オジロワシ血風録

第五章  学友会執行部隊



3.舌戦



 執行部の五人が会議室に戻ると、高木美保が熱心に演説を行っていた。彼女が言うには、この際学友会の権威を高めるためにも一〇〇人程度の部隊を編制すべきであり、これに逆らうサークルは残らず叩き潰してしまえ、と論じていた。その名前は単純明快に『執行部隊』としてはどうか、とも言っている。
 榊原は途中からしか聞いていないが、その演説は見事なものだった。この三月まで弁論部の部長だった彼が、なかなかやるなと思ったほどだ。美保の演説によって、集まった学友会員の大部分は彼女の意見に与したようだ。
(でも、まずいな。この休憩、無かった方がよかったんじゃないか? 休憩前よりまずいことになってる。俺が残っていれば空気を変えずにすんだものを……)
 榊原は唇をかんだ。美保のアジ演説で、会議出席者は彼女のプランに乗り気になっていた。こうなってしまうと、下手な反論はかえって相手の論に力を与えかねない。ここから盛り返すのは難しいと言わざるを得ない。
 この空気を作らない為にも、穏健な意見を持つ人間を残しておけばよかった、と榊原は悔やんだものの、アジ演説に対し冷静で説得力のある反論を展開できる人間はきわめて稀である。榊原ならば間違いなくできたはずだが、そうなると執行部の意見を彼の望む方向へとまとめられなくなる。いくら榊原でも、離れた場所にいる相手を同時に説得することなど出来ない。
「随分と過激な演説だな」
 福原は呆れたように言った。言いながら役員席に座る。
「全員着席してくれ。執行部で話し合った結果を伝えるから」
 福原の声で全員が席に戻ると、福原は先程の執行部会議の内容を話し始めた。執行部隊の結成はひとまず保留して、話し合いによる解決を行う。福原がそう宣言すると、不満の声があちこちで起こった。中には、執行部は手ぬるいと、あからさまに非難する者もいた。
「ちょっと待て。俺達が手ぬるいなら、貴様らは過激だ。武力というのは劇薬で、効果が現れるのも早いが副作用も強い。それに、下手に使えば取り返しがつかなくなる。ほかに打つべき手だてがあるのに、危険を冒すべきじゃない」
 と榊原は反論したが、返事はそれに数倍する怒号だった。
 それを聞いて、榊原の顔から一切の感情が消えた。榊原は気の短いほうではないが、いわれのない罵倒を受けて平然としていられるほど人間が出来ているわけでもない。懸命に抑えている怒りに口元を震わせながら、それでも一言も発することなく、出席者を睨み付ける。その視線を受けて、今までヒートアップしていた出席者たちがたじろいだ。殺気というには穏やか過ぎる感情を込めて相手を睨んでいた榊原だが、相手が口を噤んだのを確認すると、大きく息を吐いた。
(この程度で黙るくらいなら、最初から口を開くなよ、臆病者どもめ)
 そんな内心を押し隠し、榊原は軽く息を吐くと、ゆっくりと口を開く。
「じゃあ聞こう。そのような組織ができて、それをうまくコントロールできるだけの自信が貴様らにあるのか? 武力集団をきちんと管理できるのか? もしかしたら自分に牙をむくかもしれない集団を、暴走させずに手懐けられるのか?」
 榊原は攻撃方法を変えた。内心で、こういった論の進め方をしている自分に苛立っている。相手の感情に訴えるのではなく、理詰めで相手を納得させるというのが、榊原の議論の進め方である。恫喝まがいのこういった言葉など、普段であればまず使わない。
 この質問に、今まで榊原を非難していた学生はとまどったように顔を見合わせた。答えられる者はいなかった。ここにいるほぼすべての人間は、武力というものに対して大なり小なり嫌悪感や忌避感を抱いている。出来れば関わりたくないというのが本音だろう。
「私には、その自信があります。彼らを法で縛るのです」
