前回までのあらすじ

 海辺の田舎町で出会った少女神尾観鈴の家に滞在する流浪の人形使い国崎往人とその妹の空。街での2日目に様々な人々との出会いを経験し…そして、また新たな一日を過ごしていた。

 み〜んみんみんみんみんみ〜ん……み〜んみんみんみんみんみ〜ん……

 相変わらずのセミの大合唱をBGMに、神尾家の庭では別の音が響き渡っていた。

どんどんどんどんどんどん…

 リズミカルな音を立てて金槌を振るう国崎往人。頭に巻いた鉢巻き代わりのタオルと、口にくわえた釘が何となく様になっている。最後の一本の釘を打ち終わり、往人は立ち上がった。
「よし、こんなもんだろ」
 そこへ、妹の空がお盆に載せた良く冷えた麦茶を持ってやってきた。横には観鈴もいる。
「お疲れ様、兄貴」
「お、悪いな」
 貰った麦茶を一息で飲み干し、往人は片づけを始める。
「…往人さん、もう終わったの?」
 観鈴の質問に往人は頷いた。
「おぅ。ばっちりだ」
 往人は今彼が金槌を振るって修理したもの…納屋の扉を持ち上げた。つい先日、晴子がバイクによる体当たりで真っ二つに破壊したものである。当初は大工を読んで直す予定だったのだが、様子を見た往人は自信たっぷりに言った。
「これなら大工なんぞ呼ばなくて良い。俺が直す」
 その発言を聞いた空は疑わしそうな視線を兄に向けた。
「…できるの?」
「任せとけ」
 往人は胸を叩いた。そして、3日目は朝から修理に励んでいたのである。真っ二つに割れた戸板を、納屋の片隅に積まれていた廃材を裏から打って繋ぎあわせたのだ。その手際の良さに空は感心した。
「凄いじゃない、兄貴。見直したわよ」
「これで隙間風無しの生活だ。わはは…」
 工具箱を片付け、笑いながら家の中に戻る往人。空と観鈴も後を追っていく。そうやってしばらくテレビを見ていた時の事だった。
キキーッ!
どっかーん!!

 轟音とともに、家が揺れた。
「…」
「…」
「…」
3人の後頭部に汗が流れた。
「わ、わたし様子を見てくるね…」
 観鈴が立ち上がった時、居間の襖が開いて晴子が現れた。
「お〜今帰ったでぇ〜」
 今夜もご機嫌に酔っているようだ。その背後に広がっている惨劇を、空は確かに見た。
バイクに突っ込まれ、真っ二つどころか粉微塵になっている納屋の扉を。
「…お、俺の苦労は一体…」
 さすがの往人もツッコむ元気すらなくうなだれた。


AIR SideStory

"The 1016th Summer――"

空の旅路

第五回

「遥かなる一万円」



「…」
 往人はひたすら不機嫌そうな顔でビールをぐびり、と飲み干した。まぁ当然ではある。一日の作業の成果を木端微塵にされて怒らないのは、超の付く善人か変人だろう。もちろん往人はどっちでもない。
「居候〜さっきから悪かった言うとるやないか」
 その往人の肩をビシバシ叩いている晴子。空は少し不安そうに2人の様子を見た。晴子は酔いもあるだろうが、納屋の戸板を破壊するのが日常化しているようなので何も感じていないらしい。謝り方も軽いものだ。しかし、往人にしてみれば笑い事ではないのだ。
「あのな、俺がせっかく直してやった戸板だぞ!悪かったで済むか!」
 案の定往人が怒り出した。すると、それにあてられて晴子の目が吊りあがる。
「なんやとぉ?せっかくウチが謝っとんのに不満なんか!!」
 晴子が逆ギレした。こうなると酔っ払い同士2人の舌戦は止まらない。
「あ〜あ…」
 空は溜息を付いて自分も麦茶を飲んだ。観鈴はおろおろしながら2人の様子を見ている。
「毎日毎日突っ込みやがって!バイクにブレーキついてんのかっ!!」
「ええやないか大工さんが喜ぶんやから!!」
 晴子の理屈に空は吹き出しそうになった。しかし、ここで笑い出すとろくな事になりそうに無かったので必死に堪える。
「今日一日かけて必死に直したんだぞ!全く無駄骨じゃねーか!!」
 この往人の言葉に、晴子は決して言ってはならない必殺の一言で応じた。
「何言うてんの。毎日無駄骨やんか。あんたの人形劇は」
ぐさっ!
 どこからともなくそんな効果音が聞こえてきたような気がして、往人と空は心臓を抑えてのけぞった。
「そ、空ちゃん?」
 慌てる観鈴に空は言った。
「い、今のはちょっと痛かったわ…兄貴の相方としては」
 空の方はとりあえず痛いだけだったが、往人の方は立ち直るとその痛みも怒りに変えて吠えた。
「ンだとぉ!?俺が本気になればなぁ、すぐに一万や二万は稼いでやるさっ!!」
「あ、兄貴っ!?それはちょっと…」
 余りに無謀な往人の一言に苦言を呈しようとした空だったが、それよりも早く晴子の反撃が飛んだ。
「本気?本気やて?おもろいやないの。見せてもらおうか、あんたの本気を」
 言うなり、晴子は素早く手を伸ばして往人の人形を取り上げた。
「あっ!?な、何しやがんだテメェ!返せっ!!」
 往人は晴子に飛び掛かって人形を取り返そうとしたが、晴子は酔っ払っているとは思えない素早いフットワークでそれを避ける。逆に、往人はタンスの角で脚の小指を強打してしまった。
「が、がお…あれは痛い…」
 自分がぶつけたように痛そうな顔をする観鈴。
「・・・・・・・・・!!」
「あ、兄貴っ!?」
 声にならない叫びと共に足を抑えて転倒する往人。駆け寄る空。晴子は勝ち誇ったように人形を高く掲げて言った。
「本気やったら、こないな人形を使わんでも金は稼げるやろ。代わりにこれを貸したるからやってみい」
 投げつけられた白い物体を、動けない往人に代わって空が受け止める。それは…
「な、何ですか?これ…」
 空が受け止めたのは、白い奇妙な生物を模したぬいぐるみだった。
「ナマケモノや、ナマケモノ」
 晴子が答えた。空はぬいぐるみを良く観察した。確かに、テレビなどでユーモラスに紹介される事の多い、あの木にぶら下がった不思議生物の面影がある。
 ただ、実物に近づけるか、可愛くデフォルメするかをデザインした人間が決められなかったのか、中途半端にデフォルメされたそのぬいぐるみは…
 一言で言えば、不気味だった。
 これに比べれば、決して万人が可愛いとは言わないとしても往人の人形の方が余程愛敬がある。
「は、晴子さん…これはあんまり…」
 言いかけた空を往人が制した。
「言うな、空。これは俺と晴子の勝負だ」
 目が座っていた。冷静に考えると恐らく晴子の方が全面的に悪いと考えられるのだが、既にそんな事を問題にする理性はこの2人には残されていなかった。
「くくく…見てろよ晴子。今にほえ面かかせてやる」
「ふふふ…やれるもんならやってみぃ」
 闘志をめらめらと燃える炎に変えて対峙する2人を後目に、空は立ち上がった。
「観鈴…寝よっか」
「ほ、ほっといて良いのかな…」
 まだおろおろしている観鈴に、空は疲れた声で言った。
「酔っ払いにまともな話は通じないよ…明日、酔いが醒めて冷静になったところで話すわ」
「にはは…」
 もはや笑うしかない観鈴。2人は部屋に退散したが、その背後で往人と晴子はまだ睨み合ったまま不気味な含み笑いを続けていた。

