2005年9月17日 1000時 Kanon国 首都ポートエドワーズ 軍務省 統合軍令本部


 今年の6月末にISAFが取り戻したポートエドワーズに存在するKanon国防軍の根拠地は、現在ISAF総司令部が間借りしている。
 スノーシティーを奪回したISAFは勢いに乗り進撃を続け、大陸北西部のランバート山脈とアンバー山脈に挟まれた細長い砂漠地帯、通称ウイスキー回廊で抵抗線を張るTactics軍と正面から激突した。
 この2005年8月15日から18日まで展開された「ウイスキー回廊の戦車戦」と呼ばれる両軍機甲軍団の戦いは、激戦の末ISAFが勝利を治め、ISAFはついにTactics連邦の首都、ファーバンティを包囲する所までやって来たのだ。
 2年以上に渡る戦争は、Tactics連邦の打倒という形で大詰めを迎えていた。そんな今、ここ統合軍令本部=ISAF総司令部は勝利への希望と軍務の多忙とで、一種独特の雰囲気に包まれていたが、とある一室は静けさの直中にあった。
 その静けさを破ったのは、この部屋の主であるKanon国防陸軍の参謀、久瀬中佐だった。
「お久しぶりですね、倉田中尉。いや、倉田少佐でしたね、今は」
「あははーっ。そうですね、久瀬さん」
「……」
 久瀬に呼び出されたふたり――倉田佐祐理少佐と川澄舞大尉(それぞれ昇進)は、全く異なる反応を見せた。佐祐理は笑い、舞は無表情。しかし、ふたりとも瞳の奥に不満の色を湛えていることだけは共通していた。
「もうすぐファーバンティ攻略が始まるのに、佐祐理たちに用件とは一体なんでしょうかーっ?」
「……部下たちが待ってる」
 その不満は目からだけでなく、口からも遠慮なしに出る。だが久瀬はそれらの非難を全く気にせず、細いフレームの眼鏡を片手でかけ直すと、言った。
「あれから3年ぐらい経ちますか……今では申し訳なかったと思っています」

 佐祐理・舞のふたりと久瀬との間には、過去に少なからぬ因縁があった。
 事の始まりは、およそ3年前に佐祐理と舞が所属する駐屯地で、夜な夜な兵舎のガラスが割られるなどの奇怪な出来事があったことに遡る。
 それが幾度もくり返され、軍上層部が調査のため派遣したのが当時大尉の久瀬だった。彼は彼独自の熱心さで調査を行うが、ある夜、ガラスが粉々に砕けた現場に舞が軍刀を鞘から抜き、佇んでいるのを発見した。
 この事実を受け、久瀬は舞を犯人と断定し、彼女を軍法会議の被告台に立たせようと力を注ぐ。そんな不利な状況に置かれた舞を必死で庇ったのが佐祐理で、この時からふたりは無二の親友、いや戦友となった。
 結局、佐祐理の奮闘が功を奏したのか、舞は軍法会議を免れたが、その代わり久瀬は彼女を独房へと放り込んだ。
 しかし、それで事は解決しなかった。奇怪な現象は終わるどころかますますエスカレートし、ついには負傷者まで出す事態となる。
 その次の日の深夜、佐祐理は舞を独房から脱出させ、舞は軍刀を手に、再びガラスが割れ飛び散る兵舎に身を躍らせた。そして久瀬や兵士たちの眼前で怪奇現象の元凶――とある目撃者の話によると、得体の知れない怪物だか魔物だったと言う――は、舞の一振りで現世から消し去られた。
 久瀬はこの一連の事件をまともに報告することができず(事実と受け取られる可能性が低い)、ただ単に「原因不明」ということで処理して舞たちの前から去ったのである。

「僕もあの時は、世の中には常識では計り知れないこともあるのだと思い知らされましたよ」
 久瀬はそう言ったが、口調は特に変わっていないので、本当に悪いと思っているのか彼女たちにはわからなかった。だがふたりは3年前の一件については特にわだかまりを持っていないので、それはどうでも良いことだった。
 ふたりにとって今肝心なことは、決戦を目前に控えたこの時期に、突如として前線から呼び戻された理由だ。
「……用件は?」
 しびれを切らした舞が、珍しく自分から口を開いた。彼女は別に戦争を望んでいる訳ではない。ただ前線に残した部下たちを心配するがゆえの質問だった。
「では本題に入りましょう」
 久瀬の目つきがにわかに変わる。いかにも切れ者といった、有能な参謀に相応しい色が眼鏡の奥に宿ったのを、舞と佐祐理も感じ取る。
「まず、これから話すことは、一切他言無用です。意味はわかりますね?」
「はぇー……重大なことなんですね……」
 佐祐理は驚いたような声を出す。舞は無言のまま少しだけ表情を硬く引き締めた。反応は違えど、ふたりにある種の緊張が走る。
 久瀬は頷くと、さらに真剣な表情となって続けた。
「そう、重大です。もはや我が国もISAFも、Tacticsも関係なくなるほどに。大陸の、いや世界の命運がかかっていると言っても良いでしょう」


