あゆちゃんの冒険

第16話
あゆ、はしかにかかる

作:モーグリさん


 現代―
 祐一たちがタイムスリップした世界とは時間の経過が違うが、こちらでもあのドライブから数日が経過していた。
 その日、学校からの下校時、香里と北川が坂道を一緒に並んで歩いていた。二人は名雪たちの様子が気になって足早に水瀬家へと向かっていた。そして道すがら名雪たちの事を会話していた。
「美坂、数日前にあった水瀬家のドライブだけど、あれ以来バッタリと名雪も相沢も学校へ来なくなったな。美坂、お前のところの妹はどうだ?」
「妹の栞もあれから行方不明になったわ。以前も言ったけどあれから名雪の家に電話しても全然応答無いし、携帯にも出ないの。家族でも困って4日前に栞の捜索願を出したのよ」
「そうか、やっぱり行方不明か……」
 栞まで行方不明だと知って北川が唖然となった。
「それで警察が捜索したんだけど、名雪たちドライブに出てから途中の山道で目撃情報がプッツリと無くなってるのよ。どうもそこで失踪したらしいのよ」
「ええっ!?まさか道路からがけ下に落ちて全員死亡とか」
「北川君、縁起でもないこと言わないでよ」
 北川の一言に香里がかっとなった。
「すみません」
「とにかく栞たちが無事なのか知りたいわ。それで今日は名雪の家に寄ってみようと思ったの。ひょっとしたら何か手がかりが見つかるかもしれないと思って」
 二人はそう言うと水瀬家に向かって歩いていった。

 約十分後、二人は水瀬家についた。家には誰もいる気配がなく不気味なほど静かだった。普段なら聞こえてくるあゆや真琴のにぎやかな声も聞こえてこなかった。家の中の電気も消えたままになっている。
「おーい、誰かいませんか!」
 北川はそう叫ぶと、ドアのチャイムを押した。

 ピンポーン

 チャイムが水瀬家にこだました。しかし誰も出る気配がなかった。相変わらずシーンとしている。
「やっぱり誰もいないみたいだぜ」
「そのようね」
 二人はそう言うと互いに顔を見合わせた。するとしばらくして庭の奥の方から何かか細い猫の泣き声がした。やがて奥から猫のぴろが出てきた。二人を飼い主と思ったらしく、そのまま二人の前に出てきた。
「あ、猫が出てきた」
「知らなかったわ、名雪のうちで猫飼ってたなんて」
 香里が驚いた。名雪は猫を飼っている事を香里に話していなかったからだ。
「オレも聞いた事なかったぞ」
 北川も相づちを打った。
「確か、名雪って大の猫アレルギーのはずよ。相沢君が名雪や秋子さんに断って飼ってたのかしら?」
 香里はぴろを両手ですくい上げるように抱え上げた。ぴろは人に慣れているせいか嫌がらずに香里の手にもたれかかった。そしてぴろの様子を見て香里と北川が驚いた。猫にしては妙に軽く、お腹には肋骨が浮き出ていた。どうやら相当長い期間餌をもらっていないようだった。
「それにしてもかわいそう。こんなにげっそりやせちゃってるわ」
 香里がぴろを見て同情した。ぴろが数日間何も食べていない事は香里や北川にもすぐ分かった。
「誰も餌あげてないんだな」
「北川君、かわいそうだからこの猫は名雪たちが帰ってくるまでひとまず家で引き取るわ。そうだ、北川君はそこのポスト見てくれない。名雪たちがいなくなった理由が分かるかもしれないわ」
「分かった」
 香里はさっそくぴろを横に置いた。一方、北川は家の門を開けると中に入って内側からポストのふたを開けた。幸い門やポストには鍵かかかっていなかった。開けると中からは数日間分の新聞や手紙がいっぱい出てきた。

「うわー。新聞やダイレクトメールだらけだ」
「やっぱり」
 香里が深刻な顔になった。自分が心配していた最悪の事態―名雪たちや栞が数日前のドライブ以降家に帰った形跡がない―が現実のものとなったからだ。
「こんなことなら、栞がドライブに行く前に月宮さんに謝っておけばよかった…………」
「月宮さんって、今年の春に植物状態から目覚めたって少女?ニュースで大騒ぎしてたな。確か名雪の家で引き取ったはずだったよな」
「そうよ、月宮さんには以前あたしがひどい事しちゃって。妹まで巻き込んじゃったの。それで申し訳なかったと謝りたかったのよ」
 香里は残念そうな表情になった。以前のあゆに対する態度を反省しているようだ。
「月宮さんまでいなくなっちゃったのね」
 香里はそう言うと手を組んで考え込んだ。横で見ていた北川も親友の祐一や名雪がいなくなってしまったので困り果てていた。

 二人はしばらくその場に立ちつくしていた。すると後ろから自転車のブレーキ音がして誰かがやって来る音が聞こえた。
「あれ?誰かいるの」
 子供の声が聞こえた。びっくりして北川が後ろを見るとハチベエが自転車に乗って家の門まで来ていた。
「あれ、君はこの間俺がこの家に遊びに来た時にいた子だろ?」
 北川がこの前のことを思い出して気付いた。
「八谷良平です」
 ハチベエはそう言うと野球帽をとって挨拶した。
「どうしてここに来たんだ?」
「おれのクラスに数日前からあゆが通わなくなったんだ。連絡網で家に連絡しても全然通じないし。担任の宅和先生も心配してる。それで来たんだ」
 ハチベエが説明した。彼にとってもあゆがいなくなったのは驚きだった。
「そうだったんだ。実は俺たちもこの家に用があったんだけど、誰もいないんだ」
「えっ!?」
 ハチベエも驚いた。

「あれ、このお姉ちゃんあゆをいじめていた張本人だろ?何でこんなところにいるんだ?またあゆにちょっかいを出しに来たのか?」
 ハチベエが香里を見て怒った。この間アイス大食い大会で香里の事を見て知っていたのだ。
「あの時はごめんなさい。あたしもあれから反省して月宮さんに謝りに来たのよ」
 香里がすまなそうな顔つきになった。
「何だ、それならいいや」
ハチベエはそう言うとにっこり笑った。

