鳴美が愛美と暮らし始めて、一週間が経った。ナースと言う職に就いている愛美は相変わらず多忙で、帰宅が深夜や早朝になることも珍しくない。
 鳴美は姉が仕事に出ている間、部屋を掃除したり、食事を作ったりと「主婦業」に専念していたが、ある日部屋を片付けていると、一冊のノートを発見した。几帳面な愛美らしく、綺麗につけられた家計簿だった。
「……うーん、これは」
 その内容を見て、鳴美は唸った。二人暮しを始めてから、食費などが一気に増え、決して豊かとはいえない穂村家の財政を圧迫している。
「……わたしも仕事探そうかなぁ」
 愛美を助けるためにも、昼間の空いた時間を有効活用すべきだろう。そう決意した鳴美は、さっそく近所のコンビニに行って、アルバイト情報誌と履歴書を買ってきた。いざ書かん、と意気込んだ所で、はたと気付く。
「そう言えば、わたしの経歴はどう書けば良いんだろ?」


誰が望む永遠?

第五話:天敵登場



 結局、履歴書には自分の「本当の経歴」を4年分ずらしたものを書き込んだ。行くのはバイトだから、細かく詮索される心配は無いだろう、と言うのが鳴美の考えだった。
 それが終わったところで、早速情報誌を読み始める。せめて自分の食い扶持は自分で稼がねば……という決意の元、読み進めること数十分。いくつかの候補にラインマーカーで線を入れていると、愛美が帰ってきた。
「ただいま〜」
「おかえり、お姉ちゃん。今ご飯用意するね」
 早速夕食を準備しようと立ち上がる鳴美。愛美はそこで妹が読んでいた物に目を止めた。
「アルバイト情報誌? 鳴美ちゃん、アルバイトしたいの?」
「うん、昼間はどうしてもヒマだから、何かしたくなって」
 鳴美は本当の理由は言わずに答えた。家計簿を見てしまったことを言えば、愛美に気を使わせてしまうかもしれない。それは鳴美の望むところではなかった。
「アルバイト……ねぇ」
 愛美は妹が読んでいた情報誌を取り上げて、ぱらぱらとめくっては既にチェックが入っているところを見た。鳴美が選んだのは、コンビニや書店などの、比較的無難そうなところばかりである。
「実は、もう何ヶ所か電話してて、明日三回くらい面接なんだ」
 鳴美は言った。すると、愛美は妙に心配そうな表情になった。
「手回しがいいのね。でも、大丈夫かしら……?」
「え、何が?」
 姉の様子に首を傾げる鳴美。
「そうね……鳴美ちゃんはしっかりしてるから大丈夫だとは思うんだけど、でも……」
 愛美は何か懸念があるらしいが、その正体についてははっきりと言おうとはしなかった。鳴美がその懸念の正体を知るのは、翌日の事である。
 
