2005年7月8日 2134時 スノーシティー 旧市街地区


 灯火管制された闇の中に靴音が響く。その音の発生源である少女は苦しげに息を吐き、自らの運動に必要となる新鮮な空気を求める。それでも彼女は走るのを止めない。止まると身の自由と安全が危うくなる。
 スノーシティーで抵抗活動を行う沢渡真琴は、Tacticsの憲兵から逃れるために、裏路地をひたすら走っていた。
 ここ最近、Tacticsのレジスタンス取り締まりは厳しくなっていた。理由は真琴も良く理解している。去る4月2日、ISAFのストーンヘンジ攻撃とタイミングを合わせ、大陸中の抵抗組織がTacticsの空軍基地に対して破壊活動を実施した。その結果、黄色中隊を始めとしてストーンヘンジへの航空救援は間に合わず、ストーンヘンジも空爆で完全に破壊された(肉まんに偽装した時限爆弾で黄色中隊の出撃を遅らせたのは、他ならぬ真琴自身なのだが)。
 憲兵隊によるレジスタンス狩りが激化したのはそれから間もなくである。天野美汐が抵抗活動を統括するここスノーシティーでも例外ではなく、今真琴が追われているのも取り締まり態勢の強化に原因があった。ISAFの侵攻が近い今、指定された爆撃目標に爆弾誘導用のレーザー発振器を仕掛けようとして、見回りの憲兵に見つかってしまったのだ。
「はぁ、はぁ……もう大丈夫かな……?」
 やがて、人気の全くない狭い十字路で足を止めると、ようやく後ろを振り返る。先ほどまで真琴を捕まえようとしていた憲兵たちが追ってくる様子はなかった。どうやら、相手を上手く振り切ることに成功したようだ。
 呼吸を整えると、小声で笑った。
「あははっ……。ノロマの憲兵が、真琴を捕まえるなんて10年早いのよ」
「何が10年早いんだ?」
 突然背後からかけられた声に、飛び上がらんばかりに驚いた真琴が振り向くと、そこにいたのは、Tactics空軍の折原浩平少佐だった。片や喫茶店「百花屋」の店員として、片やそこの常連として、互いに顔見知りである。
「あっ、折原さんっ! えっと、えと、その……あうーっ」
 言葉に詰まってうめく真琴。そんな真琴を冷ややかに見つめる浩平。
「……ああ、そういうことか……」
 何かを悟るように、浩平はひとり呟いた。彼は気づいたのだ。目の前にいる少女がこれまで裏で何をしてきたかということを。
(じゃあ、あの時――長森の機体が爆破されたのも――)
 衝動的に、浩平は一歩前に踏み出し、真琴に近づこうとする。が、横合いから投げかけられた声で、彼は動きを止める。
「こんばんは、浩平さん」
「……あんたは」
「はい。いつもお世話になっています」
 チェック模様のストールを羽織った少女、美坂栞。百花屋のウェイトレスにして真琴の盟友――レジスタンスのメンバー。栞は真琴の前に出て彼女を庇うように立つと、にっこりと屈託のない笑みを浮かべて、軽く頭を下げた。
 しかし、再び頭を上げた栞は、右手を素早くポケットに入れると同時に、冬の北風並みの冷たさが滲み出すような声で言った。
「浩平さん。真琴さんから離れてください」
 スカートのポケットから、下手なガンマン顔負けの速さで拳銃を取り出す。22口径の小さい拳銃だったが、スカートのポケットに隠すには大き過ぎる。外見からはとてもそんなものが入っているように見えなかった浩平は、完全に虚を突かれる。
「動かないで下さい。私はこんなもの、撃ちたくはないんです」
 自己防衛を図り、ジャケットの内側に隠された拳銃を抜こうとするが、それすらも先手を打った栞に制止される。浩平の背中を冷たい汗が濡らした。
「……そんなにオレたちが嫌いなのか?」
 永遠に続くかと思われる沈黙を破り、ようやく浩平は言った。どことなく、言葉の底に悲しみが隠されているような声音だった。しかし、怯えていた真琴の表情がその言葉で激情に歪み、浩平の様子に気づくことなく彼に言い放つ。怒りと悲しみを全く隠すことなく。
「そうよっ! あんたたちが来なければ、秋子さんも名雪もあんなことには……それに、それに祐一だって……」
「……」
 真琴は浩平を睨んだまま絶句する。瞳から雫が落ちる。浩平も無言だった。真琴の後を栞が引き継ぐ。
「浩平さん、私は別にあなた個人を恨んではいません。ですが、あなたたちTactics軍は私たちの祖国を踏みにじりました……。そんなことする人、嫌いです」
 浩平は一瞬、苦悩を滲ませる表情になる。しかしすぐ後には無表情となり、静寂と闇が空間と彼らを支配する。そんな中、浩平はひとり考えを巡らせた。
 そうか、そうだった。これは戦争だったんだ。だから長森は――瑞佳は死んだ。だからこいつらはオレをこういう目で見るんだ。こいつらにとってオレたちは……オレたちは、憎むべき侵略者なんだ。
 どれくらい沈黙が続いただろうか。やがて浩平は一言、
「……そうか、わかった」
 とだけ言った。感情のこもらない、低い声だった。
 その時、突然男たちの怒鳴り声が響き、彼女たちのいる路地にも届いた。追っ手の憲兵隊が近づいてきたのだ。
「あ、あう〜、栞ぃ〜」
「早く逃げましょう、真琴さん」
 栞はそう言いつつも、浩平に背を向けることなく後ずさりする。拳銃も浩平に向けたままで、油断のない動きだった。
 しかし、レジスタンスに対して浩平は、背後に伸びる路地の奥を指で指して、静かに言った。
「……向こうへ行け」
「えっ?」
「向こうからは憲兵は来ない」
「……」
「何をしてるんだ? 早く行け」
 それから数秒後、栞と真琴はようやく動き出した。浩平の横を過ぎ去る際、ふたりは小さな声で、
「ありがとうございます」
「……ありがとう」
 と言い残した。それは浩平の耳にも入った。
 ふたりの少女は闇の中に消える。それを見送りもせず、ひとり取り残された浩平は、じっと路地の真ん中に佇んでいた……。
 翌日、彼と彼の中隊は首都ファーバンティ防空の任を帯びて、思い出深いスノーシティーを離れた。ISAFによるスノーシティー奪回作戦が開始されたのは、そのさらに翌日のことだった。


