オジロワシ血風録

第四章  拉致



9.威力偵察



 スパイ研外事局長の山本は、宇野五郎から送られてきた報告書を見ながら、苦り切った表情になっていた。
「使えねぇな。もう少しやりようってもんがあるだろうに」
 山本は舌打ちした。苛立たしげにウィスキーをラッパ飲みする。
(言われたことしかできない奴は、足手まといでしかないんだがな。しかも、その言われたことも満足にできないときてる)
 舌打ちを繰り返しながら、山本は椅子から立ち上がり、外事局長室の中を歩き回る。
 山本を苛立たせているのは、宇野の活動の不活発さにある。
 〈オジロワシ〉隊員を拉致し、その戦意を殺ぐという目的で山本はこの作戦を実行に移したが、今のところ拉致できた〈オジロワシ〉隊員は一人だけ。しかも、ようやく部隊配属されたばかりの新米隊員を拉致できただけだった。どうやら宇野はそれで満足してしまったらしく、それ以上の成果は上がっていない。事前の計画では、行動隊・探索隊から一〇人ほどを拉致して、どこかに監禁しておくということになっていたのだが、その辺りを宇野は忘却してしまったらしい。
 〈オジロワシ〉に声明を送る、ということも、今の時点ではなされていない。これでは自らの意志を伝えることができず、調査によって真相を知った〈オジロワシ〉隊員の戦意を煽りかねない。
 山本の構想としては、立て続けに六人ほど拉致したあと〈オジロワシ〉に声明を出し、警戒を強めた彼らの裏をかくように、二、三人ほど拉致すれば、それで〈オジロワシ〉側の士気を崩壊に追い込めるはずであった。現状はこの構想から大きく逸脱、いや、構想以前の段階にとどまっている。
(今回の一件、やっぱり藤田にやらせるべきだったか)
 山本は人選を誤ったと後悔していた。
 先に骨法同好会との同盟締結を成功させた立役者である藤田は、今回の作戦には参加していない。山本は藤田に、外事局が握っているスパイ研の実戦部隊である強制執行班を増員するため、各局から出向可能な人員を調査させる役を任せていた。来年度には外事局長に据えるつもり――もちろん、山本が会長になることが前提だ――の藤田の顔をできるだけ広く売っておくために、山本はこの作業をさせていたのだが、代わりに起用した宇野が中途半端なことしかしていないのでは、顔を売らせるのは別の機会にして、藤田に任せるべきだったという山本の後悔にも納得ができる。
 とはいえ、今更藤田を起用するわけにもいかない。ここで藤田と宇野の役割を交換したところで、中途半端なプロジェクトが二つになるだけで、虻蜂取らずになるのは目に見えている。〈オジロワシ〉側が警戒しているのは間違いないので、いくら藤田でもこれ以上隊員を拉致できるとは思えない。
(思い切りケツひっぱたくしかないか……いざとなったら、あいつらは切り捨てるとして、その下準備もしておくとしよう)
 山本はしばらく躊躇したあと決心した。作戦をゆだねた人間を督促するのは彼の流儀に反したが、背に腹は代えられない。このまま現状でだらだらと時間を過ごすと、〈オジロワシ〉行動隊の戦意を徒に煽り立て、なおかつスパイ研を討伐する絶好の口実を与えるということになり、作戦を発動しなかった方がよかった、と言われかねない。そうなると、山本の権威が失墜するのは目に見えている。野心的な彼にとって、許されないことであった。
 山本は自らペンを取って督促状の文面を書き終わると、外事局長付の会員を呼び、宇野に直接手渡すように命じた。暗号に組んで渡すよりも直接手渡した方が早いし、暗号化することで失われてしまう山本の怒りや苛立ちをストレートに伝えられるからだ。

