夜道を行く二つの人影。鳴美と愛美の穂村姉妹である。バッグには着替えやタオル、シャンプーにリンスとお風呂セットを詰め込み、近所の銭湯に向かう途中だ。
「なんだかご機嫌だね、お姉ちゃん」
鳴美が言うと、愛美はニコッと笑って答えた。
「そうね。大事な人と銭湯…そんなちょっと神○川なシチュエーションに憧れてたのよ」
「なるほど…でも、わたしたち、今は女の子同士だから、神田○にはならないんじゃないかな…?」
鳴美は言ってしまってから、余計な事を言ったのに気が付いた。愛美の「お仕置きします」オーラが急速に膨れ上がっていく。
「ご、ごめんなさい。○田川で良いです」
鳴美が謝ると、愛美のオーラは膨れ上がった時のそれと同じ速さで、すっと消えうせた。
「そうよね。やっぱり憧れよね」
再び微笑む愛美。その表情は聖母のように優しい。鳴美はほっとした。
(でも…ちょっと理不尽だよ、お姉ちゃん)
アメとムチで調教されてはいるが、まだ完全に愛美のコントロールを受けきってはいない鳴美だった。
誰が望む永遠?
第四話:ひとりでできるから!
愛美行きつけの銭湯は、彼女のアパートから歩いて5分ほどの場所にあった。意外にも新しい洒落た感じの銭湯で、純和風の昔ながらの建物を想像していた鳴美は意表を突かれた。
「ここ、24時間営業なのよ。だから、私みたいに勤務時間不定の仕事をしていると、凄くありがたい存在と言うわけ」
愛美がそう解説して、建物の中に入った。番台…というよりカウンターと言うのが相応しそうな受付で入湯料を払う。大人二人で500円だ。
「おや、お客さん間違えてますよ」
すると、受付の人が100円返してきた。鳴美が入湯量一覧を見ると、大人は一人250円だが、15歳以下は150円だった。
「…」
鳴美は凄く不本意な表情をしたが、愛美は儲かった、とばかりに受付係の誤解を解くこともせず、鳴美を促して「Ladies」と書かれた更衣室の方へ入った。
「うぅ…なんだか納得行かない」
子ども扱いを受けた鳴美は頬を膨らませたが、愛美はニコニコ笑いながら鳴美の肩を叩いた。
「まぁまぁ、良いじゃない。浮いた分の100円で、何か飲み物でも買いましょ」
愛美が指差した方向には、ビンのコーヒー牛乳などが入った冷蔵ケースが鎮座していた。
「…わたし、フルーツ牛乳が良いです」
「わかったわ」
鳴美の主張に愛美も頷き、それよりもまずは入浴と、二人は並んでロッカーの列の中へ進んでいくと、空きが二つ並んでいる場所を確保した。
「それじゃ、入るわよ」
愛美はそう言うと、カエルの髪飾りを外した。三つ編みにされた緑がかった黒髪がはらりと解け、綺麗にウェーブの掛かった状態になって広がる。
「…ん? どうしたの、鳴美ちゃん」
妹がその様子をじーっと見ているのに気が付いて、愛美は尋ねた。
「え? あ、お姉ちゃんって、髪解いた方が美人なんじゃないかなって思って…」
鳴美は答えた。実際、愛美が三つ編みを解いたところを見るのは初めてだけに、ものすごく新鮮に見える。ぐっとセクシーな感じだ。
「ありがとう。でも、ナースって言う仕事をしてると、髪をこういう風にしておくのは衛生上問題だからって禁止されてるの。だから、いつもは三つ編みなのよ」
「なるほど」
鳴美は感心した。そう言えば、ナースキャップと言うのも、髪の毛を抑えるためにあると聞いた覚えがある。
「と言う事は、わたしも解いてみると…」
思い立って、鳴美は自分の三つ編みも解いてみた。ロッカーの扉の裏にある鏡を見てみる。
「おお〜…大人っぽくなくな…ってない?」