 夕暮れ時、カラスが鳴き交わす公園で、鳴美はしょんぼりした表情でブランコに腰掛けていた。
「うう……全部蹴られるなんて」
 この日、鳴美はバイトの面接に行ったのだが、ことごとく落ちてしまっていた。理由は言うまでもなく、彼女の幼すぎる容姿にある。どこの店主もいちいち確かめたりはしなかったが、仮に18歳なのが本当だとしても、見るからに小学生の女の子にバイトをさせるのには二の足を踏んだ。
 愛美もそうなる事を予測していたのだろう。鳴美とて自分の容姿を意識しないではなかったが、そこまで強い影響があるとは思わなかった。
 いや、敢えて思いたくなかったのかもしれない。
 そうやって鳴美がぼんやりと夕暮れの風景を見ていると、声を掛けてくる人がいた。
「あれ? 鳴美ちゃんじゃない?」
「あ……水月……さん?」
 仕事帰りらしいスーツ姿の水月が立っていた。ふと、鳴美は彼女にモデルのバイトをしないか、と言われていた事を思い出した。
「あの、水月さん、前の仕事の事……」
 それがどうなったのか、鳴美は水月に尋ねてみた。すると、水月は思いがけない返事をした。
「あれなら、採用はほぼ決まりよ。正式な連絡はまた後で行くと思う。ただ、実際に働いてもらうのは、たぶん冬の新製品発表の時だから、まだ何ヶ月か先だけど」
「そうですか……」
 鳴美がため息をつくと、その様子が何かおかしい事に気付いた水月は、明るい声で話し掛けてきた。
「何か悩みでもあるの? 良かったらお姉さんに話してみなさい」
 鳴美は苦笑した。本来なら、彼女と水月は同じ年齢であり、お姉さんぶられるのは変である。とは言え、既に本来なら年下の愛美を「姉」として暮らしているのだから、今更かもしれないが。ともかく、鳴美はバイトを探していたが、面接で全部落ちた事を伝えた。
「そうなんだ……それは大変だったわね」
 水月が言う。その口調には、真剣な響きが篭っていた。
「やっぱり、こんなちみっちゃくては良いバイトはできないのかなぁ……」
 鳴美が言うと、水月が何かを思いついたように、ポンと手を打った。
「そうだわ。鳴美ちゃん、今ヒマ?」
「え? それはまぁ、ヒマだからこうしてボーっとしてるんですけど……」
 鳴美が面食らったように答えると、水月はニッコリ笑って、鳴美を手招きした。
「ちょっと心当たりがあるんだけど、お茶がてら一緒しない?」
 良くわからなかったが、鳴美は水月の招きに応じて、彼女の後について歩き出した。しかいs、数分後、彼女が案内されたのは、記憶の中にあるトラウマを刺激されまくる場所だった。
 
