さて、鳴美のヘルプ二日目である。店にやってきた鳴美は、着替える前に更衣室の中を見回した。脇に置いてあるバケツとか、ロッカーの中の洗剤の箱などをいちいち持ち上げて、異常のないことを確認する。
「穂村さん、どうしたの?」
 その不審な挙動を見て、チーフが不思議そうな表情で尋ねてきた。
「え? あ、いえ……何でもないです。たぶん気のせいでしょう」
 鳴美はそう答えて、着替えに入った。昨日の嫌な感覚から、鳴美はひょっとしたら盗撮用のカメラでも仕掛けられているのではないかと思い、一応チェックしたのである。
 しかし、怪しげなものは何もなかった。それに、今はその嫌な感覚も消えている。
(うん……気のせいだよね。気のせい)
 自分の着替え中のあられもない格好がビデオに録画され、何かに使われている……などというのは想像するだけで鬱になる。自分も昔そういう画像を見たことがあるから、良くわかるのだ。さすがに非合法のものに手を出したりはしなかったが。
「じゃあ、早く着替えて、今日も張り切って仕事しましょう」
「はい」
 鳴美は頷いて、服の裾に手をかけた。


誰が望む永遠?

第九話:盗み撮りは止めて



 今日も、主なお客は学園に通う部活動中の生徒たちだった。ちょっと違うのは、昨日までは友人と話すことに夢中で、あんまり仕事をしていなかったゆっこたち3人が真面目に働くようになっていた事だ。
「あの子達の反省、本物だったみたいですね」
「そうね。ありがたいわ」
 鳴美の言葉に、チーフが微笑んで答える。昨日の出来事は、さすがに甘えていた彼女たちにも、考えさせる効果があったようだ。
「これで、わたしのヘルプ期間が終わっても、もう大丈夫ですね」
 鳴美が言うと、チーフは彼女の手を取って頭を下げた。
「ありがとう、穂村さん。私ではずっとどうしようも無かった事だったのに、あなたが来たおかげで、解決したわ。なんと礼を言ったら良いか」
 鳴美は顔を真っ赤にした。
「ち、チーフ……そんな、やめてくださいよ。わたしなんて大した事はしてません」
 そう言いながらも、鳴美は嬉しかった。ここ数年間、彼女はほとんど肯定的な評価を受ける事が無い生活を送って来た。鳴美(孝之)に好意を持って接してくれた人と言えば、今の仕事先の店長、源さんと愛美くらいだろう。あとはまぁ、まゆも比較的好意的だったとは思うが、彼女が入ってすぐに解雇されたので、付き合いが短かったからなんとも言えない。
 だから、人に好意をもたれる、と言う事は鳴美にとっては非常に嬉しい事だった。女の子になってしまった事は未だに慣れない事も多いし、納得もしきれてはいないが、こんな時は人生やり直す機会を得られた事を感謝したくなる。
(誰に感謝すれば良いのかわからないけど……やっぱり神様?)
