オジロワシ血風録

第四章  拉致



10.ブリーフィング



 サークル棟の中にあるスパイ研外事局長室。その室内では、何かプラスチック製のものが壁に当たるような鈍い音がしていた。
「あのクソ野郎、この俺に喧嘩売ってるのか!?」
 山本は腹立ち紛れに、近くにあったプラスチック製の屑籠を蹴飛ばした。幸い中身は空だったので、ゴミが室内に散らばることはない。
「誰があんな指示出してったいうんだ! もっと締め上げないと意味がないっていうのに! それなのに、監視を緩めるとはどういうことだ!」
 山本は怨嗟の声を上げ続ける。
 山本が呪っている対象は、宇野である。宇野の取っている行動は、彼が送った督促状からはかけ離れたものだった。山本は、現状では唯一の捕虜である古内を徹底的に締め上げて情報を吐き出させるとともに、〈オジロワシ〉と交渉するように指示していた。古内の身柄と引き替えに、スパイ研に対する弾圧を止めるように、という交渉である。
 しかし、宇野はなぜか古内に対する監視を緩め、尋問も行っていないという。これでは、何のために古内を拉致したのかわからない。
(やっぱり、宇野にやらせたのは失敗だったか)
 山本は唇を噛みしめ、自分の人選が間違っていたことを認めざるをえなかった。慎重に過ぎ、いざというときの決断が遅いということは以前からわかっていたが、明確に指示されたことも守れないほどの愚物だったのか。こんな奴に重大な任務を任せてしまった自分の眼力のなさに、山本は歯噛みすることしきりだった。
 山本は、宇野が『督促状』に沿ってこのようなことをしている、とは知らない。督促状を運ばせた人間に間違いなく宇野に渡したのかと問いただしたが、彼はちゃんと本人に渡したと答えていた。督促状の文面を誰かが改竄したのかとも疑えたが、そのような証拠は見つからなかった。となると山本は、宇野が『督促状』の内容も理解できない愚物だと判断するしかなかった。
(このままだと、まずいな。俺が直接乗り込んで、口頭で指示してやるしかないのか)
 山本はそこまで考えたが、現実にはそのようなことはできなかった。彼は外事局長として多忙だったし、そもそも、宇野のアパートを訪ねたこともない。住所は知っているが、彼の住む湘南台――小田急湘南台駅のそばにあるアパートとは方向がまるで違う。大学からの帰りに訪ねるにしても時間がかかりすぎる。
 この期に及んでも、山本は作戦中止という判断はできなかった。いや、時間が経てば経つほど、作戦を中止するわけにはいかなくなったのだ。山本の異常なまでに高い自尊心が、作戦中止に伴う彼の威信低下という事態を受け入れられないのだ。今や山本は、古内を拘束しているだけで満足せざるを得ない状態になっている。
 山本はもう一度屑籠を蹴飛ばすと、舌打ちしながら椅子に腰を下ろした。宇野に一言言ってやらないと気が済まないが、先に述べた事情によりそれは難しい。
 気分がおさまらないまま、机の上にあったボトルからウィスキーをラッパ飲みする。ボトルの中が三分の一ほど無くなると、大きく息を吐いてボトルをゆっくりと机の上に置く。飲んでいるときに揮発したアルコールが引っかかったため、二、三回咳をする。
(……俺の見込み違いだったか)
 山本は思った。〈オジロワシ〉のことだ。隊員を拉致すれば少しは手加減するかと思っていたが、そんな様子は見られない。ちょうど、探索隊員らしい人間が何人も古内のアパート周辺を探っているという報告があったばかりだ。〈オジロワシ〉司令の榊原治はよほど腹の据わった人間らしい(榊原の失脚については、スパイ研は情報を掴んでいない)。
(連中は戦争も辞さず、っていう意識で俺たちと対峙している。そう考えざるを得ない。それに引き替え、こっちは戦争なんて本気で考えていない。早めに手を打たないとまずいことになるな……)
 山本は考え込んだ。
(こっちも戦争を前提とした態勢に切り替えていくか? となると、兵隊の頭数が問題になるな。せめて連中の一個番隊程度の戦力が欲しいところだな)
 〈オジロワシ〉行動隊が組織改編を行ったという情報は、スパイ研にも流れてきていた。詳細は不明な点が多いが、従来の四個番隊から六個番隊に増えたことくらいはわかった。行動隊の構成人数が大きく変わっていないのであれば、一個番隊の兵員は七〇人には届かないだろう。強制執行班もそれくらいの人数は欲しいところだった。
(藤田のことだから、強制執行班の方はうまくやるだろう。となると問題は、やっぱり宇野か……)
 山本は再び渋面になる。やっとの事で押さえた苛立ちが、再び胸中で荒れ狂う。
(もう知らん。あいつが破滅しようが、知ったことか。何か言ってきても、知らぬ存ぜぬで通してやる。無能な人間は、俺の部下には必要ないんだ)
 山本は、宇野を切り捨てることにした。今回のことは宇野が勝手に企んだこと。要請があったので支援したが、成算に乏しいと判断したため最低限度にとどめた。宇野の暴走なのだから、山本に責任はない。監督責任を問われるかもしれないが、その場合には外事局の特殊性を持ち出せば逃げ切れる。
 わずかな間に以上のような筋書きを書き終わると、山本は藤田に連絡を取った。
 切り捨てた人間のことは、もう脳裏から完全に消え去っていた。