 
カノンコンバットONE シャッタードエアー

   
Mission13 連邦の落日



 
2005年9月19日 1730時 Tactics連邦 首都ファーバンティ 国防総省


 部屋に銃声が響いた。硝煙の匂いが室内の空気に混じり、薬莢が厚い絨毯の張られた床に落ちて音もなく転がる。
 Tactics陸軍参謀本部第1部参謀、天沢郁未大佐は一切振り返ることなく、参謀総長室を出た。それがこの決断に後悔していないという彼女の意志の強さを証明している。
 天沢郁未は参謀本部で、この戦争全体の流れというものを見てきた。祖国の敗北が避けられないことは、ISAFが第2の上陸作戦――オーロラ作戦を成功させた時から、いやそれよりずっと前――高槻艦隊がコンベースで滅び、ノースポイントへの侵攻が不可能となった時から、もうわかっていたのだ。
 ISAFの戦争手法は、第2次大戦におけるアメリカにそっくりだった。守勢防御から攻勢防御に続き、さらに限定攻勢を経て全面攻勢に至る、逆転の方程式。勝利の王道を辿っている。これに気づかない郁未ではない。
 しかし、彼女は諦めなかった。それが軍人としての正しい姿だったし、もしかしたら再逆転の可能性もあった。
 だがそれも、タンゴ線の崩壊、ストーンヘンジの壊滅と共に消し飛び、後は現状を見ての通り。首都はISAFに完全包囲され、一部では既に戦端が開かれていた。
 では、なぜこうなる前に戦争を終わらせようとしなかったのか? まともな人ならばそう考えるだろう。ところが、Tactics軍上層部には、まともではない人々がいた。能力には疑いないのだが、思想的には、という意味でまともではない人々が。
 Tactics4軍の最高司令官であり、これ以上の戦争継続に否定的な考えを示していた大統領は、8月15日――参謀総長が大統領に呼び出された日――に参謀本部の一部将校たちによって軟禁され、戦争継続を強要された。ウイスキー回廊戦が始まった時、郁未が予想したこと――大統領が停戦を命じるというのは、実際に起きていたのだ。ただ、その決断に抵抗した参謀たちによって大統領が権力の座を追われた、という点が郁未の予想を超えていた。
 そして現在、大統領の座は人事不省に陥り、その隙間を参謀総長が埋めていた。シヴィリアン・コントロールの崩壊である。
 世論からは、戦争継続に対するおおっぴらな反対はなぜか起こらなかった。大統領監禁の報が(厳重な情報統制により)伝わっていなかったからかもしれないが、もう逃げる場所などどこにもない、と窮鼠と化した一部の市民が、銃を手に軍の首都防衛隊に加わっているほどだった。
「でも、そんなのまっぴらなのよ」
 部屋に入る前、邪魔が入らないようにと昏倒させておいた歩哨の脇を抜けながら郁未は呟いた。
 ここファーバンティには、郁未の夫と子供が暮らしている。街が廃墟となり、その中に愛する家族が骸を晒すなど、彼女は絶対に看過できない。だから、彼女は上官を――陸軍参謀総長を射殺したのだ。
 まともではない連中の筆頭が消えれば、戦争は終わる。ファーバンティも助かる。そして家族も……。
(お母さんも、私を誉めてくれるわよね……)
 郁未は、かつて自分と同じように軍に奉職し、とある事故で殉職、最期まで国に尽くした母親に想いを馳せながら、上官殺害に使ったシグザウエルP239を腰のホルスターに仕舞う。そして廊下を平然と歩いていると、その先に人影が現れた。腰どころか地面にまで届きそうな長い金髪、軍服は参謀徽章で飾られている。彼女は――。
「郁未さん」
 人影の正体は、鹿沼葉子大佐だった。
「貴方は……いえ、もう何も言うことはありません」
 葉子は無表情の顔から、感情の篭らない声で郁未に告げる。
「食堂に行きましょう」
 葉子の言わんとしていたことはなんとなく理解できていた。それが実現する際の覚悟もあるつもりだった。郁未は黙って頷いた。

 5分後、郁未と葉子は食堂の椅子に、向かい合うようにして座っていた。
「葉子さん……本当にするの?」
「はい。貴方はしてはならないことをしてしまいました。私はそれを、見逃せません」
「それはそもそも――!」
 葉子の言葉に納得できない郁未は椅子を蹴って立ち上がり、両手で机を叩く。彼女たち以外は誰もいない食堂にバンッ、という音がこだまする。
「郁未さん。私たちは軍人なのですよ。命令には絶対服従しなければならないのです」
 一方、葉子はそれに動じることもなく、自分の言が唯一の真理である、とでも思っているかのように、平然と、淡々と語る。
「だから、貴方の存在は……我が軍にあってはならないのです。覚悟して下さい」
 拳銃の銃口が、郁未に向けられる。しかし、郁未は怯えることも、命乞いをすることもなかった。ただ、悲しかった。
(葉子さん……あなたもあの連中と同じなの?)
 表情も、そう語っていただろう。それで葉子が少しでも誤った決意を翻してくれることを望んだが、葉子は無慈悲に過ぎた。拳銃の引き金にかけた指に、力を込める。
「!!」
 胴体を横にそらすのが0.1秒でも遅ければ、郁未の頭部はただの有機物の塊に変わっていただろう。ジャンプするように伏せ、床を転がる。彼女がいた空間を追いかけるように、弾丸が床に当たって弾ける。葉子の射撃を避けた郁未は、食卓のひとつをひっくり返して、臨時のバリケードに仕立て上げる。そこを鉛弾が乱暴なノックをする。
「どうしても……やるしかないわね……」
 先ほど、参謀総長の命を奪ったシグザウエルP239をホルスターから抜き、安全装置を外し、葉子の射撃が途切れる合間を見計らって、銃口を「敵弾」の飛来する方へと向けた。食堂の私闘は、水を浴びせる者がいないまま、加熱して火を吹き始めた、と言う表現が相応しいような情景になりつつある。
 軍人が政治家から実権を奪い、部下が上官を殺し、そして同僚同士が殺し合う。シヴィリアン・コントロールと軍規律・統制の死。これがTactics連邦軍の末期症状である。しかし、それを知らずに前線で戦う将兵たちは悲しくなるほどに健気だった。

「情けないですね……」
 名倉由依海軍大佐は、戦艦<ファーゴ>のCICで、そうぼやかずにはいられなかった。
 現在、<ファーゴ>は全く動けない状態にある。ファーバンティ市内と、コーヤサン災害で島になってしまった国防総省のある地区を結ぶ橋のひとつ、シルバーブリッジ付近で、<ファーゴ>は左舷を沖に向けるように着底しているのだ。
 <ファーゴ>は昨年11月23日、コンベース港の戦いで中破した。修理こそ受けられたものの、予定は大幅にずれ込んで、元通りになった時には大陸沿岸の制海権は全てISAFのものとなっていた。その上4万5000トンの巨艦を動かすだけの燃料もなかった。
 結局<ファーゴ>は沈むのを避けるため、水密区画に水を入れて着底させることになった。それで不沈の砲台となり、攻め来るISAFを迎え撃てというのだ。
「燃料がないのはわかっていますが、それでもこれはひどいですよ〜」
 由依は別に大艦巨砲主義者ではない。マッハの飛行機、射程数百kmのミサイルの時代に、戦艦の存在意義など国の面子を保つくらいしかないことは自覚していた。しかし、本来ならば海原を疾走する軍艦が自ら喫水を大きく下げ、腹を海底にめり込ませているのはいかがなものか。
 由依の独り言に、何人かの幹部乗組員が頷いた。それ以外の者も同意するような視線を由依に向ける。CICの人々は、今の<ファーゴ>を、海洋を征する機会を奪われた自分たちを、情けない、嘆かわしいと感じていた。
 しかし一方、同じ艦内にはそれを嘆かわしいと思わない者たちもいた。ミサイルが主力兵器となり、砲熕兵器は防空と軽い対地攻撃を行う程度になった現代において、ビッグガンを操る腕を磨いてきた人々――巳間晴香中佐を筆頭とする砲術科員、その中でも50口径40.6センチ主砲Mk7を扱う主砲要員たちである。
 実際、晴香は歓喜していた。
(撃てる、ついに撃てるわ。最後の最後になって、私の主砲が火を噴く時が来たのよ)
 彼女が内心で狂喜するのも無理はない。主砲は戦艦の生命。しかしこの戦争において主砲を撃つ機会はこれまで一度もなかった。もはや自軍の敗北が確定したとはいえ、こうして主砲射撃の機会を得ただけでも、海軍入隊以来砲術一筋の道を歩んできた生粋の鉄砲屋、巳間晴香は満足なのだ。
「左砲戦、用意っ!」
 航海艦橋の上部にある主砲射撃指揮所。431ミリの装甲で覆われたこの場所で、嬉々とした顔で晴香が号令を下すと、3連装の主砲塔3基がそれぞれ左舷側――海の方へ砲身を向ける。機関部から電力を供給されたモーターがうなりを上げ、1基あたり約1700トンの砲塔を力強く旋回させると同時に、1本あたり約120トン、20メートルの砲身をスムーズに持ち上げる。
 その間にも指揮所では射撃に必要な諸元が計算され、目標へ――ファーバンティの沖を遊弋するISAFの艦艇へ1発1.2トンの砲弾を叩き込む準備が着々と整う。そんな中、晴香は凄みのある笑みを浮かべて、呟いた。
「この主砲でTactics海軍の意地を見せてやるわ。そして沈みなさい。竜骨をへし折って、船体を引き裂いて」
 彼女の心眼には、砲弾の直撃を受けたISAF艦が瞬時に轟沈する様子がはっきりと映っていた。そしてついにそれを実現するべき時が到来する。砲が照準を完了させ、弾薬も砲身内に装填されたことを報告する部下に頷き、晴香は腹の奥、いや心の奥から溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのような怒声を発した。
「撃ち方、始めえぇっ!」
 数秒後、砲口から雲のような炎が噴き出し、主砲が吼えた。3基ある砲塔の、中央の砲だけの射撃――交互射撃だったが、それでもその轟音はファーバンティに侵攻したISAFを押し潰さんばかりに鳴り響いた。