 まさかそれが、今自分の「姉」として一緒に生活している女性だとは、当然知る由も無いが、世の中には知らない方が幸せと言う事もある。

 それはともかくとして、ヘルプを引き受けてよかった、と幸福感に浸りつつ、鳴美は午前の仕事を終え、休憩に入ろうとした。ところが、休憩室に入った瞬間、鳴美は異常に気がついた。
「うわっ、何これ! あっつーい!!」
 部屋の中が異常に暑かった。慌ててクーラーのスイッチを見るが、液晶パネルには何の表示も出ていない。
「電源切れてるのかな……よいしょっと。あれ?」
 鳴美は電源スイッチを押したが、何の反応も無い。パイロットランプも切れたままだ。何度押してもダメである。
「壊れてるのかな……朝はなんとも無かったのに」
 鳴美は首を傾げつつ考えた。まずは店長に報告しなくてはならないのだが……
(行くの嫌だけど、そうも言ってられないか)
 仕方なく、鳴美は店長室のドアを叩いた。今日も反応がないので、そのまま中に入り、奥のドアをノックする。
「店長、穂村ですけど」
「や、やあ。鳴美ちゃん。どうしたのかな?」
 相変わらず、ハァハァと荒い息をつきながら、店長が出てきた。
「実は……」
 鳴美が事情を話すと、店長も休憩室へ行き、エアコンのスイッチを何度か押してみた。
「な、なるほど。確かに壊れているようだね」
 店長は何度も頷くと、鳴美の方を向いた。
「今日のうちに、修理を呼んでおくよ」
「はい、おねがいします」
 鳴美は頭を下げた。彼女はもうこの休憩室を使うことはあまりないが、他の店員たちは使うのだろうから、故障を放って置いては気の毒である。
「それより、こんな暑い部屋じゃ、お昼ご飯も大変だろう。ど、どうかな。ボクの部屋へ来て食べないかい?」
「え」
 鳴美は固まった。確かに店長室はクーラーが効いていたが……
「それは悪いから遠慮しますよ」
 鳴美は答えた。この変態にじっと見られながらでは、くつろげるはずもない。
「ま、まぁ、そう言わずに」
 それでも店長は食い下がろうとしてきたが、鳴美はきっぱりと言った。
「ですから、良いですってば」
 そう言われても店長はあきらめ切れない様子だったが、やがてあきらめたのか去っていった。鳴美はため息をついて休憩室の中に入ると、扇風機のスイッチを入れた。さすがにこっちは壊れていなかった。
「ふぅ……あ〜〜〜〜〜、これでもまだちょっと暑い〜〜〜〜〜」
 風を浴びつつも、汗が吹き出てくるのは止められない。仕方なく、鳴美はちょっと制服の胸元のリボンを緩め、指で襟を引っ張って風を入れた。
 そこへやはり休憩に入るチーフがやってきた。やはり室内の温度に顔をしかめる。
「なぁに、この暑さは?」
 鳴美が事情を説明すると、チーフは仕方ないわね、と言って向かいの席に座った。服を緩めた鳴美を見て、ちょっと苦笑する。
「穂村さん、だらしないわよ?」
 そう言うチーフの視線が、はだけた胸元からちらりと見える、鳴美の白いジュニア用ブラに向けられているのに気づき、彼女は赤面した……が、どうせ女同士だからいいやと思い直す。
「暑いんだから仕方ないですよ〜。チーフさんもどうですか?」
「そうね、これはちょっとたまらないわね」
 チーフはそういって軽く胸元を緩めた。もともと「すかいてんぷる」の制服は胸元が広く開いているのだが、こうすると余計にセクシーに見える。チーフは背こそ低いが一応大人で、それなりに胸があるからなおさらだ。
 そうやってしばらく涼んでいた二人だったが、気を取り直して服を戻すと、昼食のまかないを貰いに厨房へ行った。ところが、出てきたものを見て、二人はほっぺではなく顎が落ちそうになった。それは熱々のグラタンだった。
「あの、料理長、これ……」
 鳴美がまだふつふつと表面が滾っているグラタンを指差しながら言うと、料理長はにっこり笑った。
「美味そうだろ? クーラーがんがんに効かせた部屋で、熱いものを食べる。まさに最高の贅沢だね」
 確かに美味そうではあるのだが、今食べるのはかなり厳しい。チーフがクーラー故障の話を伝えると、料理長は頭をかいた。
「え? そうだったのか。知らなかったな……冷製パスタとかに変えるかい?」
