「神楽坂」
「ん？ なんだい、治子」
「ペーパータオルが不足してきてるから、あとで倉庫整理の時に一箱出しておいてくれるかな」
「了解」
そんな何気ない仕事上の会話をした後、神楽坂潤はチーフの皆瀬葵に呼び止められた。
「ねぇ、神楽坂君」
「なんですか？」
立ち止まった潤に、葵がいたずらっぽい視線を向ける。
「神楽坂君って、治子ちゃんだけは呼び捨てにしてるわよね」
「ええ、なんかその方が話しやすいんですよね」
潤は頷いた。基本的に、彼女は女性店員に対しては、苗字にさん付けで呼ぶ。例外は治子くらいだ。
「ふ〜ん…それだけ？」
「な、何がですか？」
潤が少し動揺すると、葵は畳み掛けるように聞いてきた。
「男の子が女の子を呼び捨てにする…特別な関係でないとできないわよね」
潤は顔を赤くした。
「な、何を言ってるんですか…」
「あら、顔が真っ赤よ？ 核心ついちゃったかしら〜？」
からかいの言葉をかけてくる葵に「知りませんよ！」と答え、潤は倉庫に逃げ込んだ。ドアに背をもたれかけさせ、さらしを巻いた胸に手を当てる。
「ふぅ…まったくもう葵さんは」
文句を言いつつ、潤は彼女に指摘された治子の事を考えた。
（治子は…私の目指すところに近い人のような気がするんだよね）
潤はこの店では男子店員として振舞っている。それは、彼女が役者を目指していて、そのための勉強としてだ。
一方、治子は別に性別を偽っているわけではなく、女性店員として働いている。しかし、その行動のあちこちに、潤が身に付けたいと思っている、男性的な部分が見え隠れしているのだ。
（だから、私が治子の事を気にするのは、参考になる部分がたくさんあるからで…ただそれだけのはずだよね、うん）
誰も聞いていないのに、心の中で言い訳をする潤。しかし、一度意識してしまったものは、なかなか心の中から追い出せない。
（あ、で、でも、女の子の治子を意識できるようになったというのは、私の男の子としての演技が完成に近づいてるからだわ！ きっとそうよ！）
そうやって自分をごまかすその考え方が、既に恋する乙女のものだとは、気づかない潤であった。
Welcome ｔｏ Pia Carrot2 And 3 Siｄｅｓｔｏｒｙ
前田治子物語
自爆少女シリーズ 追加オーダー
四品目 思い出のアルバム
逃げ込んだだけだったが、せっかくなので倉庫整理をして、ペーパータオルの束をもって潤はフロアに戻った。治子はどうしてるかな、と見てみると、忙しそうに働いている。
「治子、ペーパータオル補充しておくよ」
声をかけると、治子は振り向いてにっこり笑った。
「ん、ありがとう、潤」
その瞬間、潤の心臓は思い切り高鳴った。
「い、いや…大した事ないさ」
動揺を押し隠しつつ、潤は治子に背を向けた。治子からは見えない店の隅に行き、必死に呼吸を整える。
「はぁ、はぁ…び、びっくりした…」
すると、背後に人の気配がした。誰？ と思うより早く、その人物は声を発した。
「お前もか、神楽坂」
「あ、矢野君か…」
「ちっちっち、そんな堅苦しい呼び方はやめてくれよ。真士でいいぜ」
ニカッと白い歯を見せて笑う真士。いかにも女の子にモテそうなさわやかな好青年といった印象だ。
「あ、あぁ…わかったよ、真士」
潤が言い直すと、真士は彼女の肩にポンと手を置いた。
「治子は見た目がかわいいからな。あれでコロッと行っちゃう奴も多いんだぜ」
そう言って、真士は治子の昔の話を始めた。何しろ自分が美少女だという自覚の薄い性格だけに、いたるところで魅力的な笑顔やしぐさを大安売りしており、それに一撃でハートを貫通されてしまった男女は数知れずだという。
