りばーしぶるハート外伝〜奇跡な人たちの日常と非日常〜

 作 破弥さん

 

 雪も溶けてこの街の遅い春も、もう目の前まで来ている季節。
 空はよく晴れ、鳥たちは囀り、人々はこれから来る春に思いを馳せる。
 そんなとても良い日和の朝、その少女は自室で自分の制服を見つめて重いため息をついた。
「はぁ……」
 すらりとした四肢とよく締まっている体。
 それでいて出ているところは出ており、髪は腰まであるほど長く、綺麗な青色をしている。
 そして何より目を引くのがその顔。
 同年代の女の子の中でもかなり可愛い部類に入るであろう顔立ちに、少々きつめの印象を与えるツリ目。
 全体として均整の取れている、どこから見ても分かる美少女である。
「はぁ…………」
 またため息。
 彼女の名前は相沢祐香。
 今日から転入生として学校へ行くことになっている。

 と、いっても彼女は引越しをしてきたりなどで転校してきたのではない。
 もっと言ってしまえば転校すらしていない。
 昨日まで数ヶ月間通っていた学校に今日から転入生として行くのだ。

 それはどういうことか?
 それには昨日、彼女に起こった出来事を説明しなくてはならない。



 高校生の相沢祐一青年は両親の都合により、今年の初めから、7年前まで良く訪れていた街に居る親戚である、叔母の水瀬秋子の家に居候することになった。
 祐一は最初、彼自身の辛い思い出から街に馴染むことができなかったが、彼のいとこである水瀬名雪を始め、沢山の旧友や新しい友人達と時間を共にして、今ではすっかりこの街に馴染んでいた。

 そんなある日、いつものように秋子の作った朝食を食べていて異変は起こった。
 突然胸が苦しくなり、意識を失って倒れてしまったのだ。
 そして目が覚めてみると性別が変わっていたのだ。

 秋子によると、紅茶に隠し味として入れたジャムが原因ではないかという話だ。
 そのほかの食事には取り立てて普段と変わったことはしていないらしいので、それで間違いはないだろう。
 なにより、秋子の作るジャムは大抵が非常においしくて出来の良い物であったが、彼女のお気に入りのジャム、通称「謎ジャム」には文字通り謎が多い。
 某国の最終兵器として開発されたとか、自らの意思で進化する等の噂もある。
 それに比べれば一般人の性別を変えてしまうことなど容易い事であろう。

 そして困ったことに、彼女の作ったジャムは他の目的で作られたものであり、性別が変わったのは何らかの副作用だというのだ。
 当然、すぐに元に戻すことは不可能である。
 つまり祐一は、秋子が彼(彼女?)を元に戻すまでの間は女として生きていかなくてはいけないということだ。
「これから俺はどうしたらいいんでしょう……」
 途方に暮れた祐一は秋子に言う。
「困りましたね……」
 普段からどこかこの世の全てを超越しているのではないかとすら思える秋子であるが、その秋子が本当に困ったように言ったのが印象的であり、また不安であった。
 そしてすぐに秋子は一つの案を出した……。

 それが今の状況、つまり転入生として今の学校に通うということである。
 祐一は考えた。
 今の学校には自分を知っている人間が多い。
 ただでさえ自分は秘密を持ちにくい人間である。
 何より、仲の良い友人に嘘をついてまでそうするのは嫌だった。
 だが、そこで祐一はある言葉を思い出す。
 いとこである水瀬名雪の言葉だ。
 いつ聞いたかは忘れてしまったが、名雪はこう言った。

「わたしはずっとお母さんと二人きりだったんだよ でも、今は祐一が居てくれて嬉しいな」

 男である相沢祐一は今は消えてしまっている人間だ。
 だが、ここで女とはいえ自分が居なくなってしまったら再び名雪は秋子と二人きりになってしまう。
 この数ヶ月間見てきたが、名雪は祐一を実の家族のように扱っていた。
 いくら秋子が居るとはいえ、祐一が居なくなってしまえばどうなるかは想像に難くない。
 それならばせめて、「祐一」には及びはしないであろうが、別の人間としてでも水瀬家に留まった方が良いような気がする。

