「それ」を最初に目撃したのは、数日前にアメリカ・フロリダ州のケープ・カナヴェラル宇宙基地から打ち上げられ、南極上空に達した1機の人工衛星だった。オゾン・ホールの観測と温暖化による南極氷床の変動を観測する目的をもったその衛星――「サウス・ポーラー1」はその日初めてとなる観測を行おうとしていた。
その搭載するセンサーに異常が捉えられたのは観測をはじめてすぐの事だった。まず最初に重力、地磁気センサーに猛烈な異常が生じ、続けて温度センサーが気温の異常な変化を感知した。それまで−60度前後の低温だった南極の気温が上昇しはじめ、それは変化が始まってから僅か数秒で数百度に達した。設計段階では全く想定されていなかったその急激な変化に耐えられず、センサー管理システムがハングアップを起こす。だが、「サウス・ポーラー1」の全管理システムは焦ることなく観測を光学系に切りかえると、搭載カメラを南極大陸へ向けた。
南極は赤く輝いていた。白い筈の、永久氷に閉ざされたそこが、まるで血の様に。光は徐々に強さを増し、赤からオレンジへ、オレンジから黄色へと移り変わって行く。
その輝きが白に変わった次の瞬間、カメラの視界の全てが白1色に覆い尽くされ、カメラはその膨大な光量を受け止めきれず、瞬時に焼きつき、永遠に機能を停止した。一億ドルを越える巨費を投じて宇宙へと送り出された「サウス・ポーラー1」は全てのセンサーを破壊され、打ち上げから1週間も経たずにその存在意義を失ったのだった。
だが、ちっぽけな衛星の運命など、今まさに地上にいた全ての人間にとってどうでも良い事であった。その最後の遺品とも言うべき、閃光に照らされた南極の写真――世に言う「セカンドインパクト」発生の決定的瞬間を捕らえた写真が人々の目に触れるのは、それから数年後の事になる。その間、地獄と化した世界の上を、「サウス・ポーラー1」は何も知らぬげに周りつづけたのだった。
その手紙がきたのは、突然の事だった。差出人は冬月コウゾウ。なんでも死んだ母さんの親戚に当たる人だと言う事で、わたしは「冬月のおじ様」と呼んでいる。わたしが小さい頃には、よくお正月に家に遊びに来て、お義父さんやお義母さんよりたくさんのお年玉をくれたりした。
死んだ母さん…お義父さん、お義母さん…そう、わたしはこの家の本当の子供じゃない。詳しい事情は誰も教えてくれなかったけど、私が育ってきたこの時代の事を考えればだいたいの事情は察しが付く。15年前のセカンドインパクトから12年前の一週間戦争に至る混乱期に肉親を亡くした人はたくさんいる。わたしの本当の母さんや行方不明の、多分死んだ父さんはそう言った時期に死んだんだろうと思う。唯一知っている肉親は、冬月のおじ様一人だけ。そのおじ様は、ここ何年かは仕事が忙しいとかで来てくれなかったので、急に来たその手紙の事が余計に唐突に感じたのだけど、手紙の中身はもっとわけがわからないものだった。
「拝啓」から始まる、おじ様らしい几帳面な字体の手紙は、わたしに第三新東京市まで来て、おじ様の仕事に力を貸して欲しい、と言うような内容がつづられていた。そして、第三新東京市行きの列車のチケットと、今おじ様が責任者をしているらしい組織の「ようこそNERV江」というパンフレットが一冊。
パンフレットの中身は…正直言って良くわからなかった。セカンドインパクト後の世界を立て直す為の国連特務機関だと言うんだけど、そんな凄い仕事になんでわたしみたいな一中学生の力が必要なんだろう?
わたしが行くことを決意したのは、やっぱりわたしがここの家の人間じゃないからかもしれない。お義父さんもお義母さんもわたしのことを愛してくれたけど、「わたしはこの人たちの子供じゃない」という意識はどうしても拭えなかった。わたしの部屋、家具、服、そして、二人がわたしを呼ぶ名前さえも、みんな、死んだときに今のわたしと同じ年齢だったお義父さんたちの本当の子供の持ち物。
ううん。そのことでお義父さん夫婦の事をどうこう言うつもりじゃない。この混乱の十数年間、血の繋がりのないわたしを育ててくれた事を、心から感謝してる。でも、わたしのことをわたしと言う個人として見て欲しかった。自分が誰かの代わりだということが辛かった。わかってる。そんなのは贅沢な悩みだって。あのセカンドインパクト以来、愛する人を失い、それを埋め合わせる事のできない人はたくさんいたのだから。
でも、わたしは第三新東京市へ行こうと思った。わたしをわたしとして見てくれる人を求めて。そして、何よりも自分が本当の自分になるために。
こうして、わたしは第三新東京行きの列車に乗った。そこに、何が待ちうけているかも知らずに…
関東湾岸にそって走る新厚木・小田原高速道路は現在の日本では最も交通量の多い自動車専用道路の1つだ。セカンドインパクトで壊滅、あるいは消滅してしまった成田・羽田両空港に変わって日本の空の玄関口になった厚木国際空港と、やはり新たな日本の海の玄関口になった小田原、そして急ピッチで建設が進む箱根新首都――第三新東京市を結ぶ幹線道路だからである。
しかし、この日道路上には一台の車も見当たらなかった。いや、正確には民間車輛が、と言うべきか。上下線ともがら空きの六車線道路の上を、無数の軍用車輛が進撃してきたからだ。
戦車、装甲車、自走砲…それらの車輛には全て白いペンキで「UNJDF」のマークがステンシルされ、これらが国連日本駐留軍(United Nation Japan Dispatch Force)の指揮下にあることを示していた。
鋭い金属音にも似たエンジン音を響かせ、上空をフライパスして行く無数の攻撃機。その翼にはやはり「UNJDF」マークが記されている。それを合図にしたかのように、数キロに渡って続く車列は停止し、一斉に砲塔を海へ向けて旋回させた。その砲身が指す沖合では、既に先ほど飛び去った航空部隊が戦闘を開始したらしく、無数の水柱がそそり立っている。そして、響いてくる爆音。
航空隊が攻撃しているのは水中を進む巨大な影だった。影に向かって無数の爆雷や魚雷が投下され、海を煮えたぎらせんばかりに続けざまに爆発し、水柱を吹き上げるが、影は全く気にした様子もなく、戦場はやがて海岸へと近づいてきた。そして、ひときわ巨大な水柱が上がったかと思うと、それが崩れてくる中から出現する影の正体。