 八月六日。臨時の隊長級会議が開かれた。午後から行動隊の全体演習が始まるので、その前に会議を終わらせなければならない。そのため、会議の開催は午前九時とされたが、会議開始三〇分前には全員が集まっていた。
 会議は石川の報告により始まった。
「別班の調査により、古内の居場所が特定された。詳しくは、すでに配布してある別紙に記載されているとおりだ」
 六人の隊長は配られている書類に目を通した。宇野のアパートとして記載されている住所は、寒川区の外れだった。
「ほとんど海老名だな、こりゃ」
 寒川区のアパートに住んでいる猿渡が、誰にともなく呟いた。
「で、肝心の古内だが……」
 石川はホワイトボードに簡単な地図を描いた。
「ちょっと図が汚いが、勘弁してくれ。生意気にも、宇野は2LDKの部屋に住んでいる。アパートっていうより、小さめのマンションって感じの部屋だな」
 石川は指示棒を取り出して、ホワイトボード上の図を指した。
 石川の説明を、六人の隊長は真剣な表情で聞いている。誰が作戦を担当するかまだわからないのだ。自分ならどういうやり方で作戦を進めていくかを考えなければならないのだから、真剣になるのは当然だった。
「アパートには、部屋は四つ。宇野の部屋は、一階の左側だ。隣は空き部屋で、上も一部屋は開いてるらしい。
 この図は、一階のもう一部屋のものだ。間取りはそう変わらないって不動産屋が言っていたので、それを信じることにする。
 見ての通り、玄関から廊下が延びていて、その廊下をまっすぐいくと、十畳ほどのリビングにぶつかる。リビングには宇野のほか、三、四人はいるだろうとのことだ。突入の際は一個小隊程度を割いてリビングの制圧にかかること。このとき、一人も逃がさないように注意しろ。なぜなら……」
 石川は指示棒でキッチンの隣の空間を指した。マグネットが一つ置かれている。
「古内がいるのはここ、キッチンの奥にある、この四畳半の小部屋だからだ。一人でも逃がした場合、そいつが古内を人質に取る危険がある。その危険を排除するためにも、なるべく速やかに古内を確保する必要がある」
 石川の説明を聞いて、六人の隊長は顔を見合わせた。
「今までのところで、何か質問は?」
 石川の問いかけに、六人の番隊隊長全員の手が上がった。石川はたまたま目があった山田を指名した。
「古内が監禁されてる部屋に窓があるようだけど、そこからは入れないか?」
 山田の質問に、猿渡と石崎が大きく頷く。どうやら同じことを質問しようとしたらしい。一方、大川、柳生、佐伯の三人は、そういった視点もあったかという顔をしていた。
「デルタ?」
「そいつは難しいな」
 堀内が山田の疑問に答えた。彼は出席者の中で唯一宇野のアパートをその目で見て、中にいる古内とコンタクトを取った人間だ。彼の言葉には、実際に己の目で見た者のみが持つ重みがあった。
「小さいし、いつもは鍵がかかっているみたいだ。俺が見に行ったときも、鍵がかかってたしな。高さも厄介だ。ここから入るには脚立がいるな。肩車してもらうっていう手もあるが、あまり勧められない。ガラスを破れば人一人くらいは通れるだろうけど、迅速さを要求される今回の作戦じゃ、とても使えたもんじゃない。
 それに、ガラスを破れば大きな音がする。派手な音を立てれば、同じアパートの人間が出てくることにもなりかねない。そうなれば、住居不法侵入の現行犯だ。警察に通報されて、手が後ろに回るぜ」
 堀内の言葉を聞いて、山田と猿渡は頭を抱え、大川と石崎は天を仰ぎ、柳生は渋面になって顎をなで、佐伯は溜息を吐きながらかぶりを振り続けた。迅速、かつ隠密裡に作戦を決行しなければならないのだが、そこまでの訓練は彼らは受けていない。彼らは特殊部隊員ではないのだ。
「与作は何を聞こうとしたんだ?」
「キッチンの窓の大きさが気になるんだ。あそこからなら人も出入りできるんじゃないかと思ってな」
 石川が促すと、大川が発言する。それを聞いて、残りの五人も嘆くのを中断して地図に注目する。
「こっちはそれなりに大きい、窓っていうよりもガラス付きのドアみたいなものだから、人の出入りもスムーズにできる。外からも開けられるから、ガラスを破る必要もない。……もっとも、鍵がかかってたらアウトだけどな」
「迅速さと静粛さのどっちかを選ばないとならないなら、今回は迅速さを優先すべきだ。一隊はキッチンの窓から侵入させるべきだろう。そのまままっすぐ古内のいる部屋に向かい、古内を確保して速やかに撤収するのがいい。もちろん、できるだけ静粛に、な」
「博士の意見に賛成だ。ただ、一個小隊を丸ごとここから進入させるのは難しいんじゃないか? 時間がかかりすぎる。時間との兼ね合いを考えると、突入できるのは一個分隊か、せいぜい二個分隊ってところだな。残りのヤツは、ここの警戒員に充てるべきだろう」
 堀内の言葉を聞いて、山田と猿渡が意見を述べる。
「細かい部分は、作戦指揮官に任せる。
 さっき博士が言ったとおり、この作戦は迅速に行わなければならず、必然的に時間との勝負になる。誰に見られるかわからないからな。目撃される前に古内を確保して、撤収する必要がある」
 石川の説明が終わると、礼が口を開いた。
「今回の作戦には4番隊を投入する。虎徹に実戦経験を積ませるというのが主な理由だけど、S研の牽制にも戦力を割かないとならないからね」
 すでに一回目の訓練検閲は終わっている。その結果、3番隊と5番隊以外は、作戦遂行可能と判断されていた。
 礼はその中から、4番隊を今回使うことに決めた。スパイ研が何をしでかすかわからない状況下で、投入可能戦力のすべてを割くわけにはいかない。スパイ研が一つの工作にかかりきりになっているとは思えないからだ。それに対処するためにも、精鋭は手元に置いておきたい。