 その遠雷のような巨砲の叫びが、ここ水没地区にも届く。最後の砲戦に燃える<ファーゴ>砲術員とは異なり、原子力潜水艦<ベイオウルフ・Ω(オメガ)>のセイル(艦橋)に立つ3人はすっかり白けきっていた。
「ねぇ、雪ちゃん……大丈夫かな?」
『怖いの』
 聴音手の川名みさき大尉は口からで、従軍記者の上月澪はスケッチブックという違いはあったが、言いたいことの真意は同じだった。
「かと言って……できるわけないでしょ? あんな世迷い言なんか」
 艦長の深山雪見中佐は、自分の言葉が絶対的に正しい、と言わんばかりに明言し、艦の傍らに、まるで墓標のように聳える高層ビルを見上げた。夕焼けの光が空を、世界を包み、全てを黄昏の色に染めている。それは、滅ばんとしている祖国、Tactics連邦の色そのものだと、雪見には思えてならなかった。

 ファーバンティは6年前のコーヤサン飛来の時、世界で最も大きな災厄を被った都市である。市の沖に隕石が落下して、津波で10万人以上の犠牲者を出した。隕石の被害はそれだけでは収まらず、その後の地殻変動で、元々地盤の弱かった海岸線の一帯は地盤沈下により水没してしまったのである。
 <ベイオウルフ・Ω>が身を隠しているのも、この水没地帯で、海の中なのにビルに囲まれているのもそういう事情があった。ではなぜ、かつて雪見たちが命を預け、コンベースで破壊された<ベイオウルフ・π>の同型艦がここにあり、それに雪見・みさき・澪が乗っているのか。そして3人が不安と怒りを織り交ぜた感情を持っているのか。それは、彼女たちと潜水艦が受けた非常任務が原因だった。
 <ベイオウルフ・Ω>はTacticsの誇る超高性能原潜、ベイオウルフ級4隻の最終艦で、完成は2005年の6月。つまり、Tacticsが制海権を失った後のことである。コンベースで乗艦を失った彼女たちはしばらく無聊を囲った後、この艦に配属された。しかし、することがない。下手に外洋へ出ても待ち構えている敵潜水艦隊の餌食になるだけだ。いかにベイオウルフ級が高性能とはいえ、米海軍のシーウルフ級も含めた圧倒的な数の敵の前には、多勢に無勢である(実際、約1ヶ月前に1番艦の<ベイオウルフ・α>が<シーウルフ>との壮絶な戦いの末、惜敗を喫して深海へと消えている)。
 艦を得ても活動できないというもどかしさの中、ファーバンティに敵が迫ると、雪見はとんでもないことを命じられた。いざとなれば――ファーバンティが完全に陥落するようなことがあれば、原子炉を暴走させて、ISAFを巻き添えにして首都を滅ぼす。最初は、あくまでもISAFに対する脅しだと考えていた。しかし、大統領が監禁されたとの噂を風の便りで知り、やがて参謀本部の将校が艦にアドバイザー――実質的には督戦官――として乗り込んでくると、命令が本気であることを悟った。
 そして、ファーバンティがISAFに包囲されると、将校は原子炉の自爆準備を命じてきた。自爆の前には、乗組員は全員脱出ボートで、爆発と放射能の影響を受けない場所へ逃れると言われたものの、この時点で雪見は堪忍袋の緒が切れて、心ある乗組員たちと共謀して将校を謀殺し、つい先ほど、その死体を海に投げ捨てた。みさきと澪が言っているのは、この件に不安を感じてのことだった。
「あなたたちだって嫌でしょ? この街を吹き飛ばした上、放射能まみれにするなんて」
「うん」
『絶対に嫌なの』
「じゃあ、この話はおしまいよ。正気の沙汰じゃないわ」
「でも、参謀本部がこのままでいるかな?」
 みさきはなおも募る不安を隠しきれないで言った。その時、雪見の脳裏に、昔聞いたとある話が蘇る。ここ数日、彼女の脳内では何度も同じようなことが繰り返されていた。
 第2次世界大戦の末期、場所はベルリン。東西から連合軍に挟撃されたドイツ第3帝国が滅びようとしていた時、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、自分の死後に国内の道路・橋・工場等のインフラを爆破するよう、海軍元帥であり2代総統になる(そして、敗戦処理を行うことが確定している)カール・デーニッツに命じた。
 その命令を受領して総統の元を去ったデーニッツだったが、数日後に彼は戻り、このような趣旨の言葉を述べたという。
「命令には従えませんでした。あれらは戦後、ドイツ国民が生き残り、再び立ち上がるために残しておかねばならないと考えたからです」
 デーニッツの命令違反に対して、ヒトラーは怒るどころか泣いてその決断を誉め称えた、と伝えられている……。
 嘘か真かは判断のしようがないが、この逸話を思い出すたび、雪見は同じ海軍軍人であり、偉大な潜水艦隊指揮官でもあったデーニッツの決断に敬意を抱くと共に、暗鬱たる気分に沈む。
(末期のナチスですら一定の理性を残していたというのに、私の祖国ときたら……)
「まだ多くの市民が残っている都市を、まるごと吹き飛ばせ、だものね……」
 この国には、デーニッツはいないのかしら? だったら、私とみさきと澪ちゃん、そしてこの<ベイオウルフ・Ω>の忠良な乗員でデーニッツの真似をするしかないわね。彼女はそう考え、陸軍からやって来た男を魚の餌にしてやった。それでこの街が、この国が救われるのなら、と。
 しかし、彼女はまだ知らなかった。絶望的な戦争を継続する意志を持った人々の急先鋒である陸軍参謀総長が、身内である参謀本部の天沢郁未大佐に暗殺されたことを。Tacticsに(いささか乱暴だが)理性はまだ残されていたが、雪見は自分たちのみがTacticsの理性の代弁者だと思っていた。
 その結果として、雪見は平然と、未だ戦う力を残している軍人としてはただ事でないことを言った。
「ISAFに投降すれば、彼らが保護してくれるわよ。ISAFと連絡をとって。それと白い布を用意して」
『降伏するの?』
「ええ、そうよ。ファーバンティを死の土地にするよりは遥かにましよ。みさきもそう思うでしょ?」
「うん。私もそう思うよ」
 みさきがようやく笑顔を覗かせた。雪見と澪の口元も緩み、しばし笑い合う。その間にも<ファーゴ>の主砲発射音が聞こえ、雪見とみさきの笑い声に混じった。距離を少し隔てた場所では戦いが続いているが、ここだけは平穏な空気が流れている。
 笑いが収まった後、みさきがふと、高度を落とした太陽に目を細めながら、呟いた。
「今日の夕日は……80点ぐらいかな……」
「後の20点は?」
「煙で空が少しかすんでるから」
 みさきに格付けされたその夕焼け空を、軍用機が黒煙を噴きながら落ちていった。