「オープン・ファイア!」
その瞬間、指揮官の命令と共に道路上に展開した車輛群は一斉に砲撃を開始した。海上に殷々とこだまする砲声。着弾、そして爆発音。
それが人類の存亡をかけた戦いの号砲となった。
防災スピーカーから流れるアナウンスは幾重にもこだまし、その内容はだいぶ聞き取りづらくなっていたが、何を言っているかわからないほどではなかった。
「本日12時30分、相模特別州を中心とした関東・東海地方全域に対し、特別非常事態宣言が発令されました。住民の皆さんは、当局の指示に従い、落ちついて最寄りのシェルターへ避難して下さい。これは訓練ではありません。繰り返します。本日……」
そのアナウンスにしたがって住民は全て避難してしまい、普段は喧騒に包まれている小田原の街は静まり返っていた。その静寂を引き裂くように、一台の車が猛スピードで走りぬける。赤いフィアット・500(チンクエチェント)。電気自動車が主流のこの時代、こうした内燃エンジン車…それもアンティークな旧車に乗っているのは、よほどの金持ちか、それとも趣味人だ。
「やれやれ…大事なゲストと招かれざる客が同じ日に来るとはね…これもシナリオの内ですか?冬月司令…」
ドライバーはそんな独り言を言いながらも、切れのあるハンドル捌きで道路上の障害物――避難したドライバーが放棄して行った車――を避けて行く。
「さてさて…きっと困っているだろうな…早く行ってやらないと」
そう言って、ドライバーは助手席の上に置かれたクリップボードに目をやった。そこには、何枚かの書類と共に、黒い髪と瞳を持った、中学生くらいのかなりの美少女の写真が留めてあった。
新厚木・小田原道路が道路の大動脈なら、それとほぼ平行して走る湾岸高速リニアは列車の大動脈と言える。しかし、非常事態宣言の発令と共に全ての列車は運行を停止していた。
やはり避難を勧告するアナウンスが響き渡るなか、人っ子一人いない駅のエントランスで、先ほどの写真の少女が公衆電話の受話器を握っていた。
「現在、特別非常事態宣言の発令に伴い、全ての通常回線は閉鎖されています…」
それを聞くと、少女はガチャリと受話器をフックに戻し、テレホンカードを回収して溜息をついた。
「やっぱりダメか…どうしよう」
そう言うと、彼女は駅の外へ出た。辺りには誰もいない。
「一体何が起こったんだろ…ひょっとして、まさか、戦争?」
何気ない連想だったが、少女は自分の言った事の恐ろしさに気がついて身を震わせた。13年前の、いわゆるセカンドインパクト時代の末期に起こった日本本土上陸戦、通称「一週間戦争」の悲劇は学校とそれを体験した年長者に繰り返し教えられている。幸いにも彼女自身はまだ1歳だったのでそれを覚えてはいない。
もっとも、覚えていないがために、非常時にどうしたら良いのかわからずシェルターに逃げ遅れたというのも事実なのだが。
少女は心細げな表情でスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出した。それは一枚の写真だった。「オレが迎えに行きます」というマジックの書きこみがされていて、不精ひげを生やした、少し野生的な印象の長身の男性が写っている。ウィンクと前に突き出して親指を立てた握りこぶしがちょっと軽そうな印象を与えるが、この状況下では頼り甲斐がありそうに思えてくる。
「早く迎えに来てくれないかな…この状況じゃ無理かな」
少女がそう一人ごちた時、遠雷のような音が響いてきた。ふと空を見上げるが、常夏の空は青く澄み切っている。不思議に思って少女が視線を地面近くへ戻した時、山陰から数機のVTOL攻撃機が姿を現した。後退しながらひっきりなしに機関砲を放っている。
「ま、まさか…本当に戦争!?」
そう言った少女の顔が、次の瞬間固まった。航空部隊を追うように、山陰から巨大な「何か」が出現したのだ。強いて例えるなら、黒い全身タイツを着た人間にプロテクターを着けたような感じ…とでも言うのだろうか。ただし頭部は肩にめり込んでいる。ユーモラスな姿…と言えなくもない。
ただし、その身長が50メートルを越えているであろう事を無視できるなら。
「な…なに?あれ…」
余りに非現実的な光景を目の前に、少女が言えた言葉はそれが精一杯だった。
緊張を含んだ静寂の中、照明が落とされ、薄暗い司令本部の中で、一段高いところに置かれたコマンド・セクション。そこにいる多くの人間の視線が、正面にある3次元ホログラフィック・ディスプレイに集中していた。ディスプレイには周辺の地形図が映し出され、「HAKONE STATION」と表示されたポイントのすぐ近くまで進出した「謎の移動物体」と、それと交戦中の国連軍各部隊を表わすシンボルマークが表示されている。誰もが無言でディスプレイを見守る、その静寂を破ってオペレーターの声が響く。
『正体不明の移動物体は依然こちらへ向かって進行中』
『目標を映像で確認、主モニターに回します』
ディスプレイの一部にウィンドウが開き、そこに映し出される謎の移動物体。その余りにも異様な姿に、司令本部を静かなどよめきが満たした。
それを見て、コマンド・セクションの中央部に置かれた司令席に腰掛け、腕組みをした初老の男が、横に忠実な執事のように控えるサングラスをかけた男に向かって言った。
「15年ぶりだな、六分儀君」
六分儀と呼ばれたサングラスの男はそれに頷き、答えた。
「ええ、間違いありません。使徒です」
呆然と見守る少女の前で、「使徒」と呼ばれた物体と航空隊の戦闘は続いていた。重厚なシルエットを持つ攻撃機の両脇に吊るされたポッドから無数のミサイルが放たれ、そのほとんどが使徒を直撃する。爆炎に包み込まれる使徒。続いて、それを煙幕に使うかのように、山間を縫って巡航ミサイルが飛来した。
しかし、爆煙の中から使徒の腕が現れ、巡航ミサイルを受けとめる。その指はまるで鋭い刃物の様にミサイルを切り裂き、握りつぶした。煙の中から悠然と現れるその巨体には、毛の先ほどの傷もついていない様に見える。
常識を超えた相手に、体制を立て直そうとしたのか一時距離を取った航空隊に対し、使徒は左手のひらを向けると、そこから光線を放った。攻撃機の一機がそれに貫かれる。