 翌朝、二人が理性を取り戻していることを期待して食卓についた空だったが、その期待はごくあっさりと裏切られていた。
 食卓に先に付いていた往人と晴子は顔も合わせずにもくもくとパンを食べていた。二人の間に流れる一触即発の危険な空気。どう見ても、昨日の余韻を引き摺っているとしか思えない光景だ。空と観鈴の後頭部に汗が流れた。
「あの…兄貴…」
「お母さん…」
 それでも意を決して空たちがそれぞれの家族に言葉をかけようとしたとき、食べ終わった晴子が立ち上がった。
「行ってくるで」
 ぼそりと言うと、壁のフックに引っ掛けてあったバイク用のヘルメットとゴーグルを取り上げる。そして、往人の横に立った。
「わかってるやろな。三日以内に1万円やで」
 すると、往人も応じた。
「おう。そっちこそ、もし俺が勝ったときは…わかってるよな?」
「当たり前や。ウチに二言はないで」
 睨みあうと、晴子はヘルメットを被りながら玄関に向かい、やがて彼女のバイクのエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえた。
「…兄貴」
 事情が飲み込めない空は往人に声をかけた。
「おう、空と観鈴か」
 往人は打って変わって機嫌の良さそうな声を出した。それは、何の根拠もなく自信を見せる時の兄の悪い癖だった。空は心の中で沸き起こった不安を感じながらも、さっきの二人の会話で気になったことを兄に質す事にした。
「兄貴…晴子さんと何を言ったの?俺が勝ったらとか三日以内に1万円とか」
 兄が無謀な勝負でも晴子に挑んだのではないか、という空の不安は思い切り的中していた。
「おう。三日以内に俺が1万円稼げるかどうかで賭けをしたのさ。もし、俺が勝ったら宿泊費タダでいつまでもこの家にいて良いって言う条件でな」
 まぁ、勝ちさえすれば悪くはない条件だろう。で、問題は負けた時の事だ。
「その場合は、即座に俺たちを家から叩き出すとさ。まぁ見てろよ、この勝負は必ずもら…」
「兄貴のばかあっ!!」
 すぱーん!どんがらがっしゃん!
 空が思い切り振り抜いた必殺のスリッパが往人の側頭部を捉え、椅子ごと床にぶち倒した。
「のごはぁ!!」
 床に伸びた往人に向かい、空が勢い良く言葉を投げつける。
「大きな街で調子のいい日だって三日に1万円なんか稼げたことなかったでしょうがっ!!晴子さんの口車に乗ってそんなバカな勝負受けちゃって!!」
 目を吊り上げて怒る妹に、往人が手を上げてその怒りを制しようとした。
「まぁ待て…まずは俺の話をだな」
 しかし、空はよほど腹に据えかねたのか、往人の言い訳を聞こうともしない。
「あたしたちが叩き出される前にあたしが兄貴の脳みそを頭から叩き出してやるわよっ!!」
 空が必殺のストンピングの構えに入る。しかし、今日の往人は一味違った。態勢を変えて、振り下ろされた空の脚をがっしりと掴む。
「え?きゃあっ!!」
 思わぬ反撃を受けて床に転んだ空に、起き上がった往人が一枚のチラシを突きつけた。
「これを見ろ。こいつが俺の秘策さ」
 え?と間抜けな声を出して空がチラシを見つめる。そこには…
『短期バイト募集。業務:不要品回収。経験、年齢不問。時給650円。お問い合わせは…』
 という一文が書かれていた。
「どうだ。こいつに応募して首尾よく採用されれば安定収入間違いなしだろ」
 往人の言葉に空はこくこくと頷いた。同時に信じられない思いで兄の顔を見上げる。人形使いと言う事にこだわりを持ち、それ以外のバイトを拒んできた往人が、まさかこんな手を打ってくるとは…
「まぁ、人形使いとしてはいささか不本意ではあるがな…兄貴としてこの街にいたいと言うお前の望みくらいはかなえてやるさ」
 その言葉に、空は不覚にも涙がこぼれるのを感じた。往人をスリッパでぶっ飛ばしたことが非常に申し訳ないことに思え、愛想のない黒のトレーナーに包まれた兄の胸にすがりつく。
「ごめんなさい…兄貴…あたしが間違ってた」
「まぁ、気にするな」
 素直になった空の背中をなでてやりながら鷹揚なところを見せる往人。それは美しい兄妹の情愛に満ちた光景だったのだが…
「でも、このバイト、働く時間が3時間だよ」
 観鈴の何気ない一言に、国崎兄妹は硬直した。
「3…時間…?」
「時給が650円で、それ掛けるところの3だから…一日1950円」
「それが3日分で…?」
「えっと…5850円」
…4150円足りない。
「…」
「…」
 しばし沈黙していた国崎兄妹だったが、やがて空がふう、とため息をついた。
「…兄貴…」
「…すまん。そこまでは見てなかった」
 往人が謝ると、空は首を横に振った。
「そうじゃないよ。こうなったらあたしもバイトを探す」
「なに?」
 妹の一言に今度は往人が驚いた表情になった。
「お金が稼げなかったら出て行かなくちゃいけないのはあたしも同じだからね」
 そう言って空はにっこり笑った。
「うむ…観鈴も手伝ってくれ。他にバイト募集のチラシがないか探すんだ」
「うん、わかった」
 こうして3人でチラシをかき回すこと30分。
 わかったのは、バイトの募集がそれ一つしかない事と、募集人数が1人である事。その2つだった。
「…とにかく、ここに電話してみようよ」
 ただ一枚のチラシを握り締め、空は電話に手を伸ばした。