 ただ一人、美保だけはためらう素振りすら見せないで答えた。どことなく勝ち誇っているようにも見える。
「ふーん、そうか。法でね」
 完全に馬鹿にした口調で、榊原は言った。
「そうか、そうか。なるほどね。では、再び聞こう。そこまで言うからには、学内規則の改正をも視野に入れているんだな? あれがうちの大学の法律、憲法みたいなものだからな」
 榊原は挑発するように、鼻で笑いながら美保にたずねた。姿勢も、それまでの背筋を伸ばしたものから、斜に構えて肘をテーブルに着くものに変わった。
(あいつ、虐殺モードになったな。高木もかわいそうに……)
 この光景を見て、榊原とつきあいの長い福原は思った。
 虐殺モード。高圧的な口調と豊富な知識を駆使して相手の論拠を残らずつぶして反論を封殺する、榊原の必殺技だ(もちろん他称である)。相手との関係を決定的に悪化させ、交渉で使えば間違いなく決裂を招くという副作用もあるので普段は絶対に使わない方法だが、榊原は美保の面子を完全に潰してでも、完膚無きまでに論破するつもりらしい。
「どうなんだ? 学内規則について、お前はどう考えてるんだ?」
 榊原の口調が冷たいものに変わる。
 学内規則は、この湘洋学園大学の学生が拘束されるものであり、榊原の言うとおり国家でいうところの憲法にあたる。とはいえ、罰則規定など無いに等しいから、半ば空文化している。確実に適用されているのは罰則規定のある留年・停学などに関する規定くらいであろうか。
「今の学内規則には、『学友会は固有の戦力を持ち、学園内で発生した騒動を鎮圧する権限を有する』などという字句は、どこをどう探しても存在しない。である以上、何らかの形で学内規則にそのことを盛り込まなくてはならない。そうするための改正案を作りたい。そうだな?」
「ええ。今までの生ぬるい規則を改正し、少しでも真っ当な物にしなければならないでしょう。それが何か?」
 美保は、それがどうしたと言わんばかりの口調で答えた。
「俺達学生に、そんな権限があると思ってるのか?」
 榊原は叩き付けるように言葉を発した。
「お前が覚えてるかどうか知らんが、学内規則第74条にこうある。『この規則は理事会、教授会、父兄会のいずれかから発議があり、この3つの会、それぞれの総員の3分の2以上の賛成を得て、はじめて改正案とされる』。同条の第二項には、『改正案は全学生による投票で、全学生の過半数の賛成を得て、効力を発揮する』」
 榊原は学内規則の一部を諳んじて、大げさに溜息を吐いた。
「理事会はともかくとして、ガチガチの保守派、守旧派が牛耳っている教授会や、そもそも戦力という言葉にさえ拒否反応を示す父兄会から、お前の言う『真っ当な』案、世間から見たら『好戦的な』案が出てくると思うか?」
 榊原の言葉に、美保は言葉を詰まらせた。
「そ、それは規則を改正すれば……」
「お前、俺の話を聞いてなかったのか? 俺達学生は、そういう発議は出来ねぇんだよ。そういうことを盛り込むための改正案すら出すことは出来ないんだ」
 榊原は呆れた、というより小馬鹿にした口調で答えた。
 実は、ある事実を知っていれば、榊原への反論は非常にたやすいものになり、逆に榊原を窮地に追い込むことも出来るはずだった。榊原としても一か八かの選択だったが、どうやらこの場面では賭に勝ったようだ。
「まぁ、このままじゃ話も進まないから、譲歩してやろう。教授会や父兄会が賛成して、学内規則を改正し、そういう言葉を盛り込んだとしよう。そして、大幅に譲歩して、学生による投票でも可決されて執行部隊が設立したと、そう仮定してみよう」
 榊原はここでいったん言葉を切った。言外に、いかに無茶なことを美保が言っているのか、ということを匂わせる。
「だが、考えてみろ。これは万が一にもあってはならないことだが、もし執行部隊とやらが学内規則を無視し、我々が彼らをコントロールできないで暴走したら、一体誰がそれを取り締まるんだ?」