「え?ええっ!?」
光線に貫かれた攻撃機は小さな爆発を起こし、黒煙を引いて墜落してきた。
少女のいる、駅前ロータリーに向かって。
「きゃああああっ!?」
少女は悲鳴を上げた。体がすくんでいるのか、動く事が出来ない。その時、彼女の背後から声がした。
「こっちだっ!」
「きゃっ!?」
声の主は少女の腕を引っ張ると、植え込みの影に彼女を引き摺りこみ、上から覆い被さった。次の瞬間激しい爆発音が轟き、爆風と共に無数の破片が押し寄せてきた。しかし、植え込みの影のおかげで致命的なダメージを受けるほどの影響が二人に及ぶ事はなかった。
「ふう…危機一髪だったな」
その声に、固く目を閉じていた少女がふっと目を開けると、彼女の持っていた写真の男性が燃え盛る攻撃機の残骸に鋭い視線を向けているのが見えた。
「あ、あれっ!?」
その瞬間、少女は自分がその男性に抱きしめられている事に気がつき、顔を真っ赤にしてうろたえる。
「おっと、こりゃ失礼」
男性は少女を抱いていた腕を広げると、一歩後ろに下がった。
「綾波レイちゃんだね?」
男性は髪をかきあげて乱れを直すと言った。
「えっ!?あ、は、はいっ!えっと…」
綾波レイと呼ばれた少女が男性に答えると、男性は男っぽい笑みを浮かべて言った。
「加持。加持リョウジだ。君がこれから行く事になる国連特務機間NERVで保安部長をしている。よろしく、レイちゃん」
それと同時に加持と名乗った男性は右手を差し出し、レイは一瞬なんだかわからなかったが、握手を求めているのだと気づき慌てて自分も手を差し出す。
「迎えが遅れて済まなかった。ま、こういう事情なんでね…」
そう言う加持の背後で、またしても1機の攻撃機が使徒の攻撃をくらい、爆発、四散していた。
「って、こりゃのんびりと話している場合じゃないな。レイちゃん、こっちに車を止めてある。急ぐよ」
「あっ…はいっ!」
加持はレイの荷物も持つと、10メートルほど先に止めてあったフィアットの後部座席に放りこみ、続いてレイを助手席に乗せる。
「ちょっと飛ばすぜ。しっかり掴まってなよ!」
レイがシートベルトをした事を確認すると、加持はフィアットを急発進させた。思わず舌を噛みそうになったレイは、ここへきたことをちょっとだけ後悔した。
依然として国連軍と使徒の戦闘は続いていた。作戦本部でその様子をモニタリングする三人のオペレーターから報告が届く。
『目標は依然健在。第三新東京市に向かい進行中』
『航空隊の戦力では、足止めできません』
オペレーターの態度とは正反対の、冷静さを失った国連空軍参謀の声が響き渡る。
「総力戦だ。厚木と入間も全部あげろ」
「出し惜しみは無しだ!!なんとしてでも目標を潰せ!!!」
同調するように陸軍参謀が吼えるように叫び、興奮のあまり手にしていた鉛筆をへし折った。その声に叱咤されたのか、国連軍は猛攻を加えた。
だがどんな攻撃も使徒には何の効果もなく、普通の軍隊ならば一個軍団が消滅してしまうであろう程の火力を受けながら平然としている。逆に国連軍前線部隊からは被害が続出する悲痛な報告が続いた。
「なぜだ!?直撃のはずだっ!!!」
「戦車大隊は壊滅・・・誘導兵器も砲爆撃もまるで効果無しか・・・。」
「駄目だ!!この程度の火力では埒があかん!!!」
その背後で司令席の初老の男が落ち着いた様に言う。
「やはり、ATフィールドか?」
「ええ、使徒に対し、通常の兵器ではまったく役に立ちませんよ」
やはり落ち着いて再び六分儀が答える。彼の国連軍の幕僚たちを見る眼は、無駄な事をする…とでも言いたげな侮蔑に満ちたものだった。
その軍人たちにどこからともなく電話がかかった。陸軍参謀が受話器を取り上げ、二言三言話して頷く。
「・・・わかりました。予定通り発動いたします」
上下六車線に拡張された高速道路とは言っても、かつての登山道路の名残で勾配はきついわ、道は曲がりくねっているわで、まるでスピードなど出せない新首都高速小田原線だったが、加持の運転するフィアットは連続するカーブや勾配などまるで気にした風もなく、80キロを越す速度で登りつづけていた。
「…第七攻撃飛行隊、残存二機…特科第五大隊、残弾なし。両部隊には撤退を勧告せよ…」
「…機甲第三大隊、被害甚大。後退許可を要請する…」
カーステレオからは、ひっきりなしに使徒と交戦中の国連軍部隊の交信が流れてくる。
「苦戦しているようだな…」
加持は呟きながら、フィアットに小型車とは思えない豪快なドリフトをさせてカーブをクリアして行く。しかしその運転は危なげなく、どちらかと言えば車に弱いレイも、顔こそ青くなっていたものの、吐き気がするというような所までは行っていなかった
「加持さん…」
「なんだい?レイちゃん」
レイの呼びかけに答え、横目でレイを見る加持。
「あの…駅前の怪獣みたいなものは一体何なんですか?」
「あれは…使徒だよ」
「使徒?」
耳慣れない言葉に、レイは目をぱちくりさせる。
「そう呼ばれている、人類の敵さ。詳しい正体は俺も知らない。ただ重要なのは、あいつが敵だと言う事だけで…」
そう言ったとき、鋭い警告音と共にカーステレオから流れた情報に、加持の顔が青ざめた。
「N2兵器警報。N2兵器警報。これより交戦中の敵性物体に対しN2弾頭兵器を使用する。交戦中の各部隊は5分以内に対象を中心とした半径5キロ以遠に退避。耐ショック、耐閃光防御姿勢をとれ。繰り返す…」
「N2兵器使用警報だと!?マジかよ…!」
そう言うと加持は辺りを見まわした。自分が求める条件にピッタリの斜面を見つけると、助手席のレイに呼びかける。
「ちょっと荒れるぞ。しっかり掴まっててくれ!」
え?今でもしっかり掴まっているのに?とレイが思うひまもなく、加持はハンドルの横にある赤いレバーを引いた。次の瞬間、後部ボンネットが開き、ターボ付きのエンジンがせり出してくる。それが今までとは比較にならない咆哮をあげるや否や、加持はフィアットを道路横のコンクリで固められた急斜面に乗り入れていた。その傾斜角、実に60度。
「……!!」
人間の感覚では垂直と変わらない急斜面を登っていく感覚に、レイが声にならない悲鳴を上げる。
(あと…2分!間に合え!)