 敵機が懸命に回避行動を続けている。が、それを撃墜すべき相沢祐一大尉から見ても、動きは緩慢だった。憐れみすら感じてしまうほどに。
(まだ新米なんだろうな……)
 敗けが込んだ空軍の常として、機材の不足、燃料の不足、そして熟練パイロットの不足という3重の不足に悩まされる、というパターンは良くあることだった。首都まで追い詰められたTacticsもその例外ではないらしい。
 祐一の目の前で、彼の殺意から逃げようとするSu−27フランカーも、そんな経験の浅いパイロットが操縦席にいるのだろう。もっとも、祐一が優位に立っている理由は技量だけでなく、機体の性能差も大きいのだが。
 しかし、目標は既にロックオンされている。ミサイルの発射を促す連続した電子音は、まるで祐一に「さあ、早く」とでもけしかけているようにも聞こえる。他に選択肢のない祐一は、愛機の誘いに乗った。ミサイル発射ボタンを軽く握る。
「フォックス2!」
 すると、F−22Aラプター「スピリット・オブ・スノーシティー」号は、待ってましたとばかりに素早く右の武器庫を開くと、AIM−9Xを1発放つ。オレンジ色の噴射炎が夕焼けの空に溶け、数秒後、Su−27は火の玉に変化する。その脇を高速で飛び去り、新たな獲物を求めるF−22A。「猛禽」の名を冠されるに相応しい獰猛さで敵首都の空を駆ける。
 祐一が大した訓練も施されていないだろう敵に対して、同情を抱きつつもここまで非情になれるのは、急いでいるという理由があった。
 スノーシティー解放後、祐一は水瀬名雪と再会したが、彼が何よりも求めていた彼女の笑顔を見ることは叶わなかった。そして戦争は大詰めを迎え、彼とISAFはついに敵首都の上空でこうして空中戦をするところまでやって来たのだ。ここで全てに決着をつける。そうすれば、もしかしたら名雪は……。
(名雪がひょっこりと起き出して、昔のように「祐一っ」と俺を呼んで、笑ってくれるかもしれない)
 この一念が、今の祐一を突き動かしている。目的は愛する者の笑顔と幸せな日常。そして、この望みを実現するために、絶対に避けて通れない存在がある。祐一は、その高く厚い壁を自ら求めて、最終決戦でもISAF空軍の「天使」たる月宮あゆ中尉に尋ねた。
「こちらメビウス1、黄色はいないのか?」
『祐一君? こちらスカイエンジェル。レーダーにはまだ映ってないよ』
「そうか……。見つけたら、すぐに教えてくれ」
『うん、わかったよ。でも……』
 あゆは、祐一が優秀な戦闘機パイロットだということに、1ミリグラムほどの疑問も持ってはいない。彼女はこの1年間、空中から常に祐一を見守ってきたのだから。しかしそれでも、「黄色中隊」の単語の持つ魔力はあゆを無条件で怯えさせる威力があった。
 あゆも祐一と同じように、黄色中隊に癒しきれないトラウマを持っている。かつてストーンヘンジの近くで管制した航空隊が全滅した戦い、また彼女も大好きな水瀬母娘が意識不明になってしまった戦いは、彼女にとっても忘れ得ぬ悪夢だった。それは勝利を目前にした現在もなお薄れることなく、今抱えている不安の大部分を占め続けている。
(でも、ボクはやっぱり怖いよ。もしも祐一君が……)
『アクトレスよりメビウス1とスカイエンジェルへ。心配ない。“黄色の13”とはサシで勝負させてやるよ』
 あゆの不安を熟知していたのだろう。斎藤大尉が彼女を安心させるようにきっぱりと宣言した。さすがは「ムーンパレス」と愛機に名づけるだけのことはあった。
『斎藤さん……』
『まぁ俺はメビウス1の僚機だからな。その時が来たら、13以外の奴は引きつけておけるだろ。俺と他の連中でな』
『おい、勘弁してくれよ。俺は黄色とやりあいたくはないぜ』
 と、ある者が冗談とも本気ともつかない口調で斎藤に反論すれば、
『いや、牽制するくらいならなんとかなるんじゃないですか?』
 と、川口茂美中尉が真面目に考えて言った。確かに、傍観者の立場からすれば、彼女の意見は正論に聞こえるだろう。
 現在、ISAF空軍はここファーバンティの空を支配する者となりつつあった。航空機材はともかくとしても、パイロットの質、補給や整備など後方支援の面、そしてAWACSや電子作戦機の参加など、ISAFの戦力は目には見えない形でTacticsを凌駕した当然の結果が夕暮れの空に展開されている。
 またそれは巡って、ISAF陸軍にも恩恵を与えている。地の利を活かして頑強に抵抗を続け、最も苛烈な形で愛国心を表現しているTacticsの首都防衛部隊も、空からの精密誘導兵器には分が悪い。しかも、ISAFの攻撃隊は陸地と参謀本部のある市中心部の島(隕石の落下でそうなった)との間に架かるネクストン記念橋を爆撃により落としていた。Tactics軍はこれで退路の一つを失い、ISAFは敵への圧力を強め、攻勢を活発化させているところだ。首都の命運は旦夕に迫ろうとしていた。
 このように陸でも空でも優勢になっているISAFの勝利は、ほぼ疑いない。そんな中、黄色中隊がいくら強くとも、戦況そのものをひっくり返すことなど不可能。もし黄色い翼が夕焼けの空に現れても、勢いづくISAF空軍全てを撃墜できる訳でもない。ましてやこっちには、最強のステルス戦闘機を操る「メビウス1」がいるわ。黄色の13は彼に任せて、それ意外の敵なら私たちでも……。これが茂美の言わんとしていたことだった。だが彼女も、F−22Aを与えられた4人のうちのひとり(そして唯一の女性パイロット)だから、間違いなく相当な腕前を持っているのだが。
 そして、ついに彼らは滅ぶ祖国の空に現れた。
『南より所属不明機が接近中。機数は5。みんな、来たよ。黄色中隊が』
『噂をすればなんとやら、だな!』
 緊張が祐一の身体に、ISAF航空隊に走り抜ける。ついに来るべき者が来た。以前、石油化学コンビナートで黄色中隊に追いまくられ、ほうほうの体で逃げ出した時、斎藤は「連中を倒さなけりゃこの戦争にも勝てない」と言った。
 なら、ここで宿敵に引導を渡せば、この戦争を取れると言うことになる。祐一はそう思いたかった。そのために彼はISAFに入ったのだから。
 しかし、黄色中隊は手始めに、近くにいる敵を狙っていた。
『米海軍の部隊と黄色が交戦を開始したよ』
「あゆ、俺を行かせてくれないか?」
『ごめん。できないよ。まずここの空域をしっかり確保しないと』
 焦りを隠しきれない祐一を、あゆはゆっくりと、子供に言い聞かせるようにたしなめた。祐一は自分が黄色の13と決着をつける前に、違う者が撃墜してしまうことを懸念している。アメリカ軍と言えば、パイロットの技量においても世界最強クラスだ。もしかしたら黄色もやられるんじゃないか?
 だが、黄色中隊の強さは祐一の懸念を無意味にするほどだった。
 中距離空対空ミサイルの撃ち合いで少数の敵に一方的敗北を喫し、さらに近接戦闘で傷を広げたのは、アメリカ海軍の空母<ニミッツ>に所属する1個中隊で、彼らは交戦開始から5分ほどで、壊滅を避けるために任務の放棄を選ばなければならなかった。その任務とは、大型の徹甲爆弾でとある目標を沈黙させることだった。
『<ニミッツ>航空隊、撤退中だよ。ずいぶん撃墜されちゃったみたい』
 あゆの状況説明を受けて、祐一は外の風景を見やる。夕日によって海までもが赤く染まった世界。その中に、ひとつの黒い影が横たわっていた。
「じゃあ、あれを放っておくのか?」
 その黒い影から、炎の雲が湧く。シルバーブリッジ付近に座礁した<ファーゴ>の艦砲射撃だ。黄色中隊にさんざん痛めつけられた<ニミッツ>の艦載機が狙っていたのが、この元アメリカ海軍戦艦、BB−66<ケンタッキー>だったのだが、かつての先輩に叩きつけられるはずだった爆弾は、任務中止と共に全てが何もない海上に捨てられた。
『あいつには1隻、やられてたよな。まだ陸地に向けては射撃してないみたいだけどさ、もし……』
 祐一と同じ光景を目撃した斎藤はそこで口をつぐむ。彼の言う通り、陸軍を支援すべく彼女の巨砲の射程内に踏み込んだ勇敢な駆逐艦<フォートグレイス>は、既に40.6センチ砲弾の餌食となり、住処を海底へと変えていた。それ以外のISAF海軍の艦艇も、ほうほうの体で沿岸から離れていた。
 祐一の発言から40秒後、<ファーゴ>が再び轟音と爆炎を生む。今度は交互射撃ではなく、9門の主砲を同時に撃つ一斉射撃だった。空に広がる砲煙と、海面を歪ませる衝撃波がくっきりと、先ほどよりもずっと大きく見える。Tactics海軍の最後の闘志を、海上を走る力を奪われた、鋼鉄の浮かべる城が具現化していた。そんなしぶといビッグ・ガンを残しておいたら、陸で戦っている連中はどんな目に合うか……。誰もがそれを心配していた。
『大丈夫だよ。アメリカ海軍さんがどうにかするって言ってた』
「どうにかするって……もう徹甲爆弾を持った航空隊はないんだろ?」
『うん。そうだけど――あっ!』
「どうした!?」
『南から小型の飛行物体が高速で接近中。マッハ2以上で、9つ……5秒、4、3……だんちゃーくっ!』
 あゆがリズミカルにそう叫んだ瞬間、<ファーゴ>の手前に9本の水柱がそそり立ち、その巨体をしばし覆い隠した。
「これで、あっちは大丈夫になったな」
 100メートル近い高さまで吹き上がった、海底の泥が混じった水柱が重力によって崩れ、<ファーゴ>を汚す光景を眺めつつ、祐一は安堵したように呟いた。
 だが、祐一の安堵は、別のものによって奪われようとしていた。
『祐一君っ、斎藤さんっ、そしてみんなっ! 黄色がこっちに来るよ……準備をお願い』