「ボウズ、知ってるか、オレ『Gガンダム』のドモンのモノマネが出来るんだぜ」
 今度は北川が得意そうに話しかけた。
「やってみてよ」
「俺の拳が光って唸る!お前を倒せと轟き叫ぶ!必殺、シャイニング・フィンガー!!」(関智一さんの声で)
「うわ、すごいや、お兄ちゃん!」
「もう〜、男の子って本当にガンダムが好きね」
 横で見ていた香里が呆れ顔で見ていた。香里は女の子なので男の子の巨大ロボ物に関する情熱について分からなかった。
(栞、無事なの?今どこにいるの?元気かしら…………)
 香里はそう心の中で思うと空を見上げていなくなった栞の事を案じていた。

 ―そのころ太正時代
「ハハーン、これははしかです」
 織姫がはしであゆの口をあーんと開けて虫眼鏡と懐中電灯で中をのぞいていた。そしてあゆののどが真っ赤に腫れているのを確認すると笑いながらあゆの病名を告げた。なぜか織姫は妙にニヤニヤした表情であゆを見ている。はしかが普通子供のかかる病気だと思っているからだ。
「はしか?」
「そうです。これは典型的なはしかの症状です」
「織姫さん、あゆちゃんははしかなの?」
 名雪が質問した。明らかに心配そうな顔つきをしている。
「そうです、きっと人ごみの中にいたから感染したんです」
「はしかってマジかよ!?」
 祐一がビックリした。祐一もはしかなんて子供がかかる病気だと思っていたからだ。現に祐一も幼い頃はしかにかかったことがあったのをうっすらと記憶していた。それがなぜ突然あゆがはしかになったのか不思議だったからだ。
「祐一さん、その「マジかよ」ってなんですか?」
 それを聞いたさくらが尋ねた。さくらにとって耳慣れない言葉だったからだ。
「えっ!?えーと、未来の言い方で「本当かよ」って意味です」
 祐一があわてて説明した。太正時代に「マジ」なんて言葉は当然ない。この時代の人に現代語のスラングを説明するのは結構大変だ。
「へえ、そうなんですか?」
 さくらが納得した。
「あゆちゃん大丈夫なの?」
 今度はアイリスが質問した。アイリスも心配そうな顔をしている。
「心配いりません。昔から子供はカズノコと言います」
「正しくは“カゼノコ”」
 レニが訂正した。織姫はイタリア人なので時々日本語の格言を間違えることがある。それを訂正するのがレニの役目だ。この二人のやりとりは横から見ていると面白かった。
「うぐぅ、子供扱いした。ボク子供じゃないもん」
 それを聞いたあゆがむすっと怒った。あゆが気にしている事を言われたからだ。
「織姫さん、あゆちゃんは子供みたいに見えるけど、実は私や祐一と同年齢なんだよ」
 それを横で見ていた名雪があわててフォローした。
「そうだったんですか!?すみませんです」
 織姫があわてて謝った。てっきりあゆを子供だと思っていたからだ。
「でも、それだとまずいわね」
 今度はマリアが心配そうな顔つきで話し始めた。
「どうしてですか?」
「はしかは成長してからかかると症状が重くなるのよ」
 マリアが心配するように、はしかは大人になってかかると子供の時より数段症状が重くなる。あゆの場合もそうなる事は確実だった。それを聞いて祐一たちは心配になってきた。てっきりはしかだからすぐ治るだろうと高をくくっていたのだ。
 そしてこのとき祐一たちはまだ気がつかなかったが、太正時代の医療水準は帝国華撃団といえども祐一たちのいた現代よりも数段低かったのだ。
「アイリスは大丈夫なの?」
「はしかは一度かかれば免疫が出来て二度とかからないわ。アイリスは小さい時にかかったことがあるのかしら?」
「うん」
「じゃあ大丈夫ね」
 マリアの答えを聞いてアイリスは安心した。

「ねえ秋子さん、ボクどうしてはしかなんかになっちゃったの?」
 あゆが不思議そうに秋子さんに質問した。あゆもなぜ自分がはしかにかかったのかよく分からなかったからだ。
「あゆちゃんは子供の頃はしかにかかった事がないでしょ?だから免疫がないのよ」
「うん」
「それに普通なら幼い頃はしかの予防注射を受けても効き目が弱い事が多いから、小学生の時に念のためにもう一度注射を受けるんですけど、あゆちゃんは七年前に大木から落ちて植物状態だったから注射も受けてないですからね」
 秋子さんが説明した。確かにあゆは子供の頃一度もはしかにかかってない。その後植物状態だった時の病院でも衛生に気を配っていたのではしかにかかる事がなかった。しかもその間もあゆは肉体年齢は経過していたので確実にはしかの症状は重くなる。まさに災難だった。
「そうか。じゃあ祐一君にも責任の一端はあるね」
 あゆが祐一をなじった。ちょっと怒っている様子に見えた。
「え、何で俺のせいになるの?」
 突然言われて祐一が驚いた。
「だって祐一君が高所恐怖症じゃなかったらボクは大木に登ったりしなかっただろうし、そうしなければ事故に遭うこともなかったんだよ。それに事故の事を七年間も忘れるなんてひどいよ」
「そうだよ。祐一も悪いんだよ」
 名雪も一緒になって祐一を責めた。
「俺のせいなんですか?」
「「うん」」
 あゆと名雪は二人で同意した。

「秋子さん、ボク以外にはしかになる人はいないよね?ボクのはしかが誰かにうつったら困るもん」
 あゆが気になって秋子さんに質問した。もし自分以外にはしかにかかる人がいると困ると心配したからだ。
「そうですね、ここにいる皆さんはみんなはしかにかかったり予防注射を受けた経験のある人たちですものね」
「アイリスたちは?」
「この時代の人たちは現代よりも衛生環境が悪いので、みんな子供の頃にはしかにかかった経験がある人ばっかりだと思うわ。だから心配しなくても大丈夫よ」
「そうなんだ。ボクだけでよかったね」
 それを聞いてあゆはほっとした表情になった。ところが……