加持はひたすらアクセルを踏みこみ、空しか見えないフロントグラスの向こうを睨み付けた。信じられない事に、この状態でもフィアットは加速し続けている。
(あと…30秒!)
その瞬間、フィアットは数キロの道のりをショートカットして箱根の外輪山を登りきっていた。勢いあまってジャンプし、なだらかな外輪山内壁に着地、バウンドする。そのまま斜面途中の巨岩の影にフィアットが停車したとき、外輪山の向こうが閃光に満たされた。それが消えたとき、そこには空に向かって立ち上る不気味なキノコ雲があり、数秒遅れて衝撃波が辺りの地面を走って行くのが見えた。
「ふう…またしても、危機一髪だったな。大丈夫かい、レイちゃ…ん?」
額に浮いた汗をぬぐって振り向いた加持が見たのは、完全に気絶してぐったりとしているレイの姿だった。
「やった!」
陸軍参謀が手を叩き、嬉々として立ちあがる。
「君たちの出番はなかったようだな」
空軍参謀も得意げな表情で言った。セカンドインパクト時代直後に開発され、幾多の紛争で実績を上げてきた超兵器――N2兵器。「Newgeneration Nuclear」、つまり新世代核兵器の頭文字を意味するとも言われるこの兵器は、特殊な反応物質を使う事で放射能を出さずに核爆発を起こすものだ。しかも、その破壊力は旧世代のものを上回る。これを受けて生き残れる存在などありはしない――陸空の参謀たちはそう信じているのだ。
それに対し、他の本部要員や海軍参謀は渋い顔をしていた。彼らは日本人であり、言うまでもなく、どんなものであれ核兵器が使用されて喜ぶ日本人はいない。
「衝撃波観測。センサー群シールドします」
皆の気持ちを代弁するかのように、オペレーターの一人が冷たい声で言い、「SHIELD NOW」の文字と共にキノコ雲を映し出したモニターがブラックアウトした。
「大丈夫かい?」
加持は完全に車に酔ってしまったレイの背中をさすってやりながら聞いた。
「ま、まだ頭がくらくらします…」
真っ青な顔で、荒い息をつきながら言うレイ。
「…無理に喋らない方が良いぞ」
「い、いえ。もう大丈夫です…でも、今度はゆっくり行ってくださいね」
「ん?いや、もう心配ないよ。こっからは電車だからね」
「え?」
きょとんとするレイの目の前で、加持が衝撃波の楯にした巨岩の一部に触れると、その一部が開いてエレベーターの入り口が現われた。
「じゃ、行こうか」
何気なく言う加持に、レイは目を丸くしていた。
今だセンサーが回復せず、情報の入らない司令本部で、国連軍の参謀達がオペレーターたちに尋ねていた。
「その後の目標は?」
『電波障害のため、確認できません』
「そうか…だが、あの爆発だ。ケリはついている」
自信満々に言い放つ空軍参謀。
『センサー回復します』
『爆心地に、エネルギー反応!!』
「なんだと!?」
自信満々だった空軍参謀がその報告に愕然となり立ち上がって叫ぶ。
『映像回復します』
モニターには活動こそ停止しているものの、ほとんど攻撃前のまま残っている使徒が写っていた。立ち上がって驚愕する軍人たち。
「わ、我々の切り札が・・・。」
「なんてことだ・・・。」
「化け物め!!」
陸軍参謀が悔しげに机を叩く。その音を合図にしたかのように、軍人たちは力無くイスに座り込んだ。
「ええ…はい。彼女は無事に保護しました。現在地はA−21直通トンネルの3号ステーションです。至急カートレインを回してください。はい…よろしく」
地下の巨大なトンネルと、そこにある駅。加持はフィアットをそこへ直接乗り入れ、どこかへ電話をしていた。レイはというと、この常識はずれの地下鉄の存在にただただ目を丸くするばかりだった。
「もうすぐ向かえの列車が来る。ま、楽にしてなさい」
加持が言うと、レイは感に堪えないといった声で言った。
「凄いですね…これもおじさまの仕事なんですか?」
「おじさま?ああ、冬月司令の事か。なんかその言いかただと土建業者みたいだな・・・レイちゃん、冬月司令がどんな仕事をしているのか知っているのかい?」
加持が尋ねると、レイはかばんの中から冬月からの手紙に同封されていたパンフレットを取り出した。加持はそれに見覚えがあった。NERV職員に渡される職場案内用のパンフレットである。
「人類を守る、大事な仕事だ、とは聞いてるんですけど」
レイの答えに、思わず苦笑する加持。
(司令…もう少し詳しい案内を送るべきじゃないですか?)