 山本に呼ばれ、宇野宛の督促状を受け取った外事局員だったが、外事局長室を出たところで、内務次長の新藤英輔に呼び止められた。
「何してるんだ?」
「外事局長からこれを宇野さんに渡すようにと」
 外事局員は封筒を目の前にかざした。それを見た新藤はなるほどと頷き、
「何が書いてあるんだろ」
 と呟いた。
「宇野さんをけちょんけちょんにやっつける内容だったりして。あの人、鈍くさいところがありますからねぇ」
「違いない」
 新藤は声を立てて笑った。宇野の「鈍くささ」、言い換えれば慎重すぎる姿勢は、外事局の中でも有名だった。もちろん、あまりいい意味ではない。
「ま、気をつけて行けよ。狗どもがどこで見ているかわからないからな」
 新藤の言葉に、外事局員は言われなくてもと応じると、新藤とすれ違い、プレハブから出て行く。
 新藤はそのまま内務局に顔を出すと、奥まったところにある自分の席に着き、
「……これがねぇ」
 と封筒をぼんやりと見つめていた。すれ違ったときに局員の手から掏りとり、代わりの文書を渡したのだ。
「……あとで渡しておくか」
 新藤は誰にともなく言うと、そのまま封筒を机の引き出しにしまった。

 宇野は、山本からの『督促状』の文面にとまどっていた。
「何だ、これ? あいつ、いったいどういうつもりだ?」
 宇野は理解しかねるというように何度も『督促状』を眺めるが、そこに書いてあることが変わるわけもない。
『捕らえた奴は、あまり手荒に扱うな。変に逆恨みされると、あとあと面倒なことになりかねない。かといって、監視を止めてはいけない。尋問も、相手の立場が立場なので執拗に行う必要はない』
 これが山本の『督促状』である。山本の性格や今までに受けた命令から言っても、あまりにも寛大なものだった。と同時に、非常に抽象的であった。山本に連絡して確認をとりたいのだが、山本からはこの一件が始まる前に、不用意に連絡するなと釘を刺されているため、確認をとるのもはばかられる。
「びびったんじゃねぇの? 狗どもから何か変なちょっかい出されてヘタレたとしか考えられん」
「あの、傲岸不遜を絵に描いたような男が、か? いくら何でも、それはないだろ」
 『督促状』を見た男の言葉を、宇野は否定する。さすがに足かけ三年も付き合いがあれば、相手の性格もだいたいわかる。
「狗どもって、いったい誰のことなんだ?」
 もう一人の男が言う。スパイ研の会員には体育会系の人間は少なく、この場にいる者のうち四人もやせていたが、彼だけはがっしりとした体型で、眼光も鋭い。何らかの武術を身につけているのは間違いない。
「部外者であるお前には、関係のないことだ」
「おいおい、ここまで巻き込んでおいて、今更他人扱いかよ。もう俺たちは一蓮托生だろう?」
 宇野は迷惑そうに突っぱねるが、武道家風の男は食い下がる。宇野は「何が一蓮托生だ」と顔をしかめると、仕方がないとばかりに説明する。
「今回連れてきた奴のバックにいる組織だよ。俺たちの宿敵で、これまで何度も俺たちのやろうとしてきたことを邪魔してきた奴らだ」
 さすがに固有名詞は出さずに説明したが、武道家はそれでは納得ができなかったらしい。
「お前さん達にとっての宿敵なら、同盟者である俺にとっても宿敵ってことになるよな。何だったら、そいつらを締め上げてきてやろうか?」
(誰だよ、こんな脳味噌が筋肉でできてる奴を引っ張り込んだのは!?)