「お母さん、一人だけはしかになる可能性のある人がいるよ」
 突然、名雪がそう言うと右手で真琴を指差した。それを見てみんなの視線もいっせいに真琴に向かった。
「あらあら、そういえば真琴には全然免疫がありませんものね」
「真琴は要注意だな」
 秋子さんや祐一も納得した表情を浮かべた。
「あう〜っ、何でみんな真琴の事をジロジロ見つめるのよっ!」
 それを見ていた真琴が顔を真っ赤にしてあたふたわめきだした。みんながいっせいに真琴に注目したからだ。
「だって真琴ははしかにかかったことがないんだもん。仕方ないよ」
 それを見て名雪が珍しく冷静な口ぶりで言った。名雪には真琴がはしかにかかる可能性がある事が分かっていたからだ。
「あうー、そんなこと言ったってそんなの真琴のせいじゃないもんっ!」
 真琴が必死になって弁解する。
「天野も言ってたけどお前はまだ人間になってから日が浅いんだ。だからはしかになる可能性があるんだぞ」
「そうですね。あゆちゃんだけでなく真琴まではしかになってしまったら大変ですね。真琴にはかわいそうかもしれませんけど感染しないようにあゆちゃんが良くなるまでどこか別の部屋に隔離した方がいいかもしれませんね」
 祐一や秋子さんも名雪の意見に賛成した。
「え〜っ!?」
「これも真琴のためです」
 秋子さんが強い口調でそう言った。秋子さんは真琴がはしかにならないように心配してあえて強い口調で言ったのだ。

 その後、秋子さんとさくらと紅蘭は三人がかりでジタバタ暴れまくる真琴を部屋から連れ出した。そして真琴を強引に押さえるとそのまま廊下へ連れて行った。
「あうーっ、真琴を一人にしないでっ!!」
 真琴が抵抗した。真琴は以前衰弱して大変な目にあったことがあったので一人にされるのがとても怖いのだ。
「真琴があゆちゃんと一緒にいたら、あなたがはしかにうつって大変な事になるのよ。だからしばらく離れていなさい」
 秋子さんが厳しい口調で説明した。
「そんなこと言ったって。さくらが『真琴にも霊力がある』って言ったもん」
「霊力があっても私たちは免疫力では一般人と同じなんです。だからわがまま言わないでおとなしくして下さい」
「あうー、ヒドい。今度祐一にやったみたいに復讐してやる!」
「終わったら復讐しても構わんから我慢してくなはれ。ほな、今度肉まん作ってやるさかい」
 紅蘭はそう言うと秋子さんとさくらと一緒に嫌がる真琴を強引に廊下の奥の部屋に押し込んだ。そして外から鍵をかけた。真琴にはちょっとかわいそうだが病気の感染を考えると仕方ない処置だ。

 ようやくのことで真琴を隔離して、さくらと紅蘭と秋子さんが部屋に戻ってきた。三人とも真琴の抵抗に相当手を焼いた様子だった。
 すると今度は名雪があゆの事で相談して来た。
「ねえみんな、あゆちゃんを助けてあげてよ。<帝国華撃団>って、この帝都を守る秘密部隊なんでしょ?二足歩行ロボットだってあるし。いくらでもすごい医療施設があるんだよね」
「そんな……『助けてあげて』って言われても困ります。帝国華撃団に医療用のカプセル型治療器はありますが、あれはケガを治すものではしかには効きません」
「それにあゆはんは小さいからカプセル型治療器は使えんやろ」
 さくらと紅蘭が説明した。それに今まで花組の隊員が病気で戦闘不能になった事態はなかった。
「でも、帝国華撃団って<軍隊>なんでしょ?軍医さんくらいいるはずだよ」
「確かに帝国華撃団は帝国陸海軍が作った秘密部隊だから軍隊と言えば軍隊やが、うちらは秘密部隊だから階級なんかない。だからうちらは普段は相手を階級で呼ぶことなんてないんや。一応うちら花組は<光武>のパイロットやさかい、特殊技能を持つ下士官という扱いやがな」
 紅蘭が詳しく説明した。確かに帝国華撃団の隊員は一応「軍人」だが舞台の俳優としての仕事がメインで軍人としての意識はほとんどない。それにここには軍医はいなかった。
「ねえ、祐一君。『かしかん』って何なの?」
 バスケットの中で横になっていたあゆが質問した。あゆに限らず現代から来た名雪たちは軍隊の階級についての知識がほとんどなかった。現代は軍隊が身近ではないので当然といえば当然だが。
「ええと、一般兵と士官の中間の階級だ。分かりやすく言うと『係長みたいな中間管理職』ってとこかな?普通の兵隊よりもワンランク上なんだ」
 祐一が分かり易く説明した。
「ふ〜ん。アイリスちゃん達ってえらいんだ」
「そうだよ、アイリスはえらいんだよ」
 誉められてアイリスが得意げなポーズをとった。

「ねえ、みんな。あゆちゃんが病気なっちゃったのはアイリスのせいなの?アイリスが街に連れ出したから病気にかかったの?」
 しばらくして、あゆを見ていたアイリスが心配そうな顔つきでみんなの方を見た。アイリスは心の中であゆを浅草に連れ出したのが発病の原因だと後悔していたのだ。
「それはないはずです。今思い出しましたが、はしかは確か感染してから発病するまでかなり時間があったはずです。レニ、知ってますか?」
「感染から発病まで平均一週間。初期の症状は風邪と似ている」
 レニが無表情で解説した。
「何だ、アイリスのせいじゃないんだね」
 アイリスはほっと胸をなでおろした。
「一週間前って言ったら、ちょうど俺たちがこの時代にタイムスリップしてから感染したってことか!?」
 一方、祐一はビックリした。祐一たちがタイムスリップしたのは9日前。レニの言う通りならあゆは太正時代にタイムスリップしてからはしかに感染した事になるからだ。その事に気付かなかった自分のうかつさに気付いて後悔の念が沸いてきた。
「そうですね。この時代は私たちがいた現代よりもずっと衛生環境が悪いですから、はしかに感染するのも分かります。私がもっと早くこのことに気付いていればよかったんですけど……」
 さすがの秋子さんも困惑していた。
 いつもは「了承」で何でもこなす秋子さんも、現代にいた時にあゆにはしかの予防接種を受けさせておくのを全然考えていなかったからだ。これも自分のせいではないかと悩んでしまった。
「秋子さん。未来でははしかって無いんですか?」
「未来でもありますよ。ただし衛生環境が良いから感染する人は少ないですし、予防注射のおかげで感染率は減っています。それに医療も進歩しているので発病しても症状は軽くて済みます。しかしそのせいではしかを甘くみる人が増えて、予防注射をしていない人が結構いるらしいです。またさっき言ったように受けても一回だけだと効果が無い場合もあります。あゆちゃんも恐らく……」
 秋子さんは深くため息をついた。
「お母さん、私がもっと早く気付いていれば」
「名雪、自分を責めちゃ駄目ですよ」
 秋子さんがやさしく名雪をかばった。