「うーん……でも、もったいないですから」
 鳴美は首を横に振った。愛美との生活で貧乏が板についてきた彼女にとって、出された食べ物を残すのは主義に反する。
「そうですね。せっかく作っていただいたものですし」
 チーフも同意すると、料理長はまた頭をかいた。
「そうかい? 悪いね。後でフラッペをご馳走するから、勘弁してくれよ」
「本当ですか? その方が嬉しいかも」
 鳴美は笑った。一品おまけがつくなら、その方が得だし嬉しい。そこで、彼女はチーフと一緒に休憩室へ戻り、グラタンを食べ始めたのだが……
「う〜〜〜〜〜、暑い! 予想以上に暑い!!」
 ちょっと食べただけで、鳴美は汗びっしょりになっていた。制服が透けるほどの汗の量だ。
「こ、これは失敗だったかな、やっぱり」
 チーフも赤い顔で息をついている。確かにグラタンそのものは美味しかったが、ほとんど我慢大会のノリだった。
 それでもなんとかグラタンを食べてしまうと、鳴美は席を立った。
「あら、どうしたの?」
 まだ食べている最中のチーフが不思議そうな表情で聞いてくるのに、鳴美は手で顎に溜まった汗を拭いながら答えた。
「更衣室まで。あっちの方が涼しいですし、ついでだから着替えてきます」
「そうね。私も後でそうするわ」
 チーフの同意の言葉を背に、鳴美は休憩室を出て、隣の更衣室に入った。さすがにこっちのクーラーは生きている。
「はふぅ……生き返る〜」
 心地いい冷気に身を委ねた鳴美だったが、すぐに寒くなってきた。びしょ濡れの制服を着たままなので当然である。
「いけない、早く着替えないと」
 鳴美は身震いすると、制服を脱いだ。そして、あの「感覚」を感じた。
「……これは……!?」
 間違いない。誰かに見られている。鳴美は着替えるのをやめて、今朝探したような場所をひっくり返し始めた。
「……穂村さん、どうしたの?」
 そこへ、手でパタパタと顔を扇ぎながらチーフがやってきた。床に這っている鳴美を不思議そうな目で見ている。
 しかし、鳴美はそれに答えるどころの騒ぎではなかった。彼女はついにそれを見つけていたのだ。
「チーフ、これ!」
 それを取り上げた鳴美は、チーフの方にそれを掴んだ手を向けた。
「え? なに、これ」
 チーフはきょとんとした表情で「それ」を見た。鳴美の手から、黒いワイヤーのようなものが垂れ下がり、その先端に小さな機械がついている。
「盗撮用の仕掛けカメラです。わたしたち、盗み撮りされていたんですよ!」
「……なんですって!?」
 さすがにチーフも事の重大さに気がついた。ここで着替えをしていた時のあられもない姿が、全部このカメラを通してどこかの誰かに見られているかもしれないと思うと、寒気がする。
「ど、どうしよう? 穂村さん」
 おろおろするチーフに、鳴美は手にしたカメラを渡した。
「おちついて、チーフさん。とりあえず、他にもないか探して見ましょう」
「そ、そうね」
 チーフはカメラを壁際のパイプ椅子のそばに置くと、鳴美と一緒に物陰をあさり始めた。その結果……
「よくもまぁこんなに……」
 チーフが呆れたように言った。十分後、彼女たちの前に並んだ隠しカメラは、六台にのぼっていた。
「まだあるかもしれないですけどね」
 鳴美はカメラにふわっとタオルを掛けて、映像が取れないようにした。
「でも、おかしいですね……」
 鳴美の言葉に、チーフが顔を上げる。
「何が?」
「だって、わたし今朝もこういうのがないか探してみたんですよ?」
 そう答えて、鳴美は昨日からなんとなく見られているような嫌な感じがしたことと、そこから隠しカメラでもあるんじゃないかと言う予測を立てて、今朝更衣室をチェックした事を話した。
「そういえば、そんな事をしていたわね」
 チーフが頷き、続いてそこから導き出される予想を口にした。
「すると、今働いている人たちが、ホールに出て行った後で、このカメラは仕掛けられたと言うことね」
「そうなりますね。で、昨日も仕掛けられていたとすれば、わたしたちが出勤してくる前には外されていた……」
 そこで二人は顔を見合わせた。その先の事は、いくら相手がアレでも、言ってはいけない気がした。