 榊原は美保を睨み据えた。美保は顔を引きつらせるばかりで、何も答えられない。
「俺達は、さっきも言ったように、あくまで学生から集められた資金を再分配し、事務活動を行うための組織だ。学生たちに学内規則を守らせるために強権をふるう、そんな力なんてものは、まるっきり持っちゃいないんだ。である以上、執行部隊の暴走にはなんの手も打てない。しかも、指揮官の性格によっては、暴走する危険性は十分に考えられる。このことについてどう考えるんだ?」
 榊原自身はこの質問に対する答えを持っているが、その答えは公表できないものだった。もし公表できるのならば、彼はこう答えたろう。そうなったら仕方がない、気は進まないが、行動隊を総動員するしかない、と。今の彼は〈オジロワシ〉司令ではないため、彼自身が命令するわけにはいかないのだが。
「…………」
 美保は矢継ぎ早に繰り出される予想外の質問に、言葉を詰まらせた。
「まさかとは思うけど、そんな事全然考えてませんでした、とでも言うつもりじゃないだろうな? ええ?」
 榊原はじっと、彼女を見据える。言い逃れは許さない、そう宣言するかのような厳しい視線だった。
「……なぜ総務課長は危険性ばかりを強調するのですか?」
 美保は一分以上の沈黙を破って、低い声でたずねた。
「武力を持つということは、自分の体内に毒にきわめて近い劇薬を注射するようなものだからさ。危険性が皆無ということはないだろう?」
 榊原は美保の目を正面から見返した。
「人間っていうのは浅ましい生き物だ。権力や武力、いや、この際何でもいい、何かのはずみで巨大な力を持つと、それがはじめから自分の一部だったように錯覚して、後から見た場合、非常に愚かに見える行動をとる傾向がある。
 歴史を振り返ってみろ。そんな例は、世界各地に、それこそ数えられないくらい転がっている。俺達がその轍を踏まないと、誰が断言できる?」
 榊原の言葉に、美保は目を光らせた。
「……怖いんですか?」
 美保の言葉に、榊原はかすかに目を細めた。
「俺の聞き間違いだったら申し訳ないが、もしかして俺に対して、怖いのか、って聞いたのか?」
 榊原は、殊更ゆっくりと口を開く。
「ええ、そう言いました」
 美保は顔を上げて、榊原の顔を見た。
「やけにブレーキをかけるようなことばかり言うので、おかしいと思いました。総務課長は怖いんですね?」
 どことなく勝ち誇ったような美保を、榊原はさらに目を細くして見つめた。
(論理で勝てないから、人格攻撃に訴えてきたか。卑劣な奴だ。そっちがそうくるなら、こっちも相応の対応を取らせてもらうぞ)
 榊原は美保を論戦の相手ではなく、『敵』として捉えた。『敵』はありとあらゆる手段を使って殲滅しなければならない。過去の行動隊時代の経験から、榊原はそう断じた。
「対象が何かにもよるな。それがはっきりしないことには、貴様の質問には、こちらとしても何とも答えようがない」
 榊原の言葉は、先ほどよりもさらにゆっくりとしたものだった。加えて、美保への呼びかけが「お前」から「貴様」に変わった。この変化に気づいた人間はそれほど多くないようだったが、気づいてしまった福原はこっそりと溜息を吐いた。彼は思った。あの馬鹿、榊原を怒らせやがった。どうなっても知らんぞ。
「聞かせて貰おうか。俺がいったい何を怖がってるって?」
 榊原の声を聞いて、美保は自分が攻め方を間違えたことに気づいた。美保は弁論部の中でも屈指の論客と見なされている。だが、論戦の相手の感情について真剣に考えたことはなかった。勝てばいい。勝つためならば、どのような方法をとっても構わない。そう今までは考えてきたが、そのようなやり方では到底太刀打ちできない人間もこの世には存在するのだ。
「どうした? 言えないのか? ……言えるわけないよな。完全な憶測、いや自分の願望を基に相手の内心を勝手に想像し、人格を貶めて相手の口を閉ざそうとしただけなんだからな」