 宇野は頭を抱えた。
 〈オジロワシ〉行動隊が、この武道家一人で蹴散らせるようなヤワな組織なら、何の苦労もいらないのだ。そもそも、〈オジロワシ〉という組織が軟弱な組織なら、わざわざ隊員の拉致なんてしなくても、適当に威嚇していればそれだけで身動きがとれなくなるだろう。
(ある意味、俺たちはこいつに踊らされた訳か)
 宇野は、腕が鳴るとばかりに勢い込んでいる武道家を見ながら、溜息を吐いた。
 武道家の名前は、原口良太。スパイ研と同盟関係にある骨法同好会会長だ。
 原口は元々、拉致メンバーに加わっていたわけではない。宇野が今回の一件を起こすと聞いて、手伝わせてくれと名乗りを上げたのだ。宇野としてはありがた迷惑な話ではあったが、山本から好きにさせてやれと言われたのでは邪険にもできない。結局、「拉致には手を出さない代わりに、見張り役を頼む」ということで同行させていた。
 今となっては、宇野は原口をメンバーに加えたことを後悔している。見張りはちゃんとやっているのだが、そのほかのこと――尋問などには加わろうとはしない。事前の約束と違うと、頑として受け入れようとはしない。
 それでも宇野が原口を山本のところに送り返さないのは、原口が山本にあること無いこと吹き込むのをおそれたからである。この場合、原口が実際にそうするかどうかは関係ない。宇野が、原口はそうするのではないかと疑っているため、原口は宇野のアパートの一室に泊まり込んでいる。
(早く終わってくれないかな。もうこいつと一緒にいるのはうんざりなんだが)
 宇野はそう思うのだが、山本から解放の許可が下りないため、自然と原口との共同生活は続いている。どうやら、もうしばらくこのままの状態が続くようだった。
「とにかく、山本がこう言ってきたんだ。指示通りにしよう」
 宇野はそう宣言すると、尋問に向かった。『指示』通りに、少しは手を抜こうと決めながら。


 石川と工藤の非公式な会談――石川が酔い潰されるというおまけ付きではあったが――のあと、石川は礼に連絡して、行動隊員による情報収集の中止と、顧問会議諜報班による情報収集を提案した。
 顧問会議に命令できるのは司令、もしくは四隊長会議の議長だけである。石川から行動隊員による情報収集の拙さについて報告を受けていた礼は石川の提案を快諾、すぐに行動隊員に対し情報収集活動を止めて訓練を行うように、工藤に対して情報収集活動を行うようにという指示がそれぞれ下った。
 突然活動を打ち切るように指示された行動隊員からは愚痴混じりの非難が殺到したが、礼はそれに対して何の返答もせず、代わりにこの作戦が終了したら一週間の休暇とわずかではあるが臨時のボーナスを追加で与えると確約した。非難は一気になりを潜め、六人の隊長は我先にと訓練メニューを提出してきた。現金なものである。

「行動方針は去年と同じだ」
 実際の活動前の簡単な打ち合わせの席で、工藤は諜報班の幹部たちにこう示達した。ここにいる人間も含めて、諜報班に属する隊員は全員が探索隊の出身である。だからこそ、こういった簡単な言葉だけで意思の疎通を図ることができる。
「行き先を教授にすればいいんだろ?」
 顧問会議副議長の『ドロップ』岡田公康が確認するかのように言う。
「当然だ。今の総隊長は教授だからな。命令も、教授からのものが正当だ。ま、俺が口を出すことはないと思うが、念のためにな」
 工藤が頷く。
「活動方法は以前と同じ、やり方もそう変えなくていい、か」
 『ウィンド』駒井信二が呟く。
「ある意味、楽だよな」
「だからって、手を抜こうとは思わないけどな」
 諜報班情報主任の『エルニーニョ』沢井雄輔が口元を軽くゆがめながら言う。どことなく駒井をとがめているようにも聞こえる。
「そんなこと、考えてもいねぇよ」
 駒井が苦笑する。
「それなりにつきあいの長いお前ならわかってくれると思ってたけどなぁ」
 それを聞いた沢井が偽悪的に笑う。
「いやね、一応釘は刺しておいた方がいいかなと思ってさ」
「あ〜、雑談はそのくらいにしておけ。教授がキレるぞ」