 しかし、言わないわけにも行かない。鳴美は意を決して先を続けた。
「わたし、こういうことをしそうな人に、心当たりがあります」
「奇遇ね、私もよ」
 そこでまたしばらく顔を見合わせると、二人は「心当たり」のところに向かった。

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「い、いや。それは僕じゃないよ」
 心当たり――変態店長は首をぶんぶんと横に振り、容疑を否定した。
「とぼけないでください。あなた以外にこれができる人がいますか!?」
 チーフが店長のデスク上に仕掛けカメラを置き、バンバンと机を叩く。まるで刑事ドラマに出てくる鬼刑事のような仕草だった。よほど、店長相手にフラストレーションが溜まっていたのだろう。
「そ、そう言われても、知らないものは本当に知らない」
 チーフの迫力に圧されたのか、冷や汗を流しながら言う店長。とぼけているようにも見えるが、鳴美はなんとなく違和感を抱いた。
(……なんか、シラを切っているように見えないな)
 本当に店長は何も知らないように見える。状況から見て、店長以外にカメラを仕掛けられる人はいない。それは確かなのだ。
 確かなのだが、それでも店長が嘘をついているようには、鳴美には思えなかった。それどころか、これまでろくな目にあわせてくれなかった、この忌むべきはずの人物に、何故か自分と共通した部分さえあるような気がしてきた。
(いやいや、そんなはずは……ん? 待てよ……)
 その一瞬の思いを振り払おうとして、鳴美はある事を思い出した。
 それは、彼女が孝之だった頃、店を解雇されるきっかけになった事件だった。あゆを襲おうとした、と無実の罪を着せられ、全力でそれを否定した時の自分の姿。それが店長にダブって見えたのだ。
(……そういうことか。店長は変態だけど、今回の一件については犯人じゃない)
 鳴美にとって、それは確信に似た思いだった。まだ怒りながら店長を問い詰めているチーフに、鳴美は声を掛けた。
「チーフ……店長は犯人じゃないかもしれませんよ」
「え?」
 振り返ったチーフが、困惑した表情を浮かべていた。
「でも、他に考えられないでしょう?」
 確認するように問いかけてくるチーフに、鳴美は頷いた。
「ええ。確かに店長ならカメラを仕掛けられますし、動機も十分です。でも、何か引っかかるんですよ」
 鳴美はそう言うと、店長の方を見た。
「店長さん、この部屋の裏でいつも何をしてるんですか?」
 その質問を聞いて、店長ではなくチーフがあ、と言う表情になった。店長が裏の小部屋にこもって何かしているのは知っているはずだが、何時もの事なので、気にも留めなくなっていたらしい。
「やましい事がないなら、見ても大丈夫ですよね?」
 畳み掛けるように、鳴美はにっこりと笑顔を浮かべて聞いた。内心では嫌だなぁ、と思っているが、自分のこの笑顔が店長みたいな人間にどんな効果をもたらすかについては自信がある。
「う、裏の部屋? それは構わないけど」
 店長はためらい無く言った。立ち上がり、奥のドアに歩み寄ると、そこを空けた。鳴美は後ろからひょいっと中を覗き込んだ。チーフも一緒だ。
「こ、これは……?」
 チーフが戸惑ったような声を出す。そこは恐ろしく狭いスペースで、壁には機械が積み上げられていた。
「サーバルーム……ですか?」
 鳴美が聞いた。壁に積まれた機械は、どう見てもコンピュータの類だった。それも個人用ではない。
「う、うん。支給されるPCの性能がショボイんでね、前からこつこつとこれを作ってたんだ」
 店長は言った。アニメのヒロインがくるくる踊っているスクリーンセーバーを解除すると、そこには仕事上の帳簿らしきファイルが出現する。鳴美が見てもわかるものではないが、裏に篭っているだけに見えて、ちゃんと仕事はしていたらしい。
 まぁ、趣味丸出しの経営で店が維持できているのだから、意外と変態店長は有能な人材なのかもしれないと思うと、鳴美は妙に納得した。
「なるほど……ちゃんと仕事をしてたのはわかりました。でも、こっそり隠し撮りしたビデオを見てたりしてるんじゃないんですか?」