 榊原は言葉を続けた。
「議論で相手を屈服させるつもりなら、相手の論拠を潰すべきだ。俺はそう言ってきたはずだ。
 なのに貴様は、論拠を潰すのではなく、相手を貶めて精神的優位に立とうとした。
 貴様、議論ってものをなめてるんじゃないのか? それでも弁論部員か?」
 美保が言葉を無くしている間に、榊原は美保からあえて視線を外し、会議室内の全員を見回した。
「先ほどから提案されている案は、あくまで一部の人間が唱えているだけで、執行部の誰ともコンセンサスが取れていない。どうか冷静に事態の推移を見守っていただきたい。もちろん、意見があるなら遠慮無く伝えて欲しい」
 榊原はこの一言で、執行部隊設立に関する余計な口出しを抑えられると判断していた。積極的に執行部隊の設立を主張する美保を徹底的に論破してしまえば、同調する人間は榊原にこの話を持ち込むのを躊躇うだろう。その間に、執行部隊を必要としない情勢を作り上げてしまえばいい。彼はそう判断していた。
「失礼なことを申し上げました。それはお詫びします」
 美保は絞り出すように、謝罪の言葉を口にした。
「しかし、執行部隊は絶対に必要なものです。今回のようなことが二度と起こらないように……」
「順番が逆だって言ってるだろ。まだ分からないのか」
 榊原は美保の言葉を遮り、露骨に見下した視線で一瞥する。
「それとも理解したくないのか? 自分の論が通らない現実を受け入れたくないのか?
 そもそも、貴様はどうしてそんなに焦ってるんだ? まるで、すぐにでも組織を作らないと不都合があるみたいじゃないか。何か思惑でもあるのか?」
「そんな物、あるわけ無いじゃないですか」
 美保が、いかにも心外だと言わんばかりに反論する。
「じゃあ、なぜ急ぐんだ? 俺は貴様の口から明確な理由を聞いていない。『サークル同士の諍いを防ぐため、学友会独自の抑止力を持つ』だって? こんなもの、理由にならねぇんだよ。俺達の存在意義を真っ向から否定するようなご託を並べ立てて、執行部が納得するとでも思うのか?」
 榊原はいかにも呆れたと言わんばかりに、大きく溜息を吐いた。顔をしかめ、舌打ちしながら首を振る。
「他に使える手段は残されている。それでもなお強攻策を用いるべきだという主張を通すには、相手を納得させるそれ相応の理屈を作り上げないとならない。その努力を怠る人間を、人は怠け者って言うんだ。江藤、現状では貴様は怠け者だぞ」
「総務課長がなんと言おうが、執行部隊は必要なものです。一刻も早く設立させる必要があるんです。こんな議論なんかしている暇なんか無いんです!」
 美保の口調からは、冷静さが完全に失われている。榊原に論を展開するための根拠をほぼ潰された今となっては、大声で相手を威圧するしかない。しかし、彼女にとって不幸なことに、榊原は彼女程度で威圧できるような人間ではなかった。
「貴様はさっきからずっと、必要なものだと繰り返すが、俺にはその必要性がさっぱり理解できん。説明してもらおうか。言い出しっぺには、相手に説明し、納得させる義務がある。今までのは説明になっていなかったからな。とっくりと聞かせてもらうじゃないか、その必要性とやらを」
 榊原が殺気すら交えながら美保を問い詰める。
「ですから、不穏分子の蜂起に備えるために……」
「蜂起なんて起きねぇ、って俺はさっき言ったぞ」
 マナーに反する行為だと言うことは十分に理解した上で、榊原は美保の言葉を遮る。
「何かあってから準備しても遅いんです!」
「現状で、何かしらありそうな気配はないが? お前だけに見える危機とやらがあるとでも言うのか?」
「対応が後手に回るより、早いうちに手を打っておかないとならないでしょう?」
「何に対して手を打つつもりだ? 具体的に言ってもらおうか」
