治子が二号店に戻ってきて、ちょうど半月ほどが過ぎた。昼間は流石に残暑が厳しいが、夕方を過ぎると風も涼しくなり、暑さの中にも秋の気配が忍び寄ってくる頃だった。
「治子、なんか店長さんが呼んでたよ」
 そう声をかけてきたのは、ウェイター姿の神楽坂潤だった。男装して男に混じって仕事をしている彼女だが、別に服装倒錯者とか言うわけではなく、役者の勉強の一環である。今のところ、それを知っているのは治子だけだ。
「ん、ありがと、神楽坂」
 潤に礼を言い、治子はバックヤードのドアを開け、店長室に向かった。ドアをノックすると、中から「どうぞ」と言う声が聞こえてきた。
「失礼します」
 治子が中に入ると、祐介店長は目を通していた何かの書類をデスクの上に置いて立ち上がった。
「やあ、立ち話もなんだから、座りなさい」
 店長室には応接セットも置かれている。祐介は率先して座ると、内線電話を手に取った。治子はスカートの裾を抑え、足をそろえてソファに座った。人と向かい合って座るときに、スカートの中が見えないようにするテクニックだ。こういうものが否応無しに身についてしまった自分が、ちょっと悲しい治子だった。
「双葉君、済まないけど店長室にコーヒー二つ、頼めるかい? うん、ありがとう」
 祐介が電話を置く。相手は隣の事務室で作業中の涼子だったようだ。ほどなくして、涼子がトレイを持って店長室に入ってきた。
「お待たせしました」
 そう言いながら、涼子が二人の前に湯気を立てるカップを置く。コーヒーが苦手になった治子にはちゃんとレモンティーを淹れてくれていた。
「ありがとう、涼子さん」
「どういたしまして。では私はこれで」
 涼子はそう言うと部屋を出て行った。残された治子と祐介はそれぞれのカップを手にとり、一口啜る。
「さて…前田君を呼んだ訳だけど」
 カップをテーブルに置いた祐介が話を切り出した。

Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory

前田治子物語

自爆少女シリーズ 追加オーダー


三品目 夢に向かって


 翌日、治子は「Piaキャロット」の本店に向かって歩いていた。
「昨日の店長の話、結局なんだったのかな…」
 治子は昨日祐介店長と話をした時の事を思い出していた。主に四号店にいた時の話だが、特に仕事に関係するような話ではなく、世間話に近かった。
 ただ、その話の最後に、祐介は本店に行ってオーナーに会うように、と命じてきたのだ。そこで、今日は二号店の仕事を外れ、本店にやってきたと言うわけである。
 考え事をしているうちに、研修などで何度か来た本店の前に着いた。治子は裏に回って従業員通用口から中に入った。
「おはようございまーす」
 開店前の掃除中らしいウェイトレスの娘が元気良く出迎えてきた。本店の制服は二号店とも四号店ともまた違い、青を基調にした比較的ベーシックなデザインをしている。スカートの長さも、他の店に比べるとやや長めで、清楚な印象がある。
(うーん、こうして見ると本店の制服も結構良いな。私もちょっと着てみたい…って、そうじゃなくて)
 治子は慌てて考えを打ち消した。
(でも、可愛い服なのは確かだな。着てる娘も可愛いし…ん?)
 そこまで考えた時、治子は気付いた。目の前にいるのは…
「治子さん…!?」
「さ、さやかちゃん?」
 半月前までの同僚であり、いろいろな意味で複雑な関係を持つ高井さやかの姿がそこにあった。見つめあったのは一瞬の間だけで、さやかは目に涙を浮かべると、いきなり治子に抱きついてきた。
「わっ!?」
 驚く治子の胸に顔をうずめ、さやかが独り言のように言う。
「治子さん…会いたかった…」
 まるで数年ぶりに会ったような、そんな反応に、治子はどう対処していいのかわからず、おろおろとなった。
「あ、あの、さやかちゃん? ちょっと落ち着いて」
 困り果てた治子が何とかさやかに離れてもらおうとしても、再会の喜びに浸っているさやかは聞いてくれない。するとその時、さやかに対する叱声が飛んできた。
「こら、高井さん。仕事中に何してるの?」
 決して怒鳴り声などではないが、静かな迫力を秘めた言葉に、さやかが慌てて治子から離れる。
「さ、さとみさん…」
「早く仕事に戻りなさい」
「は、はいっ!」
 怒られたさやかは慌てて仕事に戻り、その場に残された治子に、さやかを叱った人物が声をかけてきた。
「あら、治子ちゃん。久しぶりね」
「あ、さとみさん。ご無沙汰してます」
 治子は頭を下げた。相手の名前は木ノ下さとみ。本店のマネージャで、祐介の妻でもある。結婚してからもう何年か経つが、二人の衰える事を知らないラブラブバカップルぶりは、Piaキャロット全店に轟く伝説の一つである。
「そう言えば、オーナーに呼ばれてたんだっけ?」
 さとみの質問に治子が頷くと、さとみは彼女を連れてオーナー室の前に行き、扉を叩いた。
「オーナー、前田さんが来ましたよ」
「うむ、入りたまえ」
 ドアの向こうから重厚なバスが聞こえてくる。扉を開けると、タキシード風のスーツに身を固めた初老の紳士が立っていた。
 木ノ下泰男…Piaキャロットグループのオーナーである。
「良く来てくれたね、前田君。まぁ、座りなさい」
 泰男は気さくに椅子を勧めてきた。そして、さとみに飲み物を持ってくるように頼む。昨日の祐介と全く同じ態度で、あぁ、やっぱりこの二人って親子なんだなぁ、と治子は感心した。
 もっとも、泰男と祐介はあまり似ていない。スーツの上からでもわかる圧倒的な量感を秘めた筋肉質の泰男に対し、祐介はどちらかと言うと優男系だ。留美も見た目には普通の女の子で、たぶん二人とも母親似なのだろう。
 泰男に似ているのは、どっちかと言うと、美崎海岸の貴子と昇の二人の方である。そう考えると、急に治子は美崎海岸の事を懐かしく思った。これではさやかを笑えない。
 そこへ、さとみが飲み物を持ってきた。泰男にはコーヒー、治子にはアイスティーだった。暑い外を歩いてきた治子には嬉しい配慮だ。
(さとみさんみたいな気配りが出来る人になりたいな)
 治子がそう思いつつ礼を言うと、向かいの泰男がコーヒーの香りを楽しみながら言った。
「うむ、ありがとう、さとみ君」
「どういたしまして、オーナー」
 笑顔で答えるさとみに、泰男は言葉を続けた。
「いつも言っているが、私としてはお義父さん、と呼ばれる方が嬉しいのだが」
「いつも言っていますが、公私混同はダメです」
 さとみにあっさり断られると、泰男は心なしか項垂れた。しかし、さとみが出て行くと、経営者としての表情をしっかり取り戻していた。
(いつ見ても迫力あるなぁ…オーナー)
 二号店勤務と言う関係上、泰男と顔を合わせる機会は少ない治子だが、いつ見てもこの人物には圧倒される。決して人を威圧する、と言う感じではないのだが、なんとも言えない迫力があり、人を心服させてしまう所がある。カリスマと言うものかもしれない。頑強な肉体もその印象を補完している。
 さらに、泰男には超人的な噂がいくつも存在する。治子が(当時は耕治だったが)アルバイトとしてPiaキャロットに入った時、先輩たちから聞いたものでは、次のようなものがある。
「みかじめ料を要求してきたヤクザの事務所に単身殴りこみ、事務所を更地にして帰って来た」
「アメリカでの武者修行中(何のだ)、アンダーグラウンドのファイトクラブで前人未到の200連勝を成し遂げ、全米の格闘家に東方不敗マスターアジアと呼ばれ畏れられた」
「湾岸戦争の時にテレビを見ていたら、イラク軍戦車を投げ飛ばしているオーナーが映っていた」
 その話を聞いたときは、まさかバカな、と思いつつも、それくらいの事はやってのけてしまいそうな雰囲気が、泰男にはあった。
「さて、今日君を呼んだ理由だが…」
「は、はい」
 泰男の切り出した言葉に、治子は姿勢を正した。一体何なのか、胸がドキドキする。
「前田君、店長になってみる気はないかね?」