「まぁ、俺は古い付き合いだから免疫があるんだけど、そうでない奴はやっぱりね。しかも、あいつは他人の感情にもちょっと鈍いからな。まったく、罪作りな女だよ」
その真士の言葉に、潤は治子が非難されたような気がして、思わず反論していた。
「いや、治子は鈍くなんかないよ。気が利くし」
「あ、いや…そういう気が利くとかじゃなくてな」
真士は苦笑した。
「自分が人に好かれているとか、あんまり考えないほうなんだよな。だから俺はあいつをけなしてるわけじゃないんだ。むしろその逆。自分の魅力を熟知してて、他人を手玉に取るあいつなんて、あいつじゃないし」
「それはまぁ、確かに」
潤がうなずくと、真士は彼女の顔を見てニヤリと笑った。
「まぁ、治子の事を気にするのは良いけど、ライバルはむちゃくちゃ多いぜ。あずさちゃんとか、留美さんとか、ともみちゃんとか」
その真士の言葉に、潤は呆けたようになった。
「え？ ちょっと、みんな女の子ばっかりじゃない」
そう言うと、真士は実に複雑な表情で頷いた。
「それが治子の恐ろしいところでな…まったく、俺にも一人まわしてほしいぜ…できればあいつ本人を」
最後の一言は小声だったので潤には聞き取れなかったが、聞こえていたとしても記憶には留めなかっただろう。
（女の子たちもみんな治子狙い…？ という事は、私が参戦しても、変じゃない？）
確かにPiaキャロットという局地的な視点で見れば得意な存在ではないが、世間から見ればやはり変である。しかし、潤はその事に気づいていなかった。
「しかしまぁ、神楽坂はそういう方面には淡白そうに見えたけど、やっぱり男だな。どうだい、秘蔵の治子アルバムを見せてやろうか？」
「ひ、秘蔵の？」
思わず女の子の地声でしゃべりそうになり、潤は慌てて口を抑えた。
「…秘蔵のって…何？」
改めて聞き返すと、真士はニカッと笑った。
「それは見てのお楽しみさ…どうだ？」
潤はしばし考えた。秘蔵の…と言うのが男の子の場合はどういうものを指すのかは、潤も知っている。それは多くの場合、ベッドの下に隠してあったり、中身とは関係ないカバーをかけられて本棚に並んでいたりするものだ。
女の自分が見てもどうしようもない物のような気もするが、被写体が治子とあっては話は別だ。それに、これは男の子としての演技の良い練習になるだろう。
「よ、よし。行くよ」
潤が言うと、真士は親指を立てた。
「決まりだな。じゃあ、仕事があがったら俺の家で」
数時間後、潤は真士の家に来ていた。親の仕事の関係で、真士は広い家に一人暮らしをしている。それを聞いて潤は乱雑な光景を想像していたのだが、意外にも家の中は片付いていた。
「ま、そう固くなるなよ。リラックスしていこうぜ」
初めて男の子の部屋に入る、と言うことと、治子のアルバムを見る、と言うことで緊張している潤にそう声をかけ、真士は本棚からアルバムを取り出した。これまた意外にも、偽装工作の痕跡は見られない…が、よくよく考えてみれば、家族がいないのに偽装する必要はなかった。
「じゃまぁ、この辺から」
そう言って手渡されたアルバムを開き、潤は驚きに目を見張った。
「うわ、これ治子？ かわいいなぁ…」
それは中学生頃の治子の写真だった。今も大して背は高くない彼女だが、この頃はもっと小さい。たぶん、１４０ｃｍ台だろう。隣に立っている真士と無邪気そうな笑顔を見せてピースサインをしている。
（…この頃から、大きかったのね）
身長ではなく、胸の話である。学校のイベントで撮影したものらしく、ブレザーを着ているのだが、その胸の部分が窮屈そうに内側から押し上げられている。
（うらやましい。わたしなんて、今になっても小さいし、サラシのせいでなおさら小さく見えるのに）
潤が敗北感を感じていると、どこを見ているのか気づいた真士が言った。