 榊原は美保を露骨に見下した目で一瞥すると、あえて彼女から目をそらし、会議出席者を見回した。
「さっきから何度も言っているが、学友会が手を打たなければならない対象は存在しない。いや、お前のこの危険な話こそ、何より手を打たなければならない対象だ」
 榊原に次々と主張の根拠を否定され、美保は顔を引きつらせた。何かを言おうとして口を開き掛けるものの、言葉が全く出てこない。ただ怒りと屈辱で身を震わせるだけだった。
「黙り込むなよ。俺は貴様に説明を求めてるんだ。何か言ってみろ」
 榊原に詰め寄られるが、美保は何も言えなかった。口に出したことを榊原に否定され続けてしまい、口を開くことに恐怖感すら覚えていた。身を震わせる感情ともどかしさで、美保の目から涙がこぼれた。
「泣いたところで、俺は主張を変えんぞ。女の武器を使うつもりなら、相手をよく選ぶんだな」
 榊原は感情のない目で美保をねめつける。榊原は、語源に忠実な意味でのフェミニストである。男女を問わず平等に機会は与えられるべきだと思っているが、要求されることを果たし得ない人間は男女を問わずスポイルされるべきだと思っている。今の彼にとって、言葉で彼を説得できない美保は無能者でしかなかった。
 美保は悔しげに顔を歪めると、
「執行部隊の設立について、議決を願います」
 と、福原に詰め寄った。
「おい、まだ話は終わってないぞ!」
 榊原が怒鳴るが、美保は構わず福原に詰め寄る。学生数名が、彼女につづいて福原の席へと近づいた。
「却下する。我々はまず、交渉によって解決を図るべきだ」
 福原は詰め寄ってくる人数の多さに気圧されたようだったが、提案を退けた。彼も好き好んで面倒事を抱え込むつもりはない。先ほどは美保の提案を考えてみようと言ったものの、榊原の言葉を聞いてその気はなくなったようだ。
「さっきからの総務課長とのやりとりを聞いていると、総務課長はまだ納得できていない。たった一人の学生をも納得させられない案を採決にかけるべきではない」
「横暴だ! 俺達の意見にも耳を傾けるべきだ!」
「少数意見を抹殺するな! 民主主義の原則に外れている!」
 そういった言葉が聞こえてくる。
(馬鹿か、貴様ら)
 榊原は心の中で罵り声を挙げた。もちろん、口には出さない。その代わり、福原に詰め寄る連中を、侮蔑の念を隠さずににらみつける。
 民主主義の根本原則は、最大多数の最大幸福だ。そのために、多数が賛同する案件を選び、実行に移していく。少数意見の尊重というのは、多数が賛同する意見では幸福を追求できないものをなだめるための手段に過ぎず、それ以上でも以下でもない。
(この程度の人間が大学生を名乗るんじゃねぇよ。こっちが恥ずかしい)
 榊原は内心苦々しく思っていたが、しかし、それを言葉にする気にはなれなかった。面倒くさかったからでもあるが、榊原はそんな理由で口を閉ざすような人間ではない。彼は美保の背後に、不気味な存在を感じていた。
(あいつ、まさかS研の構成員じゃねぇだろうな?)
 榊原は疑いを抱いた。
 榊原が「S研」と言ったのは、学園のサークルのひとつ、スパイ研究会である。スパイ研はこの大学の実権を握ろうと日々画策し、〈オジロワシ〉と対峙している。
 もし、美保がスパイ研の一員だとしたら、執行部隊という組織を作り上げ、それをそっくりスパイ研に渡してしまう可能性がある。そうなると、〈オジロワシ〉はとてつもない荷物を背負い込むことになる。しかも、後の世代にもこの重荷を背負わせることになりかねない。杞憂かもしれないが、最悪の事態は想定しておくにこしたことはない。
(あり得ない話じゃないな)
 榊原は先頭に立って執行部を弾劾する美保の顔を、しっかりと脳裏に焼き付けた。今の彼にはどうすることも出来ない。だが、彼にでも出来るやり方で調査を進めることは出来るはずだ。そう、榊原は思うことにした。