 あっさりとした口調で言われたため、治子が泰男の言葉を理解するまで、しばらく時間が必要だった。
「え? あ、あの…それってどう言う事でしょうか?」
 治子は尋ねた。確かに、彼女の将来の夢は、Piaキャロットのどの店かの店長になることだが、いくらなんでもこれは唐突に過ぎた。
「ふむ、少し突然すぎたかね」
 泰男は苦笑すると、楽な姿勢になった。治子にも楽にするように言うと、彼は説明をはじめた。
「実は今、五号店の出店計画を進めていてね。その店長候補を捜しているのだよ。今そのリストのトップにいるのが、君と言うわけだ」
「は、はぁ…」
 治子は信じられない気持ちで頷いた。しかし、Piaキャロットの正社員は何も彼女ばかりではない。もっと経験をつんだ人材はいるはずだ。そういう人たちを差し置いて、自分がそのリストに名を載せても良いものだろうか?
 治子がそう疑問を呈すると、泰男は何だそんな事か、と豪快に笑い飛ばした。
「何も私だって洒落でリストを作ったわけじゃない。君に関しては、祐介と四号店の羽瀬川君、岩倉君からも、次期店長候補として推薦が来ている。それに、私も人を見る目はあるつもりだ」
 治子が言葉に詰まっていると、泰男は微笑みながら肩を叩いた。
「そう緊張せずともよろしい。それだけ君が認められているということだ。自信を持ちたまえ」
「は、はいっ!」
 治子は飛び上がって返事した。しかし、そこで泰男は厳しい表情になって言った。
「とは言え、君はまだ若く、経験も不足している。今すぐ店長と言うわけにはもちろん行かない」
「それは…そうでしょうね」
 治子は頷いた。彼女はウェイトレス(ウェイター)としての経験はもう1年以上になるが、管理職としての経験は無いに等しい。
「とりあえず、しばらくの間店長になるための研修を受けてもらう事になるな。それが終わって、能力的に充分だと判断したら、君を新しい店の店長に任命する事になるだろう」
「わかりました。具体的には何をするんでしょう?」
 治子が聞くと、泰男はあごに手を当てて考え込んだ。
「そうだな…まずは」

「…で、結局いつもと変わらないような」
 治子は姿身の前で呟いた。今、彼女は本店の制服に身を包んで、仕事に出る準備をしている。何故彼女がそうしているかと言うと、泰男がこう言ったからだ。
「まずは、店員がどんな仕事をしているか、把握する事だ。祐介も、羽瀬川君も、率先して店に出ていただろう?」
 確かに二人は良くフロアで働いている。そこで人をどう上手く使うかが、店長の大きな仕事なのだそうだ。事務仕事に関しては、そのためにマネージャーと言う役割があるので、それほど気にしなくても良いらしい。
 そこで、治子にはさやかと明彦以外はあまり知らない人の多い本店で、店内の様子を良く掴み、自分ならどうやって問題を処理するか考えるのだと言う。しかも、ちゃんと自分でも接客しながらだ。
(こりゃ大変だ)
 唸りつつ、治子は臨時に借りた名札を胸につけた。そこで、治子はふと疑問に思った。
(はて…なぜぴったりサイズの会う制服があるんだろう?)
 四号店のフローラルミントや二号店のアイドルほどではないが、Piaキャロの女子用制服は、基本的にフリーサイズではない。
(まさか、これもオーナーの趣味でわざわざ用意したんじゃないだろうな…)
 怖い考えを振り払って更衣室を出ると、そこで件の泰男が待っていたので、治子はちょっと驚いた。
「準備は良いかね?」
「あ、は、はい!」
 驚きつつも治子が頷くと、泰男は彼女を連れてフロアに出た。制服姿の治子を見て、さやかが驚いた視線を向けてくる。もちろん泰男は気にした様子も無く、手をパンパン叩いて店員を呼び集めた。
「おはよう、諸君」
 まずは威厳のこもった声で挨拶をすると、泰男は横に控えていた治子を一歩前に進ませた。
「知っている人もいると思うが、二号店の前田君だ。今日は研修のため、店長代理と言う形で、みんなと一緒に仕事をする。前田君、挨拶を」
「は? あ、はいっ!」
 店長代理なんて聞いてないよ、と思いつつも、治子は頭を下げた。
「前田です。頼りないところもあると思いますが、精一杯頑張りますので、よろしくお願いします」
 拍手が起こった。さやかは大歓迎、という感じの笑顔を浮かべているが、他の店員たちは値踏みするような視線を治子に向けている。
(む…舐められてたまるか)
 そういう目で見られると、逆にファイトが湧いて来るというものである。治子は拳を握って気合を入れ直した。