 工藤が冗談めかして注意する。もっとも、石川にしてみればキレるどころの話ではなく、こんな癖のある先輩方を果たして使いこなせるだろうかと不安を隠せずにいたのだが。
「とにかく、だ。これ以上時間はかけられん。速やかに結果を出してほしい……ってことでいいんだよな、教授?」
「はい。それによって生じる諸々の厄介事は、こっちで引き受けますから」
 工藤の言葉に、石川は感謝の意を込めて頷いた。工藤はこうして石川を立ててくれている。本来なら石川が指揮することができない顧問会議諜報班の指揮権をゆだね、あまつさえ指揮系統もしっかりと整備してくれている。それに対して、バックアップ体制を整え、彼らが動きやすいようにすることこそが、石川にできることだった。
「よし。じゃあ、定時連絡を忘れずにな。……教授」
「はい。……では、かかれ」
 工藤に促された石川が号令すると、三人は「かかります」と言ってなおざりに敬礼し、解散した。
「軍師、ありがとうございます」
 石川は工藤に感謝の言葉を述べた。
「礼を言うのは、成果が上がってからにしてくれ。ここまでお膳立てして何もできませんでしたってことになったら、とんでもない赤っ恥をかくことになるからな」
 厳しい表情で、工藤は応えた。
「これで何も出てこなかったら、俺は辞表を出しますよ」
「立場上、俺も出さざるを得ないだろうな。まぁ、そういうことにはならないと信じてるけど」
 工藤は口元にわずかに笑みを浮かべた。


 駒井は隠し部屋での打ち合わせを終えると、その足で古内のアパートの大家に話を聞きに行った。大家はアパートの近くに一軒家を持っていて、そこに住んでいる。何か見ていないか、見ていないにしても何か聞いていないか、わかるかもしれない。そう期待して、駒井は話を聞きに行った。
「ここ最近、この近くに変な車が駐車していませんでしたか?」
 駒井は持参した菓子折を差し出し、自分が古内の大学の先輩だと言うことを明かした上で、大家に尋ねた。
「そうだねぇ、変な車っていっても、路上駐車している車も結構あるからねぇ」
 大家――中年の女性――は記憶を探るように宙に視線をさまよわせた。
「では、急発進するような音は聞きましたか?」
「ああ、そういえば。珍しいなと思ったねぇ。あんなにエンジンふかして走るなんてねぇ、近所迷惑だと思ったからねぇ」
「それ、いつ頃でした? 細かい日付までは結構です」
 来た。駒井は内心で快哉を叫んだ。その内心をひた隠しにしながら、駒井はなおも質問を重ねる。
「一週間くらい前だったかねぇ。夕方、うーんそうだねぇ、五時くらいかねぇ」
「その車とか、見ました?」
 駒井はこの質問にはまったく期待していない。多少うるさいからといって、騒音源は何者であるかわざわざ確認するほどの暇人はそうはいない。何か得られればラッキー、くらいにしか考えていない。
「いやぁ、ちょうど晩ごはんの支度してたからねぇ」
「そうですか」
 駒井は潮時だと判断して、締めに入った。
「突然押しかけて不躾なことを聞いてしまい、申し訳ありません。それでは、これで」
 駒井は大家の家を出た。そのまましばらく歩く。石川にこのことはすぐに報告しなければならない。だが、そうもできないようだった。
 しばらく歩いて人気のないところに出ると、駒井は左脇に吊っていたホルスターから南部一四年式を抜くと、何も言わずに背後に向かって一弾倉分を速射で打ち込んだ。素早く弾倉を交換すると、視線だけを動かして辺りの様子を探った。もちろん、この間も引き金に指はかけたままだ。
 駒井はそのまましばらく辺りを探っていたが、やがてふっと緊張を解いた。一四年式にセイフティをかけてホルスターに戻す。
 駒井が尾行に気づいたのは、大家の家を辞してすぐのことだった。最初は容赦なく殲滅しようかと思ったが、尾行者からの連絡がないことによってかえって警戒させることになると思い直して、ごく自然な足取りで人気のないところに誘い込むと、機先を制して射撃を行ったのだ。もちろん、命中は期待していない。尾行に気づかれたとさとらせ、それを中断させることが目的だった。いささか荒っぽい手段で尾行者を追い払うと、何事もなかったかのようにまた歩き出す。