「あ、治子、この頃からでかいだろ？ 中２のときにもう８０越えてたとか何とか言ってたな」
「と、友達だからって男の子にそういうことを言うかな」
潤が言うと、真士はまた複雑な表情をした。
「あいつ、俺のことをあまり男として意識してないのかもしれないな。まぁ、この頃は俺もあまりあいつが女だって事を気にしてなかったんだが…」
さりげなく、自分の意識については過去形で語る真士だった。しかし、潤はその事には気づかず、自分と治子の関わりについて考えていた。
（そう言えば、治子はわたしのこと“神楽坂”って呼ぶけど…それって、ただの同僚扱いって事？）
バストサイズについて、中学時代の治子にすら敗北した事と合わせ、ずーんと落ち込む潤。
「まぁ、ともかく続きを見ていこうぜ」
そう言って、真士はページをめくっていく。いつ撮影したのか、授業中、机に肘をついて眠る治子。修学旅行らしい、清水の舞台で撮った写真や、キャンプにでも行ったのか、テントの中で撮ったものなど、潤はもちろん、今の治子本人も知らない彼女の過去が次々に現れる。最後に高校の卒業式の集合写真を見て、アルバムが閉じられた。
「どうだった？」
感想を求められて潤は答えた。
「うーん、治子って普段はしっかりしてて大人っぽい、って言う印象だけど、こういう時代もあったんだな」
歳相応の少女だった頃の治子の姿は、潤にとっても新鮮なものだった。
「昔はどっちかと言うと子供っぽいほうだったんだぜ」
真士はそう言うとアルバムを仕舞い、何故か横の大学受験の参考書を手にとった。潤がおや、と思うより早く、真士は何故か声を潜め、辺りを見回し、カーテンを引いて外から室内が見えないようにした。
「さて、これからが本命だ」
そう言うと、真士は参考書のカバーから別のアルバムを抜き出した。
（もしや、このシチュエーションはっ！？）
潤が思い当たるのと同時に、真士は最初の一ページを彼女に見せた。
撮影時期は、一冊目のアルバムとほぼ同じ頃…中学生の頃だろう。撮影者に背中を向け、横顔だけ見せた治子の姿が映っている。彼女は体操服姿で、指でブルマーの縁を直しているところだった。
「こ、これは…」
その無防備な姿に、潤は顔を赤らめた。
「こっちが秘蔵アルバム。いやぁ、苦労したんだぜ、この写真を集めるの」
得意げに言う真士。その間に、潤はページをめくっていく。体操服姿の写真が数ページ続き、今度は恐らく水泳の時間にでも撮影されたのであろう、スクール水着を着た治子の姿が続く。中学生とは思えないスタイルがより強調されている。
「うわぁ…」
潤はため息を漏らしつつも、さらにページをめくっていく。キャンプの写真の続きか、タンクトップにホットパンツと言う露出度の高い姿で寝ているところの写真もある。
高校時代に入ると、文化祭の時なのか、Ｐｉａキャロットとは違う制服で接客をする写真があり、逆三角形の特徴的な建物をバックに、アニメのキャラと思しき変な服装をした姿などもある。これは横につかさや留美が並んでいるので、Ｐｉａキャロットで働き出してからのことだと分かる。
決してパンチラや着替えシーン盗撮などの犯罪ストレートなものはないが、微妙に恥ずかしい露出度の高い写真が続いていた。
「これを見せるのは、神楽坂が初めてだな。どうだった？」
アルバムを閉じた真士に聞かれ、潤はため息をついた。
「うーん…何と言うか、凄いとしか言いようがないね」
男子としてＰｉａキャロットに来ている潤は、治子のこうした女の子らしい姿をあまり見ていない。仕事中の治子はしっかりしていて漢らしいからだ。これがあずさや留美なら、女の子同士のプライベートタイムもあるのだろうが…