 働き始めると時間の流れは速いもので、あっという間にランチタイムの喧騒がやってきて、そして過ぎて行った。治子はモップで床に落としてしまったスパゲティボロネーゼの片づけをしていた。
(うーん…失敗した…今日は酷いな)
 ちょっと落ち込む治子。この日は朝から調子が悪く、失敗続きだった。
(接客に専念しようとすると、他の事が出来ないし、オーナーに言われたように他の人の動きを見ていると、接客が疎かになるし…)
 治子もベテランだから、普通に仕事をする分には問題はない。それどころか、四号店のときは朱美が頼りない分、彼女をフォローして動いていた。そういう経験があれば、特に今回も問題ないように思えるが、意識してしまうと、かえって良くない物らしい。
 床を拭き終わり、バックヤードにモップを返しに良くと、そこにはさやかがいた。
「あ、さやかちゃん」
「治子さん、なんだか調子が悪そうですけど、大丈夫ですか?」
 さやかが心配そうな表情で尋ねてきた。
「え? う、うん。大丈夫。店長代理なんていわれて、ちょっと緊張してるのかも」
 治子はさやかを心配させないように、にっこり笑って見せた。しかし、さやかはごまかされなかった。
「その…無理しない方がいいと思いますよ。今日一日の事で、治子さんが店長になれるかどうか決まるわけじゃないんでしょう?」
 そのさやかの言葉に、治子は目の覚めるような思いがした。さやかの言う通りだ。まだ研修は始まったばかり。何も焦る事はない。第一、普通の仕事も出来ないで店長を目指すなどおこがましい。
「そうだね…なんだか気が楽になったよ。ありがとう、さやかちゃん」
 治子はさやかの手を取って礼を言った。さやかは赤くなり、もじもじした態度で答えた。
「いえ、その…大した事じゃないです」
「いや、本当にありがとう」
 治子は今度こそ陰のない表情で笑うと、再びフロアに戻っていった。さやかは治子に握られていた手をそっと胸の前で重ね合わせ、思った。
 しばらくこの手は洗わない。

 午後になって、治子の動きは午前中とはうって変わって機敏なものになった。まずは目の前の事を片付けるのに専念する。そうすると面白いもので、逆に辺りを見回す余裕が出てくるのだ。
 そうして見ると、午前中は気がつかなかった事が所々見えてくる。今も、一人の店員が、待っていた客を席に案内しようとしているのを見て、ある事に気がついた。
(うーん、あれは止めた方がいいかな。でも、権限とかって大丈夫なのかな? 今は一応店長代理って事になってるけど…うむむ)
 考えた挙句、治子はそっちに向かって歩き出した。お客さんのためだから、ここで差し出口を挟んだところで、怒られる事はあるまい。
「お待ちください」
 今にも席にお客さんが座ろうとしているところへ、治子は止めに入った。
「何でしょうか?」
 客が不審そうな表情で治子を見る。案内した店員も、同じ表情だ。しかし、治子は怯まずに言った。
「こちらは喫煙席に近いので、良ければ別の席をご案内させていただきたいのですが…」
「あ、そうですね。出来ればそうしていただけますか?」
 その客…小さな子供を抱いた母親は笑顔で答えた。
「ではご案内します」
 治子はその母子を副流煙の流れてこない距離にある別の席に案内し、先に案内していた店員のところに戻ってきた。
「あの、その…余計な事しちゃったかな」
 治子がちょっと気まずそうに言うと、その店員はふるふると首を横に振った。
「い、いえ…ああいう気遣いも重要なんですね。良い勉強になりました」
 どうやら気にしていなかったらしい。外様の治子としてはほっとした気持ちになった。