 まだ険しい表情でチーフは言ったが、鳴美は首を振った。
「大丈夫だと思いますよ。ビデオデッキの類は見当たりませんし……ちょっと、マシンをいじっても良いですか?」
 鳴美は店長が頷くのを確認して、キーボードを借りると、動画ファイルの検索を掛けた。しかし、そういったファイルは見つからなかった。プログラムを見ても、動画編集ソフトなどは見当たらない。
 もちろん、店長が家でビデオをいじっている可能性は皆無ではないが、もう彼女はそこまで疑うこともないだろうと思っていた。
「一応、店長が犯人じゃないって事は信じることにします」
 鳴美は言った。
「そうなると、真犯人が別にいるので、それを探さなきゃいけないですが」
「そ、そうだね。潔白を晴らすためにもそうしないと」
 頷く店長。そうなると、鳴美としても打つ手は一つしかない。
「たぶん、犯人は店が閉まった後で、こっそり忍び込んではカメラを仕掛けたり回収したりしてるんでしょうね。今夜、それを待ち伏せましょう」
「警察には言わなくていいの?」
 チーフが言った。
「今呼ぶと大事になりますからね。犯人を捕まえてからの方が良いと思いますよ」
 客商売で警察沙汰になることのデメリットは計り知れない。もちろんそれは表向きの理由で、鳴美としては、できれば警察には近づきたくなかったのだ。何しろ、彼女は戸籍の無い人間である。もしその事がバレたら、いろいろと面倒なことになるのは確実だ。
 鳴美の言葉に、チーフはまだ若干腑に落ちないような表情だったが、とりあえず頷いた。こうして、一応首脳部に合意ができると、鳴美は厨房スタッフに応援を頼んだ。普段から重い業務用のフライパンや鍋を振り回している彼らの腕っ節は頼りになる。
「なに、盗撮犯だって? ふてぇ野郎だ。よし、任せとけ」
 料理長が分厚い胸板をドンと叩いて請け負い、犯人の待ち伏せを夜に仕掛けることが決められた。

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 そして、夜になった。既に女子は鳴美を除いて帰されており、店内では店長や料理長などの男性陣が待機している。鳴美も帰されそうになったのだが、第一発見者兼、犯人捕獲作戦の立案者ということで、ここに居残ったのだ。一応、愛美が心配するといけないので、家には残業で遅くなると電話をしておいた。
 9時に閉店してから1時間後、更衣室の天井近くにある通風口のシャッターが静かに外された。
「来た!?」
「……静かに!」
 中の様子が伺えるよう、更衣室のドアは開けられていて、待ち伏せ役の店員たちはそこからじっと中の様子を伺っていた。彼らが見守る中、シャッターを外した影はそこを潜り、中に飛び降りると、昼間に鳴美が見つけたカメラの隠してあった場所を探りだした。が、カメラが見つからないことに不審を感じてか、首を盛んに傾げている。
 今だ、と鳴美が合図をすると、厨房スタッフたちは手にした擂り粉木やフライパンをかざして、更衣室に乱入した。
「おいお前! 盗み撮りをしてたことはバレてるんだ。おとなしく捕まれ!!」
 料理長の怒声に、怪しい人影は一瞬立ちすくんだが、思わぬ行動に出た。身軽に入ってきた通風口に飛びつき、一挙動で身体を持ち上げる。まるでサーカスのような動きだ。
「あっ、逃げるな!!」
 厨房スタッフたちがそいつを引き摺り下ろそうと殺到したが、その時にはその影は店の外へと脱出を果たしていた。
「ちくしょう、逃がすな!」
 厨房スタッフたちが反転して店の外へ向かうが、その時には鳴美が先に店外へ向かっていた。もちろん、戦うとか足止めするとかは思いも寄らない事だが、せめて相手の逃走方向くらいは掴んでおきたい。
……と思ったのだが、裏の駐輪場へ出た鳴美は、それとばったり正面から遭遇することになった。
「え」
 思わぬ成り行きに硬直する鳴美。相手を見ると、黒い服の腕部分が大きく裂けている。どうやらあせって逃げようとして、店と隣のビルの隙間を抜けるときに、何かに引っ掛けたらしい。
(それで、意外にここへ来るのに時間がかかったのか……って、落ち着いてる場合じゃなぁい!)