そこへ、この可愛い少女時代（今でも見た目は少女で通用するが）の治子の写真を大量に見せられ、潤は治子への意識が変わるのを感じていた。
「そうなんだ。凄いだろう？ このコレクションを狙ってどれだけの血が流れたことか…」
真士が遠い目をする。潤はいったい過去に何があったのだろう、と不安になった。
「俺は古くからの友達だから、あいつの写真もいっぱい持ってるけど、他の奴らはそれが羨ましくてしょうがなかったらしくて、用もないのに家に来ては、家捜ししてたもんだ」
「それは大変だったね」
潤の一言に、真士は大いに頷く。しかし、その顔が一気に崩れた。
「だがしかし、俺も本当に重要なものは見つけられちゃいない。本命中の本命、秘蔵中の秘蔵は、ここにあるっ」
そう言うと、真士は机を開け、引出しの底の部分を何か操作した。次の瞬間、ばちん、と音がして、底板が跳ね上がった。彼はそこから他の二冊よりも小ぶりなアルバムを取り出した。
（な、何その仕掛け！？）
唖然とする潤の目の前で、真士がアルバムを開き、彼女に手渡してきた。受け取った潤の目が点になる。
それは体操服や水着よりも際どい写真のオンパレードだった。何か運動をした後のものなのか、汗で下着が透けて見えるほどに濡れたシャツを着ている治子や、酒を飲んだあとなのか、赤い顔で服なんか豪快にめくれ上がった状態で寝ている姿など、友人である真士にしか見せなかったであろう無防備な状態を晒している姿が激写されていた。
「は、治子ってば…」
同じ女性である潤としては、恥ずかしいやら呆れるやらである。
「撮っておいて、からかいのネタに使おうと思ってたんだけど、あいつこういうの効かなくてな」
「…なるほど。で、なんでまた、僕にこういうのを見せたわけ？」
潤は首を傾げた。彼女が真士の立場なら、まず間違いなく、こういうアルバムは他人には見せず、自分一人で楽しむだろう。
「まぁ、そうだな。神楽坂なら、これを知ったからって治子には言わないだろうし、盗みもしないだろうなって思ったからさ、なぁ親友」
真士は答えた。そして、潤は最後の一言に驚いていた。
「し、親友ぅ？」
目を白黒させる潤に、真士は畳み掛けるように言う。
「そうそう。バイト始めて、一緒に仕事してて分かったんだ。お前はいい奴だ。これからもよろしく頼むぜ」
そして、ニカッと白い歯を見せて笑う。それ自体は潤に対して男の魅力をアピールするようなものではなかったが、真士に「男として」親友と思われたことは、潤にとっては大きな自信になった。
「あ、あぁ！ 僕たちは親友さ。よろしくな、真士」
目一杯「さわやかな青年」の演技をする潤。彼女と真士はその場のノリでがっちり手を組み、友情を確かめ合った。
「さて…」
そのイベントが終わったところで、真士が言った。
「どれが良い？」
アルバムを目の前に広げられ、潤は質問の意味が分からずに首を傾げた。
「…どれがって？」
「いや、好きなのを焼き増ししてやるよ、と言う話なんだが…」
真士が鈍い奴だな、と言わんばかりの呆れたような口調で言ってくる。
「え？ 良いの？」
潤は聞き返しつつ、アルバムをめくりなおした。今の治子からはあまり想像できない、子供っぽかったと言う少女時代の彼女の姿。どれも可愛いが…
「これは外せないかな…」
最初に見た、ピースサインをしている治子の写真を指差す。真士はまめにナンバリングしているらしく、ふむふむ、Ａ−１ね、などと言いながらメモをとっていた。他にも潤は最初のアルバムから数枚を選んだ。
「お目が高いねぇ、神楽坂。お前さんが選んだのは、女の子の本当の可愛さを知っている通の選び方だ」
真士はニヤリと笑った。
「そ、そうなの？」
「ああ、だいたい焼き増しを頼んできたやつは、まず真っ先にえっちぃやつから選んでいくんだ。そう言う連中には一枚もやってないけどな」