 その後も仕事をこなし、定時になった。オーナー室に行くと、泰男はニコニコと笑いながら治子を労ってくれた。
「ご苦労様、前田君。どうかね、店長代理の感想は」
「そうですね、最初はちょっと気負いましたけど、出来るだけいつも通りを心がけてみました」
 治子がそう答えると、泰男は頷いた。
「うむ。急に違う事をしようとしても、なかなか上手く行かないものだ。おいおい慣れていけば良い」
 治子は思わず苦笑した。早く成果を出そうとして焦っていた午前の自分の様子が、ばかばかしく思えてくる。
「まぁ、二号店でも今日のように心がけて仕事をしてくれたまえ。あと、週に一日は本店で研修してもらう事になる。スケジュールは君の好きに決めていいぞ」
 さらに泰男は今後の事についていくつかの細かい説明をし、ようやく治子の店長修行一日目は終わった。
「はぁ、疲れた〜」
 更衣室に戻った治子は、大きなため息と共にベンチに腰掛けた。神経を使う仕事内容だった上に、本店の制服は着慣れていない。微妙な疲れが身体の中に残っていた。
「よし、早く着替えて帰ろう」
 一息入れて立ち上がったその時、がちゃり、と音がして更衣室の扉が開いた。
「治子さん…」
 さやかだった。
「あ、さやかちゃん、今上がり?」
 治子が聞くと、さやかはこくりと頷いた。
「そっか、じゃあ、途中まで一緒に帰ろうか?」
 治子が提案すると、さやかはやはり頷いた。二人は並んで着替えをはじめた。その間に、この一月の近況について話す。
「へぇ、さやかちゃんも戻ってきてから、忙しさを感じないんだ」
「四号店は大変でしたからね」
 そんな会話を交わしながら、四号店の事に想いを馳せる。二人にとっては忘れられない思い出のある場所だ。それはもう、いろんな意味で。治子がさやかにとっての四号店の意味を思い出したのは、彼女が思わずNGワード入りの発言をしてしまった時の事だった。
「そう言えば、神無月君は? 今日見なかったけど」
 治子がそう言った瞬間、さやかは服を脱ぐ手を止めると、治子に寄り添ってきた。
「治子さん…」
 名前を呼びながら、治子の背中にくっつくさやか。二人ともまだ着替えの途中…下着姿で、治子の背中に、直接さやかの滑らかな肌が擦り付けられる。
「な、なに?」
 上ずった声で言う治子に、さやかは少し恨めしそうな響きの混じった声で言った。
「治子さん、二人きりの時は、私だけを見てください」
 明彦の名前を出した事が、さやかのやきもちの虫を起こしてしまったらしい。
「あ、あぁぁ、そ、そうだね」
 裏返りまくった声で答える治子。似たような性格のあずさとの付き合いから、こういう時のやきもち焼きな女の子には、いくら逆らっても無駄だと言う事を、彼女は知っていた。にもかかわらず平静さを保てないのは、さやかの体温と鼓動がダイレクトに伝わってくるからだ。
「さ、さやかちゃん、人が来るとまずいから、そろそろ…」
 離してよ、と言おうとした治子だったが、さやかは唖然とするような爆弾発言を投下した。
「大丈夫ですよ。鍵、かけてありますし…」
「あんですとっ!?」
 そこで思わず振り向いてしまったのが、治子にとっての痛恨事だった。彼女とさやかの身長にはほとんど差がなく、従って、振り向いた治子の目の前には、さやかの顔があった。
(しまっ…!)
 後悔するより早く、治子の唇はさやかに奪われていた。
「〜〜〜〜〜〜!!」
 声にならない声をあげる治子。以前は彼女がさやかの唇を奪ったのだが、その時は事故だった。しかし、今回はさやかからの積極的なキスだ。そのまま数分間キスされつづけ、ようやく二人の唇が離れる。
「さ、さやかちゃん、何を…」
 思わず涙目になる治子。それとはまた別な意味で潤んだ瞳を彼女に向け、さやかは言った。
「は、治子さん…私、寂しかったです…ずっと、何も言ってくれなくて…」
「…あ」
 治子は絶句した。彼女がさやかにこの一月、何も連絡しなかったのは事実だ。心の中で、連絡したらしたで、何かと面倒な事になるのは確実だと、忌避する気持ちがあったのも確かである。しかし、告白した相手に一月も放っておかれたさやかの方はたまったものではないだろう。
(で、でもみんなを見守ると誓ったのは自分だし…それを考えると不実な…あぁぁぁ、しっかりしろ俺っ!)
 かつて自分で背負っていくと決めた事を忘れていたのに気付き、頭を抱える治子。しかし、もっと頭を抱えるような事が起こった。パチン、と音がして、胸元にすうっというクーラーの冷気が入り込む。さやかにブラのホックを外されたのだ。
「さ、ささささささ、さやかちゃんっ!? 一体何をっ!?」
「治子さん、私、もう我慢できません…!」
 された方もする方も、さっきより切迫した調子の声をあげる。さやかの手に身体のあちこちをまさぐられ、治子は思わず悲鳴のような声をあげた。
「ひ、ひぅっ…! さ、さやかちゃん…だめ…」
 恋愛経験は豊富でも、「女の子としての経験」は浅い治子には、さやかの稚拙な攻撃でも十分以上の効果があった。足腰から力が抜けたと思ったその瞬間、治子は自分の足に何かが絡んだのに気付いた。
(あ、す、スカート!?)
 そう、着替え中だったので、制服のスカートがまだ足元にあったのだ。まずいと思うより早く、治子は抱きついているさやかごと、思い切りすっ転んでいた。
「きゃんっ!?」
 期せずして治子を押し倒すように…これも以前とは逆だ…なったさやかだったが、ショックから立ち直ると、治子に声をかけた。
「は、治子さん…大丈夫ですか?」
 大丈夫ではなかった。
「きゅう…」
 転んだ拍子に頭を打った治子は、目をうずまきにして気絶していた。
「は、治子さんーっ!?」
 さやかの悲鳴が店中に響き渡り、鍵のかけられている更衣室のドアが激しくノックされたのは、それからすぐの事だった。