 混乱の中で、会合は終わった。結局、福原は彼らの申し立てを拒絶し通した。しかし、もし交渉によって事態の打開ができない場合、執行部隊の創設について前向きに考える、との一札も入れさせられた。
「榊原、面倒なことになったな」
 福原がポツリと言った。今や室内には福原と榊原の二人しか残っていない。先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返った会議室で、二人とも疲れ切った顔をしていた。
「ああ、そうだな」
 榊原は投げ遣りに答えた。
「責任重大だな」
「わかってる」
 ラグビー部とアメフト部の抗争については、榊原が仲介役として赴くことが決まっていた。骨法同好会とファイティングスピリット湘洋の抗争については、一応首藤が仲介役を務めることが決まっていたが、すでに骨法同好会自体がかなり弱体化しているため、あまり厄介なことにはならないだろう。その原因は、夏期休暇中に4番隊が骨法同好会会長の原田を拘束し会を骨抜きにしていたためであるが、そこまでは榊原は知らない。
「俺がしくじったら、あいつらのまがい物ができるのか。あまりいい気はしないな」
 榊原の言葉に、福原は沈痛な表情で頷いた。彼は〈オジロワシ〉隊員のことを「あいつら」と呼んだ。今の榊原は正式な隊員ではない。「元隊員」だ。元隊員である以上、「俺達」とは呼べない。榊原はそういうけじめはきっちりつける性分だった。
 隊員以外の者には存在をほぼ完全に秘匿されている〈オジロワシ〉だが、例外は存在する。教授や学友会会長は、その例外だった。もちろん福原は、〈オジロワシ〉の存在も、榊原がその司令だったことも知っている。しかし、そのことを広めようとはしない。彼らが影に隠れているから、余計な波風が立たないと充分にわかっているからだ。
「なあ、榊原。お前が反対したのは、〈オジロワシ〉と同じ組織ができるのをいやがったからか?」
 福原がたずねた。
「あのな。俺はそんなことは気にしないぜ」
 榊原は薄く笑って、首を振った。
「面倒は増えるかもしれないけどね。俺はそこまでケチな人間じゃない。むしろ、あいつらの業務を肩代わりしてくれるのなら、大歓迎だね」
「そうだったな。お前はそういうやつだった」
 福原は弱々しげに笑った。
「じゃあ、なぜあんなに反対したんだ?」
「お前も、一〇〇〇人以上の武装集団を直接まとめるような立場になったらわかるよ。その怖さってやつが」
 榊原は明確な返答をしなかった。どれだけ言葉を尽くして説明しても、その地位に就いたことのない人間にはわからないだろうと判断していた。大勢の人間、しかもその気になれば大学を支配下におさめることのできる武力と、大学内のほぼ全ての組織に張り巡らされた諜報網、そして大学の全ての部やサークルの予算をかき集めても足元にも及ばない巨額の予算をコントロールすることの苦しみは、実際に指揮を執らなければわからないだろう。
「良くわからんな」
 福原がこう答えたとしても、仕方がないだろう。榊原は苦笑した。
「じゃあ、もう少しわかりやすく言おうか。別の角度から見てみることにしよう。
 江藤案では、学内規則に執行部隊に関する記述が無いままに部隊だけを先に作ることにしている。いわば『令外官』として設立されることになるんだ。もちろん、将来はきちんと存在自体を、学内規則の中に明文化させるつもりだろうけどね」
 榊原は人差し指を立てて説明しだした。
「普通の事務関係の機関なら、『令外官』でもいいだろう。だが、執行部隊は武装集団だ。『令外官』であっては、いろいろと困ることが起こるんだよ」
「たとえば?」
「学内規則には、執行部隊の存在に関する記述が無い。変に知恵のついている奴だと、このことだけで問題を起こしたがる。ある組織の存在を記されていない規則に、その組織を罰する規定なんてあるわけ無いからな。
 おまけに、執行部隊の権限に関する規定も決めていない。これも、本当は細かいところまで詰めないといけない問題なんだが、江藤はそれもなおざりにしている。このままだと自分に与えられた権限を徹底的に拡大解釈して、とんでもないことをやりかねない。
 こういう武装集団には、まず自分たちの使命をとことんまで納得させることが大事だ。そうした上で責任を持たせる。その責任を果たすために規範を作り、それを守ることで規律を維持する。そうすることで団結力の強化を図り、目的を達成するんだ。責任を果たしたならそれをほめてやる。物質的・精神的充足感を与えるんだ。この繰り返しで、精強な集団が生まれるんだ」