 しかし、我に返った鳴美がアクションを起こすより早く、相手が先に動き出していた。見つかったことで逆上したのか、手にした何か……バールのようなものを振りかざしている。
「あ、あぶない!」
 その瞬間、横合いから飛んできた何かが、犯人の身体を吹っ飛ばした。そのままもつれ合うようにして転がって行き、壁に激突する。
 店長が犯人に渾身の体当たりをかましたのだ。体重百キロはありそうな店長の一撃は強烈だった。
「く、この、ちくしょう!」
 犯人がわめきながら、自分にのしかかっている店長の身体をバールのようなもので乱打するが、どかすほどの力はないらしい。そうしている間に厨房スタッフが追いついてきて、犯人をフクロにしてしまった。
「店長、大丈夫ですか!?」
 犯人がボコられている横で、まだ地面に転がっている店長に、鳴美は近寄った。かなり殴られたらしく、鳴美を見上げると、鼻血がつっと出てきた。
「や、やあ、大丈夫かい?」
「わたしは平気ですけど……今、救急箱持ってきますね」
 鳴美はそう言ってきびすを返そうとしたが、店長に呼び止められた。
「ぼ、僕は大丈夫だよ。それより君にケガが無くてよかった」
 その真情の篭った言葉に、思わず鳴美は足を止めていた。忌み嫌ってやまなかった変態店長の言葉なのに、何故か心臓がどきどきする。
「え……その……ありがとうございます」
 思わず間抜けな返事をしてしまう。人に優しくされたり、大事にされた経験に乏しい鳴美は、こういう台詞に弱かったのだった。
「ぼ、僕としては、君にそばにいてもらうほうが、痛みも和らぐなぁ」
「え、あ……」
 連続してそんな事を言われ、鳴美は顔が熱くなるのを感じた。
(え、うそ、どうしよう。こんな店長に言われてることなのに、何でどきどきするんだろう?)
 血が上った頭と心臓の高鳴りで平静さを失いかけていた鳴美だったが、ふとあることに気づいた。店長は仰向けに地面に倒れていて、自分はそのそばに立って……
「――!!」
 鳴美は慌ててスカートの裾を押さえた。その瞬間、店長の顔に一瞬残念そうな表情が浮かび……しかし、続けてこう言った。
「そ、その仕草も萌え萌えだなぁ」
「少し見直してたとこなのに、何が萌え萌えだ、このばかぁ!」
 鳴美の蹴りが店長にトドメを刺したのは言うまでも無い。

 何はともあれ、盗撮事件は解決した。結局、犯人は近所に住むロリコン気味の変態であったらしい……というのは、いつもの店に帰ってから知ったことである。
(そんなのが複数この世にいるなんて。あー、やだやだ)
 そんな事を考えていると、誰かが後ろ四十五度から鳴美の頭にチョップを入れた。
「痛い! 何をするんですか!!」
 涙目で振り向くと、鬼の形相のあゆが仁王立ちしていた。
「ぼっとしてないで、仕事せんかい! あんたがいない間大変だったんだかんね!!」
 その言葉とともに、鳴美はホールに蹴り出された。
(うう、変態でなく、わたしに優しくしてくれる人のいる所に行きたい……)
 蹴られたお尻の痛みに耐えつつ、そうつぶやく鳴美。彼女の幸せはまだまだ遠い。

(つづく)



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