「こ、ここは……」
 それは、羽根をイメージした意匠があちこちに飾られたファミリーレストラン……「すかいてんぷる」。鳴美がまだ孝之だった頃の仕事場だった。
「ここ、なかなか美味しいのよね。店員は変わってるけど……ささ、入って入って」
 立ち尽くし呆然とする鳴美は、水月に追い立てられるように店内に入った。その内装や雰囲気は、彼女がいた頃とほとんど変わるところは無い。
「いらっしゃいませー。お二人様ですか? ……って、速瀬さん?」
 朗らかな声と共に、鳴美よりちょっと背が高い程度の、小柄なウェイトレスが現れた。頭に変な黒猫の髪飾りをつけているのが特徴的だ。
 彼女の名前は玉野まゆ。これでも、もうこの店ではベテランの域に入る。常連である水月とも顔見知りだ。
「こんにちわ、玉野さん。席空いてるかしら?」
「はい、空いてますよー。どうぞこちらへ」
 まゆに案内され、鳴美と水月は席に座った。まゆはさらにおしぼりとお冷やを持ってきて、二人の前に置いた。
「ごゆっくりどうぞー、で、こちらの方は?」
 やはりまゆは見慣れない鳴美の存在が気にかかっていたらしく、興味津々の表情で尋ねて来た。
「あ……わたしは穂村鳴美と言います」
「ナースの穂村さんの妹さんよ」
 鳴美の自己紹介を水月がフォローする。愛美もこの「すかいてんぷる」の常連なので、まゆは彼女の事を知っていた。しかし、鳴美の存在は初耳である。
「まことかっ!?」
 まゆは奇妙な疑問の声をあげた。彼女は時代劇ファンで、時として会話にこうした日常では絶対に使いそうも無い言葉が混じる。
「まことよ」
 水月が言うと、まゆはへぇ〜、と感心した声を出して鳴美を見た。
「穂村さんに妹が……ぜんぜん知りませんでした」
「あ、わたしとお姉ちゃんは、最近まで別々に暮らしてましたから……」
 鳴美は事情を説明した。すると、そこにドスドスと言う妙に迫力のある足音が近づいてきた。それを聞いた瞬間、鳴美の背筋に寒気が走り、記憶の奥底にしまいこまれたトラウマが目を覚ました。
「くぉ〜ら、まゆまゆっ! あに仕事サボッてんのさ!?」
「あっ、せんぱい!」
 まゆがまずいところを見つかった、という顔をする。彼女が「せんぱい」と呼ぶ存在――まゆと同じくらい小柄な少女は、テーブルの横で立ち止まった。胸には「大空寺」のネームプレートがつけられている。
 この魔竜でも出現しそうな苗字を持つ少女は大空寺あゆ。実はこの「すかいてんぷる」を経営する大空寺財閥の一人娘で、社会勉強のためにこうして一介のウェイトレスに身をやつしているのだ。
 そして、鳴美にとっては、自分をこの店から追い出した元凶である。ケンカ中に彼女を押し倒すような姿勢になってしまったのを目撃されたのが、今にいたるケチの付き始めの一つだった。
「すいません……今すぐ仕事に戻りますー」
 まゆは頭を下げ、ぱたぱたと走り去っていった。残ったあゆは制服のエプロンのポケットからPOSを取り出した。
「ご注文は?」
 言葉遣いは丁寧だが、妙に態度が大きいと言うか、威圧的な感じだ。しかし、慣れている水月は気にも留めずに答えた。
「あたしはブレンドコーヒー。鳴美ちゃんは?」
「あ、わたしはカフェオレで……」
 鳴美が答えた瞬間、あゆの眉がぎりりと吊り上がった。
「なるみぃ〜〜?」
 同時に殺気が吹き出し、鳴美の身体を撫でる。その瞬間、鳴美は身体を竦みあがらせた。
「ひうっ……」
 喉が鳴り、冷たい汗が全身に吹き出す。見る影もなく貧弱になったこの身体では、誰に対しても勝てそうもないだけに、かつては互角以上に渡り合っていたあゆに対しても、恐怖が先に立つ。
「ああ、ええと、その娘の名前。孝之とは無関係よ」
 水月が言うと、あゆは戦闘態勢を解いたが、表情は不愉快そうなままだった。
「ふーん。まぁいいさ。私だってあんなクソ虫の事は忘れたいわよ」
 酷い言い様であるが、孝之とあゆがとことん虫が合わず、しょっちゅう対立していたのは水月も知っている。
「あはは……それより、店長さんいるかしら?」
 水月が苦笑しながら言うと、あゆはこくりと頷いた。
「いるわよ。それがどうかした?」
 あゆの質問に、水月は鳴美のほうを指していった。
「鳴美ちゃんのバイト先を探してるのよ。ここはどうかと思って」
「ええっ!?」
 鳴美は驚愕した。同時に、あゆがギロリと彼女を睨んだ。
「はん? コイツが?」
 あゆはしばらくじっと鳴美の顔を見ていたが、微かに笑顔を浮かべて言った。
「まぁ、良いわ。店長に聞いてみる」
「え? でも、今履歴書持ってない……」
 夕べ書いた履歴書は、全部今日の面接先に提出してしまっていた。
「履歴書? あにさそれ。私はそんなの出さなかったわよ」
「え」
 あゆは鳴美の言葉を軽く一蹴する。何しろ、オーナーの娘なのだから、履歴書など全く必要ない。それ以前に、彼女がここで働き始めた時の店長は完全なロリコンで、あゆなら履歴書不要で好みだけで採用になる可能性が高かった。
 しかし、鳴美はあゆではないし、今の店長は真面目な人だ。外見だけで採ってもらえるほど甘くはない。だから出直して来たいのに……そもそも、自分を陥れたあゆのいる職場では働きたくないのに、鳴美はあゆにずりずりと引きずられ、奥の店長室まで強制連行された。
  