「〈オジロワシ〉はそうだって言うのか?」
「まあな」
 榊原は軽く頷いた。〈オジロワシ〉の内部規則、特に行動隊の規則は事細かく決められており、自分たちの存在意義を冒頭で謳い、指揮系統を明確に示したうえで、それから逸脱する行為に対する罰則も明確に示されている。罰だけではなく、報賞についても特別に規則を作って示されている。
「ところが、江藤の案にある執行部隊には、自覚させるべき使命も、持たせるべき責任も、守らせるべき規律も存在しない。こんな連中が、一致団結して事に臨めるとも思えない」
 榊原は顔を微かにゆがめた。
「わが国の自衛隊もそうだが、こういう組織は所属機関の最高法規なりなんなりで存在を明確に規定して、そうしてから法の網で縛っておき、実際に部隊を編制するのは一番最後にしたほうがいい。そうすれば、我々としても執行部隊の蜂起に怯えることなく使えるし、向こうも働きやすくなる。このほうが、長期的に見れば有効な方法だと思うんだ。
 もっとも、あいつらにもそういった規定は無い。だから、司令時代の俺は連中が暴発しないように毎日気を遣っていたんだ。まぁ、罰則規定の厳しさとあいつら自身のモラルとで、何とか規律を保っている状態だけどね」
「なるほど」
 福原は大きくうなずいた。
「話を戻そう。
 実を言うと、俺は執行部隊の創設自体には賛成している」
 榊原の思わぬ言葉に、福原は驚きを隠せなかった。さっきまで言っていたことと矛盾するのではないか。そう言いたげだった。
「だが江藤と違うのは、まず学内規則の施行規則を改正して、そういったものの存在を認め、各種規則やその他諸々の規範などを定めた上で部隊を創ったほうがいいと思う点だ。江藤はこの順序を逆にしている。これでは危険だ。俺が反対したのは、そういう理由さ。料理で言えば、野菜にたっぷりとついている泥を落としてもいないのに、鍋にごろごろ入れるようなものだ。そんなんで旨い料理が出来るはずないだろ?」
 榊原はそう言うと、偽悪的に顔を歪めた。
「あいつは気づかなかったようだが、俺達は学内規則は変えられなくても、その施行規則は変えられるんだ。この権限を使わない手はないだろ」
 榊原は話を締めくくった。
「なるほどね。お前があれほど反対した理由が、よく分かったよ」
 福原は溜息を吐いた。家の建設にたとえると、榊原はまず基礎を固め、太い柱を立ててから屋根を乗せる方法をとっている。一方の美保は、まず屋根を細い柱の上に掛けようとしていると評せられるだろう。
「話は変わるけど、江藤め。この俺に突っかかってくるとは思わなかったな」
 榊原は話題を美保のことに転じた。
「弁論部の元部長で、全国学生ディベート大会優秀賞受賞者に、口で勝てるとは、普通思わないよな。いい度胸してるよ」
「でも、あいつはそれを知りつつ挑んできた。大した奴だよ。その勇気だけはほめてやる。言ってることの内容は滅茶苦茶だし、議論のふっかけ方はお世辞にもほめられたもんじゃないがな」
 先ほどの議論とは呼べない、一方的な面罵を思い出し、榊原が顔をしかめる。美保ももちろん、榊原にとっても後味の悪い結末になった。
「さっきはああ言ったけど、実を言うと、この交渉がまとまらなかった場合、最終的には圧力をかける必要があるんじゃないかと思っているんだ。まぁ、圧力って言っても、武力じゃなくて、もっと別のものでかけてみようと思っていたんだが」
「執行部で話したときに言ってたな、そういえば」
 福原が榊原を見た。榊原は何も言わずに頷いた。
「江藤の考えには、共感できる部分が多い。ただ、あいつは武力だけにこだわりすぎている。もう少し視野を広くして、感情的にならなければ、俺もあいつに協力できるんだが」
「俺の個人的な意見だけどね、お前と江藤には、あまりいがみ合って欲しくないんだ。議事進行に差し支えるからな」
「俺のほうでは、努力はしよう。だが、そのことは向こうにも言っておいてくれよ。噛みついてくるのは向こうなんだから」
 榊原は苦笑した。
「さて、と。俺は一杯やってから帰る。お前もどうだ? よかったら付き合わないか?」
 榊原は椅子から立ち上がりながら、福原のほうを向いた。
「悪いけど俺はまっすぐ帰るわ。なにかと忙しいんでね」
 福原は誘いを断ると、部屋から出ていった。
 榊原は会議室の鍵をかけながら、大きく溜め息をついた。とにかく、今日は疲れた。さっさと居酒屋で一杯やって、家に帰ってゆっくり休みたい心境だった。