 翌日、治子はまだたんこぶがちょっと痛い頭をさすりながら、二号店に出社した。
「いたた…酷い目にあった」
 気絶したおかげで、暴走したさやかの魔手からは逃れられた治子だったが、心と身体の両方に負ったダメージは、そう簡単には消えてくれない。
「この分だと、朱美さんや美春ちゃんも大変だろうな…メールとかこまめに出した方が良いかなぁ」
 そんな事を考えながら、更衣室のドアを開けた彼女を出迎えたのは、留美だった。
「おっはよーん、治子ちゃん」
「あ。おはよう、留美さん」
 治子が挨拶すると、留美は満面の笑みを浮かべて言った。
「ねぇねぇ、治子ちゃん、昨日留美の制服着たでしょ」
 一瞬何の事かわからなかった治子だったが、すぐに正解に思い当たった。
「あ、あれ留美さんの制服だったんだ…」
 本来は本店をホームグラウンドにしている留美は、もちろん本店用の制服も持っている。そして、彼女と治子は背格好がよく似ていた。治子用に留美の制服を流用するのは妥当な判断と言えただろう。
「そうだよぉ。治子ちゃんのぬくもりと匂いの染み付いた制服、素敵だったなぁ…洗わないで宝物にするねっ」
 その言葉に、治子はたんこぶだけでない頭痛とめまいを感じた。
「あの…それは勘弁してください…」
 これから本店に行くなら行くで、ちゃんと専用の制服を用意してもらおう。そう心に決めた治子だった。

(つづく)


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