和ませ、勇気づける雰囲気こそ、何よりも大きな力。NERVを強い絆で束ね、強大な<ゼーレ>と対等に戦い得る原動力となった源。
「そ、そんな…わたしは…」
 何もしていない、そう続けようとしたレイを遮ってカヲルが言う。
「君に自覚が無くても良いさ。少なくとも、ボクは綾波さんのために頑張ろうと思った事が何度もある。まぁ、ボクとしては、それは<リリス>の力なんかじゃなく、綾波さん個人の人徳だと思うけどね」
「…どっちでも同じよ。彼女と<リリス>は同一の存在だもの」
 と、これはアスカ。子供たちの言葉にゲンドウが頷いた時、一行はターミナル・ドグマの底部に戻ってきた。
「アスカ、済まないが君のエヴァを持ち上げてくれ」
「…わかりました」
 ゲンドウの要請を受け、アスカが呼びかけると、参号機を組み伏せたままのアスカのエヴァが浮上してきた。
「さて…いよいよ戦いに幕を引く時が来たな…レイ、これを受け取れ」
 ゲンドウはそう言うと、手にしていた<ロンギヌスの槍>をレイに差し出した。
「え?でも、それは…<アダム>のものなんじゃ…?」
 レイが父の意図が分からずに尋ねる。
「本来はな。しかし、今から行う事のためには、持ち主は<リリス>であるお前がふさわしいのだ。世界再生のためには」
 ゲンドウが答えた時、通信が回復したのか、モニターに冬月の顔が映った。
『六分儀、いよいよ始めるのか、世界再生計画を…』
 冬月の問いにゲンドウは力強く肯く。
「はい。いよいよです」
『長かったな…これで、我々の戦いも終わる。行くが良い、六分儀よ。ワシはワシでケリを付ける』
 続いて、冬月はアスカのモニターに接続して来た。
『やはり惣流博士の娘さんか。母親によく似ている…名は?』
「…アスカ…惣流アスカです」
 目を細めて尋ねてくる冬月に、アスカは口篭もりながらも答えた。
『アスカか。良い名前だ』
 微笑む冬月に、アスカは「あ、あのっ…」と声をかけようとする。自分には言わなくてはならない事があるのだ。しかし、機先を制するように冬月が言った。
『君はもうダブリスではない』
 アスカの身体がピクリと震えた。
『君は間違った妄執から自由になったのだ。その間違いの理由に同情すべき点も多い。ワシには君を咎め立てする気はない』
 冬月はそう言うと、一旦言葉を切ってもう一言付け加えた。
『それでも罰を望むのなら…六分儀に協力してやってくれ。良いかな?』
「は、はいっ!」
 アスカが何度も首を振る。
『レイ、シンジ、カヲル。頼むぞ。本当に最後の使命だ』
 最後に冬月はそう言って通信を切った。敬礼すると、ゲンドウは<ロスト・ナンバーズ>…参号機へ戻った。アスカも自分の機体に戻っている。
「さて…レイ、シンジ、カヲル、そしてアスカも。私に付いてきてくれ」
 そう言うと、ゲンドウは乗機をリフトに乗せた。子供たちの機体もそれに続く。5機のエヴァはそれによってジオフロントに向かい、さらに地上へのリニアカタパルトに乗り換えた。


NERV本部 発令所

「さて…始めるとするか」
 レイたちとの更新を終えた冬月がモニターを切ると、青葉が質問を投げかけた。
「司令、何をするのです?」
 冬月の「ケリを付ける」と言う謎めいた言葉に、日向、マヤもその意味を知りたかったらしく、視線を冬月に向ける。
「文字どおりの意味だよ。我々の手で<ゼーレ>にとどめを刺す」
 その言葉に、発令所が緊張に包まれた。冬月は「とどめを刺す」と言った。それは、今まで防戦に努めてきたNERVが攻勢をかけ、<ゼーレ>に決定的な打撃を与える事に他ならない。
「子供たちには<ゼーレ>の汚れた血で手を染めて欲しくはない。それは…ワシの仕事だよ。一応司令だからな」
 そう言うと、冬月はドイツ支部…<ゼーレ>への回線を開くように命じた。 


ドイツ<ゼーレ>総本部<レーヴェンスボルン>

 第十七使徒<ダブリス>=アスカの解放は、<ゼーレ>幹部たちに重苦しい敗北感を与えていた。
「貴様ら…ここへ来て裏切るのか!!」
 吐き捨てるような口調で糾弾するキールに、イタリアの代表が答える。
「…終わったのだよ、キール議長。我々の敗北だ」
「千年王国など無かったのだ。もはや我々に出来る事はそれぞれに罪を償う事だけだな」
 フランス代表も言う。戦略自衛隊、エヴァシリーズ、そしてダブリス。全ての切り札を失い、彼らの本来の指導者たる碇家の継承者―レイの存在を知った今、彼らは自分達の敗北をはっきりと悟っていた。彼らは無言で首を振り、バーチャルアウトして会議場からその姿を消した。
「マスト卿、君はどうなのだ」
 キールは英国代表に顔を向ける。対NERV最強硬派であり、自分に最も忠実だった彼ならあるいは…と思ったのだ。しかし、マスト卿も首を横に振った。
「…無駄なあがきだな。見たまえ」
 マスト卿が指し示すモニターに、地上の様子が映し出された。それは、NERVのMAGIオリジナルがついに各国のMAGIシリーズを打ち破って世界の情報網を掌握し、隠匿されてきた全ての真相を流し始めている光景だった。
<ゼーレ>代表の身元も公開され、彼らが所有する現世での代表組織に激怒した大群衆が押し寄せている。キールの持つローレンツ・コングロマリット本社ビルも、怒り狂う群集の手によって炎上していた。
「さらばだ、キール議長。一足先に行っているぞ」
 マスト卿の姿も消えた。しかし、完全にバーチャルアウトする寸前に微かに聞こえた銃声が、彼の運命を物語っていた。
 ふと気が付くと、キールは一人になっていた。やがて、狂ったような哄笑が彼の口から漏れ出した。
「く、くくく…くはははははははっ!!敗北、敗北だと!?認めぬ!俺は認めぬぞ!!我が信念が砕けぬ限り敗北は有り得ん!!せっかく永遠の支配者の一隅に座を占められたものを、逃げるならば逃げるが良い。俺が全てを独占するまでだ!!」
 キールがマントを翻して立ち上がる。
「まずは邪魔なNERVを消してくれる。もはや手段は選ばん」
 そう言うと、彼は議長席の横にあった電子金庫を開け、テンキーの付いた小さなコンソールを引き出した。
「さて…NERV本部の座標は…ふん、奴等も俺がこんな切り札を隠し持っていたとはおもうまい」
 そう言いながら座標の入力を終えた瞬間、正面のモニターが作動し、一人の人物が顔を現した。
『久しぶりだな、キール議長』
「ふ、冬月!?」
 キールは驚愕した。これから抹殺しようとしていた相手が画面に現れていたからだ。
『それは隠匿しておいた核兵器の発射システムかな?やめたまえ。それも既にMAGIが支配している』
「な、何?はったりを抜かすな!!」
 キールはボタンを押した。しかし、何の反応も無い。
『私ははったりは言わんよ、キール議長。いや、サルヴァドル・ラングレー君。世界を裏切った男よ』
 その瞬間、キールの目が驚きに見開かれた。