(借りといてよかったな)
 駒井は一四年式のことを思った。駒井は前年度の別班班長。このような武器の扱いには慣れている。顧問会議防諜主任になってからは自ら銃をとることは少なくなったものの、勘は鈍っていないようだった。
(これも併せて、石川に言っておくか)
 駒井は携帯電話を取り出すと、石川に連絡を取った。


 諜報班に情報収集を任せてから、二日が経った。
(やっぱり、餅は餅屋に任せるべきだったな)
 石川は自分の決断が好結果をもたらしたことに、密かな満足感をおぼえた。これまでは全くと言っていいほど入ってこなかった情報が、どんどんと入ってくるようになったのだ。もちろん、その価値はまさに玉石混淆といったものだったが、その点については石川は全く気にしていない。
 しかし、すぐに表情を引き締める。今はまだ喜んではいけない。古内はまだ帰ってきていないのだから。本当に喜ぶのは、古内の顔を見てからにしよう。そう思いながら、石川は新たに入ってきた情報を書き留めている。
 今、報告しているのは、沢井だった。
『古内を拉致したのは、S研山本派の宇野五郎に間違いないな。裏もとれたぞ』
 沢井が報告する。石川は例によって、メモを取りながらその報告を聞いている。
「宇野五郎ですね、調べてみます……」
 石川は自宅のパソコンのハードディスク内にも納められている『Sリスト』を呼び出し、宇野五郎という男の情報を調べた。
「ああ、あった。文学部三年。史学科日本史専攻。番長と同じですか。住所は……寒川区?」
 藤沢区に住む石川は、寒川区の地理には疎い。
『そうだ。ただ、一口に寒川区っていっても広い。この住所からすると、海老名にかなり近いところだな』
「海老名ですか……そういえば、寒川にお住まいでしたっけ」
『ガキの頃からの田舎住まいだからな。あのあたりにはそれなりに詳しいぜ』
「そんな、田舎ってほどでもないでしょう」
 相槌を打ちながら、石川は沢井の略歴を思い出していた。沢井は寒川生まれの寒川育ち、まだ寒川区が高座郡寒川町だった頃からの住人、生粋の寒川っ子である。
「で、宇野と一緒になって古内を痛めつけてる奴がどれくらいいるか、わかりましたか?」
『ええと……三人、もしくは四人だな。名前まではわからんが』
 メモを繰っていたのだろう、紙をめくる音がする。
『それと、宇野の車だが』
 沢井は報告を続けた。
『SUVだって事前に聞いてたけど、洗い直してみるとスポーツワゴンだったな。ただ、日本車じゃないっぽいぞ。すくなくとも、トヨタや日産、ホンダあたりのメジャーなメーカーのじゃない』
「なるほど。しかし、SUVとスポーツワゴンを誤認しますか?」
『まぁ、普通に考えればあり得ないとは思うが、車に詳しくない人間だったらやらかすかもな』
「いや、でも、違いすぎるでしょう」
 そう言ったものの、石川はさて自分に置き換えてみてどうだろうと思った。石川は乗用車に全くと言っていいほど興味がない。なので、SUV車とスポーツワゴンの区別をつけられるか、まったく自信がない。トラックと軽自動車の区別ならすぐにつくのだが。
(……って、それがわからないっていうのも、ある意味ですごいと思うけどな)
 石川は頭を振って雑念を追い払う。今はこんなことを考えているときではない。
『……この件に関しては、継続してウィンドが追ってる。もうすぐ何かしら情報が入ると思うぜ』
「わかりました」
 どうやら、妙なことを考えていたのはほんの少しの間だったようだ。沢井の話もそれほど飛んでいない。
『あ〜、それと一件』
 沢井が口調を変えた。
『人の話はちゃんと聞くように。こっちが聞いても応答がなかったから何があったかと思ったぞ』
「……すいません」
 石川は素直に謝った。上の空だったことを悟られていたらしい。やはりこの先輩は、頼もしいが空恐ろしい。
『気をつけろよ。じゃあ、こっちはこんな具合だ。また後で連絡する』