ディスプレイには無人スカウトヘリが撮影した使徒の映像が転送されていた。さすがの使徒も地面をも融解させるN2兵器の破壊力にはダメージを受けたらしい。しかし、焼き払われた体表面が剥がれ落ちると、その下から新しい体が再生してきているのが見て取れた。
「予想通り自己再生中か」
冬月司令が言うと、ゲンドウが頷いた。
「そうでなければ、単独存在としてはやっていけませんよ」
使徒が動かないのをいいことに、更に接近するヘリの映像。画面に再生途中の使徒の顔がズームインされた瞬間、顔から放たれた閃光と共に映像は消え去り、サンドストームが取って代わった。
「偵察ヘリ、通信途絶。撃墜された模様です」
オペレーターの報告に、冬月司令が関心とも呆れともつかない口調で言った。
「さっきにはない攻撃パターンだな。機能増幅も出来るのか」
「やはり知能はあるようですね。まず偵察機を撃破しました」
ゲンドウも言った。感心はしているものの、予想の範囲内とでも言いたげな冷静な態度である。
「再度侵攻は時間の問題だな」
そう冬月が締めくくったとき、国連軍の参謀たちが二人に向き直っていた。
「たった今、第1新東京市の統合幕僚会議の決定が下された。これより、本作戦の全指揮権は君たちNERVに委譲される。…お手並みを見せてもらおうか」
空軍参謀が苦々しげな口調で言った。
「我々の兵器、戦術では目標に対し有効な手段がないことは認めよう。だが、君達で本当に勝てるのかね?」
陸軍参謀がそう皮肉っぽい口調で言う。だが、冬月もゲンドウもまったく動じない。
「ご心配なく。その為のNERVですからな」
冬月が「ご心配なく」のところに皮肉を込めて答えると、空軍参謀はふんと鼻を鳴らし、陸軍参謀は顔をそむけて発令所を後にした。残った海軍参謀だけは、二人に敬礼すると
「健闘をお祈りします」
と言い、静かにその場を去った。
「目標は今だ変化なし」
「現在、迎撃システム稼働率7.5%」
「防衛システムは未完成、国連軍も打つ手なし。さて、どうするかね?」
冬月がゲンドウに尋ねる。
「初号機を使用します」
ゲンドウはよどみなく答えた。
「初号機か。パイロットはまだ入院中だぞ?」
「問題ありません。先ほど、サードチルドレンの保護に成功しました。間もなく到着します」
ゲンドウの答えに、なぜか冬月は沈痛な表情になり、ゲンドウも無表情ながらわずかに天を仰ぐような姿勢になる。
「そうか…レイが来たか…」
「ええ…」
二人を乗せたフィアットはやがてやってきたカートレイン…車ごと乗れる台車に乗りこみ、高速で目的地へ向かっていた。
「ネルフ?」
「NERV」の読み方を教えてもらったレイがその不思議な響きに戸惑う。
「そう。国連直属の非公開組織、特務機関NERV。そして、ここが…」
加持が言ったとき、カートレインの軌道は空中に飛び出していた。
いや、空中というのは正確な言い方ではない。そこは地中の大空洞だった。高さ、直径ともキロメートル単位で測るべき広大な空間がそこには存在していた。
「うわあ…すごい…」
その不思議な景観に、レイが息を呑む。空洞の天井から逆さに建てられたビル群の間を抜けて走るカートレインのリニアレールは、やがて緩やかな角度で森と地底湖に囲まれたピラミッド状の建造物に向かって降って行った。
「ジオフロント。NERVの本部がある場所。世界再建の要であり、人類の砦となる場所だよ」
「ジオフロント…」
「それでは司令、私は初号機の発進準備がありますので」
ゲンドウはそう言うと冬月の傍らを離れ、発令所の後ろにあるリフトに乗りこんだ。
「うむ、レイによろしくな」
「は…」
ゲンドウは一礼し、「降」のボタンを押した。音もなくリフトが下がっていき、彼の姿はすぐに見えなくなった。
「司令、使徒のエネルギー反応が上昇。間もなく活動を再開するものと思われます」
発令所の中央に立っていた長い黒髪の女性が報告した。冬月は大スクリーンに向き直った。3Dパターンで描かれたクレーターの中心に、針のような鋭いパターンを見せる使徒の反応が映し出されている。
「うむ。葛城一尉、実戦の指揮は任せる。存分にやり給え」
冬月が言うと、葛城一尉と呼ばれた女性は冬月に一礼し、張りのある声できびきびと指示を下した。
「これより総員に告ぐ。第一級戦闘配備を発令。電力は強羅絶対防衛線のレーザー砲台群に優先。国連軍の安全圏内退避を確認と同時に攻撃を開始。目標、使徒」
「了解!」
彼女の命令一下、先ほどの国連軍指揮時とはうってかわって有機的な動きを見せるようになった発令所の様子を満足げに見つつ、冬月はゲンドウとレイの事を思った。
「十二年ぶりの再会か…」
NEON GENESIS EVANGELION
OTHERSIDE STORY “REPLACE”
EPISODE:01 Angel Advent
『セントラルドグマの閉鎖通路は…』
アナウンスが流れる中、メインシャフトを貫く長いエスカレーターを降りた加持とレイはその先のこれまた長い通路の中を進んでいた。
「まだですか?」
通路はベルトコンベア状になっていて歩く必要がないため、疲れることはないのだが、レイは変わり映えしない辺りの風景に厭きたのか、加持に尋ねる。
「もう少しだよ」
「さっきも聞きましたよ…その台詞」
ふくれるレイ。それはつまり、自分も何度も同じ質問をしているということなのだが、レイにその自覚はないらしい。思わず加持は苦笑する。
だが、レイの忍耐もようやく報われる時が来た。通路が広い所に出たのだ。
「うわあ…すごい」
レイはこの日何度目かの感嘆の声を漏らした。そこは高さ、奥行きとも百メートル単位の広大な空間だった。奥はプールのように水面が覗いている。
「…きゃっ!?」
水面に目をやったとき、レイは驚きとわずかな恐怖の叫びをもらした。水面から巨大な顔が浮かび上がっていたのだ。
「…ロボット?」
最初は驚いたレイだが、水面下にその物体の胴体らしき影が続いているのを見て、それが巨大な人型の物体であると悟る。彼女の語彙では、それは巨大ロボット以外の何者でもなかった。
「そう、これが人の創り出した究極の人型汎用決戦兵器、人造人間エヴァンゲリオン。その初号機だよ」
加持が呟くように言った。
「そして、我々人類の最後の切り札でもある」
どこからともなく、加持以外の低い男性の声がした。
「えっ!?」
レイが慌てて辺りを見まわすと、その声の主は天井からリフトに乗って降りてきた。
「六分儀副司令、サード・チルドレン、綾波レイ嬢をお連れしました」
加持が敬礼する。声の主――ゲンドウはそれに答礼し、ゆっくりとレイの前に歩み寄ってきた。
「綾波レイ君だね。私はこのNERVの副司令、六分儀ゲンドウだ。君も知っている冬月司令の下で働いている」
ゲンドウはそう言うと、レイに右手を差し出してきた。レイもその手を握り返し、握手をする。
(あれ…?)