 しばらく考えてから、祐一がおもむろに提案した。
「そうだ、舞の超能力であゆの病気を治すってのはどうだ?舞は病気を治す能力があるんだろ。それでパパパッと治しちゃえば」
 舞は子供の頃超能力で病気を治した事がある。そのエピソードを祐一は思い出したのだ。舞さえいればあゆも助かるはず。ところが……
「ぽんぽこたぬきさん」
 いつもは冷静で無感情な舞が珍しく反対した。
「どうした、舞?嫌なのか?」
「あれはいや、使いたくない。それにあの能力のせいでいじめられるのはイヤ」
 舞は子供の頃、みんなから超能力者だということが知られていじめられていた。その事が心の中にあって舞に超能力を使わせるのを拒否させたのだ。
「舞……」
「祐一さん、舞が嫌がってますよ。無理強いするのは止めてください!」
 いつもはやさしい佐祐理が強い口調で忠告した。親友の佐祐理には舞が使いたくない超能力を使わせられるのが耐えられなかったのだ。
「すみません」
 祐一は謝った。

「誰か帝国華撃団の中で超能力が使える人いませんか?」
 祐一が今度は帝国華撃団のみんなに聞いた。霊力を持った人間なら誰か超能力を持った人間がいるに違いない、そう考えたからだ。
「アイリスが使えますが」
 さくらが答えた。
「ねえ、アイリス。超能力であゆの病気を治せないかな?」
 祐一が問いかけた。
「やりたいけど、でも、出来ないよ」
 アイリスが残念そうな顔つきになった。
「出来ない?」
「アイリスは念力で物を動かしたり、物を壊したり、瞬間移動(テレポーテーション)したりする事は出来るんだよ。でも病気を治す事は出来ないの」
 アイリスが説明した。
「そういえば、アイリスが病気を治すのって見たことがないわね」
 そう言われて横にいたマリアがあいづちを打った。マリアも今までの戦いの中でアイリスの超能力を見てきたが、確かに彼女が病気を治した事はなかった。
「打つ手なし、か」
 一方、祐一は落胆した。超能力はグッドアイデアだと思っていただけにあてが外れて困惑したのだ。

「かわいそう…………」
 そのとき、横であゆを見ていたアゼリアがそっとつぶやいた。それを聞いてそばにいた栞がアゼリアの方を振り返って驚いた。アゼリアの顔には濃い憂慮の念が浮かんでいた。
(アゼリアさんの目つき、お姉ちゃんに似てる。お姉ちゃんも昔私を見てあんな悲しそうな目つきをしてた……)
「アゼリアさん」
 栞が小さな声でささやいた。
「どうしたのかしら、栞ちゃん?」
「どうしてあゆさんを見てそんな悲しそうな顔をするんですか?」
「いえ……ちょっと妹の事を思い出したのよ……」
「妹?」
 意外な答えに栞は驚いた。出生率の高い太正時代には珍しく花組は一人っ子が多い。だからアゼリアに妹がいたのが意外だった。
「ええ、あたしには一つ違いの妹がいたの。あたしと同じ花の名前でダリアって名前だった。栞ちゃん、あなたにそっくりの娘だったのよ。あたしと違って霊力は全然なかったけど、とてもかわいくてやさしい子だったわ」
「『だった』って……」
 アゼリアが妹の事を過去形で話したことが気なって栞が尋ねた。
「死んだのよ、8年前に」
「死んだ!?」
 栞が驚いた。アゼリアが香里に風貌がそっくりだったのでまるで自分が死んだような印象を受けたのだ。
「1918年、前の大戦(第一次大戦のこと)の最後の年に亡くなったのよ。言っとくけど戦争のせいじゃないわ。スペイン風邪にかかって死んだの」
「風邪って、風邪で人が死ぬんですか!?」
 栞がさらに驚いた。栞は長いこと現代医学でも治らないとされる難病で学校も休みがちだった。だから病気についてもかなり知識を持っていた。そんな栞でも風邪で人が亡くなるなんて話は聞いた事がなかった。
「あなたのいた未来じゃ風邪はすぐ治る病気なのかもしれないけど、現代(この時代)では違うの。あの年、全世界で流行したスペイン風邪によって約2千万人も死んだの。トータルで大戦(第一次大戦)の戦死者の2倍以上の人も死んだことになるわね。戦争に参加“しなかった”アメリカや日本でも風邪で大勢の人が死んだの。欧州列強は風邪のせいで次々に継戦能力を喪失して、その年の暮れに大戦は終わったわ」
「そんな……」
 アゼリアの説明は栞を驚愕させた。風邪で第一次大戦以上の人間が死亡するなど栞の想像を超えていた。しかしこれがパラレルワールドとはいえ約80年前の世界の現実なのだ。その事に栞は身震いした。
「ダリアも風邪にかかって。そのときあたしはパブリックスクールに通っていたから家に帰るのが遅れて」
「パブリックスクール?」
 聞き慣れない単語に栞が驚いた。栞にはイギリスの学校制度などチンプンカンプンだった。
「そうか、イギリスと日本じゃ学校制度が違うのね。パブリックスクールというのはあたしの国で中産階級の少年少女が学ぶ全寮制の学校の事よ。あたしはこう見えてもいいとこのお嬢さんなの。卒業すると大学へ入学出来るから日本の尋常小学校高学年と中学(旧制中学)を合わせた感じかしら?だからあたしも寮にいて家にはいなかったの。でも、ようやく帰った時はダリアは瀕死の状態だったの。でもあたしは何も出来なかったわ。本当にダリアを救えなかったのよ!霊力があるのに、風邪にも勝てなかったわ。あたしお姉ちゃん失格ね」
 アゼリアはそう言うと後悔の涙をそっと流した。
 ちなみに戦前の日本では義務教育は尋常小学校の6年間しかない。その上の旧制中学は基本的に5年制で現在の中学・高校に相当する。つまりアゼリアは「イギリスのパブリックスクールは現代の小学校高学年から高校にあたる」と言っているのだ。
(まるでお姉ちゃんそっくり)
 栞がビックリした。アゼリアの境遇が香里によく似ていたからだ。
「アゼリアさん、そんな事ないです、そんな事ないですよ」
 栞が必死になってアゼリアをかばった。
「ごめんなさい、人前で狼狽しちゃって」
 それを聞いたアゼリアはポケットからハンカチを取り出すとそっと涙をぬぐった。そしてあゆをちらちら見ながらみんなに気付かれようにと部屋をそっと後にした。