 
カノンコンバットONE シャッタードエアー

   
Mission12 帰還



 
2005年7月10日 0002時 スノーシティー


 闇の中に、光がまたたく。それはすぐさま広がり、地面を凪いでゆく。相沢祐一の見つめる街――4年と半年前、幼なじみと7年ぶりに再会した、彼の愛する街は、光に包まれるようにその姿を浮かび上がらせていった。街に潜むレジスタンスが、敵の姿を照らし出すために灯下管制を破り、街中の電灯を一斉に灯したのである。
 作戦名「ファイヤフライ(蛍)」の始まりに相応しい光景だった。
「あれが……スノーシティーの灯か」
 祐一は、街の夜景の幻想的な美しさに、誰に言うともなく呟く。その台詞は、大西洋を初めて無着陸飛行で渡り切った飛行家の有名な言葉に似ていたが、祐一はそれに気づかなかった。
 祐一の乗機、F−22Aラプターのコクピット側面、キャノピーのちょうど下には「スピリット・オブ・スノーシティー」と、筆記体のアルファベットで書かれ、それを雪の結晶の模様が飾っていた。これが祐一機のニックネームである。「スノーシティー魂」というこの言葉に、祐一は必ず生きて名雪の元へ還る、そして彼女と添い遂げる、絶対に叶える決意を託していた。
 なお、F−22Aを受領した4人のISAFパイロットは、それぞれ祐一のように機体に好きな「公式」ニックネームをつける特権が与えられた。公式だから、ISAFの書類やコンピューターにも記載される。
『みんな、わかってるよね? 攻撃は国際空港と旧市街、新市街の官公庁に集中、そこの敵を掃討して。それ以外は住宅地だから、できるだけ何もしないでね』
 作戦前のブリーフィングで何度も繰り返し説明されたことを、今日もISAF航空隊を導くあゆがさらに念を押す。その声は、いつになく緊張しているように、祐一には聞こえた。
 今回のミッションは市内に陣取る敵への精密爆撃が主な攻撃手段となるので、普段は明るいあゆも深刻に、そして幾分か沈みがちになっている。これは彼女の管制を受けるISAFパイロットのほとんどが感じ取っていたし、彼らの心の中も、あゆと似たようなものだったろう。
 まず、スノーシティーはクラナド大陸北部における交通の要所として、街そのものが極めて高い戦略価値を持っている。また、奪回後は南部方面軍と北部方面軍の合流地点になると同時に西部派遣軍の編成拠点として機能することをISAFは期待していた。そのため、ISAFとしてはスノーシティーを可能な限り「無傷」で奪回しなければならない。
 もっともこの点は、純粋に戦略的視点からの解釈であり、ISAFパイロットたちは、目標以外への誤爆により、市民に死傷者を出してしまうことを恐れるがゆえに緊張し、深刻になっている。誰も善良な市民を殺傷したいとは思っていない。とりわけこの街に多くの楽しい、そしてかけがえのない思い出を持つ祐一とあゆにとってはなおさらだった。
 しかも、祐一はこの街で大切な家族を失ったがゆえに、戦闘機乗りとなり、こうして好きな街を空中から眺めているのだ。彼は第2、第3の水瀬家を作り出すことだけは、絶対に回避したがっている。
『じゃあ、ホントにお願いねっ! 作戦開始!』
「メビウス1、了解」
『アクトレス、了解っ』
『ブラボー小隊、善処する』
『こちらチャーリー小隊。できるだけやってみるよ。神に祈りながらね』
 ふたりの願いは届くのか、それは全てが終わってみないとわからない。しかし、ISAF各機は、その願いを満たしてくれると思わせるほど誠実に答え、爆弾とミサイルを抱えて思い思いの方向へと散っていった。

「そうですか。折原さんが……」
「はい。私たちを見逃してくれました」
 クラナド大陸の国々は基本的に多宗教国家である。レジスタンスのリーダー、天野美汐と部下(美汐は「仲間」と呼んでいる)のふたり――美坂栞と沢渡真琴は、キリスト教会の高い尖塔の頂にいた。市内に布陣する敵の配置を熟知している彼女たちは(ISAFの攻撃計画も、レジスタンスの集めた情報が大いに参考とされた)、ISAF攻撃の際には高所から目標の指示や攻撃効果の判定――前線航空統制官としての役割を担っていた。
 彼女らレジスタンスは、この行為が自分たちの街を侵略者から取り戻すためだけでなく、街を守るためでもあるとの認識を持っている。こうして目標への指示を正しくしてやれば、誤爆の危険性は低くなり、街の無意味な破壊は抑えられるだろう。
 ISAFは街に戦略的な価値を見出し、レジスタンスは自由を求めて戦っているが、誤爆を避けたいという点では、完全に一致していた。
「ねぇ、美汐、どうして真琴たちを逃がしてくれたのかな?」
「わかりません……でも、折原さんたちは、良い人でしたから……」
 美汐は、自分の店を贔屓にしてくれた人たちのことを悪からず思っていた。こうして奪還作戦が始まった今でも、それは変わっていない。そんな彼らは昨日、美汐たちに別れを告げることもなく、ひっそりとこの街から去っていった。
「B−3ポイント、弾着……命中です」
 しかし、そんな感情をおくびにも出さずに、美汐は黙々と任務をこなす。彼女は冷静な目で、街の一角で起こった爆発の模様を観察し、結果を上空にいるISAFのAWACSへと伝達した。
 栞も真琴も、雑談を止めて暗闇に目を凝らす。レジスタンスの灯下管制解除は完璧ではなく、市内はあちこちが闇に沈んでいる。戦闘に無意味な地域――敵の存在しない(とこれまでの偵察で判明している)住宅地では解除されていないのだ。そこへ再び爆発。彼女たちは闇に慣れた目を痛めて視力を低下させないよう、光から目を背ける。それが終息すると光量増幅装置内臓の双眼鏡を構える。その狭い視界の中で、敵の地対空ミサイルランチャーが飴細工のように捻じ曲がっていた。
「C−1ポイントのSAM、沈黙。次の目標――あうっ!」
 双眼鏡を覗き込んでいた真琴の狭い視界に、何か光るものが映った。真琴は驚きの声を上げるが、それとほんの一瞬だけ遅れて、今度は空中に炎の塊が浮かぶ。3人は束の間、その光に照らし出される。
「美汐さん! あれは……」
「対空機銃ですね」
 美汐は落ち着いて栞の後を継いだ。突然の事態にも全く動じている様子を見せない。
「真琴が調べた時は、あんなものなかったわよっ!」
「では、それより後に配置されたんでしょう……。第1観測点よりスカイエンジェルへ、D−4ポイント付近に未確認の対空機銃座あり、注意してください」
 美汐が新たな敵の存在を上空に伝える。声音も変わらない。レジスタンスの元締として、危険の前面に2年ばかりその身を晒してきた美汐である。彼女の落ち着きは一種の貫禄さえ滲み出していた。
「D−4……名雪さんと秋子さんの病院が近いですね」
(そして、お姉ちゃんたちも……)
 栞はスノーシティー総合病院で、親友とその母親を今現在も看病しているだろう姉夫婦を思い出しながら言った。栞は「戦いが始まってもあたしはここに残るわ」と笑った姉と、彼女の隣に付き従った義兄を心配すると同時に、そこまで親友想いのふたりを誇りに思っている。
(お姉ちゃんったら、ホントに頑固なんですから……)
 口元に柔らかい笑みが浮かんだが、それも少しの間のことで、例の対空機銃が再び弾を空に散布し始めると、唇は現状を語るために開かれた。
「また撃ちました――あっ!」
 3人の顔が凍りついた。彼女たちが見たものは、地上から天に向けて伸びる光の掛け橋、機関砲の火線。その根元にあったものは――。
「スカイエンジェル! さっきの対空機銃は病院の屋上に設置されています! D−4の対空機銃は――」
「ISAF機が接近して来る! あう〜っ……」
 今も多くの入院患者がいる病院に、ジェットの爆音が近づく。彼女らは、自分たちの顔面から血の気が引いてゆくのを、はっきりと感じでいた。