 そして、祐一は秋子の案を呑んだのだ。

 そう決まった後の秋子の行動は素早かった。
 どこかに連絡をしたかと思うと、あれよあれよという間に必要なものが揃っていった。
 戸籍、転校証明証、制服、私服……。
 そして名前。
 祐一の新しい名前は「相沢祐香」となった。
 3時間後には祐香が生活を送るにあたって必要なものは全て揃っていた。
 部屋は今まで祐一として使っていた部屋を使い、名雪には相沢家の親戚ということにしてある。
 別に名雪には正体を話してもいいとも思ったが、以前祐一として学校に転入して来たときに同居していることをクラス中に話してしまった前科がある。
 黙っているに越したことはないであろう。
 
 祐香は昨日起こったことを思い返し、そして制服を見て3度目のため息をつく。
「はぁ……」
 祐香にしてみれば、その制服は今まで通っていた学校の女生徒の服である。やはり着ることに抵抗がある。
「いつまでも悩んでいても仕方ないか……そろそろ名雪も起こさないといけないし、着替えないとね」
 そう意を決すると制服を着る。
 赤いワンピースに白いケープ。そしてケープには学年を象徴する赤いリボン。
 そして黒いニーソックス。
 鏡を見るとそこにはどこに出しても恥ずかしくない、立派な女子学生が居た。
 祐香は軽く目眩がしたが、すぐに気を取り直して朝食を食べに行くことにした。
 
 コンコン……
 机の上の鞄を持とうとしたところでノックの音がする。
「祐香ちゃん、起きてる?」
 名雪である。
 人類史上稀に見る寝起きの悪さの名雪が自分を起こしに来るとは思わなかった。
 一応祐香は今日から新しい学校に行くことになっているので気を使っているのかもしれない。

 返事をして部屋を出ようとして少し戸惑う。
 やはり名雪にこの格好を見られるのは恥ずかしい。理由があるとはいえ、女生徒の制服を着ているのだ。
 だが、今の祐香は女であるし、名雪は祐香が祐一であると知らないのであまり気にする必要は無いだろう。
 そう考えた後、ドアを開けて廊下に出る。
「おはよう、祐香ちゃん」
 制服姿の名雪が笑顔で挨拶してくる。
 すらりとした四肢に青い髪……つまりは祐香と全く同じ外見をしている少女。
 その少女こそが名雪である。
 当然、名雪が祐香に似ているのではなくその逆ではあるのだが……
 双子と言っても誰も疑わないぐらいそっくりな二人である。
 しいて違いを上げるとすれば、祐香はツリ目なのに対して名雪はタレ目であることぐらいだ。
 おそらく素人目にはほとんど見分けが付かないだろう。
 なぜこんなに似てしまったのかは定かではないが、一応血の繋がっている人間だからであろうか。
 何にせよ、困った偶然である。

 そんなことを考えていると、名雪が困った顔をしてこちらを見ている。
「どうしたの?」
 そう祐香が聞くと。
「朝は『おはよう』だよ」
 笑顔でそう答える。
 ああ、そうか。そう納得すると。
「おはよう、名雪」
 笑顔を返しながら挨拶する。
 そして続けて言う。
「それと、私のことは呼び捨てでいいわ」
 今まで名雪とは呼び捨てで名前を呼び合っていた。
 自分の名前が変わったからといって、いきなり変えると変な気分がする。
「え、でも……」
「いいのいいの その代わり私も『名雪』って呼ばせてもらうわ」
 断りを入れる前にすでに1回呼んだ事は無視し、困っている名雪の横を通り抜けて階段を下りていく。
「あ、待ってよ〜」
 その後ろを名雪が情けない声と共に追いかけてくる。