「はぁ…」
真士の言葉に潤は苦笑する。ここまでの会話で、彼女にも真士の本音がだんだん見えてきた。
「あのさ、真士って、治子の事好き？」
「！」
真士は一瞬絶句したが、すぐに頷いた。
「あ〜…まぁ、そうだな」
そう言って鼻の頭を掻く。その鼻は赤くなっていた。
「昔は友達としてしか見てなかったんだ…でも、何時の間にかあいつの事を女の子として認識し始めたんだよな。特に、美崎から帰ってきた後は、前よりもぐっと女の子らしくなった気がするし」
「あぁ、それは僕もわかるなぁ」
真士の言葉に頷く潤。そこでふと疑問が湧く。
「でもさ、そんな好きな女の子の写真を、他の男にあげて良いのかい？」
潤が言うと、真士はちょっと複雑な表情をした。
「良いんだ。まぁ、これは友情の証と言うか…同じ悩みを共有する同志だからと言うか」
「同じ悩み？」
首を傾げる潤に、真士は苦笑した。
「なんだよ、とぼけなくても良いじゃないか。お前だって、治子のことは好きなんだろう？」
その言葉の意味を潤が理解するまで、少し時間がかかった。
「…ええっ！？」
次の瞬間、潤は真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと、なんでそうなるのさ？」
慌てふためいて尋ねる潤の肩を、真士はポンと叩いた。
「誤魔化さなくてもわかるよ。店で、お前しょっちゅう治子の事見てるし。それに、治子の事だけ呼び捨てだし。あれは俺と同じ反応だ」
「だからそんなんじゃないって」
潤はあくまでも否定した。既にかなり意地になっている。
「治子はその…確かにかわいいし、仕事できるし、ある意味憧れの人ではあるんだけど、でも断じてそういう気持ちじゃ…」
しかし、その意地は真士には通用しなかった。
「わかった、そういう事にしておいてやるよ」
そう言って、真士は再度潤の肩を叩く。しかし、すぐにその顔からは笑顔が消えた。
「でもまぁ、さっきも言ったように、あいつの周りは激戦区だ。どう言うわけか店の女の子の大半は治子の事が好きだし、あいつ自身、その事を悪くは思ってないようだ」
しみじみと嘆く真士。
「困ってはいるみたいだけどね…」
潤も相槌を打つ。治子は仕事中などはしっかりしているが、基本的に優柔不断というか、流されやすいと言うか、押しに弱いところがあるので、強引極まりない他の女の子たちのアタックに対し、強い態度で出られないでいる。
しかし、潤の見るところ、治子が明確に拒絶の意思を見せないのには、何か別の理由がありそうにも思える。それはなんだろう、と潤が考えていると、真士に肩を小突かれた。
「潤、俺の話聞いてるか？」
「え？ あ、ご、ごめん。ちょっと考え事してた。で、何？」
潤は慌てて謝った。すると、真士は一から説明し直すのは面倒だったらしく、結論から切り出した。
「だから、治子をノーマルにして、男の俺たちにも目を向けてもらおうって事さ」
「え？」
潤はきょとんとした。食いつきが悪いと見たか、真士はさらに大声を張り上げる。
「だってそうだろう？ 治子がこのまま百合色に染まってしまうなんてもったいなさ過ぎだ！」
「ゆ、百合色って…」
潤が赤くなる。少しオクテぎみな彼女ではあるが、百合の意味はさすがに知っていた。
「で、実際のところ、具体的には何をするの？」
照れを隠して潤が聞くと、真士は言葉に詰まった。
「あ〜…その、なんだ、えっと…」
「まだ考えてなかったんだね？」
潤が突っ込むと、真士は頷き、そして力強く叫んだ。
「ま、まぁ良いじゃないか！ これから考えるって事で一つよろしく」
「何がよろしくなんだか」