「君を採用します」
 耳に飛び込んできた言葉に、鳴美はわが耳を疑った。店長はちょっとした面談だけで、あっさりと鳴美の採用を決めたのである。
「あの、本人が聞くのもなんですけど、良いんですか?」
 履歴書も出していないのに、と恐る恐る尋ねる鳴美に、店長はもちろん、と頷いた。
「真面目に働いてくれるのであれば、履歴は問いません。それに、お客さんの推薦と言う事は、既に客の信頼を得ている、と言う事ですから」
 店長の答えに、鳴美は良いのかなぁ、と思った。彼女は見た目はともかく、中身はかつてこの店を素行不良でクビになった人物なのだ。
 しかし、考えてみれば、孝之を解雇するよう迫る本部の人間に対し、店長は最後まで「何かの間違いでしょう」と庇ってくれた。最終的には圧力に屈する形になったものの、そのときの感謝の気持ちを忘れたわけではない。それに、ここに来るまでのことを考えれば、そうそう別のバイトが見つかるとも思えない。
「わかりました。どうかお世話になります」
 鳴美がぺこりと頭を下げると、店長は頷いて、鳴美にB5ノートくらいの小冊子を渡してきた。見覚えのある接客の手引書だった。
「君の都合さえつけば、何時から来ても良いですよ。明日は日曜なので忙しくなりますから、来てくれると嬉しいですが」
 店長が言った。鳴美はしばし考えた。
「うーん……それでは、早速明日にでもお邪魔します」
 どうせ、家にいてもする事はあまり無いのだ。それなら、早めに働きに出るほうが良いだろう。
「わかりました。よろしくお願いします」
 店長も了承し、鳴美は席に戻ると、じっと待っていた水月に事情を説明した。
「良かったわね。私も推薦した甲斐があったわ」
 水月は我が事のように喜んでくれた。しかし、次の一言に、鳴美は固まった。
「鳴美ちゃんの制服姿、きっと可愛いでしょうね」
 鳴美は働いているあゆまゆコンビを遠くから見た。なまじここで働いた事があるだけに今まで忘れていたが、今度着るのは男子用のタキシード風制服ではなく、いまあの二人が着ているウェイトレス用の制服なのだ。
「は、はう……」
 その服に身を包んだ自分の姿を想像し、大きなダメージを受ける鳴美。そんな彼女を、水月は不思議そうな目で見ていた。
 
 その夜、帰って来た愛美は、鳴美が「すかいてんぷる」に採用された事を聞くと、大喜びしてお祝いにおかずを一品付け加えた。
「あのお店、バイトするのに結構顔の良し悪しが重視されるらしいのに、一発合格なんて、さすがは鳴美ちゃんねっ」
 お酒……はない(そもそも二人とも未成年だ)ので、ウーロン茶で乾杯して、愛美が鳴美の頭を撫でながら褒めちぎる。
「そ、そうなの?」
 一方、鳴美はそんな噂は聞いた事がなかったので、戸惑いがちに聞いた。
「そうよ。あそこの女の子、みんな可愛いでしょう?」
 思い返してみる。確かに、まゆは見た目も性格も(ちょっと変だが)可愛い。あゆは……中身は最悪の極みだが、見た目だけはとりあえず鑑賞に耐える。この二人を筆頭に、確かに可愛い女の子が多かったかもしれない。
(でも、今日はあゆまゆ以外には見なかったなぁ……みんな辞めたのかな?)
 夕方過ぎの忙しくなる時間帯に、あの二人しかいなかったのは不思議だった。ひょっとしたら、自分があっさり採用されたのには、人手不足もあったのかもしれないな、と鳴美は考えた。
「それにしても、鳴美ちゃんが採用されたとなると、楽しみが増えるわね。時々制服着てるところを見に行っても良い?」
「あ、それはちょっと……恥ずかしいから」
 鳴美はうつむいて顔を赤く染めた。そんな態度が姉の燃え盛るリビドーに油ではなくニトロを注いでいるようなものだ、と言う事には相変わらず気付いていない。
 