 ところがその時そんなアゼリアの様子に気付いていた人間がいた。祐一だった。祐一はそっと手招きしてあゆに注目しているみんなの中から秋子さんと佐祐理を呼んだ。それに気付いた二人は祐一の元にやって来た。祐一はまわりの人に気付かれないように二人にそっと話しかけた。
「あ、秋子さん。佐祐理さん」
「何でしょうか?」
「ふえ〜、何ですか?」
「一昨日ここに来たアゼリアって少女だけど、何か怪しいんです」
 祐一がこそこそと話しかけた。
「怪しい、ですか?」
 それを聞いて秋子さんが不思議そうな表情を浮かべた。祐一がアゼリアを怪しいと言っている理由がよく分からなかったからだ。
「そうなんです。なぜか彼女はすぐに俺たちが未来から来たって人間だってことをズバッと言い当ててました」
「確かにそれはおかしいですね」
 秋子さんも納得した。確かに自分たちがこの時代の服装に着替えたあとで未来人だとすぐ気付くのは普通ではない。
「しかも、どうもタイムスリップについて何か知ってるような口調だったんです」
「祐一さん。ひょっとして、彼女も私たちと同じ未来から来た人、なんでしょうか?」
 今度は佐祐理が質問した。佐祐理の言うようにアゼリアがタイムトラベラーならすぐに祐一たちの正体に気付くのも納得できる話である。
「それは分かりません。ただ確実なのはアゼリアがタイムスリップに関して何か知識を持ってるらしいという事です。ひょっとしたらなぜこの世界が俺たちのいた世界と歴史が違うパラレルワールドなのかも知ってるかもしれません。上手くいけば俺たちが元の時代に帰れる方法を知ってるかもしれませんよ」
 祐一はそう言うと微笑んだ。アゼリアが何かタイムスリップについて知っているのなら自分たちが元の世界に戻れる可能性はずっと高まる。そう考えると祐一も希望が見えてきて嬉しかったのである。
「そうですね。それは良かったですね」
「あとであゆの容態が一段落したら俺たちでアゼリアに質問してみましょう。二人とも一緒に力になってくれますよね?」
「「はい」」
 二人は力強くうなずいた。

「ねえ、これからあゆちゃんどうするの?」
 アイリスがあゆの入ったバスケットを持ってきてさくらにたずねた。
「とりあえずアイリスのお部屋に連れてって看病してあげて。私と紅蘭は後で薬を持っていきます。さっき言ってたけどアイリスははしかにかかった事あるのよね?」
「うん、大丈夫」
「お母さん、私も心配だから一緒に行くわ」
 名雪も一緒に行く事を決めた。名雪もあゆの事が心配でたまらなかったからだ。
「その方がいいと思うわ」
 秋子さんも同意した。

 アイリスと名雪はあゆの入ったバスケットをアイリスの部屋へ持っていった。アイリスの部屋は女の子らしくきれいなレースのカーテンが敷かれていた。そして棚にはいろいろなぬいぐるみや人形が置いてあった。他にもアイリスが大事にしているオルゴール箱なども置いてあった。
 アイリスは持ってきたバスケットをテーブルの上に置いた。
(へえ、すごいよ)
 部屋の様子を見て名雪が感心した。
 一方アイリスは棚からお気に入りのクマのぬいぐるみ「ジャンポール」を持ってくると、それをあゆの目の前に差し出した。
「あゆちゃん、ほら、友達のジャンポールだよ。あゆちゃんの病気が早く良くなってねって応援してるよ」
「うんっ、可愛いクマのぬいぐるみだね」
 ジャンポールを見てあゆがにこっと笑った。
「私は頭を冷やすタオルを取ってきます」
 それを見ていた名雪はそう言うと部屋を出て行った。

 バタン

 少ししてあゆが熱っぽそうな表情でつぶやいた。
「ボク、だるくなっちゃった」
「アイリスが大好きな絵本を見せてあげるよ。今持って来るからね」
 アイリスはそう言うと本棚から絵本を探してきて差し出した。手垢で汚れた絵本で、表紙に「日本の風景」と書いてある。ずいぶんと使い古してある本だ。それはアイリスが日本にやって来た時にみんなからプレゼントされた本だった。日本の風景がたくさん載っている絵本で、アイリスはそれで日本の事を勉強した懐かしい絵本だ。
 それを見たあゆは楽しそうに絵本に見入っていた。あゆにとっても太正時代の日本の風景を描いた絵本は面白かったからだ。やがてあゆの目線が止まった。
「ねえ、この『しんこうざん』って何なの?ボク知らないよ」
 あゆが絵本に書いてある「新高山」という単語を見て不思議そうに尋ねた。
「えっ、あゆちゃんって『にいたかやま』を知らないの?日本一高い山だよ」
 アイリスが説明した。
「何を言ってるの?日本一高い山は『富士山』だよっ!」
 あゆが返事した。いくらあゆでも小学校くらい通っているので富士山が日本一高い山だという事くらい知っている。それでちょっと怒ったのだ。
「うふふ、あゆちゃんってヘンなの」
 それを見てアイリスが笑った。