NERV本部 発令所

 冬月の言葉に、発令所の人間も驚愕していた。やがて、それを破ってミサトが言った。
「ラングレー…南極実験で間違ったデータを作成し、セカンドインパクトの直接の引き金を引いた男…?」
「そうだ。本来12人のはずの<ゼーレ>に存在した13人目…現代のイスカリオテのユダだよ」
 冬月が答える。もっとも、ユダは裏切り者ではあっても、私利私欲でそれを為したわけではなかった。それを考えれば、この男は…と思った時、モニターの向こうのキール、いや、ラングレーが動いた。
『なぜ、分かった…?』
 そう言って、視力補正バイザーを投げ捨てる。その下から現れた素顔は、50代くらいの…ゲンドウとほぼ同年代の壮年の男性だ。
「カヲルの父を捜していた時にな…君の名が浮かんだ。それを追跡調査しているうちに、キール議長のDNAデータが君のものに書き換えられていたのだよ。そうだな?」
 冬月に話を振られた加持が頷いた。それを確認し、冬月はモニターに向き直る。
「本物はどうしたのかね?」
 ラングレーは笑った。開き直った笑いだった。
『殺したよ。あの老人は汚れ役をすべて俺に押し付けて葬るつもりだったからな。逆に俺が奴を葬ってやったのさ。入れ替わろうと思ったのはその後だ。奴の野望を俺が引き継ぎ、より一層拡大する!誰からも必要とされなかった俺が世界を支配する。こんな痛快な事が他にあるか?』
 狂ったように…いや、実際に狂っているのかもしれないが…笑い続けるラングレーを睨み、冬月は言葉を続けた。
「ツェペリン夫妻を死に追いやったのも復讐のためか」
『そうさ!あの女は俺の求愛を退けた!だから幸せの絶頂でそれをぶち壊しにしてやったのだ!!最高の復讐だよ。くははははははは!!』
 本来なら、発令所の全員が激怒しても良かったのかもしれない。誰もが、セカンドインパクトなどでラングレーに間接的に家族を殺されていた。しかし、怒りを圧倒する狂気がその場を支配していた。
「そうか…わかった。君はこの世にいるべき人間ではない。私は、ドイツ支部に残っているのはキール・ローレンツであるとして最後の一手を打たせてもらう」
 冬月は言うと、傍に立っていた時田に言った。
「時田君、あれを使う。目標はドイツ支部…いや、<ゼーレ>本部だ」
「了解しました」
 このやり取りに、初めてラングレーが不審の表情を抱いた。
『おい、なんだ冬月。貴様いったい何をする気だ』
「そうだな…自分が何で死ぬかくらいは知りたかろう。見せてやれ」


ドイツ<ゼーレ>総本部<レーヴェンスボルン>

 冬月の命令で切り替わった画像を見て、ラングレーは驚愕の表情を見せた。本来はエヴァ発進用のリニア・リフトに装備されている一発の弾道ミサイル。その弾頭には黄色いラインが二本。
「実戦型N2弾頭兵器だと!?馬鹿な、あれは第十二使徒戦で使い切ったはずだ!!」
 ラングレーは叫んだ。N2兵器は南極で自壊・爆発した<アダム>のかけら…巨大なエネルギーを秘めた<光体>の破片を加工し、爆発するようにしたものだ。全世界に原料となる破片は992個しか存在せず、それを使い切った以上、NERVがN2兵器を持っているはずはないのだ。
『そうかね?一つだけ、兵器加工しなかった破片があるではないか』
 冬月の言葉に、ラングレーは一瞬考え込み…そしてある事に思い至った。
「そ、そうか!赤木博士に持たせた物が…!」
<ロンギヌスの槍>再封印のため、<アダム>のダミーを作成する…その名目で日本へ持ち出された<アダム>のかけら。NERVはそれをN2兵器に転用したのだ。
『そう言う事だ。さらばだ、ラングレー君。せめて君の人生の最後に安らかな時間がある事を祈っている』
 冬月からの通信は切れた。ラングレーは落ち着かない目つきで辺りを見回し、ドアに突進した。しかし、開かない。敗北を悟った<レーヴェンスボルン>の要員達は既に脱出し、基地の機能はNERVに奪われていた。
「だ、誰か開けろ!い、嫌だ…俺は世界の支配者だぞ!!こんな所で死ぬものか!畜生、開けろ!!」
 答えるものは誰もいなかった。五分後、NERVの発射した弾道ミサイルがマッハ20以上で落下してきて、<レーヴェンスボルン>の直上の地面に激突してから爆発した。
 その瞬間、巨大な火球が発生した。爆心点で10億度近くに達した膨大な熱は<レーヴェンスボルン>の岩の天蓋をくり貫くように溶かし、内部の空間に岩石蒸気と溶岩の混じった2万度を超える超高熱の爆風を叩き付ける。NERV本部のように戦闘に備えた設備を持たない<レーヴェンスボルン>内の建造物群は、その爆風によって瞬時に破壊され、炎上し、蒸発した。
 やがて、炎の饗宴が収まった時、そこには煮えたぎる溶岩だけがふつふつと音を立てて沸き返っており、世界の支配者の宮殿たるべく整備されてきた聖地の面影は、何一つ残っていなかった。