 部屋に入るとキッチンから秋子が出てくる。
「おはよう、二人とも」
 いつもの笑顔で挨拶をすると朝食を並べ始める。
 水瀬家のいつもの朝食であるパンにコーヒー、サラダなどが食卓に並ぶ。
 しかし、祐香には食事よりも気になることがあった。
「名雪、時間は?」
「まだ平気だよ」
 時計も見ないで名雪が答える。
 時刻は8時3分。
 予鈴は8時30分で学校までは約20分かかるから、平気なことは平気だろう。
 ただ、悠長に食事をしている暇がある時刻でもない。
「食べている暇は無いわね……名雪行くわ・・よ……」
名 雪を急かそうと言葉を発した瞬間にテーブルの上にある色とりどりの瓶が目に入った。
 それはジャムである。
 甘いものが苦手で食べる機会がそんなに無かった上に、昨日ひどい目にあったばかりだ。
 それなのに、そのジャムがとてもおいしそうに見える。
 うーん……どうしよう、ジャムがおいしそうだから食べて行きたいな。
「そうだね、お母さんの作るジャムはおいしいからお勧めだよ」
 祐香の心の内を見透かしたように名雪が言う。
 そして気付く。
「あ、私 今何か言ってた?」
 不思議そうに名雪が答える。
「えっ?ジャムおいしそうだな〜、って」
 やはりそうだ。
 祐香には思ったことを口に出してしまう癖があり、これが今まで彼女の悩みの種であった。
 当然その癖は今も治っておらず、これが正体をバラしてしまいかねないので、癖が出ないように気をつけてはいたのだが……
「いただきま〜す」
 祐香が考え事をしている間に名雪は席に着き、パンを食べ始めていた。
 そこで祐香も諦めて朝食を食べて行くことにした。

「名雪、時間!」
 玄関から外に出るなり祐香は聞いた。
「うーん……凄くがんばって走らないとダメかも」
 まったく緊張感の無い口調でそう答える。
「走るわよっ!」
 祐香がそう言うなり二人して走り出した。
 そして祐香は走り出してすぐに異変に気づく。
 今日の名雪が走るスピードが異常に速いのだ。
 名雪は陸上部だから速いのは当然かもしれないが、これでは速すぎる。
 いつもの倍までとはいかないが、かなりのスピードで走っている。
 これでは高校生女子の日本記録が狙えてしまう程の速さだ。

 そこまで考えて気づく。
 祐香は性別が変わったのと同時に、体力・筋力まで落ちてしまっていたらしい。
 つまり名雪が特別速くなった訳ではなく、ただ単に祐香が遅くなっただけなのである。
「名雪、ちょっと……待ちな……さ……い……」
 息も絶え絶えそう叫ぶと、名雪はペースをこちらに合わせて。
「祐香、ふぁいとっ、だよ」
 そう言って励ます。
 学校に着いたときはもう息が上がりきっていた。

「到着〜」
 校門の前で名雪が振り返り。
「ここが今日から祐香が通う学校だよ」
 そう告げる。
 数ヶ月前に転入生としてやってきた学校。
 そして、もう何ヶ月も通った学校。
 その学校に再び転入生としてやってくるとは思わなかった。
 世の中、何がどうなるか分からないものである。
 そんなことを考えていると、不意に後ろから肩を叩かれる。
 振り返ると同時に挨拶をされる。
「おはよう、名雪っ!」
 ウェーブのかかった茶色の髪。
 そして祐香や名雪と同じ赤いリボン。
 美坂香里である。
 香里は祐香が祐一としてこの学校に転入してきたときに、一番最初に知り合った人物である。
 その繋がりは、学校で共に過ごした時間を経て強いものへと変わっていた。
「香里、おはよう〜」
 祐香の前で学校の説明をしていた名雪が香里に挨拶を返す。
 とたんに香里が目を丸くして固まる。
 それなりに付き合いは長いが、こんな香里は初めて見た。
 香里は祐香と名雪を交互に見比べ、
「名雪が二人……?」
 とても困った顔で聞き返してきた。そこですかさず。
「名雪の双子の姉の祐香です、今日からこの学校に通うからよろしくねっ!」
 と言ってみた。
 すると香里は納得したのか、
「初めまして、美坂香里です」
 そう言って笑顔で会釈を返してくる。
 そして更に。
「私のことは香里でいいわよ」
 そう言うので、
「じゃあ私のことは祐香でいいわ」
 と返す。
 男だったときは断られたが、香里は、
「ええ、遠慮なくそう呼ばせてもらうわね」
 と笑顔だった。
 名雪が何か言いたそうにこちらに近づいてきた。
 だが、そこでチャイムが鳴る。
「あ、予鈴ね 名雪、祐香、行きましょう」
 そう言って香里は昇降口に向けて歩いていく。
「私は職員室に行ってみるわ」
 祐香が言うと、
「それもそうね 転入してきてまだクラスが分かってないものね」
 香里が同意する。
「一緒のクラスになれるといいね」
 名雪はそう言って階段を上がって行った。