「黄色の13より各機へ。フォーメーションを崩すな。編隊戦闘を徹底しないと食われるぞ……あいつら、ただの戦闘機乗りじゃない」
 折原浩平少佐に「了解」と声が返ってくる。いずれも馴染みの深い、そして同時に懐かしくも感じる声だった。
 黄色中隊――第156戦術戦闘航空団は、そもそもストーンヘンジを防衛するために編成された部隊である。そのため、戦略的に大きな意味を持つ巨大レールガンの上空を守る部隊は、人材も機材もすべからく最高のものが集められた。だからこそ、戦争初期はISAF空軍機を一方的に叩きのめし、敵味方の双方から神話のごとく語られる存在となり得た。
 Tacticsが占領地域を広げると、ストーンヘンジの安全は高まり(ISAFはTacticsの制空権下を突破してストーンヘンジに向かわなければならない)、手の空いた黄色中隊は戦闘の続くあちこちに出張し、今度は火消し役として活躍、大陸からISAFを追い出す要因の一つとなった。この中隊の絶頂期を支えたのが、浩平の左右に付き従うパイロットたち、初期の中隊メンバーである。
 しかしその彼らも、戦況が不利になると中隊から引き抜かれて、各戦線でベテランパイロットが失われた穴埋めとしてあちこちに転属となる。黄色中隊の神通力が薄れてきたのもこの頃からで、その後ISAFが大反攻作戦を発動させると、もはや誰にもISAFの猛攻を跳ね返すことはできなくなった。中隊は旧Kanon国スノーシティーを離れ、首都ファーバンティの防空を命じられた。
 だがウイスキー回廊会戦に敗れ、Tacticsの敗北が決定的になると、ファーバンティに配備されていた中隊は急遽トゥインクル諸島に移動させられる。戦略的に何の意味もない(と「真実」を知らない彼らは思っている)ファーバンティ沖約300kmへ「島流し」にされた浩平は、当然納得がいかない。納得できなかった結果、彼は軍人としての義務――命令に従う――を放棄した。
 そう、浩平と黄色中隊は、独断で滅びゆく祖国の首都を守ろうとしているのだ。そして浩平には、もうひとつの目的があった。「リボン付き」と、最後の決着をつける。この意志は彼の敵、相沢祐一と完全に一致していた。
(昔は良かったな……あの頃は、本当に自由に空を飛べたからなぁ)
 こうして中隊の最盛期のメンバーと編隊を組んでいると、かつての栄光が、今だけは戻ったような気もしないでもない。だが、それを堅固なものとするには、ひとつ足りない。いつも――空でも陸でも浩平の傍らにあり、彼も常に一緒にありたいと願った、心から愛した女性。黄色の13――長森瑞佳。
 しかし、彼女は空に散った。もう彼の元に還ることは、永遠にない。
(えいえんなんて、やっぱりなかったんだな……瑞佳、お前の言ったことは間違ってたな……)
 だからこそ、浩平は祖国の空を再び飛ぶことを選んだのかもしれない。彼と瑞佳が共通で愛した空の下を。
(でもな、瑞佳。オレもすぐに……)
 浩平は、ひとつの悲壮な決意を秘めて、エンジンスロットルを開いた。