『イカロス3、応答しろ。イカロス3、どうした?……やられたか、くそ!』
 予想外の事態、それは戦場では珍しくも何ともない。しかしそれに遭遇した者は大抵が混乱をきたす。
『対空機銃だ! あそこに対空機銃がある!』
『ブリーフィングではあんな所にあんなものがあるなんて、聞いてなかったぞ』
『小型のものなら持ち運びも簡単だからな……。スカイエンジェル、そうだろ?』
『スカイエンジェルよりみんなへ。うん。さっきのはつい最近に設置されたみたい。情報、間に合わなくてごめんね……』
(あのあたりか……)
 パイロットたちの文句が無線を満たす中、祐一は冷静に物事を見ていた。先ほど、無念の思いを残して夜空に散った戦友への感情は、戦いが終わればどっと溢れてくるだろうが、今はその時ではない。
 暗くて良くわからないが、市街地の真ん中であることだけは間違いなさそうだ。住民の避難はもう済んでいるのか……?
『祐一君、目標を変更して。方位200、距離は4500、今の対空機銃があるから』
 敵機銃の有効射程の僅かに外を飛行していた祐一に出番が回ってくる。この時点で、彼が機銃座から最も近い距離にあったから、あゆは祐一に頼んだのだ。
「俺がやるのか?」
『うん。祐一君はステルスに乗ってるから、狙われにくいよ』
「わかった……」
 階級は祐一の方が上――祐一は大尉で、あゆは中尉――だが、あゆの言葉は実質的な命令である。空中での戦闘機の行動を決定するのはAWACSに搭乗する管制指揮官であるが、彼女は指揮官の出した指示を具体的な形に変換してISAF機へ伝達している。作戦行動中は、あゆの言葉=指揮官の命令なのだ。
 そのような訳で、地上ではあゆの言うことに素直に従うなどまずない祐一は、借りてきた猫のような従順さをもって、機体を新たな目標へと向かわせる。あゆが言ったように、射程距離内に侵入しても、敵の機銃は彼に殺意と砲弾を向けず、ステルス機能を持たない他の機を狙って火を噴いた。

 北川潤と北川香里は、戦渦の街から避難しなかった。その代わり、彼らは病院にいる。親友から託された、眠り続ける母子を守るためにあえて市内に留まったのだ。
 こんなふたりに、香里の妹である美坂栞は避難を奨めたが、香里は、
「あんただって、あたしが止めるのを聞かずに抵抗運動なんてしてるんだから、これでおあいこよ」
 と言って笑い、妹の説得を断念させている。
 水瀬名雪と秋子の病室には、窓から月明かりが射し込み、室内をほのかに照らしている。綺麗な満月の夜だった。しかし時折、屋上に設置されたTacticsの対空機関砲が発砲する音が届き、夜空に炎が開花するのが見える。それらは、ここがまぎれもない戦場であるということをふたりに教えていた。ISAFとTacticsの制空権争いは、その激しさを増しているようだった。
「……」
 無言を保っていた香里は、いつしか震え出していた。肩が小刻みに揺れる。妹の前では強がっていても、この現状を怖いと思っている。危険を顧みず、街のため、国のために、もしも捕まったら捕虜としての扱いすら受けられないレジスタンスになった栞は強い娘よね……それに引き換え、あたしは……。
「香里」
 背中に、不意に温もりを感じた。夫が、背後から抱きしめてくれたのだ。途端に恐怖が消えてゆく。香里にとって最も居心地の良い場所は、彼女にこの上ない安心感をもたらした。
「怖いのか?」
「ええ……潤は?」
「俺だって怖いさ。でも、まさか女房の前であからさまに怖がるなんてできないだろ?」
「ふふっ、何もあたしの前で見栄なんか張らなくてもいいのに」
「うーん、まぁ男のプライドって奴だよ。それにさ」
 香里の肩を抱いていた北川の手が、彼女のお腹に回り、優しく撫でた。
「あんまり緊張されると、この子の胎教には良くないからな」
「潤……」
 再び無言となり、見栄っ張りで、そして優しい夫にしばらく身を委ねる。どれくらいそうしていただろうか、やがて、香里は小声で、だがしっかりとした声音で告げた。
「あたしは、もう大丈夫……。名雪たちに見られるわよ」
「え、あ、そうだったな」
 北川は照れたように言い、香里に回した腕の力を緩める。香里は夫の腕からするりと抜け出ると、彼と正面から向き合い、にっこりと笑った。
「ありがとう、潤」
 微笑み返そうとした北川の顔が固まり、口が驚愕の形に開かれる。
「香里、あれを――」
「えっ? ――!!」
 ふたりが視線を向けた先から、何かが急速に近づいてくる。満月を背にして、浮かび上がった機影が見る見る大きくなる。機体の下の部分に、蓋みたいなものがあることまで確認できる。多分、あの中には――。
「まさか、ここを狙って――!」
 北川は台詞を最後まで言うことはできなかった。彼が言い終える前に、斜め右からやって来る飛行機が、急に翼を翻して反転したからである。機体の下面が――角張ってはいるがスマートで無駄のないシルエットが彼の目に映った。ジェットエンジンの轟音が、そして屋上からその機体に向けて撃たれる対空砲火の射撃音が重なり、北川の声はしばし遮られる。
「今のは……相沢……か?」
 戦闘音がようやく収まった時、北川は独り言のように呟いた。
「相沢……君なの、今の?」
「ああ、相沢だよ、あれは。俺たちを攻撃しなかった……」
 北川は妻に対して確信したように言い、親友が操っているだろう戦闘機が飛び去った後の夜空を、じっと見つめていた。