 職員室で手近な教師を捕まえて用件を話すと、よく知っている教師がこちらに来た。
「君が転入してきた生徒か、水瀬にそっくりだな」
 笑いながらそう言う教師は祐香が祐一だった頃の担任の教師だ。
 つまり、名雪と同じクラスになれたのだろう。
 秋子さんの手回しがここまできていたのかは定かではないが、どっちにせよ正体がバレると面倒なことになりかねない。
 より一層慎重に行動する必要がありそうだ。

 教室まで行くと、一旦ドアの外で待たされる。
「あー、今日は転入生を紹介する」
 担任がそう言うと、教室内がどよめく。
「入ってきなさい」
 担任がドア越しにこちらを見て促す。
 祐香が教室内に入ると、騒がしかった生徒たちが一転 水を打った様な静けさになる。
 無理もない、クラスメイトと同じ外見の人間が転入生として入ってきたのだ。
 担任に言われて簡単に自己紹介をする。
「あ、相沢祐香です……よろしくお願いします」
 とても居心地が悪い。
 自己紹介してから席に着くまで誰一人として喋らなかった。
「あー、みんなにもう一つ伝えることがあって、相沢祐一なんだが家庭の特別な事情で急遽ご両親の元に行っているそうだ。戻ってくるのはいつになるのか分からないらしい」
『相沢祐一』の名前が出て皆気づいたのか、祐香とどういう関係にあるのかというのでクラスが再びザワつき始めた。
「ほら、静かに! 先生も詳しく知らないんだが、相沢さんは相沢と親戚らしくて…………」
 担任の説明を横目に、祐香は周りを見る。
 指示されて座った場所は男だった頃の席だった。
 つまり、名雪の真後ろ・香里の左である窓際の席だ。
 そしてもう一人仲の良いグループだった北川潤の左斜め前である。祐香を含めたこの4人は席替えの度に固まる傾向があり、それは進級した今でも変わりはないようだ
 腐れ縁だなと考えていると、
「あなた名雪と双子じゃなかったの?」
 香里が非難めいた顔でこちらを向いてそう言ってくる。
 祐香は笑いながら誤魔化すしかなかった。

 ホームルームが終わると、祐香は祐一や名雪との関係に興味を持った生徒達に囲まれるが、どうにかこうにかそれを受け流していった
 そうしているうちに午前中の4時間が終了した。
 そして昼休み。
「祐香、お昼休みだよっ!」
 名雪がそう言ってくるので驚く。
 男だった頃も、こうして毎日時報の様に言って来たからだ。
 正体がバレたのかと思ったが、
「気にしない方がいいわよ この子、仲が良ければ誰にでも言うんだから」
 香里がそう言うので安心する。
「それで、二人はお昼どうするの?」
「どうするもこうするも、学食しかないわよ」
 香里が尋ねてくるので祐香は答える。
 祐香は昔から学食を利用している。
 稀に弁当を持ってきていたこともあったが、大抵は学食である。
「じゃあ私がここの学食での闘い方を教えてあげるわ」
 不敵に笑いながら香里は教室を出て行く。
 祐香は物騒だと思いつつも、事実、学生で混みあっている学食はある意味戦場である以上、黙ってついて行くしかなかった。