レイはその感触にかすかな違和感を感じた。
(なんだろ…妙に…暖かくて…懐かしい?)
初対面の、どちらかといえば怜悧な表情のゲンドウにそんな気持ちを抱いた事に、レイは戸惑いを覚えた。
だがそれも一瞬の事で、ゲンドウは後ろに控えていた技術者達の方向を見ると、「出撃準備!」と号令をかけた。
「出撃?零号機は凍結中のはずですが。まさか、初号機を?」
加持が戸惑ったように言うと、ゲンドウは頷いた。
「パイロットはどうするんです。シンジ君はまだ…」
「今、来たではないか」
「本気ですか!?」
加持の反論を右手を上げて制し、ゲンドウはレイに向き直った。
「綾波君」
「え?は、はいっ!?」
事態についていけず戸惑っていたレイに対し、ゲンドウは有無を言わさぬ口調で言った。それは依頼の形はとっていたが、紛れもない命令だった。
「このエヴァンゲリオン初号機に乗り、使徒と戦ってもらいたい」
「ええっ!?」
レイが余りの事に固まり、加持が猛然と反論した。
「無茶です、副司令!彼女は今ここに来たばかりで、なにも知らないんですよ!?」
「説明はする」
ゲンドウはにべもない。だが、加持も引かない。
「シンジ君でさえ、十分な訓練期間を得ていながらシンクロに7ヶ月もかかっています。来たばかりのレイちゃ…綾波君には無理です」
ゲンドウはまったく動じなかった。
「極端な話、ただ座っているだけでも構わないのだ。それ以上は望まん」
「しかし…!!」
なおも加持が反論しようとしたとき、再び頭上から声がした。
「嫌でも乗ってもらうわ」
その声に、その場にいた人間全員が頭上を見た。リフトに乗って一人の人物が降りてくる。
(うわあ…綺麗な人…)
レイは思わず内心で呟いた。それは、発令所で葛城一尉と呼ばれていた女性だった。長い黒髪に、抜群のスタイルを持った女性だったが、その酷薄そうな雰囲気が彼女の魅力をやや損なっていた。
「ミサト…いや、葛城君。技術上の事で君には発言権はないはずだが」
ゲンドウが言うと、ミサトはそれをぴしゃりと撥ね付けた。
「今は使徒殲滅が最優先事項であり、我々作戦部の指示が技術部に優先します。その為には、わずかでも…たとえ0.000000001%でもエヴァとシンクロする可能性がある人間に乗ってもらわなくてはなりません。…貴方にも分かっているはずよ、加持一尉」
「む…」
加持はまだなにか言いたげだったが、それを口には出さなかった。
「シンクロって…」
レイが言うと、加持が答えた。
「こいつは…誰にでも乗れるシロモノじゃない。ある素質を持った人間にしか乗りこなせないんだ。その一人が、君だ…」
「わたしにしか動かせない…これが?」
レイは目の前の初号機とゲンドウ、そしてミサトの顔を交互に見つめる。
「わたしがこれに乗って戦うんですか?さっきの…あの使徒とか言う怪獣と?」
ゲンドウはなにも言わず、ミサトも無言で頷いた。
レイが何か言おうとしたとき、爆発音とともにかなりの振動が辺りを襲った。ゲンドウがモニターに地上の様子を転送させると、使徒が街の外れに達し、光線を放っているのが見えた。街のあちこちに突き立つ十字の火柱。
「くそ、意外に早いな」
ゲンドウが苦々しげな口調で呟いた。そのモニターが切り替わり、冬月が現われる。
「六分儀君、エヴァはまだ出せないのかね?」
その声に、レイがはっと反応した。
「冬月のおじさま!」
冬月も気がつき、カメラの前に走りこんでくるレイを見る。
「レイか…大きくなったな」
冬月は感慨深げに呟いた。レイは救いを求めるように冬月に訴えた。
「おじ様…冗談でしょう?無理です…わたしが…」
レイの絞り出すような声が辺りに流れた。
「こんなのに、乗れるわけがありません!見た事も聞いた事もないのに!!」
叫ぶレイ。それはそうだろう。未知の存在と、やはり未知の存在に乗って戦う。そんな事を簡単に引きうける人間は、自我がないか、それともよほどの愚か者か。そして、レイはそのどちらでもない。
(無理もない…せめて一週間、いや、3日でもあれば、レイに現状を理解してもらえるのだが…)
冬月はそう思ったが、それを口に出す事は彼の仕事上許される事ではなかった。冬月は苦渋に満ちた声で言った。
「六分儀君から説明を受けなさい。時間がないんだ」
信頼していた人のその言葉が信じられず、黙って首を振るレイに、ゲンドウがため息をつく。
「司令…医療スタッフへ連絡を。シンジを…起こしてください」
「…いいのかね?」
「死んでいるわけではありません」
「…わかった」
モニターが消えると、ゲンドウは技術スタッフに向けて叫んだ。
「初号機のシステムをシンジに書き換えろ!再起動急げ!」
「了解!現作業中止、再起動準備に入ります!」
やる事もなく黙って目の前の光景を見守っていたレイだったが、その少年の姿には思わず息を呑んだ。
医師と、二人の看護婦が押してきたストレッチャーに乗せられた彼は、頭部や右腕を包帯で覆われ、点滴すら受けていた。それほどの状態であるにもかかわらず、彼はゲンドウの前まで来ると、半身を起こした。
「シンジ、お前に頼むしかなくなった。やってくれるか?」
ゲンドウが言うと、シンジと呼ばれた少年は微笑んで答えた。
「もちろんだよ…」
その会話に、レイが驚いて叫ぶ。
「まさか…その子が乗るんですか!?」
「…ああ、そうだ」
「そんなに酷い怪我をしてるのに?」