 目標まで距離1000を切った。速度は700で、高度は100以下。使用兵装はレーザー誘導爆弾なので外れることは滅多にないが、命中するまではレーザーを目標に照射していなければならない。
 操縦桿にあるいくつかのボタンを操作すると、兵装モードが爆弾になり、HUDには爆撃照準用のピパーが現れた。機体下部の武器庫扉が開いて、内部に収納された500ポンドレーザー誘導爆弾はいつでも投下可能な状態になる。
 だが、街灯で煌々と照らされた街に浮かび上がっているのは、7・8階建ての建築物、屋上にある看板の文字がくっきりと見える。祐一には、非常に見覚えのある建物だった。
(あれは……!!)
 幾度も死戦をくぐり抜けてベテランの域に達した戦闘判断力が警鐘をしきりに鳴らし、あゆの叫びがそれに重なった。
『中止! 攻撃中止! 祐一君、あれは病院だよっ!』 
「くっ!」
 爆弾の投下ボタンから指を退け、反射的に操縦桿を倒した。F−22Aは低空で急旋回すると、0.1秒前まで祐一機が占めていた空間を、オレンジ色の粒が束になって通過した。遅れ馳せながら、対空機銃が祐一機の存在に気づいたのだ。運良く命中しなかったのは、レーダーに映らないF−22Aを目視照準で狙ったからだろうか。
「畜生、Tacticsの野郎……」
 病院の屋上に対空機銃を置きやがった――名雪のいる病院に!
『祐一君っ、大丈夫?』
「大丈夫だ。あそこには……名雪が入院しているんだ。攻撃なんてできるか」
 しかし、病院にある対空機銃を放置しておいたら――。今度は軍人としての思考回路が働き出した。対空機銃ごと多くの患者がいる病院に、しかも名雪が寝ている場所を吹き飛ばすことなんか断じてできない。でも、あれがある限り味方は撃墜の危険に晒される。
「あゆ、俺はどうすれば良い?」
 自分でも情けないと自覚できるような声で、祐一はあゆに尋ねた。もしかしたら、泣きそうな声になっていたかもしれない。
 しかし、あゆは意外なことを言ってきた。
『ごめん、祐一君。今のは無視しちゃって良いよ。あそこの対空砲は、何かを守ってるって訳じゃないから』
「……くっ、ふふっ、ははははっ!」
 つまり、何だ? ただ病院の上という理由で、戦術的にまったく意味のない場所に配置したってことか? 馬鹿馬鹿しいなぁ! そんなくそくだらない理由で名雪のいる所を攻撃目標にさせたのか!
 祐一は、あまりの滑稽さに場所もわきまえず笑い出していた。
『ゆ、祐一君? どうしたのっ!?』
「はは、ははは……ああ、あゆ。何でもないぞ」
 祐一の反応に驚いたあゆが慌てて呼びかける。それを受けて祐一はようやく笑いを収めた。
「次の目標は?」
『え? あ、うん。方位50、距離6000に敵戦車小隊。それが終わったら、空港の上でちょっと苦戦してるみたいだから、制空戦闘に……』
 祐一の頭脳は、浮かび上がろうとするやりきれなさを強引に抑えて、任務を忠実に果たそうとする勇敢なパイロットのそれに戻りつつあった。

 目標直前で反転退避したISAF機は対空機銃の弾幕を器用にすり抜けると、爆音を残して美汐たちの視界から消え、闇に溶けた。
「……ほっ」
「はぁうぅ〜っ」
「……」
 レジスタンスの3人はそれぞれ恐怖で強張っていた顔を崩す。特に、スノーシティー総合病院に肉親がいる栞は腰が抜けて、その場にへたり込んでしまっていた。
「栞、大丈夫?」
「あ……真琴さん、ありがとうございます」
 真琴に助け起こされる栞。座り込んだ際、スカートとストールについた埃をポンポンと払い落としながら、救われたという感情が滲み出した笑顔を見せる。
「良かったです〜」
「そうですね。危なかったですが、病院は無事です」
「でもどうするの? あの機銃」
「……D−4ポイントにTactics軍は展開していますか?」
 美汐に尋ねた真琴が逆に聞かれる。質問に対する回答は栞が用意していた。病院の付近をじっと観察しながら言った。
「いいえ。私たちが調べた時にはいませんでした。今も……ここからじゃ確認できません」
「でしたら、放置しておいても問題ありません。ISAFの皆さんには迂回してもらいましょう。第1観測点よりスカイエンジェルへ……」
 小型通信機を手に取りD−4ポイントの現状を素早く伝達する。これで総合病院の安全はほぼ保障されるだろう。やがて通信は終わり、彼女は通信機をポケットに戻して、視線をふたりから逸らす。
「さあ、仕事に戻りますよ」
 美汐は、先ほどの危機がまるで存在しなかったかのような態度を見せ、闇の先にいるはずの敵を求めて双眼鏡を構え直した。