鳴美はがっかりした。髪質がそうなのか、愛美のようにウェーブが掛からない。綺麗なストレートにまとまったままだが、これがかえって日本人形のような印象を醸し出している。
と言うより、鳴美の容姿では、髪形をどういじろうと外見は子供でしかなく、あまり意味がないとも言える。
「…こうなったらパーマを」
「だめよ、そんな綺麗な髪なのにもったいない。それに、あれは高いわよ」
鳴美の思いつきは姉によって一蹴された。
「それより、早く脱いで。入湯料は一時間分だから」
愛美はそう言うと思い切りよくTシャツを脱いだ。オフホワイトのブラに包まれたボリュームのある胸が、重力なんのその、とばかりにその存在を誇示する。
「う…」
ほぼ眼前で展開されるその迫力の光景に、鳴美は気圧された。自分の着ているTシャツの首周りを引っ張り、中をのぞきこんでみる。
平原だ。牧歌的なまでに平原だ。
(…おかしい、自分の方が本当は年上なのに)
そもそも女の子化していることが変だとも言えるが、やはりこのボリュームの差は納得しがたい。男だった頃、特に貧相な身体だったと言うわけでもないのだ。
(体重とかも半分くらいになってるし、消えた質量はどこへいったんだろう)
悩む鳴美に、愛美が声をかけた。
「ほら、鳴美ちゃん、ぐずぐずしないの」
「あ、は〜…いっ!?」
鳴美は返事の途中で絶句した。愛美は既に全裸になっていて、身体の前を申し訳程度にタオルで隠しているだけの姿だった。こうしてみると、貧乏暮らしの割には実に豊満な、肉感的なスタイルの持ち主である。
さらに、眼鏡を外しているのも、19歳とは思えないくらいに彼女を大人っぽく見せていた。もし今鳴美が男のままだったら、速攻で押し倒して(中略)したいくらいに愛美は魅力的だ。
しかしながら、悲しいかな、今の鳴美はただの小さな女の子である。自分よりも圧倒的に女性的魅力にあふれた同性の姿に、ただただ気圧されるばかりだった。
「あ、うぁ…」
声を失っている鳴美に、愛美はくすっと笑うと、そっと妹に近づいた。
「しょうがないわねぇ…よし、お姉ちゃんが脱がせちゃうわよ」
「はっ!? そ、それは良いです!!」
鳴美は慌てて脱ぐのを再開した。愛美は軽く舌打ちしたが、鳴美がそれに気付く事はなかった。
「おお〜〜…」
浴場に入ってみて、鳴美はその多彩な風呂の種類に驚きと感嘆の声を上げた。普通の風呂の他に、美容に良いハーブ風呂、超音波風呂、薬草風呂、ジェットバス、打たせ湯など10種類を越える風呂があった。しかも、今の時間は空いているのか、ほとんど貸しきり状態だ。さてどれに入るか、と鳴美が考えていると、その手を愛美が引っ張った。
「まずは身体を洗いましょう、鳴美ちゃん」
「あ、はーい」
鳴美はそうだった、と頷いた。何しろ、季節は夏。今日は出歩いた事もあり、かなり汗をかいている。そのまま風呂に入るのはマナー違反だ。
「こっちへいらっしゃい、鳴美ちゃん。背中を洗ってあげるわよ」
鳴美は促されるままに愛美の横に座った。ふと前を見ると、壁には大きな鏡が取り付けられ、自分の全身が映し出されている。
「…」
今日、更衣室では愛美や水月や遙に弄り倒されていたので、自分の身体をじっくりと見る機会は無かったのだが、それでも未成熟な身体である事はわかっていた。改めて見ると、その残酷な事実が鳴美の心にぐさぐさと突き刺さる。
(…やだなぁ)
わかっていても、溜息の出る鳴美。彼女が自分の幼さを嫌がるのは、ただ単に本来の年齢とのギャップが酷いから、と言うだけではなく、もう一つ大きな理由がある。
(あのチンチクリンよりも小さそうなんだもんなぁ…)