 つまり、礼は4番隊を、作戦遂行は可能だが精鋭ではないと見なしている。もちろん、礼はそんな内心を誰にも悟らせなかったが。
「教授が言ったとおり、今回の作戦は時間との勝負になる。虎徹、このことはよく頭に入れておいて」
「わかった」
 礼の言葉に、柳生は頷いた。番隊隊長としてはじめて指揮を執る緊張に、顔が少し強張っていた。
「では、最も重要なこと――展開手段と撤収方法について説明する」
 石川はホワイトボードに寒川区の地図を張り、手元の資料を見ながら説明を始めた。
「作戦発動時刻を、仮にX時と呼称する。
 突入部隊はピックアップ隊の車両に分乗して、X時−20分までにA地点に集結する。ここで突入部隊を下車させたあと、ピックアップ隊はX時+5分までにB地点に移動し、ここでX時+25分まで各自分散して待機する」
 石川はAと書かれた地点――宇野のアパートから二キロほど離れた地点から、B地点――宇野のアパートから半径五〇メートルの円内へと指示棒を動かした。
「細部については突入部隊長所定とするが、古内を確保した隊は、最優先でピックアップ隊に預けるように。そのほかの者も、目標を達成したら、順次ピックアップ隊の車両に乗車する。往きと同じ車両に乗れる訳じゃないってことを周知徹底させておけよ」
「移動時間を考えると、発動から二〇分で作戦を完了させないといけないってわけか」
 柳生が言う。緊張で、少し表情が硬くなっている。
「そうなるな。X時+25分で、ピックアップ隊はすべて撤収する予定になっているからな」
「そいつは厳しいぞ。時間との勝負だってのはわかるが、余裕がなさ過ぎる。もう少し余裕を持たせてくれないか?」
 柳生が注文をつける。実戦とは、突発事態の連続だ。普段であれば見過ごしてしまうような要因で計画が狂うことも充分に考えられる。あまりに時間に余裕のない作戦は失敗しやすいということを体験的に知っている柳生は、作戦の再考を求めていた。
「作戦発動から二〇分というのは、不審をもたれずに作戦を行える、ぎりぎりの時間だ。すまんが、これ以上は延ばせそうにない」
 石川がすまなそうな表情で言う。
「何とかするしかないってか。……わかった。やってみる」
 柳生は、踏ん切りをつけるように息を吐いた。
「万が一回収できなかった者がいた場合には、自力で秘密部屋まで帰還させるように示達しておくこと。
 作戦の終了予定時刻は、X時+5時間。それまでにここに帰り着けなかった者がいた場合、その隊員を脱走兵と認定し、処分は別班にゆだねることとする。そう伝えておけ」
 石川の厳しい言葉は、規律というものを重んじる彼らしい言葉であった。ただ、宇野のアパートから湘洋学園大学までは、普通に歩いても三時間ほどで着けるし、さらに一時間以上の余裕を取ってある。これで帰ってこない者は脱走したととられても仕方ないだろう。
「ピックアップには、私有車両を持つ隊員が、所属する部署にかかわらずあたる。それでも足りない場合には、レンタカーを何台か回すことも考えている。各自は部下隊員の私有車両保有状況とその車両に乗れる人数を調査し、本日一六〇〇時までに俺に報告すること」
「行動隊員に関しては、本日二〇〇〇時までに私に報告せよ」
 礼が口を挟んだ。行動隊はこのあと全体演習があるため、一六時までに調査が終わらないと思い、礼が独断で付け加えたのだ。石川は礼を横目でちらりと見たが、何も言わず席に着いた。
「しかし、学外でのオペレーションははじめての経験だな」
 山田が言った。
 彼の言うとおり、〈オジロワシ〉は創設されてこのかた、大学の敷地の外で作戦を実行したことはない。休業中にトラブルが起こることはなかったし、なにより、このような作戦を実行した場合、泥棒や強盗に間違われかねない。作戦を決行して成功したはいいが、警察に逮捕されてしまっては元も子もない。先ほど堀内が言った『後ろに手が回る』というのは、冗談でも何でもなかった。
 言ってみれば、今回の作戦は異例づくしの作戦だった。隊員の奪回作戦はこれまでにも例があったが、司令はおらず、作戦の指揮を執るのは新任の隊長であり、作戦の舞台となるのは大学の外なのである。今までに前例のない作戦だった。
「しょうがないさ。阿呆どもはこちらの事情なんてお構いなしだからな」
 猿渡はうそぶいた。『阿呆ども』とは、言うまでもないが、スパイ件の上層部のことだ。
「質問は?」
 誰も何も言わなかった。後のことはなんとかできる自信が柳生にはあったし、彼以外の五人にも疑問点はなかった。
「では、この作戦を『カウントダウン』と名付ける。作戦名どおり、時間との戦いであることを、よく肝に銘じるように。虎徹、X時は二二〇〇時だけど、何か問題はあるかしら?」
 礼の質問に、柳生は首を振った。指揮官としてまだ経験の浅い彼にとっては、礼の提案に異論を唱えることなどできなかった。
「じゃあ、X時は二二〇〇時ということで。それ以外の細部は任せたわ」
「ああ」
 柳生の返事は短かったが、やる気は十分に伝わってきた。
「では、これでブリーフィングを終える。それと、行動隊番隊隊長は一二〇〇時までに〈レッド・ロブスター〉のフィールドに各小隊長を集めておくように。以上、行動隊以外は解散してよし」
 礼の言葉で、番隊隊長の六人以外は静かに会議室を出ていった。彼らはいずれも、貴重な夏期休暇を台無しにしたスパイ研エージェントに怒りを抱いていた。その怒りが、表情となってあらわれていた。
 行動隊員以外の隊員が会議室から退出したのを確認すると、
「これより、全体演習の手順について説明する」
 と、礼が厳かに告げた。