 祐一のF−22Aには、胴体下部と側面左右、合計で3つのウェポン・ベイ――武器庫がある。側面のそれはサイドワインダー専用だが、下部はAIM−120CアムラームAAM(AIM−120をF−22Aの武器庫サイズに合わせるべく、フィンを小型化したもの)、500ポンド精密誘導爆弾などが搭載できる。今回のミッションでは、500ポンドレーザー誘導爆弾とAIM−120Cを2発ずつ収納して戦いに臨んだが、胴体ウェポン・ベイを空っぽにし、機銃弾の3分の1を消費してスノーシティー国際空港上空からTactics空軍マークの航空機を駆逐した時点で、あゆからの通信が入った。
『下からの連絡だと、旧市街、新市街の敵部隊は大体追い払ったって。そっちは?』
「こちらメビウス1、空港の上はもうISAF機だけだ。気持ち良いもんだぞ」
『そっか。じゃ、今回の作戦も成功だね。みんな、お疲れ様』
「あゆ。俺たちの爆撃は一体どうなったんだ?」
 祐一は、今最も気がかりとなっていることを聞いた。果たして誤爆は発生してしまったのか? その結果、街はどうなったのか……。
『うん。やっぱり誤爆は出ちゃったよ……。でも、その辺の人たちは避難できてたみたい。街の人たちは無事だよっ』
「そうか……」
 とりあえず、無辜の市民を殺してしまった、という寝覚めの悪い思いはしなくて済みそうだ。祐一は胸を撫で下ろして、大きく息を吐いた。安堵感が生まれ、肩に必要以上にかかっていた力が抜けていく。
「良かった……」
『そうだな。俺もあゆさんとお前の大切な街をぶっ壊さなくてホッとしたぜ』
『ありがとう、斎藤さん』
『いやいや、照れるなぁ』
「斎藤……」
 戦場の空で何をやってるんだ? と言いかけたが、結局口にはしなかった。ここ最近で、斎藤とあゆの距離はにわかに縮まっている。斎藤があゆを想っているのはもはや確定事項で、傍観者である祐一にもそれがはっきりと理解できた。ただし、あゆが斎藤とどういう関係を望んでいるのかは、彼女との付き合いが長い祐一にも不明である。
 そんな思考を働かせていると、斎藤が彼の考えを読み取り、邪推を止めさせようとしたのではないかと思わせるほどのタイミングでまとめの言葉を出す。
『と、まぁこれで、俺たちの勝ちだ。Tacticsも進退極まったって感じだな』
 だがそれは、まだ早かった。AWACSとデータリンクされたコンピューターが、新たに現れた高速飛行物体の存在を液晶ディスプレイのうちの1画面に映し出す。同時に、戦闘はまだ続いている、とでも訴えるような真剣な声音で、あゆが祐一たちISAFパイロットに言った。
『ううん、西から6つの機影が接近中。速度はマッハ1.5以上……Tu−160ブラックジャックだね』
『まだ残ってたのか。コモナで全部叩き墜としてやったと思ったのに』
 斎藤が呆れるような、うんざりしたような声で嘆くように言った。しかし、彼はTacticsが保有するTu−160が合計12機だったことを知っていた。うちコモナの空に散ったのが6機、彼もそれに荷担している。単純な引き算をして、残りが6機、今スノーシティーに向かって来ているのがそれだ。
 斎藤があえて軽口を叩いたのは、それが彼なりのペースの作り方、落ち着きを保つための方法なのだ。
「何で今更……もう勝敗はついているのに」
 一方、祐一は内心で発生した疑問を素直に口に出していた。その時、確信めいた口調で、誰かが恐ろしく沈んだ声で言った。
『Tacticsの連中、焦土作戦をするつもりなんだ』
「……なんだって?」
『おおかた、この街を我々に渡すくらいなら、いっそのこと無くしてしまおう、とでも考えたんだろう。くそ、ファシストどもめ』
「な……!」
(なんて奴らだ! そんなに……そんなに俺から名雪を奪いたいのか!?)
 祐一の感情に、初めて敵に明らかな殺意を抱くほどの憎悪が湧き上がる。即座に機体を反転させ、アフターバーナーを吹かして急上昇をかける。2基のF−119PW−100エンジンが1万8000kgの最大推力を発揮して、自重14.5トンの機体をぐんぐんと押し上げる。
 落ち着いて考えれば、Tacticsが水瀬名雪ひとりの命を奪うために虎の子の超音速爆撃機を使うことなど絶対にない――それ以前に、殺す理由が存在しない――のだが、先ほどの病院屋上の機関砲といい、そしてこれから行われる無差別爆撃の蛮行といい、祐一には敵の悪意が全て名雪に向けられていると思えてならなかった。
 その祐一の怒りを受けて、F−22Aがエンジンを轟かせ、まるで己が星々の1つになろうかという勢いで高空へ昇る。愛する街を、愛する者を奪おうとするTu−160を討ち取るために。それを望む主の意志を実現させるために。
 数分後、祐一は敵編隊の背後につけていた。その間、彼は自分がどんな飛行をしていたか、あまり記憶には残っていない。祐一はとにかく無我夢中で敵を求めていたのだ。
「撃墜してやる……絶対に」
 冷徹な怒りに燃える祐一の双眸は、Tu−160の1機を捉える。夜空と同じ漆黒に塗られたブラックジャックは、月と星の光を浴びてその輪郭を微かに浮かび上がらせているが、4つのエンジン排気口がほのかに赤く光り、まるで蛍の尾のように、祐一に所在を教えていた。
 だが、祐一が視覚に頼る必要は特になかった。彼の愛機の眼――機首のAN/APG−77マルチモードレーダーはその敵をはっきりと補足し、頭脳――大高速一体化回路VESICはレーダーからの情報を瞬時に処理し、それの統制下にある火器管制装置も既にロックオンを終えていた。
「俺の街は……俺の名雪は、やらせないぞ……」
 彼の怒りはサイドワインダーに託される。機体側面にある武器庫のドアが開くと、そこから現れたAIM−9X(サイドワインダーの最新バージョン)がロケットモーターの光芒と共に放たれた。