同時刻 地球衛星軌道上

「ん…?今ヨーロッパの辺りで何か光ったような」
 カヲルは外部監視ディスプレイの右端を見て首を傾げた。その時、シンジからの通信が入ってきた。
「カヲル君、少し高度が落ちているよ。飛ぶ事に集中して」
「え?あ、あぁ…ごめん」
 カヲルは意識をディスプレイから引き剥がし、「飛ぶ」イメージに集中する。それに応じ、彼の弐号機の背中から生えている4対の光の翼が太さを増し、弐号機の高度を上昇させた。
 5機のエヴァは今、宇宙空間に飛び出していた。その背中から翼のように伸びたATフィールドで重力を遮断し、地球の束縛を断ち切って飛んでいる。
 5機の目指す先は、全ての始まりの地、南極大陸だった。セカンドインパクトに始まった15年に及ぶ苦難の時代を終わらせ、失われた多くのものを取り戻すのに、これほど相応しい場所は存在しなかった。
「見ろ、環南回帰線停滞域だ」
 ゲンドウの言葉に、子供たちは遥かな下界を見下ろした。真っ青な海に雲が散らばる北側と異なり、その向こうは血のような赤い海が広がっている。空には雲さえも存在しない。南米やオーストラリアの大陸も、南回帰線を挟んで緑豊かな大地と、赤茶けた不毛の荒野に綺麗に分断されていた。
 セカンドインパクト後に生じた、極端に大気と水の循環が止まった地帯―環南回帰線停滞域。生と死の国境線。子供たちもその存在を知らないではなかったが、こうして実際に見る時、その非現実的なまでに鮮やかな生と死のコントラストは、彼らの背筋に冷たい恐怖を走らせずにはいられなかった。
「怖い…なんだか引きずり込まれそう」
 レイが言った。さざなみ一つ無い真紅の海は、見ようによっては巨大なルビーにも似ていて、確かに長く見ていると魂を引き込まれそうな気がしてくる。
「無理も無いさ…<アダム>の崩壊に巻き込まれてLCLに還元された人は10億人を下らない…人間以外の生き物まで含めれば、どれだけの魂があそこを漂っている事か…」
 カヲルが神妙な声で言う。そう聞かされれば、眼下の光景がますます不吉に見えてくるのも無理はなかった。
「それを救うのが我々の目的だ」
 ゲンドウが言った。
「もう一度手順を言うぞ。ディスプレイにデータを転送する」
 ディスプレイに模式図が出現した。南回帰線上空に展開した初号機を除く4機のエヴァが、ごく薄く引き延ばしたATフィールドを展開し、南極までを覆っていく。
「そして、わたしが槍で爆心点を貫く…だよね?」
 レイが言うと、ゲンドウはその通りだ、と頷いた。
「正確にはセカンドインパクト後も南半球を覆っているアンチATフィールドを破壊するのが目的だね」
 カヲルが言った。セカンドインパクト後も南回帰線以南が完全封鎖されているのは、残留するアンチATフィールドのためだ。以前ゲンドウ達が<ロンギヌスの槍>を発掘した時は、参加した艦隊に防御装置を取り付けて、艦の外と内を完全に遮断しなければならなかった。
 セカンドインパクト後の数年間は、爆心点を聖地と見なした新興宗教の信者達が封鎖を破って南回帰線以南に侵入したが、生きて帰ったものは一人もいなかった。全員が途中で自分を保てなくなり、LCLに還元したと考えられている。
「私とシンジ、カヲル、それにアスカは環南回帰線停滞域の外周上に90度に別れて展開。レイはこのまま南極点を目指して進め」
 ゲンドウの指示が飛んだ。「了解」と言うと、シンジが今いる場所とは地球を挟んで反対側になる地点へ向けて飛んで行く。
「行きます」
 カヲルが身を翻そうとすると、アスカの心細そうな声が聞こえた。
「…お母さんとお兄ちゃんと一緒では駄目ですか?」
 使徒ダブリスでは無くなったとは言え、使徒の力を引き継ぐアスカではあったが、性格は180度変わっていた。長い回り道の末に再会できた母と、出会う事のできた兄からは離れがたいようだ。
「…済まんな。アスカが頑張ってくれれば他の皆も楽になるのだ」
「お兄ちゃんも?」
 ゲンドウの頼みにアスカが尋ね直す。
「副司令の言う通りだ。これが終われば、母さんとも再会できる。がんばろう、アスカ」
 カヲルが言うと、アスカはにっこり笑って頷き、シンジの後を追うように離れて行った。それを見届けて、カヲルの弐号機も離れて行く。
「お父さん…」
 レイが言うと、ゲンドウは頷いた。
「お前が全ての要だ、レイ。世界を覆う呪いを…12000年のノアとゼーレの呪縛を…祈りを込めて打ち砕け!」
「はいっ!」
 その場に留まるゲンドウを残し、レイは南極へ向けて飛んだ。海の赤みが次第に深くなり、やがて、視界の先に黒々とした南極大陸が浮かび上がった。その一角に、なお黒い…底知れない闇を思わせる穴が存在している。南極ジオフロントの跡であり、セカンドインパクトの爆心点だ。レイはその上空に止まった。