鳴美が孝之だったころ、そう呼んでいた相手が、彼のバイト先にいた。いささか浮世離れした傲慢極まりないその少女は、孝之とはまさに犬猿の仲だった。しかも、孝之が店を追われたのは、ケンカの弾みに彼女を押し倒すような体勢になってしまったのを、別のバイトの少女に見られて、大騒ぎになったからである。
その二人の少女が、身長150cm未満、今の鳴美よりちょっと大きいだけの体格だったのである。それだけに、鳴美は小さい女の子に対するトラウマがあった。自分が今まさにその小さい女の子だけに、なおさらである。
(もし、あいつに今の姿を見られたら、何て言われる事か)
鳴美がそう考えて、相手の反応を考えてちょっと鬱になっていると、いきなり彼女の背筋を愛美が指でつうっとなぞった。
「にゃあああぁぁっっ!?」
鳴美は驚いて飛び上がり、足を滑らせて愛美の身体に倒れかかった。
「鳴美ちゃん、さっきからずっと呼んでたのに、何か考え事でもしてたの?」
不思議そうに言う愛美に、鳴美は心臓のドキドキを抑えながら頷いた。驚いたのもあるが、愛美と何ら邪魔するものなく、素肌同士で接しているのが、結構興奮する。
「う、うん…ちょっと。それより、何で呼んでたの?」
鳴美が聞くと、愛美は石鹸をすり込んだスポンジを差し出してきた。
「さぁ、早く身体を洗ってしまいましょ」
「あ…うん」
鳴美はスポンジを受け取り、身体をこしこしとこすり始めた。横で愛美も鼻歌を交えて身体を洗う。なんだか妙に石鹸を大量に使ってるらしく、ものすごく泡だっている。やがて身体の前面を洗い終わってしまうと、愛美は鳴美の背中に回りこんだ。
「それじゃあ、背中を流すから、じっとしててね」
「あ、はい」
鳴美は何の疑問も抱かずに素直に背中を向けた。すると、スポンジの感触の代わりに、やわらかくてすべすべしていて暖かいものが、彼女の背中に密着した。さらに、肩に愛美の腕が回される。
「にゃっ!?」
鳴美が驚いて振り向くと、愛美がしっかりと背中に抱きついていた。
「お、お姉ちゃん? 何を? 背中流すんじゃないの?」
姉の奇行に戸惑う鳴美。すると、愛美は極上の笑顔で答えた。
「だから、こうやって流すのよ」
その言葉と同時に、愛美はゆっくりと自分の体を上下させた。鳴美の背中を、愛美の胸がこすり、その間で石鹸の泡がプチプチとつぶれた。泡を多めに立てていたのは、最初からこうするつもりだったかららしい。
「ひゃははははははっ、く、くすぐったい! やめてお姉ちゃんやめて!」
鳴美が手足をじたばたさせ、身を捩じらせて苦しがると、愛美は不思議そうな表情で妹の顔を見た。
「どうしたの? こういうの気持ちよくない?」
鳴美は首を横に振った。
「くすぐったいです」
多分男の頃だったらすごく気持ち良いと思えるのだろうが、今はそういう気持ちにはなれなかった。身体が少女であることが、精神にも影響を与えているのかもしれない。
「そう…?」
愛美はちょっとつまらなそうな表情をすると、普通にスポンジで鳴美の背中をこすり始めた。
「鳴美ちゃんはお肌すべすべだから、私は気持ち良いんだけどなぁ…」
「…そうなんですか?」
鳴美は自分の腕を見た。肌理については自分ではよくわからないが、男の時は浅黒かった肌は、陶磁器のように白くなっていた。それはまぁ良いとして、触ってみると、筋肉がほとんどなく、ぷにぷにとした感触である。
それほどまじめに鍛えていたというわけではないが、力が見る影もなく弱くなってしまったのは間違いなく、それは鳴美にとってはなかなかに悲しい現実だった。
「そうよ。いいわねぇ…やっぱり若いってうらやましい」
愛美の嘆くような言葉に、鳴美は吹き出しそうになった。