 午後九時を過ぎた頃、黒田美樹の携帯が鳴った。美樹が携帯のディスプレイを確認すると、発信者は交際相手の加納だった。加納とは〈オジロワシ〉の同僚でもある。もっとも、美樹はまだ入隊して日が浅いので、今は教育隊第二小隊付きである。
「もしもし、勇くん?」
『ああ、美樹』
 加納の声には、疲労が強く感じられた。
「どうしたの? 疲れてるの?」
『ああ、演習が終わったばかりだからな』
「そんなにきついの?」
『いや、一つ一つはそんなんでもないんだけど、数重ねるとな』
「そうなんだ……」
 美樹は溜息混じりに応じた。彼女も行動隊志望だが、加納の声を聞いているとその決心も鈍ってしまいそうだ。
「ところで、こんな時間にどうしたの?」
 美樹は疑問に思ったことをたずねた。常識から考えて、遅い時間の電話というのは好ましくない。加納はそれほど常識知らずではないと思っていただけに、美樹には不審の念が強かった。
『ああ……明日の夜、行けなくなった』
 加納の声が聞こえてくる。
「え? どうして?」
『仕事だ』
 加納の答えは短いものだった。
「仕事?」
『明日の夜、出撃なんだよ。だから、明日の予定はキャンセル。そう言いたくて』
「え……」
 加納の突然の言葉に、美樹は言葉を失っていた。
「出撃って、あの、どこに?」
『部外者のお前には言えないな』
 加納の言葉はにべもない。その素っ気ない言葉に、思わず美樹はむっとする。
「部外者って、私も隊員の一人よ?」
『でも、行動隊員じゃないだろ? 今のお前は、教育隊員に過ぎないんだから』
 美樹はきつい言葉で反論するが、加納の言葉に何も言えなくなった。加納の言うとおりだからだ。
『本当は、こうしてお前に電話をするのも御法度なんだ。でも、やっぱり、一応謝っておこうと思って。あまり長い時間は話せないけどさ』
 加納の言葉を聞いた美樹は不安になった。加納は帰ってこないのではないか。加納の口調は穏やかなものだったが、彼が無事に帰ってくるかどうかという危惧を美樹は感じていた。
「危ないことはしないよね?」
 美樹はすがりつくような声で、加納に言った。
 美樹の言葉を聞いた加納は、しばらく黙っていた。そして、大きな溜息を一つ吐くと、
『あのな、美樹。俺達の仕事は、いつも危険と隣り合わせなんだぜ。お前もわかるだろ? 教育隊であれこれ勉強してるんだから』
 と、呆れたような口調で答えた。
「それは、わかってるけど」
 美樹は言い返した。まだ教育隊に入ってから二週間と経ってはいないが、行動隊の任務がどういうものかは知っている。
『俺も仕事中に鎖骨を折ったことがあったし、肩を脱臼しかけたこともある。打撲や擦り傷なんて数え切れないほどだ。そういう所なんだよ、ここは』
「……ホント?」
『俺っていう人間は、こんな話を冗談でできる人間だと思うか?』
「……思わない」
 美樹は言った。加納は普段は深刻な話などしない人間だ。自分の怪我を偽って話すことなど、考えられない。
「でも、骨法のほうでは、平気な顔してたじゃない」
『あのときは、疲れただの、今日は指導に専念するだの言ってごまかした。それでごまかせるんだから、アホ会長さまさまだな』
 加納の口調に侮蔑の感情が混じる。骨法同好会がスパイ研の影響会に入ってからというもの、加納は親しい人間が大学を追われていくのを見てきた。そうしたことで崩れる気持ちのバランスを、骨法同好会会長の原口を憎むことで保っている。それを知っているだけに、美樹は加納の言葉をたしなめることはできなかった。
『まぁ、そこまで自分を追い込むかどうかは、自分次第だけどな。俺はやったけど、ガード……ああ、木村はやってないし』
「そうなの?」
『そうだよ。まぁ、行動隊員にもいろいろいるってことだな』
 木村の兵科は歩兵であり、加納の兵科は白兵であるということを、加納は意図的にぼかした。
「じゃあ、勇くんは真面目なのね」
 美樹はぽつりと呟いた。
『いや、どうかな? 俺も結構いい加減な人間だからな』
「そっか。そうだよね。真面目だったらこの前のデートであんなことしないよね」
『あ、なんだよ、その言いぐさ。やれって言ったのは美樹だろ?』
 電話の向こうで加納が苦笑いしている。