南極 セカンドインパクト爆心点直上

 しばらく、レイはその闇を見下ろしていた。爆心点の闇は、LCLの海を超える不吉さを持って彼女の足元にあった。それを見ながら、レイは、パンドラの箱の伝説を思い出していた。ありとあらゆる災いを封じ込めた箱を開けてしまった後に、たった一つ残っていたのは希望だったと言う。
 南極ジオフロントと言うパンドラの箱が開かれた後、人類は戦争、自然災害、飢え、貧困、ありとあらゆる災いに見舞われた。そして、そこから今彼女が握り締めている<ロンギヌスの槍>が発見された。
 ならば、この槍は希望をもたらす存在になってくれるはずだ。12000年前、<ライフ・ブレイカー>の発動キーとして数知れぬ生命を消し去った忌むべき槍ではあるが…
 だからこそ、この槍にも贖罪のための手助けになってもらおう。
 レイは肩の力を抜き、気持ちを落ち着かせると、無線機に呼びかけた。
「こちら…レイです。南極上空に着きました」
「こちらシンジ。配置につきました」
「こちらカヲル。いつでもどうぞ」
「…アスカ。…早くしてよね」
 三者三様の答えが返ってくる。そして、ゲンドウが最後の確認をした。
「準備はいいな?」
『はい!』
 全員が返事をする。
「これが最後だ…ATフィールド、展開!!」
『ATフィールド、展開っ!!』
 4機のエヴァの背中に展開された翼が眩く輝く。オレンジ色の輝きが薄いヴェールのように広がっていき、地球の赤く染まった部分を覆っていく。
 すると、オレンジ色のヴェールのあちこちで白い十字型の火花のようなきらめきが走った。地上のアンチATフィールドとぶつかり合い、お互いに反発し合っているのだ。その光は南極に近づくほど密度を増していく。
 その様を地上から見れば、まるで地球の至近に巨大な銀河が現れたかのように見えただろう。
 レイは息を呑んでその美しくも禍々しい光を見つめていた。やがて、彼女の足元に銀河の中心が現れる。アンチATフィールドの密度が最も濃い場所だ。それこそが、彼女の戦うべき最後の相手。
「…お願い…」
 レイは<ロンギヌスの槍>を握り締め、祈りを込めた。同時に、初号機も彼女と同じ姿勢を取る。その手の中に小さな光が生まれ、一瞬に成長したかと思うと、全長200メートルほどまで巨大化した<ロンギヌスの槍>に変化した。
「力を貸して、<ロンギヌスの槍>…今こそ呪いを打ち破れっ!!」
 裂帛の気合と共に、レイは渾身の力を込めて<ロンギヌスの槍>を投じた。同時に、シンジ、カヲル、ゲンドウ、アスカもそれぞれの思いを込めて叫んでいた。
「世界に解放を!」
「失われた時を取り戻せ!」
「我が罪を購わせたまえ!」
「もう一度再会するために!」
 その瞬間、<ロンギヌスの槍>が光り輝き、瞬時にして光の速度に達した。12000年前、世界を覆うATフィールドを打ち砕いた槍は、時を経て、目に見えない呪いの壁を破る神器となった。眼下に広がる銀河のごとき輝きをも圧倒する光となり、槍がその中心を寸分の狂いも無く貫き通すと、それを打ち砕いてかつて氷に覆われていた大陸の一角に突き立った。


その時、世界中の生命が、2000年のあの日以来、恐れを込めて見つめていた南の空が、荘厳な輝きに彩られたのを目撃した。
ある者は、それを何かの終わりだと感じた。
ある者は、それを何かの始まりだと感じた。
そして、それはどちらも間違ってはいなかった。



NEON GENESIS EVANGELION
"REPLACE"
LAST EPISODE:The End Of Eternal summer days


南極大陸

 あの日以来、時間さえ凍り付いた場所。今、あの日と同じように、金色の輝きが天を覆い尽くす。あの日と同じように天を貫く輝きが降り注ぐ。
 やがて、その輝きが消えたとき、それまで鏡のように凪いでいた海面に、微かに波が立った。最初は細波。それは次第に大きな波となり、岩だらけの南極大陸の岸に打ち寄せた。
 同時に風も吹き始め、ひょうひょうと音を立てて吹きすさび始める。どこからともなく雲が湧き出し、やがて嵐となった。吹き寄せる波と風に、海面にそびえていた無数の塩の柱が崩壊し、崩れ落ちて消滅していった。
 そして、海にそれ以上の変化が現れ始めた。自然の波とは異なる細波が海面に立ち、水面を割って小さな生物が跳ねた。
 それは、オキアミの大群だった。そのオキアミを追うようにして、クジラの巨体が潮を吹き上げつつ浮上する。死の世界だった南極に、今生命の息吹が蘇ろうとしていた。


衛星高度

 変化は星の高みから見る時において顕著だった。
「血の色が消えていく…」
 レイは呟いた。海は青へ。大地は緑へ。躍動するように生命の色が死の色を駆逐していく。
「成功したの?」
 誰に問うとでもなく言うレイに、ゲンドウが答えた。
「ああ。紛れも無く成功だ」
 彼の視界がぼやけた。失われたはずの右目にも、熱い何かが溢れてきて、ゲンドウはそっと目を拭った。
「きれい…」
 アスカが呟く。
「この星はこんなにも綺麗なものだったのね。アタシは…それを壊そうとしてたんだ…なんて馬鹿な事を」
「もう良いさ。済んだ事だよ、アスカ」
 カヲルが優しい声で妹を慰めた。
「これが、僕たちが初めて見る地球の本当の姿なのか」
 シンジも感慨深げに言った。
「僕は…戦い抜いてきて良かったって、心の底から思えるよ」
 5人はそれぞれに言葉には言い尽くせない感情を抱いて、15年ぶりにその本当の輝きを取り戻した故郷の惑星を見つめた。
「さぁ、帰ろう。皆が待っている」
 やがて、ゲンドウのその一言に従い、5機のエヴァは日本を目指して再び翼を広げた。