潤は呆れたように言ったが、内心では困った事になったな、と思っていた。何しろ、彼女は本来女の子なのである。治子を落とそうと思ったら、ノーマルにするどころか、逆に百合色に染める側に回らなくてはならない。
「そう言うなよ。ほら、こっちの秘蔵アルバムの方の写真も焼き増ししてやるから」
真士がアルバムをちらつかせながら迫ってくる。
「わ、わかったよ…」
潤は頷いた。同性の彼女でさえ思わずドキッとするような治子の生写真集。確かにこれは魅力的だ。それとは別に、内心で自分に言い聞かせる。
（それに、男の子として治子を振り向かせる事ができれば、わたしの演技は完璧だってことになるし…）
治子を狙うのは、あくまでも演技の練習のため。そう自分をごまかしつつ、真士と共同戦線を組む事に同意した潤だった。
翌日、潤が店に出ると、真士が声をかけてきた。
「よ、潤、昨日の写真の焼き増し、全部できたぜ。これに入れてあるから、まぁ帰ってからゆっくり楽しんでくれ」
そう言って、封筒を手渡してくる。潤は礼を言って、それを鞄にしまった。
それから、彼女は仕事をしながら、働いている治子の姿を目で追っていた。時々ともみや留美に抱きつかれてあたふたしているのが微笑ましい。
（けど、嫌だとは言ってないんだよね…あれで男に興味を持たせろと言われてもどうしたら良いんだろ）
潤は自分が男の子からされたら嬉しいであろう行為を思い浮かべた。
（うーん…何だろう…いきなり誉め言葉を言ったり、プレゼントしたり、そんなの下心があると疑うだろうしなぁ…）
潤がそう考えていると、真士が治子の傍を通る時、唐突に言った。
「やぁ、治子。今日もかわいいな」
「ん？ ありがと」
あっさりスルーされていた。
「ところで、今度映画でも見に行かないか？」
「今度、あずさとつかさちゃんとともみちゃんと留美さんと一緒に見に行くけど？」
やはりあっさりスルーされていた。
「そ、そうか…ところで、何か欲しいものはあるか？」
「うーん、平穏な生活かなぁ」
真士は完全に撃破された。がっかりして項垂れる彼に奇異な目を向けつつ、治子は仕事に戻っていく。
（…真士…）
直球勝負に敗れ去った盟友に心の中で合掌しつつ、潤はこれは相当考えないとダメだなぁ、と戦訓を分析していた。
そんな小さな事件もすぐに忘れられ、定時になった。潤は真士や店長が来ないうちに手早く着替えを済ませ、店を出ようとした。その時、唐突に通用口のドアが開き、潤はそこに顔面を強打した。
「ふぎゅっ！？」
あまりの痛さに、潤は顔面を抑えてしゃがみこんだ。そこに、治子の慌てた声が聞こえてきた。
「わ、ごめん、神楽坂！ 大丈夫！？」
ドアを開けたのはゴミ捨てに出ていた治子だったらしい。潤は彼女の顔を見上げ、涙目でこくこくと頷いた。幸い、鼻血などは出ていない。
「これから気をつけるよ。 …ん？ 何これ」
治子が潤の周りを見て不思議そうな声を出した。自分の周りを見た潤は、それに気付いて蒼白になった。今朝真士に貰った封筒が投げ出した鞄から飛び出し、中身が床にぶちまけられていた。
「そ、それは！」
潤が飛びついて拾うより早く、治子がそれを拾い上げてしまう。潤は目の前が暗くなる感覚を覚えた。
（うわちゃ〜…これは嫌われるだろうなぁ…）
次に怒りの声が飛んでくることを覚悟して、潤が目を伏せた時、治子は潤に封筒を渡してきた。え？ と思って潤が顔をあげると、治子は苦笑していた。
「驚いたなぁ…神楽坂がこんな写真を持ってるなんて。まぁ、どうせ真士のバカに貰ったんだろうけど」
「そ、そうだけど…怒らないの？」
下着の透けた写真とか、どう見ても怒られそうなものがあるのに、治子は平然として答えた。
「どっちかと言うと、怒るより先に、神楽坂がその写真を欲しがった理由を聞きたいかな。女の子なのに」