 バタン

 やがて名雪が戻ってきた。手には水で冷やしたタオルを持っている。
「タオル持ってきました」
 名雪はさっそくあゆの頭の上にタオルを置いた。病気で熱かったあゆの頭が冷えてゆく。
「さあこれで頭冷やしてね」
 名雪はあゆが気持ち良さそうになったのを見て一安心した。
「名雪さん、さっきからアイリスちゃんが変な事言うんだよっ。『日本一高い山は新高山だよ』ってボクが聞いた事もない山の名前を出すんだ。本当は富士山だよねっ!?」
 ちょっとたってからあゆが名雪に質問した。
「そうだよ。富士山、だよ」
 名雪がおっとりとした口調で答えた。名雪にとっても富士山が日本一高い山なのは常識だからだ。
「違うもん、アイリスが言ってる新高山だもん。ねえジャンポール?」
 アイリスは狐につままれたような表情で横にあったクマのぬいぐるみを見つめた。
(何で未来から来た二人は変なこと言うのかな?)
 アイリスの心の中にあゆたちがいた未来に対する疑念がふと芽生えた。ただこの時はまだそれほど大きなものではなかったが。

 ちなみに新高山というのは台湾にある山の名前で富士山より標高が高い。日清戦争で日本が台湾を領有してからは新高山が日本一高い山となったのだ。終戦後台湾は日本領ではなくなったので、戦後生まれのあゆや名雪が新高山を知らないのも当然といえる。
 なお、祐一たちのいた現代では新高山は「玉(ユイ)山」と改名され台湾の観光名所になっている。

 やがて、部屋にさくらと紅蘭が入ってきた。手には薬や水差しの置かれたお盆を持っている。
「みなさん、薬を持ってきました」
「ありがとうございます」
 名雪が感謝した。ようやく薬が来たのだ。ところが……
「さああゆはん、ちゃんと飲むんやで」
 紅蘭はそう言うと粉薬を紙の包みから強引にあゆの口に放り込んだ。
「うぐぅ、うぐぅ……」
 相当苦いらしくあゆの悲鳴があたりに響いた。
「あゆちゃん、苦かったかしら?今度はシロップに混ぜたのを飲ませますから」
 さくらはそう言うと今度は持ってきた水差しに粉薬とシロップを入れた。そしてそれをかき混ぜると水差しの口をあゆの口に持っていって強引に薬を流し込んだ。
「うぐぅ、嫌だよ、これじゃモルモットだよっ」
 これでも苦いらしくあゆがたまらず悲鳴をあげた。
「我慢して下さい。はしかが治りませんよ」
 さくらはそう言ってあゆをなだめた。
(みんな、ひどいよ。これじゃあゆちゃんかわいそうだよ)
 それを見ていた名雪がいたたまれない表情になった。いくら治療のためとはいえここまであゆが苦しむのを見ているのはとても辛かった。
「しばらくしたらまた薬を投与します。それまで看病してて下さい」
 薬を飲ませ終わると、二人はそう言うやそのまま部屋を出ていってしまった。

 それから三十分くらいすぎただろうか。さきほどの薬が効いたせいかあゆはタオルの上でぐっすりと眠っていた。それを名雪とアイリスが眺めていた。
「すー、すー…………」
 あゆの寝息が聞こえてきた。
「あゆちゃん眠っちゃったね」
「うん」
「うふふ、あゆちゃんって病気で顔が真っ赤でもふっくらしていて天使みたいに可愛いね」
 名雪がうっとりとした目つきになった。まるで大好きな猫でも眺めているような感じだ。
 やがて、名雪はさっきの治療の事が気になって部屋を出て行った。きっと紅蘭に聞けばもっといい方法が見つかるもしれないと考えたからだ。

 その頃、紅蘭は自分の部屋に戻っていた。彼女には自分の仕事があったからだ。紅蘭は何やら机に向かうと一人黙々と手紙を書いていた。

 コンコン

「どなたかいな、うちはおるで」
 紅蘭が返事をした。
「名雪だよ」
 ドアを開けて名雪が入ってきた。さすがに陸上部で鍛えた事もあって、名雪のプロポーションは抜群で着物を着ていても背の高さが際立っていた。現代人なので太正時代の男性と比較しても見劣りしない程の体格だ。
「あら、名雪はんかいな。どうしたんや?」
「さっきの治療だけど、あれじゃあゆちゃんがかわいそうだよ。はしかに効くもっといい薬とかないの?」
 名雪がお願いした。さっきのあゆへの投薬があまりにもかわいそうだったからだ。
「そなこと言われてもな。名雪はんの気持ちも分かるけど、現代(この時代)の医学ではあれが限界なんや。堪忍してや」
 紅蘭が申し訳なさそうな顔で返答した。太正時代の薬ではあれが限界なのだ。
「紅蘭さんは理系なんでしょ?お薬とか詳しくないの?」
「理系というてもうちの専門は機械やさかい、医学は担当外なんや。文系の人はよく誤解するけど、理系だからって何でも出来るわけやないで」
「そうなの……」
 名雪ががっかりした。名雪の通っていた高校は三年生になると将来の進路によって理系と文系に授業が分かれる。そのため名雪もてっきり理系なら工学も医学も同じようなジャンルだと簡単に考えていたのだ。
「そや、よかったら明日うちの故郷でよく使われとる漢方薬でも飲ませてみますかいな?効くかもしれへんで」
「うん、ありがとう」
 紅蘭のアドバイスに名雪が感謝した。今は少しでもあゆの様態を良くすることが先決だ。