「そんな事言って、お姉ちゃんだってまだ若いじゃないですか」
愛美は外見が大人っぽいのでよく勘違いされるが、まだ19歳である。18歳ということになっている鳴美とは1歳違いでしかない。
「でも、ナースなんて仕事をしていると、睡眠時間は不規則になるし、ご飯だって落ち着いて食べられないし、すぐお肌が荒れるのよねぇ…」
愛美はそう慨嘆する。鳴美は姉の大げさな嘆きにくすくすと笑いが漏れるのをこらえた。すると、それを察したのか、愛美はむっとした顔をすると、鳴美の背中を洗う手を止めて、いきなりそれを前へ回した。
「うにょおおおぉぉぉぉぉっっ!?」
たまらないのは、いきなり胸をわしづかみにされた鳴美である。姉を怒らせてしまったことを悟った彼女は、必死に謝った。
「ご、ごめんなさいお姉ちゃん! わたしが悪かったです!! だから手を止めてええええぇぇぇぇぇぇっっ!?」
「だーめ。おしおきよっ!!」
愛美の情け容赦ない攻撃は、ほかの客が入ってくるまで続けられた。
「うう、お姉ちゃんのいけず…」
もう少しで気絶させられるところだった鳴美は、今度は愛美の背中を洗っていた。こうして見ると十分きれいな肌だと思うのだが、乙女心は良くわからない。さっきの事を蒸し返されてもたまらないので、鳴美は黙っておくことにした。
ともかく、身体を洗い終えて、二人は普通のお風呂に浸かっていた。温泉ではなく、普通にボイラーで沸かしたお湯だが、鳴美には少し熱めだった。
「ふにゃ〜…」
入ってすぐあがろうとする鳴美に、愛美が叱責するように言った。
「だめよ、鳴美ちゃん。100数える間は入らないと」
これにはさすがに鳴美もちょっとムッとした。
「お姉ちゃん…こんな身体でも、わたしは子供じゃないです」
その言葉に、愛美ははっとした表情で鳴美を見て、謝罪した。
「ごめんね。私ずっと一人っ子だったから、こういう風にお姉さんぶった事がなくて…調子に乗りすぎだったかも」
その顔によぎった寂しそうな表情に、鳴美の怒りはたちどころに雲散霧消した。愛美がいろいろと苦労していることは、鳴美も聞いている。そんな彼女だけに、変則極まりない形ではあっても、鳴美という妹ができたことは、どんなに喜ばしい事だっただろうか。
鳴美はうつむいた愛美にそっと寄り添い、優しい声で言った。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。これからは…わたしがそばにいるから。もう寂しいことはないから」
男の時なら、プロポーズとしか取れないような台詞を鳴美は言った。いろんな意味で自滅行為というか、迂闊にこういう事をするから、彼女の人間関係は無茶苦茶になってしまったのだが、反省すれども人間とはなかなか変われるものではない。
「うん…ありがとう、鳴美ちゃん」
しかし、愛美は素直にうれしそうに頷いた。やはり、鳴美が小さな女の子の姿である、ということの効果は大きく、愛美でさえ、彼女の言葉をプロポーズとしては認識できなくなっていた。愛美は妹の身体を愛しげにぎゅっと抱きしめた。
「約束よ、鳴美ちゃん。ずっと、お姉ちゃんと一緒にいてね…」
「う、うん…約束するから離して…」
鳴美は身をよじらせたが、やがて姉の身体に身を預けるようにじっとなった。愛美はそんな妹の頭を優しく撫でてやっていたが、やがて熱くなってきたので、風呂から上がることにした。
「そろそろ出ましょう、鳴美ちゃん…鳴美ちゃん?」
鳴美は返事をしなかった。ただ、真っ赤な顔で、目が渦巻き状態になっていた。完全な湯当たりである。
「あ…」
愛美はぐったりした鳴美を抱きかかえて、思わず固まったのだった…