『来たよっ! 全機散開! 予定通りにやって! 1機でも黄色に突っかかる人が多ければ、みんながひとりでも多く生き延びると思って!』
 あゆが叫ぶように命じる。続いて、具体的な指示に入ると、ISAFの緊張は最高位に達する。
『ブラウン小隊とオレンジ小隊は右から、パープル小隊とグレー小隊は前と上から抑えて! それ意外は……手あたり次第に突撃して!』
「メチャクチャな命令だな」
 やたらと冷静な祐一がからかうように、そして呆れるように言うと、あゆは怒って怒鳴り返した。今の彼女には、ちょっとした冗談も通じないらしい。
『うぐぅ……みんな祐一君のためにするんだよっ! 真面目にやってよっ!』
「済まん、悪かった」
 珍しく、祐一は素直に謝罪した。あゆの真剣さが、無線を通した声からひしひしと伝わり、彼の脳髄に響き、自然に口を開かせていたのだ。
『そうだぞ、メビウス1。もちっと真面目に行こうや。これで最後にするんだからな』
「そうだな、斎藤……正面、来るぞ!」
 たちまちけたたましい電子音でコクピットは満たされる。敵機Su−37のレーダー波がISAF編隊を舐め、それによって彼らは敵ミサイルの目標にされた。
『ロックされた! 警戒しろっ!』
『オーケー、こっちも捉えたぞ。フォックス3、フォックス3!』
『ミサイルだ、外せっ!』
 ISAF機は次々とAIM−120アムラームを発射すると、エンジンを全開にして急上昇する機体、翼を裏返して急降下する機体と、思い思いに回避行動を始める。中距離ミサイルを放ったのは、敵味方同時だった。しかし、互いのミサイルが相手に到達した時、黒煙を噴いて墜ちるのはISAFの3機のみ。黄色中隊は平然と飛んでいる。
『駄目だ。1機も墜とせてない!』
『まだだ! 数はこっちの方が多いぞ』
『目標視認! 近接交戦開始!』
『突撃、全機突撃!』
 こうして、ファーバンティ上空は新たな、そして最大の混沌を映し出し始めた。

 徹底した編隊空戦戦術を取る戦闘機隊とは、それを攻撃する側からすれば非常に厄介な存在である。互いの弱点や死角を補い合い、3機、または4機(黄色中隊の場合は5機)の戦闘機が、あたかも神経で繋がっているかのような連携を見せ、単独戦闘を挑む者は蜘蛛の巣にでも絡み取られるごとくに討ち取られる。
 逆に、堅固な編隊を倒そうとする者は、これをどうにか崩そうとする。バラバラにして各個撃破するのが最も倒し易いし、自軍の損害も最小限に抑えられるからだ。が、そう簡単にいくものでもない。
 まず、編隊に編隊で挑んだ場合、技量が拮抗していたら両者共手詰まりとなり、戦闘は(主に燃料の問題で)自然終結することもあり得る。どちらかの練度が上回っていたらその限りではないが。
 そこで、敵の編隊戦術を瓦解させる有効な手段がひとつある。数で圧倒するのだ。編隊を組んで密集していたら危険なほどの数の戦闘機で取り囲み、それぞれが一撃離脱に徹して五月雨式に攻撃する。
 だが、「有効」とはいっても、限度はある。一撃離脱する者の腕が未熟ならば、逆に編隊にとっては各個撃破の格好の対象になってしまう。さらに、狭い空域に、一度に多数を放り込むと「魔女の大釜」と呼ぶに相応しい混沌ができ上がる。管制も困難になるし、同士討ちや空中衝突の危険性も、著しく高まるだろう。
 しかしあいにく、ISAFはもはや素人の集団ではなかった。平均すれば黄色中隊に劣るが、それでも破壊と死の空で鍛えられた彼らは、芸術に匹敵する黄色中隊の見事な編隊戦闘を、ミサイルという鑿(のみ)で、徐々に、そして確実に削り取っていった。

 無線から斎藤の喜びが漏れ伝わる。すると、あゆまで歓喜に加わる。
『ビンゴーオッ! やったぞ! 俺にも黄色を墜とせた! イャーッホゥ!』
『すごいや、斎藤さんっ!』
 会話の内容によると、黄色中隊は4機に減ったようだ。斎藤は先ほどの宣言通り、祐一の邪魔はさせまいと頑張っている。しかし、祐一は相棒に礼を言うことすらできなかった。彼は黄色の13と、全てを賭けた一騎打ちを――組んず解れつのドッグ・ファイトを繰り広げている。今は祐一が背後を取られ、危機的状況にあった。
 後方から、ミサイルが迫ってくる。サイドワインダーを超えるAAMと言われ、旧西側諸国の空軍に衝撃を与えた高機動ミサイル、AA−11アーチャーがF−22Aの排気熱を捕まえていた。ミサイル警報が祐一の恐怖を増幅し、強いGが肉体をも苦しめ、全身の骨が軋む。もし一瞬でも気を抜けば、たちまち意識を喪失して愛機は人事不詳となり、ミサイルが直撃する。祐一は何もわからないうちにあの世へ召されるだろう。
「ぐ……あっ……まだか?」
 忍耐の結果、彼はミサイルと重力、2重の敵に勝利した。F−22Aの卓越した機動力と、赤外線の排出を抑制するエンジン排気口に加え、最適なタイミングで放出されたフレアが、アーチャーの赤外線の目を騙したのだ。
「よし! 外した!」
 ひとまず危機から離れた祐一だが、操縦桿は傾けたまま元に戻すことなく急旋回を続行する。背後を取られた状態から、全く正反対の状態へと逆転するため、彼は自らの身体が砕けるような無茶を続ける。
 これに対し、F−22Aは良く応えた。ベクタードスラスターは祐一の思うままに機体を振り回し、F119−PW−100エンジン2基は思うままの加速で機体を推進させ、徐々に黄色いSu−37を追い詰める。
 互いが持ち得る限りの体力と技術を出し切り、複雑な空戦機動を見せ合った結果、いつしか黄色の13は祐一の眼前にあった。