「ところで紅蘭さん、机に向かって何を書いてるの?」
 紅蘭の机にあった便箋を見て名雪が尋ねた。
「あ、これか。これはうちが日本に着てまだ神戸にいた頃にうち世話をしてくれた由季江はんに手紙を書いとったんや」
「うにゅ、紅蘭さんは神戸にいたの?」
 名雪がちょっとビックリした。名雪は今まで雪の降る寒い町で暮らしていたので、神戸のような雪の少ない港街へ行った事がなかったのだ。だからちょっと紅蘭がうらやましかった。
「そうや。日本に来てから帝国華撃団に来るまでしばらく神戸に住んどったんや。神戸には中国人もぎょうさんおるし。うちがヘンな関西弁をしゃべるのも神戸で日本語を覚えたせいなんや」
 紅蘭が説明した。確かに紅蘭は中国人なのにおかしな関西弁をしゃべっていた。
「そうなんだ。知らなかったんだよ」
「由季江はんはうちが神戸にいたときの親友なんや。うちにいろいろ世話をしてもらった恩人やで。それで今はドイツ人と結婚して由季江・カウフマンと姓を変えとるんや」
 紅蘭は楽しそうに答えた。どうやら神戸時代に由季江に相当世話になったらしい。
「へえ、国際結婚なんだ。いいな」
 名雪があこがれるような口調になった。幼なじみの祐一の両親が外国へ仕事で赴任した事もあって、名雪は外国にロマンチックなものを感じていた。それにドイツは嫌いではなかった。
「ところが今度由季江はんが子供を妊娠したらしいんや。そこでうちにいい名前があるか手紙が来たんや。ちょうど花組にドイツ人のレニがおったんで聞いてみたら、レニが言うには女の子なら可愛らしい<アンゲラ>(Angela)がいいと言うてくれたんだわ。ところが、男の子だった場合の名前が思い浮かばんのや。レニはああ見えても女の子だし、うち中国人やし、ドイツ人の名前は詳しくないんやわ。名雪はん、いい案あるかいな?」
 紅蘭が困惑した顔で質問した。中国人にドイツ人の名前を考えるのは難しいようだ。
 ちなみにアンゲラ(<アンジェラ>とも発音する)というのはドイツ語で「天使」のことでドイツ人女性では一般的な名前である。ちなみに現在ドイツの女性首相の名前もアンゲラ・メルケルである。
「うーん」
 名雪は考え始めた。でもなかなかいい名前が思いつかない。
(そうだ、前に倉田先輩がこの世界にヒトラーがいないって話をしてた。それならこの名前はどうかな?)
「紅蘭さん。<アドルフ>っていうのはどうかしら。いい名前だよ」
「うん<アドルフ・カウフマン>、いい名前や。これで決定やな」
 紅蘭はそう言うとその名前を手紙に書き始めた。
 このとき紅蘭と名雪が名付けたアドルフ・カウフマンが約四半世紀後、男性では珍しい高い霊力の持ち主として未来の帝国華撃団の隊長になるのだった。もっともこの時点では2人はそんな事など知るよしもなかったのだが。

 一方、こちらはアゼリアの部屋。アゼリアは熱心に本を読んでいた。分厚い茶色の羊皮紙の表紙で中にはラテン語がびっちりと書き込まれていた。どうやら魔術関係の本らしい。
 やがてアゼリアは読書に疲れたらしく、読んでいたページにしおりをはさむとバタンと本を閉じた。そして本をテーブルの上に置いた。
 そしてアゼリアは休憩のために、イギリスから持ってきた紅茶の缶をテーブルに出すと、スプーンでその茶葉をすくってティーポットに入れた。今度は熱い熱湯の入ったポットを持つとティーポットに注ぎ込んだ。

 トントン

 その時外の窓を何かが叩く音が聞こえた。アゼリアが振り向くと褐色のフクロウが窓枠に止まっており、くちばしでしきりに窓を叩いていた。足には巻かれた手紙が結び付けられている。
「あら、外からの通信ね」
 アゼリアは窓を開くと外のフクロウを中に入れた。
「さあ、おいでマイモニデス」
 アゼリアはやさしくフクロウをなでると、さっそく足から手紙を外した。ふくろうは気持ちよさそうに目を閉じていた。なでられて気持ちよかったようだ。
(帝国華撃団の花組や月組はあたしが電話か無線で外と連絡をとっていると思っているから、これには気付かないわね)
 帝国華撃団のメンバーは普段キネマトロンという通信機を使用している。また霊子甲冑、光武には高性能の無線機が搭載されており、光武同士の通信や司令部と光武との通信はもっぱら無線が使われている。だからこんなフクロウを使用したクラシックな通信手段には気付かないと安心したのだ。
 余談だが祐一たちのいた世界では無線の発達はもっと遅く、無線機が戦車に搭載されるようになったのは第二次大戦頃である。意外に思うかもしれないが、実は大正時代はまだ伝書鳩が主要な通信手段だった。ここでも帝国華撃団は祐一たちの世界より科学が発展していた。
「こ、これは……」
 手紙を読むなりアゼリアの表情が一変した。
(イギリス本国司令部は「あれ」の実戦投入を要求している……)
 アゼリアは急いで机に戻ると、そばの万年筆で大慌てで返事を書き始めた。
(とりあえず返事は書くわ)
 アゼリアは急いで返事を書き上げると、それをクルクル巻いてフクロウの足にひもで括りつけた。そして再び窓を開けるとフクロウを外へ放した。フクロウはバタバタ羽をはばたかせると大空へと飛び立っていった。