オーストラリア大陸南部

 生命の再生は陸上でも起こっていた。天の光が消えた後、赤褐色の大地に植物が芽生えた。それらはまるでビデオの早送りのような速度で成長し、たちまち大草原が出現した。
 その草の蔭からカンガルーがひょっこりと顔を覗かせ、見上げるようなユーカリの梢にはコアラがまどろんでいる。そして、15年の歳月の間に荒れ果てた街では、何が起きたのかわからず、戸惑ったような表情で佇む人々の姿があった。
「…一体、何が起きたんだろう」
「わからない。ただ…」
「すごく長い夢を見ていたような気がする」
「とても幸せな、それでいて悲しい夢を…」
 人々は話し合った。それは、LCLに溶け、ありとあらゆる生命や意識と一体になっていた時の記憶だった。
 その時、彼らの頭上を5つの流星が駆け抜けていった。地平線の彼方へ消えていくその流星を見上げ、人々はあれが自分達が遠い世界から帰ってくるための導きに違いないと確信した。


日本 第三新東京市

 街からは戦火の影は去っていた。生き残ったNERVの要員達は、もはや脅威の存在しなくなった地上に出て、彼ら5人の帰還を待っていた。
 その頃になると、NERVの情報公開によって事情を知った多くの市民もシェルターを抜け出し、芦ノ湖畔にあるNERVの飛行場近くに続々と集まりつつあった。
 やがて、南の空に5つの光点が出現し、それは見る間に巨大な人の形を取って第三新東京市に近づいて来た。
「帰ってきた!」
 誰かが叫び、人々のどよめきの声が芦ノ湖の湖面をも揺るがすように辺りに響き渡った。
 市民達とは対照的に、静かに帰還を待っていたNERV職員たちは、初号機から順に着陸したエヴァの群れに向かい、ゆっくりと近づいていく。その先頭を行く冬月が立ち止まった時、背面のエントリーコネクターからプラグが排出され、5人が地上に降り立っていた。
「レイ!シンジ!カヲル!アスカ!」
 冬月が呼びかけると、4人のチルドレンは弾かれたように駆け寄ってきた。
「おじさま!」
 レイが冬月の顔を見上げると、冬月は破顔一笑して、レイの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「良くやってくれた…お前たちは、ワシの誇りだ!」
 その瞬間、どっと歓声が沸き起こり、職員たちがチルドレンに駆け寄った。もみくしゃになる子供たち。やがて、誰ともなく胴上げが始まった。レイが、シンジが、カヲルが、アスカが、次々と宙に舞う。
 その大騒ぎの中、冬月はゲンドウに歩み寄った。
「…終わったな」
 肩を叩く冬月に、ゲンドウは頷いた。
「はい。これで…ようやく肩の荷が降りた気分です。それもみんな…あの子達のおかげです」
 今や市民たちまで加わった熱狂の渦の主役となっている4人を見つめ、ゲンドウは涙を拭おうとサングラスを外した。
「…!六分儀、お前、眼が…!」
「え?」
 サングラスを外したゲンドウの顔に驚いた冬月が唸った。それを聞いたゲンドウは、飛行場の護岸から身を乗り出して湖面を見つめた。
「右目が…元に戻っている?」
 そこに映し出された彼の顔には、もうあの赤い球体は存在せず、普通の人間と同じ目があった。
「そうか…<アダム>…お前の贖罪の誓いも果たされたのだな」
 ゲンドウが呟いた時、天から舞い落ちてきた物が湖面に波紋を立てた。
「ん?」
 冬月が空を見上げる。空を覆う雲から、小さな白い欠片がいくつも降り注いでくる。それは、やがて無数とも言える数となって後から後から舞い落ちてきた。人々は、しばし動きを止めてその光景に見入った。
「雪だ…」
 誰かが呟くように言うと、それをきっかけに、「雪だ」と言う声が波紋のように広がっていった。
「これが…雪?」
 掌に舞い落ちたその白い欠片を見つめ、レイは言った。日本が常夏の世界となってから産まれた彼女は、雪と言うものの存在は知っていても、実物を見た事はなかった。
「そうだよ、レイちゃん。これが雪さ」
 加持が目を細めて雪降る第三新東京市を見つめる。
「南極解放の副産物ね。レイの投げた<ロンギヌスの槍>、あれが地面に落ちたショックで、地軸の傾きが元に戻りつつあるのよ。セカンドインパクトの時よりもずっと緩やかに、だけどね」
 リツコがそう解説した。そう言いながらも、彼女の目も懐かしさに細められている。
「雪か…そう言えば、今日はクリスマス・イヴだわ。忙しさで忘れてたけど」
 ミサトが腕時計のカレンダー機能に目を落として言った。
「ははっ、16年ぶりのホワイト・クリスマスって訳ですか!これは縁起が良い!!」
 日向がおどけたように言うと、再び歓声が沸き起こった。冬のクリスマスを知らない子供たちは訳が分からずきょとんとしていたが。
「レイー!六分儀君、渚君!」
 その時、そう名前を呼びながら人ごみを割って現れた一団の姿に、レイの顔が歓びで輝いた。
「マナ!ヒカリ!ノゾミちゃん!それに鈴原君と相田君も!無事だったのね!!」
 レイは先頭の少女たちに抱き着いた。その勢いで4人輪になってくるくると回る。シェルターからの脱出に成功したクラスメイトたちだった。
「レイも無事だったのね!なんだかわかんないけど、世界を救ったんだって?凄い、凄いよ、レイ!それにみんなも!!」
 マナも、ヒカリも、ノゾミも、顔を涙でくしゃくしゃにして笑っている。その横では、シンジとカヲル、それにトウジとケンスケが無言で拳を突き合わせ、そしてにやっと笑うと、お互いの無事を喜び合うように笑いながら肩をどやしあった。
 アスカだけは一瞬取り残されたようになったが、それもマナに目を付けられるまでだった。
「ねぇ、レイ、あの娘は?」
 マナの質問に、レイが笑って答える。
「あ、この娘はアスカ。わたしたちと同じチルドレンで、カヲル君の妹よ」
「ええ〜っ!?渚の妹ぉ!?」
 レイの事情を端折りまくった紹介に声を上げかけたアスカだったが、大声で驚くケンスケに気圧されてしまう。
「実はそうなんだ」
 カヲルが笑うと、トウジが言った。
「ほぉ、えらいべっぴんさんやないか…って痛ぇぇぇぇぇ!?」
 トウジの言葉が途中から悲鳴になったのは、ヒカリが彼のお尻を思い切りつねり上げたからだった。その光景に、周囲の人間が大爆笑の渦に包まれる。唖然としていたアスカも、思わず笑ってしまった。
「えっと、アスカさんだっけ?あたしは霧島マナ。よろしくねっ」
「え?えっと…アタシは惣流アスカよ。よろしくね、マナ」
 そこへ、すかさずマナが自己紹介しながらアスカの腕を引っ張り、歓喜の渦の中へ引きこんでいく。その後に続きながら、レイは、心からの歓びと幸せに包まれていった。
 四季を取り戻した箱根の山々に雪が降り注ぐ。その雪さえ覚ます事のできない熱気が渦巻く。
 人類の解放を祝う祭りは果てしもなく続き、歓喜の声はこだまして止まなかった。