「くそっ、なんて奴だよ!」
 折原浩平は心底からの罵声を狭いコクピット内に響かせる。その中には、焦りと喜びと驚嘆、そして後悔が等分割されて混じっていた。
(ついこの前は、瑞佳に追い回されるだけだった奴が、今ではオレを追いかけている……)
 あの時――リボン付きと初めて出逢った時、彼はあることを願った。絶対の信頼を置く相棒から逃げ切ったF/A−18Cに乗った未熟な敵が、強くなって再び自分たちの前に現れることを。
 でも、その願いは少々、いや、かなり大きく叶い過ぎたみたいだな。瑞佳は――オレの愛する女性は、奴に殺された。オレは強い敵と堂々と戦うことは望んだけれど、瑞佳を失うことまでは……。
 こうなったのも、去年オレが奴の存在を放任したからだ。瑞佳が死んだのは、オレのせいみたいなもんだ。だから、オレはリボン付きを墜とす。そして瑞佳の仇を討つ。その後は……。
 常に彼に忠実だったSu−37スーパーフランカー第13号機が、浩平のそんな思いを受け止めてくれたのだろうか。やはり彼も全身を締め上げ、痛めつけるGに耐え抜くと、大きな主翼とベクタードスラスターと、カナードの生み出す卓越した機動性がアメリカの誇るサイドワインダーAAMの最新バージョン、AIM−9Xの機動性に勝った。
 目標をかすめたAIM−9Xの赤外線シーカーは、従来のサイドワインダーでは死角になって捉えなれない位置にある目標を再び探知する。さすがはハイテク立国、アメリカの造ったミサイルである。推力偏向ノズルの力で丸い円を描くように離れた目標を追い、Su−37の追尾に入る。
 しかし、そこまでがAIM−9Xの限界だった。敵機に突入するよりも早く、自らをマッハ3で進ませていたロケットモーターを燃焼し尽くしたのである。勢いを失い、ぐらりと傾いたAIM−9Xを確認した浩平は、逆襲に移るべく再びF−22Aの背後に回り込もうとするが、彼は今まで回避に夢中で忘れていたことを思い出した。自機のパイロンに、もう1発のミサイルも残されていないことに。

 相沢祐一の最後の1発は、Su−37――黄色の13の、あまりにも素晴らしい機動性の前には無力だった。これで残るは機銃のみ。しかし、あの空を「飛ぶ」のではなくて「舞う」相手に、機銃を当てるまで近づけるだろうか?
 と思っていると、敵機がスピードを上げ、離れようとしている。よく見ると、黄色の主翼にはミサイルが存在しない。
「奴も俺と同じか……」
 互いに有効な攻撃手段を失ったんだな。となると、無理せず逃げるのが一番なんだけど……。最高速度で追い駆けても、F−22Aじゃ追いつけないな。
 しかし、黄色の13が逃げるなんて、考えられない。向こうが機銃弾すら全て使い尽くしているならともかく、あの黄色の13に限ってそんなことはない……はずだ。
 祐一の予感、いや確信は的中した。ある程度はなれた所で、Su−37はおもむろに反転する。ちょうど祐一の正面からこちらへ向かってくる形だ。
「向こうもこれで最後にするつもりか。受けて立ってやる!」
 祐一も進路を微調整して黄色の正面につける。こうしてライバル同士は、まるで申し合わせていたかのように正対した。いや、実際に互いが最後の決闘を望んだゆえの、当然の成り行きだった。
「名雪……力を貸してくれよな」
 4000メートル。敵との相対速度は既にマッハ1を超え、さらに増速する。
 3000メートル。接近警報がやかましく鳴るが、それを無視して直進を続ける。敵機の影は点のようにしか見えない。
 2000メートル。M61A2バルカンの20ミリ弾は480発まるまる残っている。有効射程まではまだ1000メートル遠いが、祐一は引き金を引いた。早めに撃って、敵の前方に弾幕を張ろうという魂胆だ。敵も全く同じことを考えたのか、祐一の周囲をオレンジ色の曳光弾がかすめ通る。
 1000メートル。もう敵影は輪郭まではっきりわかる。しかし祐一は操縦桿を寸分たりとも動かさす、万力のように固定し続ける。一方、彼の心は恐怖に打ち震える。もしもあの30ミリ弾が当たったら、もしも正面から激突したら……。
(名雪、助けてくれっ!)
 祐一は、決定的な瞬間を迎える直前、愛する者に強く念じた。そして……。
「!!」

 瞬時にすれ違う2機。次の瞬間、翼がもぎ取られ、次いで空中で破片を舞い散らせながら原型を崩していったのは、黄色の13のSu−37だった。
「……っ、生きてる……勝った、のか?」
 目を瞑って一瞬の恐怖に耐えていた祐一は、自分が生命を失っていないことを、まるで信じられないかのように呟いた。
 後ろを振り向くと、敵機が墜ちていく。あの黄色の13が、あの恐るべき黄色い翼が、自分から元気な名雪を、幸せを奪った、パイロットを志した時から目標だった敵が、翼を、機体を分解させながら、空とは正反対の場所へと。
「黄色が、墜ちていく……」
 実力は伯仲していた。機体の性能も、この際関係なかった。勝敗を分けたものはふたつ、機関砲の性能と、確率論――運だった。
 Su−37のGSh−301機関砲は30ミリ。威力は大きく、1発でも命中すればF−22Aといえどもバラバラにされていただろう。発射速度は1秒間に25発。一方、F−22Aの搭載機銃はM61A2バルカンで、口径は20ミリ。威力ではGSh−301に劣るが、発射速度は段違いに高く、1秒間に100発の砲弾を吐き出すことが可能である。
 祐一と浩平の相対速度は音速を軽く超え、連射が可能な機関砲といえども当てるのは難しい。となると、多くの弾をばら撒いた方が命中率は高まる。それが両者の運命を決定したのだ。一方は勝者となり、もう一方は敗者となる運命を。運命の女神は、相沢祐一に微笑みかけたのである。

 苦悶にのた打ち回る愛機から、浩平は逃げ出そうとはしなかった。それが彼の、永遠の盟約を果たす唯一の術だからだ。
「ごめんな、瑞佳。お前の仇は討てなかったな」
 その表情は、決して敗者のものではなく、まるで純真無垢な子供のようだった。そう、彼が初めて瑞佳と出逢い、心の苦しみから解放された頃のような。
(でも、これでお前と一緒になれるな)
『それはまだ早いよ。キミが僕の所に来るのは』
「!! 氷上!?」
 浩平の脳内に突然響いた声の主は氷上シュン。空軍士官学校時代の同期生。そして、病気によって若い命を失った、今は亡き浩平の友人。死んだはずの氷上がなぜ!? 浩平は自らの死の間際に、それ以外の理由で驚愕を顔に張りつかせた。
『それに、キミがこっちに来る理由もないしね』
「どういうことだ!? 氷上!」 
『生きてればわかるよ。じゃあ、さようなら』
「おい! 氷上っ!」
 シュンの声が途絶える。同時に、愛機の生命が尽きた。
 Su−37が完全に分解し、大気に混じった瞬間、彼の身体は座席ごと空中に放り出されていた。