その言葉に潤は驚愕し、次の瞬間、治子を更衣室の中に引きずり込んでいた。
「わ、な、何？」
驚く治子に潤は聞いた。
「な、な、なんでわたしが女の子だと知って…？」
動揺する潤に、治子は頭を掻いた。本当は「耕治だった世界」で、たまたま混浴の風呂でいっしょになったのが、潤の正体を知るきっかけだったのだが、その事件は「治子の世界」では起きていない。だからどう説明したか迷ったのだが、とりあえず適当にごまかしておくことにした。
「なんとなく…かな？ 着替え見られたりするのに過敏だし、男にしちゃ華奢だし」
適当な言い訳だったが、潤には治子の恐るべき観察眼が印象付けられる事になった。彼女はがっくりと肩を落とした。
「信じられない…自信があったのに」
潤が落ち込むと、治子は慌てて手を振った。
「あ、で、でも、すごいと思うよ。たぶん私以外はみんな気付いてないし」
「…本当に？」
潤が顔をあげて聞くと、治子はこくこくと頷いた。ちょっとだけ安心した潤は、治子に向かって説明を始めた。
「あの…治子、言っとくけど、わたしは別に男装趣味があるとか、そう言う事じゃないからね。これには深い理由があって…」
男装した理由を説明する潤。治子としてはもちろん既知の出来事なのだが、さすがにそこまで「知っている」のは変なので、黙って理由を聞いていた。
「…と言うわけ。わかった？」
「うん、良くわかった。 安心してよ。変な人だと思ってたら、とっくに通報してるよ」
治子の言葉はあまりフォローにはなっていなかった。
「…はぁ。それにしてもショック…」
落ち込みつづける潤。治子はその肩をポンと叩いた。
「大丈夫だって。神楽坂ならきっといい女優さんになれるよ」
「…うん、ありがとう」
治子の励ましが本心からのものだと感じられ、潤はようやく素直に頷いた。それに笑顔で応え、治子は立ち上がると、潤の方に手を伸ばしてきた。戸惑った末に、潤がその手を取ると、治子は座っていた彼女をくいっと引っ張って立ち上がらせた。
「ほら、笑う笑う。落ち込んでると、良い演技はできないよ」
潤は笑った。治子の気遣いが嬉しかった。しかし、二人が連れ立って更衣室から出てきたところで、事件は起きた。
「ちょ…な、なんで治子が男子更衣室から出てくるの？ しかも神楽坂君と一緒に」
戸惑いと怒りの混じった声をかけられ、治子は見るからに緊張した表情で叫んだ。
「げっ！ あずさ！？」
「何がげっ、よ！？ それに、手まで繋いじゃって…いやらしい…！！」
あずさの怒りのオーラが目で見えるような気がして、潤は怯えのあまり一歩下がった。しかし、弁明はしなくては、と声を上げる。
「ご、誤解だよ、あずさちゃん。僕たちは…」
そこまで言った瞬間、潤はいきなり手を引っ張られて、その勢いで走り出していた。
「な、なに！？ 治子」
潤が聞くと、治子は真剣な表情で答えた。
「ああなったあずさには何を言っても無駄だよ！ とりあえず逃げる！！」
「そ、そうなんだ？」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。自分だって、好きな人が他の人と手を繋いでいたら、嫉妬と怒りを覚えるだろう。あずさのはちょっと怖すぎるが…
「ちょっと、待ちなさい！！」
あずさの声が追ってくる。手を繋いだまま、治子と潤は逃げ続けた。道行く人が、逃げる美少女と美少年、追う美少女の組み合わせを見て、様々に想像を逞しくした。しかも、治子とあずさは制服のままである。
おかげで翌日店は大繁盛したが、三人が店長と涼子からみっちり叱られた事は言うまでもない。
（つづく）
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