2016年4月 冬月邸

 部屋の中に柔らかな電子音が鳴り響いた。机の上に置かれた目覚し時計がその音源だった。すると、ベッドの中からするすると腕が伸び、目覚ましのスイッチを叩く。沈黙が訪れると、腕は布団の中へ引きこまれ、安らかな寝息が聞こえ始めた。
 そのタイミングを見計らったように、部屋のドアが開いた。
「あらあら、やっぱりね。起きなさい、レイ」
 入ってきた人物は予想通りの光景に苦笑すると、布団の上からレイを揺すぶった。
「う〜ん…あと5分…」
 儚い抵抗を試みるレイ。しかし。
「だめよ、遅刻しちゃうでしょ」
 この言葉に、レイはがばっと身を起こした。
「うう…そうだった。おはよう、お母さん」
「おはよう、レイ」
 寝ぼけ眼の娘を見ながら、碇ユイはにっこりと笑った。
 あの激しい戦いの日々から3ヶ月が過ぎていた。<ゼーレ>崩壊後、エヴァのコアとなっていた母親たちに対するサルベージが実施され、ユイも約12年ぶりに外へ出る事になったのである。NERVから技術者としてスカウトを受けたが、今のところは専業主婦に徹していた。
「おはようございます、おじさま」
「うむ、おはよう、レイ」
 身支度を整えたレイがリビングまで来ると、既に冬月は朝食を食べ始めていた。
 冬月はもうNERVの司令ではない。彼が司令職の退任を表明した時、国連事務総長や、日本の新政権における大臣の椅子まで様々な引き合いが来た。今も、<ゼーレ>との繋がりを追求された政治家や企業トップが辞任や逮捕に追い込まれる「<ゼーレ>スキャンダル」と呼ばれる疑獄事件が世間を賑わせており、冬月がその気になればそうした要職に就くのは簡単だった。
 しかし、彼はその全てを固辞した。今の冬月はポストセカンドインパクト時代における人材の育成を目指して学校の設立に奔走している。要するに、教育者としての本来の姿に戻るつもりなのだった。
「それじゃ、行ってきます!」
 急いで朝食を摂り、あたふたと出ていくレイを見送った後、冬月はユイに言った。
「今日は文部省との折衝で遅くなると思う。夕食はいらんよ」
「はい、先生」
 ユイは頷いた。彼女はレイともども冬月邸に同居する事になり、先日まで加持が住んでいた部屋に移り住んだ。加持がリツコとの新生活を始めるために家を出たので、入れ替わりになったのだ。妻を持たず、子供もいない冬月にとっては娘ができたようなもので、大いに歓迎している。
 朝食後、冬月はまだ時間が有るので、久々にNERVに顔を出してみようかと思った。


NERV本部 オペレーションルーム

 発令所と言われていた場所へふらりと現れた冬月の顔を見て、青葉が慌てて敬礼した。
「おはようございます、司令!」
「司令はよしてくれ。私はもうNERVは辞めているし、だいたい今のNERVに司令職はないだろう」
 冬月が苦笑すると、青葉は「そうでした」と頭を掻いて席に戻った。彼は現在のNERVではコンピュータ部門を総括する情報産業部の部長になっている。本部攻防戦中にプロポーズしたMAGI管理室長の伊吹マヤとは順調に交際中で、2ヶ月後に結婚を控えていた。前途は洋々と言えるだろう。
 そのNERVは<ゼーレ>崩壊後、軍事部門を解体し、国連からも離れた民間の総合研究・開発企業となっていた。世界各地から優秀な人材が集まり、活発な研究開発が行われている。冬月の構想する新しい学校も、新生NERVの付属教育機関として出発する予定だ。
「あら、おはようございます、冬月先生」
 そう挨拶してきたのは、MAGIステージから上がってきたリツコだった。一月前に加持と結婚し、第三新東京市郊外の新居に移っている。現在はNERVの研究開発部門の総責任者を副総裁と兼任する身分だ。
「おはよう、リツコ君。加持君は元気かね」
「えぇ、おかげさまで」
 リツコは微笑んだ。加持は<ゼーレ>との癒着を問われて辞任した前任者に代わって新たに国連事務総長となったアラン・フォクスル元<ゼーレ>米代表の元で、国連安全保障問題担当高等弁務官に就任し、那須の国連本部に勤めている。新婚生活早々多忙なためにすれ違いの毎日だが、二人は全く気にしていないようだった。心がしっかり繋がっていれば心配ないと言う事か。
「六分儀は?」
「父さ…総裁なら自室だと思いますよ」
「うむ」
 冬月は頷くと総裁室…かつての司令公室に向かった。
「六分儀、邪魔するぞ」
 冬月が総裁室に入ると、先客がいた。
「おや、時田君…いや、今は時田社長だったかな」
「ははは、よして下さいよ。私もまだその肩書きに慣れてませんからね」
 日本重化学工業共同体社長、時田シロウは笑って手を振った。日重共も<ゼーレ>スキャンダルと無縁ではなく、旧経営陣はことごとく追放された。その後に迎えられたのが時田だったのである。
「久しぶりです、先生。今日はなんの御用です?」
 ゲンドウが笑いながら自ら椅子を引いた。
「いや、ちょっと様子を見たくなってね…良いのか?商談中じゃないのか?」
 冬月が聞くと、ゲンドウは「先生は別ですよ」と答えた。言葉に甘え、冬月は椅子に腰掛ける。
 久々に見るゲンドウは余り変わっていなかった。ハイテク・バイオ産業の中心地となったNERV総裁として、重厚長大産業を率いる時田と二人三脚で南半球復興事業のために超多忙な生活を送っているはずだが、やはり忙しさをエネルギーに変えるタイプなのだろうなと冬月は思った。
「最近はどうだ?」
 冬月が尋ねると、ゲンドウと時田は彼らが先頭に立つオーストラリア南部復興について話し始めた。自然と人間が戻ってきたとは言え、15年の間に劣化した都市施設の再開発などは欠かせない。セカンドインパクトの負の遺産を清算する仕事は、彼らにとってもやりがいのあるものだった。
「あと10年もすれば、南半球の再開発は終わるでしょうね」
 時田が言うと、冬月も頷いた。
「その頃には、レイたちも社会の第一線に出ているな。ワシら旧世代の役割はそこまでだよ」
「ようやく…あの子達が羽ばたくに相応しい世界を託せますね」
 ゲンドウが言う。3人の男たちは、今こそ失われていた「未来」を取り戻せた事を実感し、万感の想いがこみ上げてくるのを感じていた。