 そして翌日。鳴美は約束の時間より30分ほど早めに「すかいてんぷる」に向かった。出勤する愛美に合わせて家を出たというのもあるが、気合が入っているところを見せておくのは、今後働いていく上では無駄にはならないはずだ。また、早く出た理由はもう一つあった。
「それじゃ、頑張ってね、鳴美ちゃん」
 駅に向かう道に折れながら、愛美が笑顔で手を振った。
「うん、何とかやってみる」
 鳴美も手を振り返し、店に急いだ。着いてみると、先に出勤していたのは店長だけだった。
「おや、穂村さん。早いですね」
 真っ先にやってきた彼女に、店長が微笑みかける。好印象を与えると言う鳴美の作戦は成功したようだ。
「それでは、更衣室に君の分のロッカーと制服を用意しておきましたので、頑張ってください」
「はい、よろしくお願いしますっ!」
 鳴美は勢い良く挨拶すると、更衣室に向かった。まだほかに人は来ていない。鳴美はもう一つの作戦成功を確信した。貧弱な身体を他の人に見られないように、先に着替えておくと言う。
 どのみち、「すかいてんぷる」の制服は胸の部分を少し強調するようなデザインになっているので、あまり意味のない行為なのだが、それでもダイレクトに身体を見られるよりはマシである。鳴美は幾つか並んだロッカーに貼られた名札を確認して行った。
「えっと……大空寺……玉野……涼宮……穂村っと、あった。これだ……ん?」
 鳴美は自分のロッカーを見つけたが、その途中で見た別の苗字に気付き、慌ててそれを見直した。
「す、涼宮……? まさか?」
 鳴美は遥の事を思い浮かべた。涼宮と言う苗字は珍しいだけに、全くの無関係とは思えない。まさか、ここでバイトしているのだろうか?
 そんな事を考えていた鳴美は、背後に誰かが来たのに気付かなかった。
「あら、あなたは?」
 いきなり声をかけられ、鳴美は驚きのあまり飛び上がりそうになったが、何とか気分を落ち着けて振り返った。そして、再び飛び上がりそうになった。
「あ……」
 相手の名前を言いかけて、慌てて口を閉じる。何と言っても彼女とは「初対面のはず」なのだから、名前を知っているのはまずい。動揺を振り払い、鳴美は挨拶した。
「あ、はじめまして……今日からこちらで働く事になった、穂村といいます」
 鳴美は下の名前が相手に与える影響を考慮して、敢えて苗字だけを名乗った。
「そうなの? 私は涼宮って言います。よろしくね、穂村さん」
 相手……涼宮茜はそう言ってにっこり微笑んだ。
 