顔に当たる涼しい風に、鳴美は目を覚ました。
「ん…むにゅ…ん?」
目を開けると、目の前を何かが規則的に往復しているのに気が付く。それが、愛美の扇いでくれているうちわの先端だと気づくまで、さらに少し時間が必要だった。
「…あ、そっか…お風呂で湯あたりして…」
鳴美がつぶやくように言うと、愛美が扇ぐ手を止めてにっこり笑った。
「あ、良かった、鳴美ちゃん。気が付いたのね」
「うん…心配かけてごめんなさい」
鳴美は謝ったが、彼女をお風呂から出さなかったのは愛美である。しかし、それを口に出さないのが、お互いにとっての幸せというものだろう。
鳴美は身を起こそうとしたが、まだダメだと愛美が止めるので、仕方なく頭だけを動かして、辺りを見回した。そこは既に更衣室の中で、鳴美は愛美に膝枕されて、籐のベンチに寝かされていた。ちなみに、服は全部着せられていた。
「はう…」
ぐったりした自分に服を着せたであろう愛美の苦労に対する申し訳なさと、その様子を他の客に見られたであろう事への羞恥で、鳴美は真っ赤になった。その様子を勘違いした愛美が、ちょっと慌てた声で言った。
「な、鳴美ちゃん? 大丈夫? 氷枕か何か借りてこようか?」
「あ、ち、違うよ。大丈夫。そういうのはいらないから…」
鳴美は頭を振って起き上がった。額から濡れタオルがばさりと落ちたのを、手で受け止める。
「えっと…服着せてくれてありがとう」
そういって鳴美は愛美に頭を下げた…が、その目の前に何かが差し出された。
「どういたしまして。はい、ご注文の品よ」
それはフルーツ牛乳だった。そういえば、お風呂に入る前にこれが良いと言ったっけ、と思い出し、鳴美は微笑んだ。
「ありがとう、お姉ちゃん」
瓶を受け取り、二口ほどフルーツ牛乳を飲む。ほのかな甘酸っぱさを持った冷たさが、湯当たりした身体を、程よく冷やしてくれた。
「お姉ちゃんも飲む?」
鳴美がまだ半分以上残っているフルーツ牛乳を差し出すと、愛美はうなずいてそれを受け取り、こくこくと数口飲んだ。そして、瓶から口を離して言った。
「うふふ、鳴美ちゃんと間接キスね」
「…はぁ」
鳴美はあいまいにうなずいた。姉妹同士で間接キスをして楽しいのかどうか…彼女には良くわからなかった。
鳴美はそれから残りのフルーツ牛乳を全部もらい、ようやく人心地付くことができた。身体の熱も鎮まっている。
「お姉ちゃん、もう気分は大丈夫だよ」
鳴美が言うと、愛美は頷いて着替えの入ったバッグを手に持った。
「それじゃ、帰りましょうか」
「はい、お姉ちゃん」
鳴美は頷いて立ち上がったが、次の瞬間、足元がふらついた。
「あ、あれ?」
よろけて、そのまま床にぺたんと座り込んでしまう鳴美。湯当たりのダメージは身体を冷やしただけでは消えていないようだった。
「鳴美ちゃん、立てる?」
愛美の問いに、鳴美は何度か手足を踏ん張ってみて、ダメだとわかると、首を横に振った。愛美は一瞬困った表情をしたが、すぐに笑顔になると、しゃがみこんで、鳴美に背を向けた。
「それじゃあ、お姉ちゃんがおんぶしてあげる」
「え…そんなの悪いよ…」
鳴美は驚いたが、愛美が何度か急かすと、ようやく決意して、愛美の背中にしがみついた。その足を愛美が抱え直し、立ち上がる。
(お…)
急に視界が開けたような気がした。女の子になったときに30センチ以上も身長が縮んだ鳴美にとって、愛美の背中から見る光景は、男だったころに慣れ親しんだ高さからの光景だ。
(無くなったものは大きいなぁ…)
もう何度目になるか知れない、わが身に降りかかった運命の不条理さを噛み締める鳴美だったが、その時、愛美の優しい声が聞こえてきた。