第三新東京市 路上

 少し時は溯る。
 学校への道をシンジは走っていた。ゲンドウが徹夜仕事で帰ってこないのを良い事に夜更かしをしていて、寝坊したのだ。
 よって、必死に走る彼は、差し掛かろうとしている角の向こうから聞こえてくる声に気づく事ができなかった。
「あ〜〜〜ん、遅刻、遅刻しちゃうわ。転校&新学期早々そんな事になったら洒落にならないよ〜〜!」
 こちらも、気が急いていて角の向こうの気配には気づいていなかった。従って…
「うわっ!?」
「きゃあっ!!」
 二人が激突するのは必然であった。
「あいててて…ん?…!!」
 転んだ拍子に打った後頭部を抑えて起き上がろうとしたシンジは、視界に見慣れない白いものを認めて首を傾げ、そしてその正体を知って赤面した。彼が激突した相手と思しき少女、その彼女のスカートがまくれあがり、下着が見えていたのである。
「あ…」
 硬直したシンジの前で、少女が起き上がった。
「うう〜ん…」
 頭を2、3回振って意識をはっきりさせる少女。その目が開き、異変に気が付いて慌てたように言った。
「あ、あれ!?め、眼鏡が…」
 どうやら彼女はかなりの近眼であるらしかった。彼女の声に我に返ったシンジは、足元に転がっていた眼鏡を見つけ、少女に声をかけた。
「あ、あの…君、これ…」
「え?あ、ありがとう!!」
 少女はシンジの手から眼鏡を受け取ってかけると、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい、すごく急いでいたものですから」
「い、いや…僕の方こそ」
 つられて頭を下げるシンジ。少女は立ち上がって服の埃を払う。学校の制服らしいが、この辺の学校のものではないようだった。
「それじゃあ、わたし急いでるので失礼しますね。本当にごめんなさい!」
 そう言うと、少女は再び走り去っていった。シンジは少女の後ろ姿を見送りながら、ふとある事に気が付いた。
「はて、あの制服何処かで見たような…?」
 しばらく考え込み、その記憶がよみがえる。
「そうだ!レイ姉さんが始めてここへ来た時に来ていた服だ!」
 しかし、その時になって始業10分前の予鈴が聞こえてきた。シンジは慌てて走り出した。


私立第壱中学校 3−A

「…とまぁ、そう言う事があったんだ」
 今朝は珍しく遅い時間に来たシンジの回想を聞き、トウジが大声を上げた。
「ほ、ほんならシンジっ!お前、その女のパンツ見たんか!?」
「…いや、その…ほんのちょこっとだけ」
 思い出したのか、赤くなって答えるシンジにケンスケが大袈裟にのけぞりながら言う。
「あ〜あ、羨ましいやつだなぁ…っ!?」
 ケンスケの語尾がおかしくなったのは、マナが視界に入ったからだ。彼女はにっこり笑っていたが、目だけが笑っていなかった。
「何が羨ましいのかな?相田君?」
 その表情に気圧されたケンスケが、焦ってとんでもない事を口走る。
「い、いや!何も羨ましくなんかないぞ!俺はパンツを見るなら霧島さん一筋で…」
 今度はマナが真っ赤になる番だった。
「な、何言ってるのよ相田君!!」
 そこへ、トウジが爆弾を投げつける。
「何い!?ケンスケはもう霧島にパンツを見せてもらえるような関係なんかっ!?」
 そして、誘爆の火の手はヒカリへと飛び火する。真っ赤な顔をして立ち上がり、決め台詞を絶叫するヒカリ。
「何ですって!?不潔、不潔、不潔よぉ〜〜〜〜〜っっ!!」
「ちがうんだぁ〜〜〜〜っ!!」