 茜は遥の妹で、今年高校三年生だ。まだ鳴美が孝之で、涼宮家との関係も良好だった頃は、孝之の事を「お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれていた。
 それが遥の事故で一変して、姉を守れなかった孝之に辛く当たるようになり、関係は一気に冷え込んだ。今日になるまで、もう一年以上も会っていない相手だった。
 それだけに、ここでバイトの先輩後輩として出会ったというのが、鳴美には信じがたい事だった。正直言って、どう接していいのかわからない。しかし、当然の事ながら鳴美=孝之と言う事を知らない茜は、屈託なく話し掛けてきた。
「仕事の事でわからない事があったら、何でも聞いてね。と言っても、私もまだ入って二ヶ月くらいだから、自分がわからない事も多いかもしれないけど」
「うん……ありがとう」
 鳴美は頷いて見せた。ブランクがあり、性別が変わったとは言え、ここでの仕事に関しては実は鳴美のほうがずっとベテランなのだから、茜に教えてもらう事など無いと思うが、ここは素直に頷いておく方が吉だろう。
「それじゃあ、早く着替えちゃいましょ。この制服、着るの結構面倒だから」
「あ、うん」
 茜に促され、鳴美は自分のロッカーを開けた。密かにため息をつく。人に見られないうちに着替えてしまうつもりだったのに、茜に気を取られたおかげで、その配慮は無になってしまった。不覚だ。
 ともかく、あまり見られないうちに着替えようと、鳴美は手早く着ていたTシャツを脱ごうとした。するとその時、どかんという豪快な音を立てて更衣室のドアが開いた。
「!」
 その正体を悟り、それでも一応確認しようと鳴美がドアの方向を向くと、そこには予想通りの人物……大空寺あゆがいた。ついでにまゆも一緒だ。
「おはようございます、大空寺先輩」
 茜が挨拶すると、あゆはふんぞりかえってそれを受けた。うむ、大儀である。といった感じのむやみやたらに偉そうな態度である……が、あゆにとってはこれがデフォルトだ。
「おはよう茜。今日もしっかり働くのよ」
「おまいは働かんのかい……」
 鳴美は茜にすら聞こえそうもない小声で呟いたが、あゆは、その一言を聞き逃さなかった。
「あら、アンタ昨日のチンチクリンじゃないのさ。今なんか言った?」
 言うなり、あゆはズカズカと近寄ると、鳴美のほっぺたをつまんで、うにーんと横に引っ張った。
「にゃうううぅぅぅぅぅっっ!?」
 鳴美は情けない悲鳴をあげた。昔は彼女(言うまでもなく孝之時代)のほうが先輩かつ指導役で、暴言・暴行・暴走の三暴主義を貫くあゆのほっぺたを引っ張っていたのだが、いまや完全に立場は逆転していた。
『あ、あの、先輩。穏便に……』
 茜とまゆが異口同音に助け舟を入れてくれたが、あゆはたっぷり一分間は鳴美のほっぺたを引っ張りまくって、ようやく満足したのか手を離した。しかも、ばちんと勢い良く。かなり痛い。
「ふっ、コレに懲りたら二度と私に逆らうんじゃないわよ」
 涙目で真っ赤になったほっぺたをさする鳴美に、あゆが薄い胸を張ってふんぞり返りながら言った。それに鳴美が答えるより早く、さらに言葉を続ける。
「……で、アンタここで何してるのさ? まさか昨日採用されたとか?」
 鳴美が頷くと、あゆは思い切り深々と溜息をついた。
「はぁ……まゆまゆのあとに茜が入ってきた時は、あの店長は普通人かと思ったけど、またこういうのが入ってくるとはねー」
 それは鳴美もちょっと疑問だった。今の店長はロリコンには見えないのだが……
「まぁ良いわ。使えるヤツならね。さ、とっとと着替えんのよ、なるなる」
 一瞬、沈黙が訪れた。
「あのー、なるなるって、わたしの事?」
 思い切って鳴美が尋ねてみると、あゆの額に青筋が浮かんだ。
「あん? 他に誰がいるわけ? 鳴美だから"なるなる"よ。文句ある?」
 文句言ったら即座に蹴り飛ばす、といった雰囲気を漂わせるあゆに、一瞬鳴美は怖気づいた。しかし、そんな変な渾名を付けられるのは、いくらなんでも勘弁して欲しい。
「いや、その……なんかナルシストみたいで聞こえが悪いので、変えて欲しいかなと」
 鳴美は恐る恐る言った。しかし。
「却下よ。それより早く準備しないと蹴り入れるわよ」
「う……」
 鳴美はそれでも抗議しようかと思ったが、既にあゆの右脚が臨戦体制なのを見て、この場では諦める事にした。何しろ、彼女の蹴りは孝之にも相応のダメージを与える威力を有していたのだ。物理的力では勝てない以上、逆襲の方法は別に考えなければなるまい。
 ともかく、ここは今日の屈辱に耐えて明日の勝利を掴むべきだ、と鳴美は判断した。今に見てろ、と思いつつも着替え始める鳴美。しかし、勝利を掴む遥か以前に、彼女には新たな屈辱が待っていた。
「……ん?」
 Tシャツを脱いだところで、鳴美は視線を感じて振り返った。すると、そこにはやはり着替え中で上着を脱いだあゆがいた。
「な、何?」
 鳴美が一歩あとずさると、あゆは自分の身体を見て、それから鳴美の身体を見る、ということを数回繰り返すと、バカにしたように「ふっ」と笑った。
「うわあああぁぁぁんんっっ! なんかすっっっごい悔しいぃぃぃぃぃっっ!!」
 勝ち誇るあゆと、打ちひしがれる鳴美。それは、今後「すかいてんぷる」にて繰り返される基本構図になるのだが、そんな事はもちろん知る由もない鳴美だった。
 
(つづく)



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