 1時間後…
 例によって観鈴を学校まで送っていった国崎兄妹は霧島診療所の前で別れた。
「それじゃ、兄貴。がんばってくるね」
「おう。気をつけてな」
 診療所の前で人形劇に励む事にした往人と、バイトに行く空。これが二人で相談して決めたシフトだった。
 本来なら、明らかに力仕事であるらしいバイトに行くのは往人が適任だろう。しかし、それでは空が何もする事がなくなってしまう。可能性は非常に低いが、往人の人形劇でも稼げる可能性がある以上はこれが一番いい配置だ。
…あのナマケモノのぬいぐるみを使わなければならないと言うところがとことん不安だが。
「場所はわかってるよな?空」
「うん。観鈴に地図もらってきたから。えっと…」
 スカートのポケットをごそごそと探る空。ややあって取り出した紙片を広げる。
「…」
 そのまま、空は固まった。動かなくなった妹を訝しく思い、往人が空の持っている紙片を覗き込む。
「…」
 それがいけなかった。往人も紙片を見たまま硬直してしまう。
「…なんだ、これは」
「メルヘンではあるよね…」
 しばらくして、兄妹は口々に観鈴の「地図」に対する感想を口にした。観鈴がくれた地図は、ランドマークが文字情報ではなく絵で表現されていたのである。しかも、観鈴の絵はお世辞にも上手と表現できるレベルにない。地図を便りにバイト先を探すどころか、まずはその解読からはじめなくてはならない状態である。
「この、観鈴と晴子さんとあたしたちの似顔絵が押し込められた五角形が家の位置かな?」
 そんな所は凝っている。
「たぶんな。すると、この鉛筆は学校だろう」
 往人が自分の考えを口にした。そこから、二人はこれまでに判明している街の地理を頼りに地図の解読を進めていった。
 十分後。ようやく全ての解読が終了した。どうやら、空の行くリサイクルショップは商店街の真ん中辺りにかかれている謎の一輪車のような絵の場所らしい。
「それじゃ、兄貴。今度こそ行ってくるね」
「あぁ、気をつけて行って来い」
 手を振って兄妹は別れた。霧島診療所の玄関の階段に腰掛けた往人が地面に人形を置く。そして、空は人通りが相変わらず少ない商店街を海の方向へ向かって歩き始めた。

「え?君がバイトの申し込みしてきた人かね?」
 リサイクルショップの店主―ちなみにかなり年配の男性だ―はびっくりした目で空を見つめた。一応、動きやすいようにTシャツとショートパンツと言うラフな服装にして、髪もポニーテールにまとめて来たのだが、それでもやはり基本的に華奢な彼女の身体は肉体労働系には見えない。
「大丈夫かね?重いものを運ぶ仕事だからきついよ」
 心配そうな口調で言う店長に、空は頷いた。
「大丈夫ですよ。あたし、こう見えても体力はありますから」
 強がりでもなんでもなく空は言った。実際、往人と1年間旅をしてきて、お金の無い時にはバスや電車を使わず一日20キロ以上も歩いて移動した事もあるのだ。
「そうかい?…大丈夫かねぇ…」
 店主は訝りながらも結局空のバイトを認めた。実際のところ、ぎっくり腰でどうしても3日は回収に出られないのだが、田舎のこの町ではこうしたバイトに応募してくる人がいるかどうかわからず、駄目でもともと、と言う程度の気持ちで広告を出したらしい。
「それじゃあ、店の横にリアカーがあるから、あれを使ってくれ」
 店主はそう言うと、今日回る家の住所を書いた紙を持ってきた。住所の横にタンスとか電気釜と書いてあるのは、回収する品目だろう。空は観鈴の地図の一輪車の正体がリアカーであるとはじめて気が付いた。
「ではよろしく頼むよ」
「…あの」
 空はそう言って店の奥に戻ろうとする店主を呼び止めた。
「何かね」
「実は、この町に来て間が無いもので地理が良くわからないんですが、地図があったら貸していただけないでしょうか」
 振り返った店主に空は言った。観鈴の地図が事実上役に立たないのでは、こうしてまともな地図を調達する必要があるだろう。
「地図?…わかった。ちょっと待っていなさい」
 店主は奥から地図を持ってきてくれた。都合の良いことに住宅地図である。空は礼を言うと地図を片手にリサイクルショップを後にした。リアカーを引いて道に出ると、人通りの少ない道に陽炎が立っていた。