「あっ、二人とも!どこに行くのっ!?」
「うー、香里ぃ……祐香ぁ……」
「きゃああああああ」
 学食は本当に戦場さながらであった。
 闘い方を教えてくれると言っていた香里も自分のことで手一杯であった。
 そこを人の流れに押されてしまい、祐香と名雪が目的と反対方面に流される。
 そこで祐香はいつものように人の流れを掻き分けようとしたのだが、予想以上に力が落ちており、結局一人だけ更に流されてしまったのだ。
 結局それぞれがいくつかのパンを買って教室で食べることになった。
「しかし、不気味なほど似てるわね……」
 買ってきたサンドイッチを食べながら香里が言う。
 休み時間の度に言われており、これで今日何度目かも忘れてしまった。
「もしかして相沢君の親戚はみんな名雪と同じ顔なのかしら」
 香里が笑いながら冗談めいたことを言う。
「ほら、偶然似ているだけよ」
 祐香はそう否定する。
「そうね、偶然って怖いわね」
 香里はそう言って会話を打ち切るが、顔には「偶然でそこまで似るものかしら」と書いてある。
 完全に何かを疑われているようだ。
 その証拠に、香里がいつも祐一をからかっていた時と同じような何かを含んだ笑顔をしている。
 だが、ジャムで祐一の性別が変わってしまったという結論には到底達しないであろう。

 そして放課後である。
 部活があるという名雪と香里と別れて、家に帰るために昇降口に向かう。
 今日はいつもと違うことの連続で疲れてしまった。
 早く帰って休もう。
 そう考えながら靴を履き替えていると、
「水瀬部長っ!こんなところに居たんですね」
 突然女の子の声がしたのでその方向を向く。
 そこには体操着の女生徒が立っていた。下級生のようだ。
「部長が居ないと新入部員がサボるんですよ お願いします、早く来てください」
 どうやら陸上部の部長である名雪と間違えられているらしい。
 親友である香里すら間違えたのだから無理もない。
「いや、私は名雪じゃないわよ」
「何言ってるんですか部長、行きますよ」
 否定の言葉をあっさり流し、その女生徒は祐香の手を掴んで引っ張っていく。
「だから、私は名雪じゃないんだってば」
「どこからどう見たって水瀬部長じゃないですか」
「似てるだけで、本人じゃないのよ〜」
 そう言い合いをしながら引っ張られていく。
「だから、私は違うのよっ!」
 かなり引っ張られて行った所でそう言って女生徒の手を振り解く。
 だが、その子は、
「体調が悪いんでしたら、見ているだけでいいのでお願いしますよ〜。部長が見ていないとサボる人が居て、部の雰囲気全体が悪くなるんですよ〜」
 そう言って涙目でこちらを見てくる。
 こうなると断れる状況ではない。
「う……、分かったわ 見ているだけね……」
 そう言って渋々納得する。
 どうせ名雪が来るまでの辛抱だ。
 さっき部活に行くと言って別れたので、数分で解放されるだろう。

 部員に促された場所で陸上部の練習を見る。
 最初は各自が思い思いの準備運動をしていたが、3年生らしき生徒が声をかけると集合して、グラウンドでランニングを始める。
 さすが陸上部というべきか、かなりのハイペースでグラウンドを何週もしている。
 何週したか数えられなくなってきた頃、やっとランニングが終わる。
 すると休みも入れずに各自散り、長距離や短距離などの種目別に分かれて練習を始める。
 名雪は毎日こういう練習をしているのだ。
 むしろ、部長であるから精神的にも疲れるだろう。
 その疲労度は計り知れない。
 毎朝大量の目覚ましでも起きない理由はこういうところにもあるのかもしれない。
 そんなことを考えながら練習を見ていると、先程の女生徒が駆け寄ってくる。
「部長、長距離の練習について少し提案したいことがあるんですけど」
 祐香は困った。
 見ているだけで良いと言われたから居るのであって、実際は部長ではない。
 それどころか陸上競技などは、体育の授業でやっただけの素人だ。練習方法まで詳しく分かるはずがない。
「ええっと……」
 祐香が困っていると、
「あれっ?祐香、ここで何してるの?」
 と、後ろで声がした。
 振り返ると体操着に着替えて髪を後ろで束ねた名雪が歩いてくる。
 視線を元に戻すと、女生徒が目を丸くして固まっていた。