「フォックス2!」
 敵機に食らいつかれたTu−160は最大速度のマッハ1.88で逃げつつ任務を――スノーシティーの爆撃を達成しようとしていたが、マッハ3で突進してきたAIM−9Xがエンジン部をまともに爆砕すると、ロシア製の超音速爆撃機は巨大な投槍へと変わった。噴き出す紅蓮の炎が夜空を焦がし、流星の尾のように煙をなびかせながら急激に高度を落とし、山肌に激突して盛大に爆発、搭載していた燃料で自らを火葬する。
「スプラッシュ1! 次だ、フォックス2!」
 祐一は敵機の壮絶な最期に気を引かれることなく、最初のミサイルが命中した時点で次のターゲットにミサイルを放っている。今度のTu−160はミサイル命中と同時に爆発し、ほぼ完全に消滅した。街に落とすはずだった爆弾が誘爆して、自機そのものを葬り去ったのだ。
 だが、それでも祐一は追撃を緩めない。Tu−160の空中爆発を巧みに避けて、3機目のTu−160を狙う。AIM−9Xは機体側面の左右にある武器庫に各1発収納され、2発ともブラックジャックに使っているのでもう残っていない。残された兵装――機銃で撃墜すべく巨大な敵機に肉薄する。火器管制システムをガン・モードに移行させると、HUDに照準レティクルが投影され、その中央に敵機の姿がある。祐一は一切の躊躇なしに引き金を引いた。
 闇の中ではひときわ映える曳光弾がTu−160に吸い込まれるように消えると、敵機からゴミのようなものが散らばり、1秒後に右の可変翼が根元から折れた。安定を失い、独楽のように回転しながら地面を目指すTu−160。やがて、回転を保ったまま、地面に対し約45度の角度で突入すると、もんどりうって機体を金属片と化しながら、スノーシティー郊外に広がる田園の肥えた大地を汚した。Tu−160が運動エネルギーを失った後には、どういう力が働いたのか、残った左の主翼が墓標のように、地面に突き立っていた。
 鬼神のごとき強さで、およそ30秒のうちに3機のTu−160を屠った祐一だったが、まだ3機残っている。ひたすらに街へ向け、アフターバーナーの炎を引いて飛び続けている。街を廃墟に変えるために。
「くそっ、弾が……」
 祐一は顔を歪めて喉の奥から絞り出すようにうめいた。F−22Aの機銃弾は480発用意されている。そして、搭載機銃M61A2バルカン(M61A1を長砲身化し、初速と威力を増したもの)の発射速度は毎秒100発。単純に考えると4.8秒で全弾撃ち尽くす計算となる。そして祐一に残された弾はこの時32発。これまでの空戦と、先ほどの1斉射で大部分を消費していた。
 祐一の脳裏に、ふとある考えがよぎる。それは、弾がなくなり、攻撃手段が全て失われた時、どうやって街を守るかについてだった。彼が考えたのは、その最終的な解決方法であり、また同時に禁断の方法でもあった。
(弾がなければ、自分を弾にすれば良い……)
 しかし、それをやった場合には、自分も――。
 だが、それを実行する前に、Tu−160が横合いからミサイルを受けて尾翼部分が機体から分断された。直後、祐一の視界に、左から右へと飛び去る機影が映った。彼の愛機と同じF−22Aだ。現在、この機体を使用しているISAFパイロットは4人しかいない。そしてここスノーシティー上空で使っているのはその半分、とすると――。
「斎藤か?」
『おう! 待たせたな。俺が来る前に3機もひとり占めしやがって。良い所ばかりを持って行くなよ』
 強烈な一撃をTu−160にぶちかました斎藤のF−22Aが祐一機の隣に寄り添う。キャノピーの下には「ムーンパレス」の飾り文字と天使の羽のエンブレムがある。それが斎藤であるという何よりの証拠だ。ここまできて、彼はもはやあゆへの想いを隠さなくなっていた。もちろんこれも公式ニックネームだから、斎藤は愛機に「月宮」と名づけて書類やらコンピューターやらに登録させることによって、己の意志をISAF空軍全てに知らしめたのだ。
 その後、彼は戦友たちから冗談交じりに(一部には本気で言っているのではないか、と思わせる者もいたが)「空では全てのミサイルに気をつけるんだな」と脅されたが……。
 とにかく、祐一は斎藤のおかげで特攻をしなくて済んだ。安堵の溜息と同時に、礼代わりの誉め言葉をかける。
「今ので、お前の方が良い所を持って行ったと思うぞ」
 その間に、残り2機となったTu−160にも友軍の戦闘機がまとわりつき、小型肉食動物の群れに襲われる大型草食動物のように狩られる。ミサイルによってことごとく打ち砕かれ、最後の1機が街の直前に広がる湖に突っ込み、夜目にも目立つ白い水柱をそそり立たせると、ISAFパイロットたちから口笛と歓声が湧いた。
『ブラックジャック、全機撃墜を確認したよ。市街地への損害は皆無――うぐぅ……みんな……みんな、ありがとうっ!』
 歓声がひとしきり続いた後、あゆが泣きそうな声で――いや、本当に泣いているのかもしれない――戦友たちに礼を述べた。祐一にはその気持ちがまるで自分のもののように理解できた。大切な街が大規模な破壊を免れ、自分たちの手中に戻った喜びは、あゆのそれに劣らない。
 新市街の官公庁では、ISAF空挺部隊とTactics守備隊が戦闘を続けていたが、現在、北部方面軍の先遣隊が戦車や装甲車を連ねて国道を進軍している。10分もしないうちに市内に入城が可能な状態だ。もう勝敗は定まったも同然である。
「名雪……」
 これで、彼女に逢える――去年の初めに別れて以来、幾度となく夢にまで見た、心から愛する女性に、水瀬名雪に逢える。祐一の両目は潤み、眼下に広がる美しい夜景は、彼の心を慰めるように、優しく輝いていた。