「うう…暑い」
 炎天下の道を空はずっしりと重くなったリアカーを引いて歩いていた。
「感心してくれるのは良いけど…こうなるとかえってありがた迷惑と言うか…」
 彼女は恨めしそうに背後の荷台を振り返った。予定では小さなタンスと言う話だったのだが、なぜか電子レンジやら衣類の山が追加されている。なぜこんな大荷物になったかと言うと、最初の家のおばちゃんが実に気さくな人だったためだ。
「すいませーん。リサイクル山崎ですけど。引き取りに来ましたー」
 インターフォンを押して、客引きをする時のような営業スマイルを浮かべた空がそう言うと、出てきたのは50がらみの太ったおばちゃんだった。
「まぁまぁ、山崎さんが来ると思ってたのに…あなた山崎さんの娘さん?」
 にこにこと微笑むおばちゃんに空は首を横に振った。
「いえ…あたしはただのバイトです。あの、引き取り依頼の品物は…」
 空が言うと、それを遮っておばちゃんが言った。
「まぁまぁ、若いのに偉いのねぇ…麦茶でも入れるから奥にお入りなさい」
「え?でも、アルバイトが…」
 空は渋ったが、おばちゃんパワーに勝てるはずも無く奥に引きずり込まれ、世間話に延々と付き合わされる羽目になったのである。しかも、気が付くと自分の事までいろいろと聞き出されてしまっていた。例えば話が家族の事に及んだ時の事である。
「まぁまぁ、ご家族はお兄さんだけなの…ご両親は?」
「はぁ…いないですけど」
 空は答えた。母親は死んでいるし、父の事はとうとう聞けずじまいだった。往人も、育ての親の叔父夫婦も国崎兄妹の父親の事は知らないのだ。
「まぁまぁ…若いのに苦労しているのね…おばちゃん感激しちゃったわ…」
 両親がいない事に関しては、幼い時からそれが当たり前で、特に何の感慨もない空の気の無い言葉にも、おばちゃんはやたら感激して涙をぼろぼろとこぼし始めた。
「はぁ…あの…」
 困ったのは空だった。引き取る品物の事を聞き出さなくてはいけないのだが、話のタイミングが掴めない。と思いきや、おばちゃんは涙を拭きながら言った。
「わかったわ。なんでも持って行っちゃいなさい」
「え?」
 空の戸惑いをよそに、おばちゃんは本来引き取り予定だったタンスの他にもいろんなものを持ち出してきた。古い電子レンジ、服など…空は散々要らないと食い下がったのだが、結局押し付けられてしまい、今に至るのだった。
 お昼前、リサイクルショップに戻ってくると、店主は呆れたような目でリアカーに積まれた品々を見た。
「…どうしたのかね、これ」
 説明を求める店主に空が事情を話すと、店主は納得したような顔つきで頷いた。
「そっか…田村さんとこのおばちゃんはやたらと話し好きだったな。それは災難だったねぇ」
「うぅ…」
 空が疲れきった声で頷くと、店主は笑って言った。
「そろそろお昼だな。1時間ほど休んできなさい。午後は1時からで良いから」
「はい、わかりました」
 空は店主に頭を下げ、往人がいるはずの霧島診療所の玄関先へ向かった。

「兄貴〜、調子は?…って、聞くまでもなさそうだね…」
 声をかけてきた空に、往人はうつろな目で頷いた。足元に何かの骨らしきものが転がっているのは、たぶん例によってそれを差し出したポテトを往人が蹴り飛ばした跡なのだろう。その傍らには、死体のようにぐんにゃりと地面にのびているナマケモノ。
…凄惨な様相だった。
「済まん…一円たりとも稼げてない」
 沈痛な声で言う往人の横に座り、空はため息をついた。
「あたしも甘く見てたよ…いろんな意味で疲れる仕事だわ」
 肉体的にも、精神的にも。今度は揃ってため息を付く兄妹。その時だった。
「どうした?やけに不景気そうだな」
 背後から声がした。振り返ると、例によって「通天閣」のTシャツの上から白衣を羽織った聖が二人を見下ろしていた。
「あ、こんにちわ。聖先生」
「よう」
 兄妹の挨拶に手を上げて答え、聖はさっきの質問を繰り返した。
「それで、こんな炎天下に二人揃って暗い顔つきなのは何故なのかな?」
 空が答えようとすると、聖は手を上げてそれを制した。
「まぁ…こんな暑いところで立ち話もなんだ。中に入らないか?昼食ぐらいはご馳走するが」
 往人の目がきゅぴーんと怪しげに光る。
「マジか?」
「うむ」
 重々しく頷く聖に、空も頭を下げた。 