「あはは…みんな相変わらずだね、カヲル君」
 その光景を苦笑しながら見守るレイ。話を振られたカヲルが頷く。
「まぁね。良い事じゃないか」
「…バカみたい」
 そして、その横でアスカが呟く。弐号機からサルベージされた母、キョウコとカヲルの3人で暮らす事になった彼女だが、ダブリス時代の反動からか完全なマザコン+ブラコンで、いつもカヲルにくっついているのだった。
 ちなみに、参号機のヒカリの母親もサルベージされたのだが、零号機のシンイチ…リツコとシンジの兄のサルベージは成功しなかった。「兄さんはもう満足して行ったのね」とはリツコの弁である。
 そんな風に騒いでいると、教室の前の扉が開いた。その瞬間、騒いでいた生徒たちが一斉に自分の席へ戻る。担任が来たのだ。ヒカリが号令をかけた。
「起立!礼!」
「おはよう、みんな」
「おはようございます、葛城先生!」
 担任の挨拶に、生徒たちが一斉に声を合わせて挨拶した。そう、3年生になったレイたちの担任はミサトだった。
 元のNERV幹部の中で、一番生き方を変えたのが彼女かもしれない。<ゼーレ>スキャンダルで幹部級を大量に免職にした戦略自衛隊と国連軍からスカウトがあったのだが、どれも断って教師になった。教員免許は大学の時に取ってあったらしい。
「さーて、喜べ諸君。特に男子!今日は可愛い女の子の転入生が来たわよ」
 ミサトのくだけた言い方に、教室が湧いた。それを鎮めるために、教卓を出席簿でがんがん叩くミサト。その指に光っているのは、先日めでたく婚約者となった日向マコトから贈られた指輪だった。彼はスカウトを断ったミサトの推挙で戦略自衛隊に転属し、現在は作戦課の三佐として忙しい日々を送っている。
「それじゃ、入りなさい」
「はい」
 教室が静まったところでミサトが転校生を呼んだ。ミサトがわざわざ「可愛い女の子」と呼んだだけあって、転入生は確かに美少女だった。長いストレートの黒髪をかすかになびかせ、眼鏡をかけたその少女の美貌に男子がざわめくよりも早く、とてつもなく大きな声が教室に響き渡った。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!?」
 絶叫したのはレイだった。教室中が「何事だ!?」とレイを見たが、少女は動じる事なく挨拶をした。
「この度、第二新東京から引っ越してまいりました、山岸マユミです。よろしくお願いします」
 ぺこり、と一礼し、そして顔を上げると、彼女を見つめたまま硬直しているレイの前に歩み寄った。
「えへへ…来ちゃいました。よろしくね、レイさん」
 マユミが言うと、呪縛が解けたようにレイがマユミを抱きしめた。美少女同士の抱擁と言う光景に、さっきはレイに出鼻をくじかれた形のほかの生徒たちが一斉に歓声を上げ、口笛を吹き鳴らす。
「本当に…本当にマユミさんだ…帰って来れたんだね」
 泣き笑いの表情で言うレイに、マユミが優しく微笑む。
「ええ…これもレイさんのおかげよ」
 そこへ、シンジが声をかける。
「レイ姉さん…その人、知り合いなの?」
 その声に、レイより早くマユミが反応した。
「あ、今朝眼鏡を拾ってくれた人ですね。レイさんの弟さんとは思わなかったけど、言われてみるとちょっと似てるかな?」
 そう言って微笑むと、マユミは続けて言葉を発した。
「わたしは…レイさんの友達よ。ずっと昔からのね」
「そう、生まれる前に知り合ったくらいに」
 レイがその後を引き取って答える。すると、お祭り騒ぎの中、レイとマユミの関係を知るミサトが、再び出席簿で教卓を連打してそれを沈静化させた。
「はいはい、騒ぎはそこまでっ!!出席を採るわよ。まずは…相田ケンスケ君!」
「はいっ!!」
 雲一つない春の青空の中に、ミサトの点呼を取る声とそれに応える生徒たちの声が吸い込まれていった。







こうして、苦難と危機の日々は終わりを告げた。


いつしか、人々の営みと時の流れは、その傷を癒していくことだろう。


しかし、忘れてはならない。


世界を覆う闇に立ち向かった人々がいた事を。


生命を賭して、その使命のために戦った子供たちの物語を。


しかし、今はただ一つの言葉を彼らに贈りたい。


使命を果たした人々に。


未来に生きる全ての子供たちに。


まごころからの…











"おめでとう"










新世紀エヴァンゲリオンREPLACE


終劇



最終後書き

 新世紀エヴァンゲリオンREPLACE、これで全話の終わりです。
 思えば2000年の3月、インターネットを始めて出会った多くの素晴らしいSSたち、それに触発され
「いっちょ自分でも書いてみようじゃないか」
 と思い立ったが吉日、勢いだけで書き始めてまさか3年。世紀をまたいで書き続ける事になろうとは思いも寄りませんでした(笑)。
 その間には数度に渡るパソコンの故障や原稿消失、仕事が忙しくなったなど、様々なトラブルも有り、何ヶ月も続きが書けないと言うような事もありましたが、なんとか完結させる事ができたのは、それでも見捨てる事なく読み続けて下さった多くの方々の励ましのおかげです。この場をお借りして、3年間に届いた延べ506通の感想メールを送って下さった皆さんに心からの感謝を述べたいと思います。まことに、ありがとうございました。
 そして、発表の場を快く提供して下さったAnneさんにはいくら感謝してもしきれるものではありません。本当にありがとうございました。
 REPLACEはこれで終わりですが、作品を書く事自体はこれからも続けると思います。それがエヴァに関するかどうかは分かりませんが、また別の作品でお会いできたら幸いです。
 それでは…最後にもう一度。

 
皆さん、本当にありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。


2002年4月 初夏のような春の日に さたびー拝


さたびーさんへの感想はこちら


Anneのコメント。

今回のコメントは趣向を変えてと思ったのですが、どうしてもツッコみたい箇所が2点あったので(笑)

>『私ははったりは言わんよ、キール議長。いや、サルヴァドル・ラングレー君。世界を裏切った男よ』
>「あ、あれ!?め、眼鏡が…」

わおっ!?この最後の局面で強烈な隠し球をっ!!?
いやいや、さたぴーさんには最後まで唸らされました。

さて・・・。さたぴーさん、新世紀エヴァンゲリオンREPLACEの完結、おめでとうございます♪
そうですか、もう3年になりますか・・・。お互い、随分と時が経ってしまった様ですね。
ともあれ、これほど本格的で長く密度のある連載の完結、これは凄い事だと思います。
既にエヴァの放送も終わり、ブームも過ぎ去り、ネットでもエヴァ系の閉鎖が目立ち始めと・・・。
必然的に幾多の連載が途中で途絶えて消えてしまう中での連載完結、これは最早偉業と言っても良いでしょう。
私は『新世紀エヴァンゲリオンREPLACE』の掲載をお手伝いする事ができ、この偉業に関わった1人として誇らしく思います。
今一度、さたぴーさん、新世紀エヴァンゲリオンREPLACEの完結、おめでとうございます。
そして、さたぴーさん、新世紀エヴァンゲリオンREPLACEの完結、本当にお疲れさまでした。




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