管理人のコメント

 講和会議開催までの話し合いから、一転して「学友会固有の実戦部隊」などという剣呑な話題にシフトしてきた会議。さて、榊原はこの事態をどう捌くのでしょうか。
 
 
>この際学友会の権威を高めるためにも一〇〇人程度の部隊を編制すべきであり、これに逆らうサークルは残らず叩き潰してしまえ、と論じていた。

 冷静に考えなくとも「いや、その理屈はおかしい」という話になりそうなものですが、これに賛同する意見が結構多いあたり、サークル間抗争はよほど激しいようです。
 
 
>アジ演説に対し冷静で説得力のある反論を展開できる人間はきわめて稀である。

 冷静で説得力のある反論を展開できる人間が少ないというよりは、アジられてる状況下でそれを理解できる人が稀なんですよね。だいたい人間は声の大きい方に流されがちですから。原発問題なんかを見てると良くわかります。
 いったん場が冷えて冷静になれば、みんなアジ演説のおかしさには気づけるんですけどね。
 
 
>「私には、その自信があります。彼らを法で縛るのです」

 法による統制というのは実力部隊を運用する上での基本ですが、江藤は口ではこう言ってても、理解そのものはしてない様子。
 
 
>論理で勝てないから、人格攻撃に訴えてきたか。卑劣な奴だ。

 こういう手段に出る間は、江藤の発案による実戦部隊なんてのは危なくてしょうがないですね。
 
 
>あいつ、まさかS研の構成員じゃねぇだろうな?

 やっぱりこういう疑惑は出てきますね。


>実を言うと、俺は執行部隊の創設自体には賛成している

 おっと、意外な? 榊原の本音。影の実戦部隊を率いていた経験から、それが本来あるべき姿でない事を理解しているからこその発言でしょうね。
 
 
 一応、実戦部隊問題については一段落? しかし、この問題まだまだ尾を引きそうです。


戻る