 昼食は良く冷やした素麺だった。
「頂きます」
「ゴチになるぞ」
 そう言って素麺をつゆにつけ始めた国崎兄妹に聖は事情を尋ねた。
「実は…」
 空が往人と晴子の賭けの話をすると、聖はさもおかしそうに笑った。
「それは無謀な賭けをしたものだな、国崎君」
「ほっとけ。一応俺にも成算はあったんだ。誤算になっちまったけどな…」
 そう答えて往人がバイトの話をする。ほぉ、と聖は感心したように言った。
「妹のために節を曲げるか。うむ。姉なり兄なりはそうでなくてはな。見直したぞ、国崎君」
「…そうか?」
 妹至上主義な聖の見解にはとりあえず疑問を呈しておいて、往人は尋ねた。
「ともかく、見つけたバイトも空に肩代わりさせてしまってる状況だし、なんとか稼がにゃならん。聖、この町でここよりも実入りの大きそうな場所はないのか?」
 往人の質問に聖は首を振った。
「この商店街が一番人通りが多いんだ。ここで駄目なら他の場所ではなおさら駄目だろうな」
 彼女の答えはなかなかに絶望的なものだった。かなり大きな街では不可能ではないが、ここでは後3日で人形劇のみで4150円稼ぐなどコンマ以下のパーセンテージしかあるまい。国崎兄妹の顔が重苦しく沈んだ。
「ふむ…なんなら仕事を紹介しようか?」
 だから、聖がそんな事を言い出したときにも、二人はすぐに反応することができなかった。
「…なに!?」
「本当ですか?聖先生」
 聖の言葉の意味を理解して顔をあげた二人に、聖は微笑んで見せた。
「本当だとも。まぁ、うちの診療所の清掃なのだがな。日給は2500円+昼食つき。悪い話ではあるまい?」
 往人と空は顔を見合わせ、そして聖の方に向き直って頷いた。
「お受けします。聖先生」
 空が頭を下げると、聖は「礼には及ばん」と言って空の頭を上げさせた。
「でも…どうして先生はそんなに親切にしてくれるんですか?」
 空は尋ねた。聖には公演場所を貸してもらったり、神尾母娘に次いでお世話になりっぱなしだ。
「うん?人に親切にするのに理由は要るまい」
 聖は微笑みながらそう答えたが、あごに手を当てて少し考える。
「まぁ…強いて言えば、君のお兄さんの芸が気に入った、と言う事。そして、佳乃が君たちを気に入っている、と言う事だな。妹の友人なら私の友人だ」
 何の見返りも求めていない聖の言葉に、空は改めて感謝の意を表して頭を下げる。
「すると、明日は俺がリサイクルショップの方だな。空はこっちを頼む」
 往人が言った。間違いなくその方が適材適所というものである。空にも異存はなかった。
 午後の仕事は特にトラブルもなく、空は一日目の給料を手にした。稼ぎは1950円。
 残りはあと8050円。

 そして、翌朝。空は約束の時間に遅れることなく霧島診療所にやってきた。
「おはようございます、聖先生」
「うむ、おはよう」
 表で開院準備をしていた聖と朝の挨拶を交わし、院内に入ると、そこには佳乃がいた。制服を着ているところを見ると、これから学校らしい。
「あれぇ、空ちゃん。おっはよぉー!」
「うん、おはよう、佳乃」
 朝から高い佳乃のテンションに、苦笑気味に挨拶する空。佳乃は心配そうに空の顔を覗き込んできた。
「空ちゃん、どこか悪いのぉ?」
「ん?そうじゃないよ。しばらくここのお掃除の手伝いをする事になったの」
 空が事情を説明すると、佳乃はぽんと手を打った。
「なるほどぉ。空ちゃんはうちのお手伝いさん1号なんだねぇ」
「お手伝いさんは良いね。まぁ、そういう事になるかな?」
 空が笑いながら答えると、佳乃は満面に笑みを浮かべて言った。
「それじゃあ、がんばってね、空ちゃん!」
「うん。佳乃も学校がんばってね」
「あはは、そっちは苦手だよぉ〜」
 そんな事を言いながらも、表の聖に「行ってきまーす!!」と10軒両隣に聞こえそうな元気な声を張り上げて挨拶し、佳乃は学校への道を走り去っていった。
「さてと…それじゃあはじめますかっ」
 空はモップを取り出し、床磨きからはじめた。