 
2005年7月11日 1000時 スノーシティー総合病院


「北川、香里。久しぶりだな」
「相沢……」
「相沢君……」
 祐一は、およそ1年半ぶりに再会を果たした親友ふたりにそう一声かけると、彼と彼女は祐一の名を呼んだきり、絶句した。
 そのまま3人とも黙り込む。ただ、互いへの懐かしさや、生きていることへの喜びなど、あらゆる正の感情の入り混じった視線を向け合った。
 時が止まったかのような静けさの中、祐一の脳裏には、楽しかった高校・大学時代の思い出や、彼らと別れた時の情景が流れる。あれからもうずいぶんと遠いところに来てしまった気がする。でも、こいつらは俺のことを、こうやって出迎えてくれた。俺にはまだ帰れる場所が残っていたんだな……。
 思わず涙が出そうになる。が、彼はそれを精神力でどうにか堪えた。情けない姿は、彼らには見せたくなかった。
 その時だった。沈黙が破られ、再び時間が動き出したのは。
「よく帰ってきたな、相沢」
「お帰りなさい、相沢君」
 北川夫妻が、言い方こそ違えど、全く同じ意味を持つ言葉を発すると、祐一はようやく破顔し、答えた。
「ああ、ただいま」


 
同日同時刻 スノーシティー市内


 解放の興奮未だ冷めやらぬ騒がしい大通りから少し離れた商店街を、月宮あゆと斎藤が、肩を並べて歩いていた。彼らも祐一と同じく、今日1日は非番を貰っていたからこうして久しぶりの自由を謳歌できる。
「あゆさん、どうしてメビウス1の誘いを断ったんだ?」
 祐一が名雪の見舞いに出かける際、彼は水瀬家とも関係浅からぬあゆも誘った。が、あゆはそれをやんわりと断った。その後、斎藤が彼女に声をかけ、かくしてあゆを街に連れ出すことに成功してしまったのだ(本人もまさか上手くいくとは思っていなかった)。
 いや、まぁ俺はこうしてデート(周りからはそう見えるよな?)ができた訳だから、とても嬉しいんだけど……。彼女のことを考えると、複雑でもあるな。
 この幸運にも、斎藤は単純に喜んでいられなかった。少しだけ考え込むが、あゆの一言で我に返る。
「ボクが行っても、野暮なだけだよ」
「でも、あいつの恋人――水瀬名雪さんだっけ――はあゆさんの友達でもあるんだろ?」
 あゆは無言で頷いた。が、斎藤はあゆの眼が悲しみの色を湛えたその瞬間を見逃さない。
 彼は内心しくじったか、と思ったが、気づいた時にはさらに無神経な一言を放っていた。
「あゆさんは、やっぱりメビウス1のことを……」
「……」
 あゆは口を真一文字につぐんだまま、答えない。斎藤もそれ以上の詮索はさすがに無神経極まると思い、何も言わなかった。
 再び口を開いたのは、あゆの方が先だった。
「うん。斎藤さんの言うことも合ってると思う。だけどそれ以前に、ボクには名雪さんと秋子さんの前に顔を出す資格なんてないんだ」
「何で?」
「あのふたりをあんな目に遭わせたのは、ボクだから」
「それは……一体?」
「あの空戦を――名雪さんと秋子さんが怪我した戦いを管制してたのは、ボクなんだよ」
「……」
 今度は斎藤が絶句する番だった。心中では、なんとまぁ、と意味のない感嘆詞を述べているが、これでは確かになんと言って良いのか。とっさに気の利いた慰めの言葉でも出てくれば……。斎藤は自分の貧弱な話術を呪う。
「それに、名雪さんたちだけじゃない。パイロットのみんなも、ボクの下手な指揮のせいで……みんな……」
 声を震わせて、みんないなくなっちゃったから。と言い切ったあゆの目元から、一筋の涙が零れ落ちる。
「ボクなんて、いない方が良かったのかな?」
「それは違う。絶対に違う」
 斎藤は即座に答えた。いつになく真面目で、力の入った声で。戦闘中でもここまで堂々とした喋りをしただろうか。あゆも軽い驚きの表情を浮かべて斎藤を見つめる。斎藤も同じように彼女を見つめ、ふたりの視線が交錯した時点で言葉の続きを言い始めた。
「あゆさん。あんまり自分を卑下しなくても良いよ。貴女はISAF最優秀の管制官だ。じゃなけりゃ、空軍のお偉方がなぜ重要な戦闘で“スカイエンジェル”に出撃を命じるのか、その理由がないからね」
 コンベース奇襲、バンカーショット作戦、Air皇太子救出、ストーンヘンジ攻撃、そして今回の作戦。これらは全てISAFにとって、ターニングポイントとなった戦いだ。そのことごとくをあゆが管制している。無論、結果は言うまでもなく、ISAFの勝利だ。
 確かに戦争序盤は敗北続きだった。が、ISAF全体がそうだったのだから、人間個人の能力でどうこうできるレベルではない。月宮あゆ中尉――軍人としてのあゆに対する斎藤の評価は、ひとりの女性としての評価と同様で、極めて高かった。
「だから、あゆさんは、何も悪いことなんてしてないんだよ。それに、俺は――っ!?」
 斎藤は、意を決した続きの台詞――俺はそんな貴女のことが好きだから――を言うことができなかった。その好機を奪ったのは、他ならぬ月宮あゆ。彼女が、個人的な決意を秘めた斎藤の胸元に抱きついて、顔を埋めたからである。
「斎藤さん……胸を、貸して……今だけだから……そしたら、大丈夫だから……」
「こんな胸で良ければ、いつ、どこででも」
 突然の出来事にも、斎藤はなぜか戸惑うことなく、ごく自然に、優しくそう言うことができた。あゆは彼の背中に回した腕に力を入れて、静かに嗚咽を漏らし始めた。
「……っ、うっ……うぐぅっ……」
 周囲から訝しげな視線が注がれているのを斎藤は感じたが、それを無視してあゆの小柄な肩に左手を乗せる。右手は赤いカチューシャで飾られた栗色の髪を優しく撫でる。
 苦しかったんだな、そうだろうな……こんな小さな身体に、俺たちパイロットの生死と、戦闘管制の重責を負って……。それで、偽りなしの涙を流している。まさに天使。そうだよ。この優しさが、俺をしてあゆさんへ心を奪わせたんだ。
「あゆさん、目的なしに空を飛んだことは?」
「……」
 斎藤の胸元に顔を押しつけたまま、あゆは首を横に振った。
「そうなんだ。なら、もしも機会があれば、一度何のしがらみもなしに飛んでみると、良いかもしれない」
 個人的な話で恐縮だけど、と笑いながら言い、斎藤の話は続く。
「俺はメビウス1とは違って、特に理由もなくパイロットなった。まぁ強いて言えば、蒼い空に憧れて空軍軍人になったのかな。だから、俺は空が好きでさ。戦争は嫌だけど、空にいれば、飛ぶことと生きること、そして仲間を生かさせることに集中できる」
「……斎藤さん?」
 涙で顔を濡らしたあゆがようやく顔を離し、斎藤を見上げた。そんな彼女も可愛いと思いながら、斎藤は話を締めくくった。
「もしかしたら、あゆさんの苦しみや悩みも、この大空が解決してくれるかもしれないな」