 空中でひとつの終焉を迎えていた頃、たったふたりの戦争も、終結しようとしていた。
『Tactics連邦大統領は、降伏を宣言、停戦協定を受け入れた。Tactics連邦兵士諸君は戦闘を停止し、次の場所へ投降せよ……』
 ISAFによる投降の呼びかけは、テーブルや椅子が乱雑に転がり、その上にあった調味料が床にぶちまけられたここ、国防総省の食堂まで届く。
「……葉子さん」
 空になった弾倉がP239のグリップ部から滑り落ちる。懐や腰回りをさすり、もう予備の弾倉がないことを確認した天沢郁未は、腹の底から大きな溜息を吐き出すと、姿は見えない(カウンターの影に隠れている)が、確実にそこにいるだろう鹿沼葉子に、うんざりしたような声で言った。
「……何ですか?」
 葉子はそれに返答した。彼女の声音も郁未と同じように、何もかもを諦めたような感情を滲ませていた。
「もう止めにしない?」
「……そうですね。もう、これ以上は無意味です」
 ようやくふたりは、盾にしていたカウンターやテーブルの影から立ち上がり、無防備な姿を見せた。参謀徽章を始めとする数々の徽章で飾られた軍服も醤油やソースにまみれている。
「申し訳ありませんでした、郁未さん」
「あぁ……もう良いわよ。葉子さんの気持ちもわかるから」
 これは郁未の本心だった。敗北を認めるということは、これまで多量に流されたTactics将兵の血が、全くの流れ損となってしまう。勇敢に戦った将兵が無駄死にしたなどと認めたくないのはある意味当然でもあった。
 郁未の心の中にも、葉子と同等の思いは確かに存在していた。それが大きかった葉子は戦争継続を選び、一方軍とは国民のために存在するという前提の元に動いていた郁未は、上官を殺めてでも戦争終結を選んだ。それだけのことだった。
 ふたりの根底に流れる、国を想う気持ちに違いはない。
「さ、こんなもの持ってると、ISAFに抵抗の意思あり、なんて思われて撃たれちゃうわよ」
「はい」
 弾切れで何の役にも立たなくなった拳銃を放り投げると、ふたりは食堂を出た。ISAF陸軍が国防総省を制圧するために踏み込んで来たのはその時だった。彼女たちの戦争も、ここでようやく終わったのである。
 突入したISAF兵士たちは、晴れやかな顔をして投降する、醤油やソースだらけの女性将校を、訝しげに眺めていたという。

「……かさん、晴香さん!」
「ん……ううん……あれ、由依?」
 巳間晴香中佐の意識は、上官の呼びかけと揺さぶりによって覚醒した。まだぼうっとした頭で物事を考え、素直な疑問を口にする。
「ここは……って、甲板じゃない。何でこんなところにいるのよ?」
「射撃指揮所は損傷したんですよ。それで気絶した晴香さんをどうにか運び出して」
 由依はそう言って苦笑いを浮かべると、周囲を見渡した。木の張られた甲板は、浅い海底から吹き上げられた泥で汚れている。そして所々に、乗組員の血溜まりも。これを見て、気を失っていた晴香もようやく合点がいった。
「……そう。敗けちゃったのね、あいつに」
「はい。でも、元から無理でしたよ。脚を奪われた本艦には。むしろ、あそこまで善戦できただけでも……」
「……そうね」
 由依へというより、自らを納得させるように言う晴香。意識が正常に戻るにつれ、自分が命を預けた艦の状況を理解していく。彼女たちのいる艦首側の最上甲板舷側から望む<ファーゴ>の被害状況は、もしも海上だったら自分たちはとうの昔に水漬く屍になっていると確信させるほどだった。
 まず目についたのが主砲塔。先ほどまで晴香が自分の腕と同じように、自由自在に振るってISAF駆逐艦を1隻屠り、第2次大戦後初めて、戦艦が水上艦を撃沈するという快挙を成し遂げた武勲溢れる40.6センチ3連装砲塔は、その全てが無残に破壊されていた。1番砲塔は天蓋を貫通され、その部分は大きくめくれ上がっている。2番砲塔は防楯を徹底的に引き裂かれていた。3本あったはずの砲身は、左側の1門のみが残されて、後の2本は被弾の衝撃でどこかに吹き飛ばされたのだろう、消失していた。3番砲塔は良く見えないが、左舷に突き出る砲身がてんでバラバラの方向を向き、敵の攻撃が熾烈を極めたことを物語っている。
 艦上構造物もまた散々に痛めつけられていた。2本の煙突は両方とも根元から消え去り、かつてはミサイルが置かれていた中央構造物と後檣は全く原型を留めず、スクラップ置き場と見紛うばかりだった。前檣楼は奇跡的に形を残していた。が、よく見ると弾片で至る所に穴が空き、またはへこんでいる。艦橋のガラスは全てが失われていた。そこに生命のいる気配は全く感じられない。そんな人気の途絶えた塔状艦橋は、赤から黒へと変わりつつある空に寂しく佇んでいた。
 ただ幸運だったことは、元から着底していたため絶対に沈まないこと、そして艦を着底させるためヴァイタル・パート以外の部分に海水を満たしていたので火災がさほど発生していないことだ。そのため、被害の少ない――攻撃に晒されていない右舷側では、ゴムボートを膨らませたり、縄梯子をよじ降りたりと、生き残った乗組員の退艦作業は比較的スムーズに進んでいる。皆自力で動いているのは、優先された重傷者が既に退艦していたからだ。つまり、総員退艦も大詰めを迎えている。
 由依と晴香はしばらくの間、順調に脱出する部下たちの様子と、無人の廃墟になろうとしている乗艦<ファーゴ>を交互に眺めて、異なる感情の篭った視線を投げかけていた。前者には安堵を、後者には悲しみを。
 そんな中、晴香が突然言った。
「ねぇ、由依」
「なんですか? 晴香さん」
「あんたって、おかしな子よね」
「むっ! いきなりなんですかっ?」
「まぁ、あんたといたら、このショックも収まる日も近いかもしれないわね」
「?」
 それきり晴香は口を閉じ、再び乗艦に視線を向ける。そんな彼女たちに、ひとりの士官が走り寄って告げたのは、それから間もなくである。
「艦長、総員退艦いたしました。後は我々だけです」
「わかりました。行きましょう。晴香さん」
「そうね」
 簡単な会話の後、彼女たちは最後の救命ボートに移った。その時、由依は一瞬だけ泣きそうな顔をして、晴香は悔しそうに顔を歪ませた。
 ボートが艦から離れるにつれ、Tactics海軍の誇りだった艦の全景が明らかになる。ふたりは、その姿を心に焼きつけようと、<ファーゴ>の亡骸をいつまでも見つめていた。
 なおこの時、由依と晴香の頭からは、大切な人――由依は姉、晴香は兄――のことは抜け切っていた。彼女たちがそれを思い出すのは、Tactics連邦政府が公式に発表した停戦宣言を確認した後である。

 首都決戦の最中、大きな犠牲を払いつつも大統領府に突入したISAF陸軍によって、軟禁状態から解かれたTactics連邦大統領は政務に復帰した。その最初の(そして国はISAFの軍政下に置かれるだろうから最後の)仕事はISAFの降伏勧告を受諾することだった。
 かくして2005年9月19日2025時、小惑星の傷跡癒えないクラナド大陸全土を舞台に、約2年間に渡って繰り広げられた戦争は、ISAFの勝利でここに幕を閉じた。
 降伏調印式は9月26日1200時より始まる予定で、この日時をもってクラナド大陸戦争は正式に終結するはずである。が……。
 決戦の舞台となったファーバンティの沖約300キロの孤島で、ひとつの陰謀が既に動き出していたのを知る者は、ごく僅かな例外を除いて、存在しなかった……。


 「Mission14 奇跡の空」につづく



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