 2時間ほどで中の掃除は終わった。診療時間が始まってから訪れた患者の数は2人。そんなので経営が成り立っているのかどうか不安になる客足だが、聖は「医者がヒマなのは良い事だ」と涼しい顔をしていた。
 空は表の掃き掃除をしようと、ほうきを持って外に出た。
「…あれ?」
 階段のところに、見覚えのある黄昏色の髪をした少女が座っていた。横に座り込んでいる地球外毛玉となにやらおしゃべりをしている。
「わ〜い、ぴこぴこ〜」
「ぴこ、ぴこぴこぴこ」
…おしゃべりと言っても、会話が成り立っているのか、そもそも共通言語があるのかどうか極めて謎だったが。
「おはよう、みちる」
 空が挨拶をすると、少女―みちるは「んにゅ?」と言う彼女独特の疑問詞を発しながらひょこりと振り返った。怪訝そうだった顔が、空の姿を認めて笑み崩れる。
「あ、空。おはよー!」
「ぴこぴこ」
 みちるに続いてポテトも挨拶をする。
「みちる、遠野さんは?今日は一緒じゃないの?」
 空が尋ねると、みちるはちょっと寂しそうな顔で言った。
「んにゅ、今日は学校なんだって」
「学校…?」
 空は首を傾げた。確か、今の時期は補講であって、美凪のような頭の良さそうな娘が補講とは考えにくいと思ったのだが…すると、みちるがすぐに事情を明かしてくれた。
「なんかね、"ぶかつ"なんだって」
「ぶかつ?あぁ、部活ね。それならわかるわ」
 空は頷いた。久しぶりに聞く単語に懐かしさを覚える。空も去年、まだちゃんと高校に通っていた頃は部活に出ていたものだ。
 ちなみに彼女が入っていたのは空手部などの武道系ではない。音楽部である。3歳の時から習っていたピアノの腕はかなりのもの…と周囲には言われていたが、旅をするようになってから持ち歩ける楽器を習っておけば兄の人形劇と競演できたのに…と思う事がしばしである。
「空、国崎往人は?」
 みちるが尋ねてきた。いつも兄妹で一緒に行動していたせいか、空だけがここにいるのが不思議らしい。
「兄貴なら別のところで仕事してるわよ。あたしはここでお手伝い中」
 空は答えた。みちるがちょっとがっかりしたような顔つきになる。
「んにゅ…また人形劇見せてもらおうと思ったのに…ねぇ、ぴこぴこ」
「ぴこっ」
 みちるは往人のことは嫌っていても人形劇自体は気に入っていたらしい。ポテトも頷くように返事をする。
「そう?気に入ってくれてあたしも嬉しいわ。たぶん、おやつの時間の頃には兄貴も戻ってくると思うよ」
 空は言った。バイトそのものは3時前には終わるから、そうすれば往人もここへやってきて今日の公演をやるはずだ。ただ、演じるのはあのナマケモノだ。それはちゃんと伝えた方が良いのだろうか?
「んにゅ、ほんと?それじゃあ、その時にまた来る!」
 悩んでいる空を後目に、みちるは喜んでポテトとダンスを奇妙なダンスをはじめた。それを見ている空の後頭部を一粒の汗が伝う。ダンスを終えたみちるは言った。
「それにしても、空はやさしいよねぇ。ほんと、あの国崎往人と…」
 一瞬口篭もる。それを空が不思議に思うよりも早く、みちるは言葉を続けた。
「…きょうだいとは思えないよ」
 そんなみちるの言葉に、空は苦笑した。
「そうでもないよ。意地っ張りなところとか、そう言うところは兄妹だねってよく言われる」
 空は答えた。実際、空と往人は容姿には似たところはほとんど無いが、性格の根っこは良く似ていると言われている。普段並んでいると、無愛想な往人と、人当たりの良い空では性格がぜんぜん違うように見えるが、意地っ張りなところ、口より先に手の出る気の短さなどはそっくりだ。
 違いがあるとすれば、往人がいつでも地の性格なのに対し、空には一応は他人には遠慮するだけの分別がある事だろう。
「ふ〜ん。そう言うところは変わってないんだね」
 みちるが何気なく言った一言に、空は違和感を感じた。
(なんだろう…みちるは時々あたしたちの事を昔から知ってたような言い方をするけど…)
 その事を空が尋ねようとした時、みちるの喜びの声が響き渡った。
「あっ、美凪〜!!」
 叫んでぶんぶんと腕を振る。空がその方向を見ると、見覚えのある背の高い少女がゆっくりと歩いてくるのが見えた。手には何か布で包んだ物を提げている。
「…こんにちわ、みちる、空さん」
 美凪がぺこりと頭を下げ、空とみちるもそれぞれに挨拶を返す。
「今部活の帰り?」
 空の質問に美凪はこくりと頷いて手に提げていた包みを見せた。
「これから、駅でみちるとお昼ご飯にします。…空さんもいかがですか?」
「美凪のはんばぁぐは世界で一番おいしいんだよっ!」
 すると、あの包みはお弁当らしい。微かに良い香りが漂ってくる。なかなか魅力的なお誘いだったが、空は断る事にした。バイト料に昼食も入っているからだ。それを告げると、美凪は暗い顔をした。
「…がっかり」
 自分で落ち込み具合を表現している。空は慌ててフォローした。
「あ、でも…またそのうちにね!私も遠野さんの料理食べてみたいし」
「…かしこまりました」
 美凪はふわりと微笑み、みちると手を繋いで歩き始めた。みちるが「またねーっ!!」と言いながら手を振る。空は笑顔で手を振り返し…ふと、自分が外の掃除をし忘れていた事に気が付いた。
「あわわ…急がなきゃ」
 その後、昼食には間に合ったが、炎天下でフル回転で掃除をしてへとへとになった空だった。