 
同日 1015時 スノーシティー総合病院


「えっ!? じゃあ、お前は父親になるのか?」
「ああ。来年の2月には、そうなってる予定だ」
「そうか、それじゃ香里も母親か……。いや、びっくりしたな」
「驚いたのはこっちよ。まさか相沢君が英雄になるなんて」
「おいおい、よしてくれよ。俺はそんな、大したことをしてない」
「まぁとにかく、無事で何よりだよ。相沢」
 3人の旧友はそれぞれの近況について報告しながら再会を喜び合っていたが、やがて香里が本題を切り出す。
「ねぇ、今日は名雪に逢いに来たんでしょ?」
「ああ、そのために帰ってきたんだ。でもあいつはまだ――」
「まだ寝たままだ。秋子さんも」
「そうか……」
 祐一の表情は一転、暗いものとなる。
「でも、後で栞たちとも逢ってあげてね。あの子たちも相沢君の帰りを待ってたんだから」
「わかってるよ」
 そう言い、祐一は病室のドアを静かに開けた。

「秋子さん、ただいま帰りました」
 その1室――入院病棟の一角にある、小ぢんまりとした部屋には、ふたりの女性が病床にあった。安らかな顔で。まるで眠っているかのように。
 祐一は、まずその一方――水瀬秋子に話しかける。返事がないだろうことはわかっていた。しかし、彼はあえて続ける。
「長いこと戦争に行ってました。名雪には寂しい思いをさせてしまったかもしれません。昔、ずっと一緒にいるって約束したんですけどね。申し訳ありませんでした」
 その穏やかな――まだ元気だった頃と大して違わない秋子の顔は、今にも「あら、そうですか」と返してくるのではないかという錯覚を彼に抱かせるには十分だった。
 しかし、現実は苛酷に過ぎた。
「でも、まだ終わってはいないんです。もう少しかかると思います。だから、それまではどうか俺の勝手を許してください」
 しばらく秋子の顔を見つめる祐一。やがて深く一礼して、反対側へと振り向く。
「名雪……」
 変わらなかった。
 何ひとつとして変わっていなかった。
 祐一の眼前で身を横たえ、全く動こうとしない女性の状態。ただ、呼吸に応じて微かに上下する胸元だけが、その女性が生命を保っていることを証明していた。
 そして、瞳を閉じたままの美しい顔も、2年前と変わりなかったのである。
「ただいま。今まで放っておいてごめんな」
 祐一はゆっくりと語り出した。顔に微笑を浮かべて。それは、世界で最も愛しい人のみに向けられる、優しい笑みだった。
「結局、あの時の約束、破っちまったな」
 彼がこれほどまで優しく笑うのは、この2年間――名雪と秋子が意識を失ってからこれまで――なかっただろう。
 ましてや、ここ1年、彼は戦争の渦中にあった。次々と消えてゆく戦友、明日へ続く道は確実ではなく、常に死への恐怖がつきまとう日々。
「あゆに逢ったよ。あいつ、凄く成長してた。今じゃとても優秀なAWACS管制官でさ、俺も凄く助けられてる」
 確かに良いこともあった。戦場へ赴かなければ、あゆとの再会も、僚機斎藤との友情も存在しなかった。
 しかし祐一が戦闘機パイロットとなった最大にして唯一の目的は、恋人とその母親の笑顔を取り戻すことだった。そのためならば、ISAF空軍トップエースとしての名誉も、「メビウス1」としての名声も、どうでも良いものだった。
 無論、戦争に勝てたとしても名雪と秋子が元気になるという保証はどこにもない。だが、彼はそれを信じて戦った。平和が戻れば、笑顔も戻ることを信じて……。
「なぁ、確かにお前は良く寝るやつだってのはわかるけど、もう十分だろ?」
 優しい笑みを保っていた祐一の顔が、悲しい現実を前にして、ついに崩れる。その瞬間、彼の瞳は熱い雫を落とし、名雪の白い頬を濡らした。
「2年、2年だぜ。もう限界だ。お前の声を聴きたい。お前の笑顔が見たい。お前を抱きしめたい。名雪、目を覚ましてくれよ。起きてくれよ。なぁ、名雪。名雪……」
 祐一の涙声は、やがて静かな慟哭となって、病室を満たす。
 そして、彼は泣きながら恋人の唇に、自らのそれをゆっくりと重ね合わせた。
 眠り姫は、王子様のキスで、目覚めなかった。

 相沢祐一にとってのせめてもの救いは、その後再会した美坂栞、沢渡真琴、天野美汐といった親しい人々が、彼を笑顔で迎えてくれたことだったろう。
 この日、祐一は全ての嫌なことを忘れて、彼らと飲み、笑い、語り合った。かけがえのない親友たちは、祐一の心に一時の平穏をもたらしてくれた。
 翌日、彼は再び戦場へと発った。この戦争に、黄色の13との因縁に、全てに決着をつけ、自分の大切な目的を果たすために。


 「Mission12.5 デッド・ライン」につづく

管理人のコメント


>スカートのポケットから、下手なガンマン顔負けの速さで拳銃を取り出す。

 栞…元気になりすぎです(爆)。

>「浩平さん、私は別にあなた個人を恨んではいません。ですが、あなたたちTactics軍は私たちの祖国を踏みにじりました……。そんなことする人、嫌いです」

 やはり、こういう名言付きの台詞が入っていると良いですね。

>「あれが……スノーシティーの灯か」

 ついに故郷への帰還を果たした祐一。やはり、こみ上げてくるものがあるようです。

>「俺だって怖いさ。でも、まさか女房の前であからさまに怖がるなんてできないだろ?」
>「あんまり緊張されると、この子の胎教には良くないからな」


 むぅ…北川君、かっこいいじゃないですか。

>鬼神のごとき強さで、およそ30秒のうちに3機のTu−160を屠った

 愛ゆえの強さ、というところでしょうが、怖いです、今回の祐一君(笑)。

>「斎藤さん……胸を、貸して……今だけだから……そしたら、大丈夫だから……」
>「こんな胸で良ければ、いつ、どこででも」


 そして、密かに愛を追求する斎藤君。美味しいです、彼(笑)。

>眠り姫は、王子様のキスで、目覚めなかった。

>この戦争に、黄色の13との因縁に、全てに決着をつけ、自分の大切な目的を果たすために。


 名雪たちはまだ目覚めず、祐一の戦いもまだ続くようです。浩平ともども、大事なものをなくしたままの主人公たちの決着の日は何時になるのでしょうか。


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