 ところで。
 加納が美樹に電話をかけていたのをのぞき見している人間がいた。もちろん、加納は気づいていない。
「いやぁ、若いっていいねぇ」
「お前は何歳なんだ?」
 のぞき見をしていた柳生の言葉に、そばにいた第二小隊長の『ゴールド』大石良徳がツッコミを入れる。
「正真正銘二三歳だが、何か?」
 どことなく誇らしげに、柳生は言う。
 柳生は二年遅れで大学に入学している。志望校に落ちたからではない。高校卒業と同時に武者修行と称して日本全国、主に九州地方を旅し、剣の修行に明け暮れたのだ。その甲斐あってか、高校時代から少しは名の知られた剣士だった彼の剣は更に研ぎ澄まされ、師匠でもある父からは自分専用の刀まで授けられている。
「嘘だろ。さっきの言葉を口に出すってことは、どう考えても三〇を超えてないとおかしいぜ」
「……お前には洒落ってものがわからねぇのか?」
「わからんし、わかりたくもないな。特にお前の洒落は」
 冷たい大石の返事に、柳生は大げさに溜息を吐いてみせた。
「それはともかくとして……どうする?」
「どうするって、何を?」
「行者だよ。本来なら厳罰ものだぜ」
 大石が言う。
 作戦のことを事前に漏らすのは、行動隊隊規に違反している。隊規違反を犯した隊員への罰には厳重注意から減俸・降格まであるが、今回の加納の場合、よくて戒告、悪くて減俸一〇分の五である。この罰は直属の上司が下すことになっている。今度の場合であれば、柳生が罰を与えなければならない。
「ほっとこう。相手が黒田なら、別にいいよ」
「おいおい、示しつかねぇぞ」
「いいんだよ。人のプライベートについてグジグジ言うのは好きじゃないからな。それに、万が一この情報が漏れたとしても、ろくな対応策はとれないだろ。時間がないからな。おまけに間者もあぶり出せる。一挙両得ってヤツ?」
「なぜに疑問形だ」
 大石の辛辣な指摘に、柳生は顔をしかめた。
「……お前はツッコミしかできんのか?」
「ツッコまれるようなことを言う方が悪い」
 柳生はその返答を聞いて、かぶりを振って溜息を吐いた。
「愛がねぇよ、お前のツッコミには」
 そんな柳生の言葉に、大石はまるで正気を疑うかのように柳生の顔をじろじろと見る。
「……なんだ、その視線は」
「お前は男から愛がほしいのか?」
「……御免被る」
 柳生はそう言うと、足音を忍ばせてその場をあとにした。 「……なんで俺は、男相手にこんな会話をしないとならんのだ」
 小声で文句を言いながら、大石もそれに続いた。