 昼食後、空は庭の掃除をして、3時ごろに全部の仕事を片付けた。そろそろ、往人が戻ってくる時間のはずだ。聖に挨拶をして表に出ると、そこには既に美凪とみちるが来ていた。
「あれ?遠野さん…遠野さんも見に来たの?」
 美凪はやはりこくり、と頷いた。
「はい…私も国崎さんの人形劇は好きですから」
「ありがとう。ファンが増えてくれるのは嬉しいわ。…ただ、今日はちょっと芸風が変わりそうなんだけど…」
 空は美凪に礼を言いながら、ナマケモノの話をしようとした。その時だった。
「…あ、国崎往人!」
 みちるが反対の方向を指差して叫んだ。空と美凪が振り向くと、その方向からリアカーを引いた往人がやってくるのが見えた。
「…まだ仕事中だったのかしら?って、あれなんだろ…」
 空はリアカーの荷台に、荷物には見えないものが乗っているのを見て首を傾げた。それは、明らかに人間…3〜4歳の小さな女の子だ。何があったのか、ぐしゅぐしゅと泣いている。
「兄貴、その娘は…」
 空が事情を聞こうとするより早く、小さな人影が往人に向かって突っ込んでいった。
「こらーっ!国崎往人ーっ!!」
 みちるだった。往人の目が驚愕に見開かれる。みちるが何をしようとしているのか悟り、次に来る危険に備えて空も飛び出していた。
「この、へんたいゆうかいまっ!!その子をどうする気だーっ!!」
 どぎゃっ!!
 リアカーに拘束されてとっさの回避ができない往人のみぞおちに、みちる渾身の必殺ちるちるキックがめり込んだ。
「うげはぁっ!?」
 その一撃に体内の空気を全部押し出されるような悲鳴をあげた往人が倒れこむ。リアカーのハンドルから手が離れ、必然的に女の子の重みで荷台が後ろへ向けて傾斜していく。しかし、女の子が転げ落ちるよりも早く、間一髪駆けつけた空がリアカーのハンドルを取って傾きを元に戻していた。
「…危なかった」
 危険を未然に食い止めた空がほっとしたような吐息をつくが、往人のほうは収まらなかった。
「お前…先にこっちのガキの方を止めてくれ…」
 苦しげな息の下から切れ切れに抗議する往人。
「ごめん、兄貴。…で、この子はどうしたの?まさかみちるの言うとおりに誘拐してきた訳じゃないでしょう?」
 空が聞くと、往人は何とか上体を起こして頷いた。
「当たり前だろ。そいつは迷子だよ」

 十数分後…
「う〜ん…困ったわねぇ」
 空は腕を組んで考え込んでいた。バイト中に往人が拾ってきた迷子の女の子は、まだ泣いている。
「ぐすっ…えぅぅ…おかあさん…」
 往人の話では、街のはずれの田園地帯を通った時に、道端で泣いていたのを拾ってきたらしい。
「お嬢さん、お名前は?」
 今は美凪が何とかなだめようとしているが、あまりうまく行っていないようだ。子供をあやすとなると、まず往人は論外。みちるは大声をあげすぎて女の子を怯えさせてしまい失敗。佳乃はポテトを見せたが余計怖がられ、聖は挑戦の前に「年の功を見せてくれ」と余計な事を言った往人めがけてメスを投げつけ、それを見ていた女の子に大泣きされる始末。
 空はさっき挑戦したが、どんなに笑顔を見せても駄目で、ちょっと落ち込んでいた。横でポテトが一緒になって落ち込んでいるのがちょっとご愛嬌だ。
「…ほら、これをあげるから泣かないで…」
「…遠野さん、それもらって喜ぶ子供はあんまりいないと思う」
 背後では、お米券をあげようとした美凪が佳乃にツッコまれていた。そして、女の子は泣き止まない。
「遠野さんでも駄目か…」
 聖が打つ手なし、と言いたげに手を広げる。一同が「うーん」とばかりに考え込んだ時だった。
「みんな、何してるの?」
 その声に全員が一斉に振り向く。すると、そこには買い物篭を提げた観鈴が立っていた。リアカーを囲んで考え込む謎の集団を不思議そうな目で見つめている。
「あ、観鈴…実はね」
 空は事情を説明し、女の子をなだめる役を頼んだ。すると、観鈴はにっこり笑って言った。
「そんなの簡単だよ。往人さんの人形劇を見せれば良いんだよ」
 ぽかっ!
 往人のチョップが観鈴の頭に炸裂した。
「イタイ…どうしてそう言うことをするかなぁ?」
 うりゅ…と目に涙を浮かべる観鈴に、往人がナマケモノを突きつけた。
「良いか観鈴。普段の商売道具はお前のおかんに人質にされてるんだ。これで子供が喜ぶと思うか?」
 その不気味な人形に、聖、佳乃、みちるの顔に縦線が入った。その表情が如実に「ダメだこりゃ」と語っている。しかし、一人だけ違った反応を示した人物がいた。
「…かわいい…」
 美凪だった。ナマケモノをうっとりとした視線で見つめている。
「…みなぎ?」
 みちるの後頭部に汗が浮かんだ。普段美凪に同じ視線で見られている彼女としては、自分もあれと同類なのかと言う深刻な疑問が浮かんでしまったらしい。
「…まぁ、そう言う人もいる事だし、ダメもとでやってみようよ、兄貴」
「そうだな」
 往人は空の言葉に頷いてナマケモノを女の子の目の前に置いた。空はかがみこみ、女の子に視線の高さを合わせて優しく言った。
「さぁ、この不思議なぬいぐるみさんを良く見ててね」
 その言葉を合図に、ナマケモノがひょこっと立ち上がった。女の子に向かって一礼し、その場で軽やかに踊り始める。
(…不気味だ)
 美凪を除く全員がそう思った。ナマケモノだって手足は二本ずつであり、人間と同じなのだが、長さのバランスが違うせいか、とても異様な動きをしている。これは失敗だったなとみんなが確信したその瞬間だった。
「う…ふふ…あははっ」
 女の子が笑い出した。全員が「信じられない」とばかりに踊るナマケモノを見つめる。なぜかはわからないが、これは女の子的には非常に面白いものだったらしい。まぁ、あのぬいぐるみが「ナマケモノ」であることを知っている人間には先入観で無気味に見えるが、知らない女の子にとってはヘンな動物がヘンな踊りを踊っているだけの事なのだろう。
「ねぇ、お嬢ちゃん。お名前は?」
 ようやく女の子が落ち着いたと見た空は、すばやく尋ねた。
「さいか」
 女の子が答えた。
「さいかちゃんね。上のお名前は?」
「しの。しのさいか」
 すると、聖がぽんっと手を打った。
「そうか、志野さんところのお嬢さんか。すっかり忘れてたよ」
「なんだ、知っている子か?そう言うことは早く思い出してくれよな」
 往人が文句を言う。
「いや、この年頃の子供は成長が早いからな。すっかり見違えたよ」
 聖はそう言い訳すると、観鈴の方を向いた。
「神尾さん、確か志野さんの家は近所だったな。送っていってあげなさい」
「はい」
 観鈴は素直に返事をして、さいかの手を取った。
「さいかちゃん、お姉ちゃんと一緒におうちに帰ろ?」
「うんっ!」
 さいかは元気良く返事をして観鈴の手を握った。往人はほっとしたようにため息をつくと、リアカーのハンドルを取った。
「それじゃあ、俺はこいつを店に返してくる。空、お前は観鈴と一緒に先に帰っててくれ」
「うん、わかった。気をつけてね、兄貴」
 空は頷いて観鈴の後を追おうとしたが、その前に聖に頭を下げた。
「それじゃあ、今日は失礼します。聖先生」
「あぁ、明日もよろしく」
 聖は頷いたが、ふと何かを思い出したような顔になり、空を呼び止めた。
「君は、今神尾さんの家にご厄介になっているのだったな?」
「えぇ…それが何か?」
 聖の言葉に、空は頷いた。すると、聖は難しい顔をして考え込み、さらに質問してきた。
「そうか…なにか、彼女に…神尾さんに変わった事はあったか?」
「いえ…別に…」
 空が答えると、聖はあごに手を当てて、さらに深く考え込んでいる。やがて顔をあげると、聖は頼み込むような口調で空に言った。
「もし…神尾さんに何か変わったことが起きたら、すぐに私に知らせて欲しい。頼めるかな?」
 聖のただ事でない様子に、空が不安そうな顔つきになった。
「先生…観鈴、どこか身体が悪いんでしょうか?」
 聖は首を横に振った。
「いや、身体は健康だ…だが…何と言って良いか、口では説明が難しいな。ともかく、私の言った事を忘れないでくれ」
 空は困惑した。聖はかなり思いつめた表情をしている。観鈴に関してよほど心配している事がなければこうはならないはずだ。しばらく考えた末に空は答えた。
「わかりました。何かあったら、必ず先生に連絡します」
 聖ならまず間違いなく信頼できる人だし、ずっと観鈴を診てきた先生でもあるのだから、まず大丈夫だろう。
(…あれ?)
 空は今の一瞬の自分の思考に当惑した。
「聖が、ずっと観鈴を診てきた」と言う事を、今の自分は当然のことのように思い出した。なぜ、自分がそんな事を知っているのか?
「空ちゃ〜ん、置いて行っちゃうよ〜!」
「え?あ、い、今行くよ!!」
 空の一瞬の当惑は、観鈴の声に破られた。空は慌てて観鈴たちの後を追って走り出す。それっきり、空はその戸惑いの事を忘れてしまった。