「無茶は承知だ。だが…君が乗らない以上、我々にはこれしか方法がない」
ゲンドウの言葉には、決してレイを責めるような響きはなかったが、それが却ってレイの胸を詰まらせた。
その時、それまでで最大級の衝撃がケイジを揺るがした。それまでは散発的、かつ街のあちこちに散らばっていた使徒の攻撃が1箇所に連続して撃ちこまれたのだ。
「第7区の第一装甲板、貫通されましたっ!損傷は第三装甲板まで達しています!」
発令所では長髪の男性オペレーターが叫んでいた。
「第七区!?ケイジの真上だ。各部署に被害報告急がせろっ!」
指揮机に掴まって衝撃をやり過ごした冬月が指示を下す。
そのケイジでは、衝撃に耐えかねた大型ライトの幾つかが外れ、落下を始めていた。その真下には、レイとシンジ、そしてゲンドウがいた。
「いかんっ!」
咄嗟に、ゲンドウがレイとシンジを抱きかかえ、落ちてくるライトからかばおうとする。
「副司令!レイちゃん!シンジ君!」
加持が叫んで飛び出そうとした目の前で、信じがたい出来事が起こった。誰も乗っておらず、そしてその状態では決して動かないはずのエヴァが右手を上げ、レイ達3人の上にかざしたのだ。凄まじい大音響と共にライトが手に跳ね返され、誰もいない床に落下する。
「まさか…誰も乗っていないのに。エントリープラグだって挿入していないんだぞ…」
加持が呆然と呟く。しかし、ゲンドウとミサトの反応はそれとは違っていた。
「インターフェイス無しの反応…あり得るとは思っていたが…」
自分でも信じていなかった事実を付きつけられたかのように言うゲンドウ。
「守ったの?レイを…それとも司令?それはともかくとして…」
一人冷静さを保つミサトは言った。
「…いけるわ」
一方、エヴァに救われた形のレイ達だったが、ショックでシンジの傷がどこか開いたらしく、彼は苦痛に顔を歪め荒い息をついていた。
「シンジ…しっかりしろ!」
ゲンドウがシンジを抱きかかえ、意識を失わないように呼びかける。が、その腕の中でシンジは2、3度咳き込むと意識を失った。
一方、レイは呆然と自分の目の前で繰り広げられる光景を見ていた。彼女の着ているブラウスやスカートにも、かなりの量の血が飛び散っている。
(逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目、逃げちゃ駄目…)
その光景は、レイの心の中に変化を生み出していた。
(形はどうであれ、この人達はわたしを必要としてくれている…)
そう思ったとき、彼女はゲンドウの服の袖を握っていた。
「む…?」
ゲンドウが不審げな表情でレイの方に振り向くと、レイは青ざめながらも決意に満ちた表情で言った。
「――やります。わたしが、その子の代わりにこれに乗ります!」
そのレイの顔を見て、ゲンドウは一瞬、ホッとしたような、それでいて悲しむような表情になり、しかし直ぐにもとの冷静な顔に戻って言った。
「その決断に迷いはないか?考え直す気はないかね?」
「ありません」
レイがきっぱりと答えると、ゲンドウは頷き、叫んだ。
「エヴァ初号機、起動シークエンス中断!パーソナルコードをシンジからレイへ!」
「了解!」
技術班員は立て続けの変更命令に不満一つもらさず、きびきびとした動きで作業に取り掛かって行った。
使徒の攻撃による振動が続く中、エヴァンゲリオン初号機の発進準備が進められていく。
レイはエントリープラグと呼ばれる細長い筒状の操縦ブロックに乗り込んでいた。その中に設置された、未来映画に出てくる反重力バイクのような形の操縦席に座り、落ち着かない様子で操縦桿をいじっている。その時、急に体が沈みこむ感じがした。プラグがエヴァの、人間で言えば延髄に当たるエントリーコネクターに挿入されたのだ。そして、動力がプラグに伝えられモニターやディスプレイが次々に点灯した。正面のメインモニターに、若い女性と二人の男性が現われる。
「はじめまして、綾波レイさん。私は技術オペレーターの伊吹マヤといいます」
「あ、はじめまして」
ぺこりと頭を下げるレイ。
「これより、作戦行動中の技術面におけるアドバイスと指示は私が行います」
「あ、はいっ。よろしくお願いします」
レイが再び頭を下げると、マヤはにこりと笑って言った。
「こちらこそよろしくね、レイちゃん」
続いて、向かって右側の眼鏡をかけたさっぱりとした漢字の男性が言った。
「僕は作戦オペレーターの日向マコト。戦闘面における指示を担当します。よろしく」
続いて、左の長髪の男性。
「情報オペレーターの青葉シゲルだ。ま、そう固くならず、リラックスして行こう。よろしくな」
緊張をほぐす為、3人のオペレーターは親しげに、できるだけ明るい声でレイに話しかけた。レイは丁寧に一人一人に頭を下げる。ふと、その視界の端に加持が写った。彼は心配そうな顔をしていたが、レイが自分の方を見たことに気がつき、笑顔を見せて手を振る。それを見て、レイはやや気持ちが落ち着くのを感じた。
「それではレイちゃん、これから第一次接続シークエンスに入ります。詳しい事は右のサブモニターに映し出されるので、それを読んでできるだけ気持ちを落ちつかせてね」
マヤが言うと、レイは言われた通りにモニタに流れるテキストを読んでいく。
「準備はいい?」
「はいっ!」
「OKね?では、プラグ内注水始めます」
その声と同時に、黄色の液体が足元から満たされ始めた。
(ほ、本当に大丈夫かな?)