#最後の加納と美樹の会話、もっと短くする予定だったのに……なんで頭の悪い会話になるかな_| ̄|○
#ブリーフィングの時のシリアスな空気は、いったいどこに行ったんだ……_| ̄|○


管理人のコメント
オジロワシが誘拐された古内を見つけていた頃、スパイ研はと言いますと……

>山本は腹立ち紛れに、近くにあったプラスチック製の屑籠を蹴飛ばした。幸い中身は空だったので、ゴミが室内に散らばることはない。

 山本が荒れていました。骨法同好会の件でオジロワシに一矢報いたあとだけに、今回の試みが上手く行かないのに焦っているようですね。


>(もう知らん。あいつが破滅しようが、知ったことか。何か言ってきても、知らぬ存ぜぬで通してやる。無能な人間は、俺の部下には必要ないんだ)

 スパイ研内での保身はそれでいいとしても、オジロワシは今後徹底的に山本をマークしそうですね。


>「ちょっと図が汚いが、勘弁してくれ。生意気にも、宇野は2LDKの部屋に住んでいる。アパートっていうより、小さめのマンションって感じの部屋だな」

 生意気(笑)。確かに大学生の一人暮らし用としてはなかなか贅沢な家です。


>「ピックアップには、私有車両を持つ隊員が、所属する部署にかかわらずあたる。それでも足りない場合には、レンタカーを何台か回すことも考えている。各自は部下隊員の私有車両保有状況とその車両に乗れる人数を調査し、本日一六〇〇時までに俺に報告すること」

 うーむ、見られて通報されたときの事を考えると、私有車やレンタカーはまずいような気もしますが。


>「そっか。そうだよね。真面目だったらこの前のデートであんなことしないよね」
>『あ、なんだよ、その言いぐさ。やれって言ったのは美樹だろ?』


 うーむ、何したんだか、この二人。


 次回はおそらく突入作戦になると思われます。戦力では圧倒的ながら、不慣れな学外の、しかも突入作戦を無事に遂行できるでしょうか?


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