 翌日の夜、神尾家の居間。ちゃぶ台を囲んで晴子と国崎兄妹が座っている。観鈴は入浴していてここには居ない。往人は彼のアルバイト代5850円と空のアルバイト代5000円、合わせて10850円を晴子の前に置き、にやりと笑った。
「ほれ、約束どおりの10000円だ。その850円はおまけでつけてやる。文句はないな?」
 晴子は悔しそうにちゃぶ台の上のお金を睨んだが、ふっと苦笑するような顔になった。
「わかった。ウチの負けや。見直したで、居候。好きなだけこの家に居てええよ」
 晴子は素直に負けを認めた。そして、まじめな顔に戻ったかと思うと、思わぬ事を言い出した。
「ホンマは、賭けの事なんかどうでもええんや。どのみちアンタたちにはしばらくこの家に居てもらいたいと思ってたところなんや」
「…え?」
 兄妹が晴子の言葉に、困ったように顔を見合わせる。
「ウチはこのとおり昼間はずっと家におらへん。観鈴のめんどうなんか見てられんからな…アンタたち兄妹に一緒にいてもらった方が、観鈴も喜ぶはずや。あの娘のそばにいてやってくれへんか?」
 兄妹はしばらく黙っていたが、やがて、往人が口を開いた。
「俺は…別に構わないが」
 空も続けて言う。
「あたしも…もう観鈴のことは友達だと思ってますから」
 二人の言葉に、晴子は頭を下げた。
「おおきに…」
 その晴子の姿を見ながら、空は聖の言葉を思い出し、胸の中に何か不安の影が広がっていくのを感じていた。
(…なんでだろう。みんな、観鈴に見えないところであの娘に気を使ってる。観鈴に何があるんだろう)
 その不安は、やがて現実のものになる。

(つづく)

次回予告

「楽しいはずなのに、どうして…」
突然、泣き始めた観鈴に、異変を悟った空は聖のもとを訪れる。しかし、彼女の発作と時を同じくして、街の少女たちの笑顔には陰りがさしはじめる。
次回、空の旅路第六回
「暗い予感」
お楽しみに。

あとがき

 不定期連載、「空の旅路」もようやっと5回目です。そろそろ記憶だけに頼って書き進めるのがつらくなってきました(爆)。今回も元になるエピソードは原作にもありますが既にぜんぜん違う話ですし。
 今回でほのぼのとした日常は終わり、次回からは次第に観鈴、佳乃、美凪たち街の少女たちの抱く辛い秘密が明らかになり始めます…彼女たちの笑顔を取り戻すための国崎兄妹の奮闘はいよいよこれからが本番です。
 その前に、次こそはちゃんと「AIR」の復習をします。いや、時間がなくて…
2002年2月吉日 さたびー



前の話へ  戻る  次の話へ