「本当にごめんなさいっ」
 名雪が陸上部の練習に合流すると、女生徒が祐香に謝る。
 祐香としてはちょっと怒りたい気もしたが、名雪の知らない面を見ることができたのでよしとしよう。
 今も名雪は自分の練習をしながら、合間に他の部員の指導をしている。
 普段の生活ではほとんど見ない、しっかり者の名雪の姿だ。
 結局祐香は部活動が終わるまで見学を続けていた。

「先に帰っていても良かったのに」
 練習を終え、制服に着替えて戻ってきた名雪がそう言う。
「帰り道が分からなかったのよ」
 まさか名雪を見たくて残っていたとは言えない。
 照れ隠しにそう言って横を向く。
「うん、そうだね 帰ろうか」
 名雪は祐香の考えていたことを知ってか知らずか、笑ってそう言って踵を返す。

 疲れた1日だった。
 だけど、名雪の意外な一面を見ることができて得をした気分だ。
 これも秋子さんが変なジャムを自分に食べさせたおかげと言っていいだろう。
 かといって、それは不幸中の幸いとかそういう意味なのだが、もしかしたら祐香としての生活もそんなに悪いものじゃないかもしれない。
「えっ?今何て言ったの?ごめんね、声が小さくて聞こえなかったよ」
 名雪がそう言う。
 また思っていた事を口に出していたようだ。
 とりあえずはこの癖を治さないとな……
 日の暮れるいつもの道を名雪と一緒に帰りながら祐香はそう考えるのだった。

(つづく)


管理人のコメント


 とうとう来ました、「りばハ」より祐香主人公の作品を破弥さんが書いてくださいました。
「りばハ」本編の世界ではなく、「Kanon」本編の世界を舞台に、祐香の新たな物語が始まります。

>少々きつめの印象を与えるツリ目。

 これがないと祐香らしくありません(笑)。
 
 
>人類史上稀に見る寝起きの悪さの名雪が自分を起こしに来るとは思わなかった。

 管理人も思いませんでした。
 
 
>「それと、私のことは呼び捨てでいいわ」

 なかなか上手く女の子言葉を使いこなしています。ちょっと香里っぽいのは、身の回りの女の子で一番普通なのが香里だからでしょう(笑)。
 その香里ですが……
 
 
>とたんに香里が目を丸くして固まる。

 それは驚くでしょうねぇ。いきなり親友そっくりの女の子が二人出現したわけですから。
 
 
>「名雪の双子の姉の祐香です、今日からこの学校に通うからよろしくねっ!」

 香里の驚きを見てついいたずら心を起こしたのかもしれませんが、いきなり大嘘です(笑)。
 
 
>完全に何かを疑われているようだ。
>その証拠に、香里がいつも祐一をからかっていた時と同じような何かを含んだ笑顔をしている。

 
 おかげで疑惑を抱かれてしまいました。まぁ、無理もないですが。ただ、怒っているわけではないようですけどね。
 
 
>もしかしたら祐香としての生活もそんなに悪いものじゃないかもしれない。

 まぁ、今は良いでしょう。でも、今後あゆや真琴、先輩コンビに栞といった他のキャラとの出会いによって、そんな事言ってられない状態になるかもしれません。
 体育の着替えとか初水着とか、イベントはいろいろありますしね(悪笑)。
 
 という事で、祐香の今後に大期待なのです。

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