文章を読んでその液体――LCL(Link Connect Liquid)の中では呼吸ができる事は理解できたが、不安の色は隠せない。
(落ちついて、落ちついて、落ちついて…って、やっぱりちょっと気持ち悪いよ〜)
肺の中に液体が入っていく、そのなんとも言えない嫌な感触に涙目になったレイだったが、確かに呼吸…いや、意識して呼吸の動作をしなくても肺から酸素が取り込まれ苦しくない事に驚く。
「大丈夫?」
「なんか、お魚の気分って、こういう感じなのかも…」
マヤが問い掛けると、レイはそう答えた。緊急時らしからぬレイの可愛らしい答えに思わずマヤの顔に笑みがこぼれ、日向や青葉の顔にも安堵の表情が浮かぶ。
「いいわよ、その調子で。作業を続けるわよ」
そう言うと、マヤはキーボードを叩いて作業手順を進めて行き、今のところ自分の担当する仕事がない青葉や日向もそれを手伝う。
「主電源接続」
「全回路動力伝達」
「了解。起動シークエンス第二段階へ」
起動作業の全般指揮を取るゲンドウは確認を取り次の作業開始の指示を出していく。
「第二次コンタクトに入ります。A10神経接続異常なし」
主ディスプレイにレイとエヴァのA10神経群を表す模式図が表示され、電車の連結器のように次々と結合して行く様が刻々と映し出された。
「思考形態は日本語を基礎原則としてフィックス。」
「初期コンタクト問題なし」
「双方向回線開きます」
「シンクロ率…41.3%!?」
マヤはモニター計測器をみて、その見なれない数字に驚きの声を上げた。
「初回でこれか…」
ゲンドウは呟き、その数値に満足すると共に驚きの表情は隠せない。
「ハーモニクス、全て正常位置。暴走、ありません。」
「いけますね。」
ミサトも満足げに頷いた。シンクロ率、つまり操縦者の意思に対するエヴァの反応速度が実戦に耐えうるとされる理論上の最低値は40%。レイは見事にそれをクリアしたのだ。
「起動シークエンス終了を確認しました」
マヤの報告を受け取ったゲンドウが冬月の方へ振り向き、冬月はそれに頷いて命令を下す。
「出撃準備!」
「了解。出撃シークエンスへと移行します」
エヴァの実戦投入が可能な事が確認されると、
「第1ロックボルト外せ」
「解除確認」
「アンビリカルブリッジ移動開始」
「第2ロックボルト外せ」
「第1拘束具を除去」
「同じく第2拘束具を除去」
「1番から15番までの安全装置を解除」
「内部電源充電完了」
「内部用コンセント異常なし」
「出撃シークエンス完了。エヴァンゲリオン初号機出撃準備完了。続いて発進シークエンスに移ります」
「了解。エヴァ初号機射出口へ。主オペレーター権限を伊吹から日向へ委譲」
「委譲を確認。主オペレーター権限を継承します」
エヴァを乗せた作業台はレールに沿って移動し、使徒に近いポイントへ通じる発進口へと進んで行く。
「進路クリア。オールグリーン」
まず、保安担当の加持が発進口内の点検を済ませゴーサインを出した。
「発進準備完了」
次に、現在の技術部最高責任者であるゲンドウの最終確認が出される。
「了解」
最後に、それらを作戦部最高責任者であるミサトが聞き確認すると、レイの方を見た。
「問題ないわね?」
「…はいっ!」
緊張をほぐそうと必要以上に大きな声でレイが答えた。
「OK、良い返事よ」
そしてNERV総司令である冬月の方を向く。
「出撃準備、全て完了しました。かまいませんね?」
「もちろんだ。使徒を倒さぬ限り我々に未来はない」
無言でうなずくミサト。彼女はメインディスプレイに向かって振り向くと、軽く息を吸い、気合を込めて命令を下した。
「エヴァンゲリオン初号機、リフト・アップ!」
次の瞬間、レイを乗せたエヴァは壁に取り付けられたリニアレールにより、地上へ向けて高速で射出されて行った。
「くうっ…!」
強烈なGに思わず苦痛の声を漏らすレイ。その頭上に射出口の出口が四角く見え、見る間に近づいてくる。そこから漏れる地上の光は、戦闘による火災や爆発を反映してか、血の様に赤く輝いていた。
「レイちゃん…頑張れよ」
加持が呟き、腕を組んでメインディスプレイに映し出されたレイの顔を見つめる。それは、発令所内にいる殆どの人間の内心を代弁していた。
そして、夕闇が迫る第三新東京市の空の下に、エヴァが姿を表した。それに気がついたのか、一時攻撃を中断し、使徒がエヴァに向き直る。
「作戦開始よ、レイ」
「はい…エヴァンゲリオン初号機、綾波レイ。行きます!」
後に第一次直上会戦と呼ばれる、異形の存在同士の死闘の幕が、今まさに開かれようとしていた。
エヴァは使徒との戦いに勝利する。だが、それは全ての始まりでしかなかった。初めて経験する命がけの戦いに傷つき疲れたレイを、加持は支えて行こうと決意する。
それが大人の都合による身勝手な理由であったとしても。それを感じ取りながらも、レイは自分の居場所を求めるかのようにその優しさを受け入れて行く。
次回「見知らぬ、天井」
私はブームのときにはエヴァという作品を見たことがなく、見たのはつい最近の出来事でした。そして、ブームのときに多くの人々が訴えた不満や戸惑いの理由を確認しました。 セカンドインパクトと言う大事件の結果、誰もが心に傷や歪みを持ち、それをうまく癒すことのできないまま破滅に向かって突き進んでしまった原作の世界。あまりに悲惨な結末です。
ですから、せめてSSの方では全員がそれなりのハッピーエンドを迎えられるような話にしたいものです。その為の仕掛けとして、作品開始以前のある時点である人物の運命を転換させてあります。その結果、作中登場人物の大半の運命や役割が入れ替わり、主人公もあの人になっているわけです。そのキーポイントである人物が誰なのかを想像するのもまた一興…って、直ぐに分かっちゃうと思いますけどね(笑)。
では第弐話でお会いしましょう。
さたびーさんへの感想はこちら