「鳴美ちゃん、バランスとか悪くない?」
「え? あ、大丈夫…お姉ちゃんこそ重くない?」
鳴美が聞き返すと、愛美は朗らかな声で答えた。
「ぜんぜん平気よ。こう見えても、お姉ちゃんは病院で鳴美ちゃんよりずっと重い入院患者さんを抱きかかえたりしてるんだから」
実際、愛美は重さを感じさせない、しっかりした足取りで夜道を歩いていた。ふと、鳴美は今見たいなほのぼのとした会話を、前にしたのはいつだっただろう、と思い返した。
その答えは…出てこなかった。遙が事故にあう前、まだごく普通の日常を送っていた頃には、そんな時間があったはずなのに、思い返しても、それはこの3年間の辛く孤独な闇の向こうに隠れて見えなかった。
(穂村さん…お姉ちゃんには感謝すべきなのかな)
愛美の背中で揺られながら、鳴美は思った。自分をこのどうしようもない現状から救ってくれたのは、間違いなく彼女だ。そして、自分が愛美のそばにいることで、彼女自身が抱えてきた孤独が癒されるのだとしたら…
(俺は…いや、わたしはお姉ちゃんの良い妹でいても良い。たとえ仮初めの関係でも)
たとえ女の子でも…本当の妹でなくても、愛美は自分のことを心配し、見ていてくれる。なら、そのことに対するお礼として、愛美のそばにずっといて、彼女を見守っていこう。いつかは愛美が恋人を作って、離れていく日が来るとしても。その間に、自分がこの姿で本当にできること、やりたいことを見つけていけば良い。
そう思った鳴美は、そっと呟いた。
「ありがとう、お姉ちゃん。これからもよろしくね」
「…え? なぁに?」
愛美は振り向いたが、その時には鳴美は彼女の背中で安らかな寝息を立てていた。決意を固めた瞬間、今日と言うハードな一日の疲れがどっと押し寄せてきて、そのまま眠り込んでしまったのである。
「あら…ふふっ、かわいい寝顔」
愛美は鳴美の寝顔に微笑を向け、アパートへの道を歩いていった。途中、すれ違う人が彼女たちの姿を見て、不思議そうな顔をする。
(…やっぱり、鳴美ちゃんくらいの歳の娘をおんぶしているのは目立つかしら…?)
愛美は周囲の反応を見ていぶかしんだが、実は、鳴美のスカートが短すぎて、おんぶしているとショーツが丸見えになっているだけだった。
世の中には、知らないことが幸せだと言うこともある。
アパートまで帰り着いても、鳴美はすやすやと眠っていた。愛美は今日買ってきた中からピンクのかわいいパジャマを取り出すと、鳴美を着替えさせた。
「おやすみ、鳴美ちゃん…」
そう呟くと、自分も眠くなってきた愛美は電気を消し、一つしかない布団に、妹と添い寝するようにして眠りに就いた。古い扇風機の送る風がわずかな涼を提供する中、姉妹となった鳴美と愛美にとっての最初の一日が終わろうとしていた。
その夜中。
「すぅ…すぅ…」
「う〜ん…」
愛美が気持ちよさそうに眠っているのとは対照的に、鳴美は苦しそうな寝息を立てていた。それも無理もない話で、鳴美は愛美にがっちりと抱きしめられていたのである。
そして、苦しいせいか、悪夢にうなされる鳴美だった。
「うう〜…わ、悪かったよ〜…だから許して…はるか、みつき…」
すると、その声が聞こえるのか、愛美も鳴美を抱く腕に力を込めるのだった。
「ん…だめ…もう私のもの…誰にも渡さないの…」
寝言を言うと身体が締め付けられ、それが悪夢を呼び、さらに寝言を呟いてしまう悪循環。鳴美の辛い眠りは、そのまま朝まで続いたのだった。
(続く)
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