 コンコン

 それから少し時間がたった頃、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「あら、どなたかしら?あたしはいるわよ」
 アゼリアがそう答えると、ノックをした訪問者たちはドアを開けた。ドアの向こう側には祐一と佐祐理と秋子さんが立っていた。
「相沢祐一です。どうもお邪魔します」
 祐一はそう言うとお辞儀をした。そして3人は部屋の中へ入っていった。
「こんにちは、グレンジャーさん」
 秋子さんが丁寧な言葉で話し掛けた。祐一たちは不快な印象を与えないようにこにこしている。
「そんなにかしこまらないで、ファーストネームのアゼリアでいいわよ。ところであたしに何の用?」
 アゼリアはそう言うと、テーブルに置いてあったティーポットから紅茶をカップに注いだ。ゆっくりとダージリンのふくよかな香りが部屋中に立ち込めた。アゼリアは横の砂糖入れからスプーンで粉砂糖をすくうとそれをカップに入れてグルグルかき回し始めた。
「アゼリアさん、あなたはタイムトラベルについてなんか知っているんでしょう?教えて下さい」
 祐一が単刀直入に話しかけた。
「いきなりかしこまって。あたしは何にも知らないわよ」
 アゼリアが一瞬驚いた表情になった。が、すぐにいつもの表情に戻って笑顔で返答した。
「隠さないで下さい。あなたは昨日俺たちが未来人だってすぐに見抜きました。あれはどう見てもタイムトラベルを知っている人間の態度です。それにあなたが昨日言った<逆転時計>って何ですか?」
「<逆転時計>?あたしそんなこと言ってないわよ」
 アゼリアは『不思議の国のアリス』の猫のようにニヤニヤ笑みを浮かべた。あくまでシラを切り通すつもりらしい。
「とぼけないで下さい。あなたが俺に『未来の日本は<逆転時計(タイムターナー)>を保有してるのね』って言ったのは覚えてますよ」
 祐一の口調が強くなった。アゼリアが明らかに隠し事をしているのが祐一にもはっきり受け取れたからだ。
「ばれちゃったか、ヤブヘビだったわね」
 アゼリアはそう言うと舌を出して笑った。そして、テーブルに置いてあった紅茶を一口飲むと、気分を落ち着けて話し始めた。
「いいわ、仕方ないわね。さっそく<逆転時計>を見せてあげるわ。ちょっと待っててね」
 アゼリアは両手でベッドの横に置いてあったトランクケースを持ち上げると、祐一たちの目の前に持ってきた。そしてロックをパチンとはずすと、何やら中をごそごそ探し始めた。
 少ししてから奥の方から小さな宝石箱を取り出した。大事な物らしく外には厳重に鍵がかけられている。
 アゼリアはその宝石箱をテーブルに置くと、ポケットから鍵を取り出した。そして鍵を差し込みクルッと回して蓋を開けた。すると、中から小さな砂時計が出てきた。アゼリアは指でそれをつまむとこれ見よがしにその砂時計を祐一たちの前に見せた。
「これが<逆転時計>?」
 祐一が意外そうな表情を浮かべた。てっきり名前から推察して時計のようなものだと思っていたからだ。
「そう、これからあたしがこれについて詳しく説明してあげる」
 アゼリアはそう言うと手にしていた砂時計をテーブルに置いた。そして、静かに<逆転時計>について説明を始めた。それは今まで祐一たちが聞いた事もない不思議な物語だった。


 つづく


あとがき

 完成が遅くなってすみません。
 今回はかなり分量が長くなっています。
 今回は前回の伏線が判明します。はしかという設定に驚かれた方もいるかもしれませんが、戦前はしかは大変に重い病気でした。作中でアゼリアが言っているように当時の医療技術は低いのです。大正時代には抗生物質の元祖であるペニシリンさえ発見されていません。
「あゆははしかにかからないのか?」という話は昔「あゆシナリオ」をやっていたときから感じていた疑問でした。というもの、私が小学2年生のときに担任の先生がはしかに感染して約十日間も学校を休むという大変な事件があったのです。そのため「あゆや真琴ってはしかの免疫がないはず。あの雪の町で感染しないのかな?」と以前から疑問に思っていました。
 そこであゆがはしかになるネタをやってみました。これは以前から考えていたものです。ただそのままやるとかなりシリアスになるので結構悩みましたが。
 あと神埼すみれが全然活躍していませんね。すみれファンの人ごめんなさい。次回出す予定です。
 太正時代ものはあと数話続きます。続きをお楽しみください。


管理人のコメント

 久しぶりに帰ってきました「あゆちゃんの冒険」。前回ラストで倒れたあゆですが、その病状は……?。
 
>「美坂、数日前にあった水瀬家のドライブだけど、あれ以来バッタリと名雪も相沢も学校へ来なくなったな。美坂、お前のところの妹はどうだ?」
>「妹の栞もあれから行方不明になったわ。以前も言ったけどあれから名雪の家に電話しても全然応答無いし、携帯にも出ないの。家族でも困って4日前に栞の捜索願を出したのよ」

 水瀬家ご一行が太正時代に行っている間も、現代世界では同じだけの時間が過ぎているようですね。
 
 
>「俺の拳が光って唸る!お前を倒せと轟き叫ぶ!必殺、シャイニング・フィンガー!!」(関智一さんの声で)

 あ、中の人同じでしたっけ? 北川とドモンではえらくキャラが違いますが……(笑)
 
 
>「ハハーン、これははしかです」

 まぁ、病気にかかりがちな子供時代、あゆは大半昏睡して過ごしましたからね……今かかるのも無理ないですが。
 
 
>ちなみに新高山というのは台湾にある山の名前で富士山より標高が高い。日清戦争で日本が台湾を領有してからは新高山が日本一高い山となったのだ。

 歴史豆知識ですね。もし日本が台湾を領有していなかったら、太平洋戦争の開戦暗号は「フジヤマノボレ」だったかもしれません。
 
 
>さくらはそう言うと今度は持ってきた水差しに粉薬とシロップを入れた。そしてそれをかき混ぜると水差しの口をあゆの口に持っていって強引に薬を流し込んだ。

 水には表面張力があるので、小さな生物には粘性の強い液体に感じられるそうです。それがシロップでは、あゆが苦しむのも無理はないかもしれません。
 
 
>「そうや。日本に来てから帝国華撃団に来るまでしばらく神戸に住んどったんや。神戸には中国人もぎょうさんおるし。うちがヘンな関西弁をしゃべるのも神戸で日本語を覚えたせいなんや」

 確かに神戸訛りとはちょっと違いますね。神戸では「ぎょうさん」とは言いませんし。大阪訛りとのチャンポンというか。


>アゼリアはそう言うと手にしていた砂時計をテーブルに置いた。そして、静かに<逆転時計>について説明を始めた。それは今まで祐一たちが聞いた事もない不思議な物語だった。

 意外にもあっさりタイムスリップに関する知識を認めたアゼリアですが、逆転時計に関しては何やらただ事でない事情がある様子。果たして、水瀬家一行の現代への帰還に役立つものなんでしょうか?


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