「ああ、そうだ。つけられてませんよね?」
 石川は電話を切ろうとする沢井を制した。駒井が何者かに尾行されたということはすでに知らされている。沢井にも尾行者が貼り付けられていたのではないかと、石川は懸念していた。
『ああ、そういえば、なんかいたねぇ。足下の石を投げてやると、当たったみたいで、うめき声がしてたからな。そのまま、どっかに行ったみたいだけど』
「……無茶はしないでくださいよ」
 石川は沢井の言葉に呆れながらも、かろうじてそれだけを言った。駒井といい、この沢井といい、顧問会議入りしてからよほど暇と力を持て余していたのか、石川からすれば無茶なことをしでかしている。彼らには根気よく情報を集めてもらいたいだけだというのに。
『人の後をつけ回すような不作法者に、遠慮なんていらないと思うがね。まぁ、以後は自重しよう。もういいか?』
「ええ。ありがとうございます。では、お気をつけて」
 石川は電話を切った。開いていたノートに沢井から聞いた情報を書き留めると、手首を振って凝りをほぐす。
「だいぶ集まったよなぁ……」
 石川の口からつぶやきが漏れる。顧問会議に情報収集を依頼するまで新品同然だったノートが、すでに三分の二ほどのページに書き込みがされている。
(後は、この中のものからどうやって結論を導くかだが……まぁ、何とかなるだろ)
 さすがにこれは口には出さす、石川は内心で思う。
 一口に情報といっても、その価値は千差万別である。それ単体で役に立つもの、他と関連づければ役に立つもの、全く役に立たないもの。大雑把に分ければこの三つに分類できる。もっとも、一番目と三番目は数としてはそう多くはない。大多数を占めるのは二番目、他と関連づければ役に立つものである。
(とはいえ、関連づけをミスると、突拍子もない結論が出てくるからな。慎重に行こう……)
 石川はよく冷えたミネラルウォーターを一口飲むと、メモとにらめっこを始めた。

 翌日、石川は司令室に出頭すると、礼に経過報告を行った。顧問会議から送られてくる情報と、そこから導き出されたことを報告していく。礼は黙ってその報告を聞いていた。
「なるほど、だいたいわかったわ」
 石川の報告が終わると、礼は口を開いた。
「ところで、宇野の部屋の間取りはわかった?」
「……まだわからん」
 石川は思わぬ質問に一瞬口ごもると、正直に答えた。諜報班の調査はそこまで及んではいなかった。
「じゃあ、宇野をバックアップしている強制執行班の人数は?」
 重ねての礼の質問に、石川はまだわからないと答えると、礼は溜息を吐いた。
「これじゃ、まだ奪還作戦を発動できないわね」
「やっぱりそうか」
 予想はしていたが、石川は気落ちしたように肩を落とした。
「どのくらいの人数を相手取ればいいかわからないと、どれだけの人数を投入するべきか判断できないもの。それに、現場の状況もわからないことが多いし」
「宇野の部屋の間取りについては、すぐにわかると思う。不動産屋に聞けば一発だ。隠しておくものでもないしな」
「じゃあ、それはそれとして……問題は強制執行班ね」
 礼は口元を隠すように手をやった。
「それも不動産屋を当たれば何か出てくるかもしれんが、人数まではわからないか」
 石川も腕組みをして考え込んだ。
 そこへ首藤が入ってきた。会計部はこの時期、補正予算案の編成にかかりきりになっており、そのため首藤もほとんど司令室に足を運んでいない。四隊長会議発足後すぐに、「俺は議長にはならない、なってる暇がない」という宣言が首藤からなされたのも、この補正予算案があるからだった。
「姐御、補正予算案の概案ができた。目を通しておいてくれ」
 首藤は書類を礼の机に置いた。
「これ、急ぎ?」
「いや、来週までに見てくれればいい。まだ概案だからな」
「わかったわ。確認しておく」
 礼は書類を机の引き出しにしまった。
「何かあったのか?」
「ちょっとね……考えないといけないことが山積みになってて、どれから手をつけていいのか途方に暮れてるって感じかしら」
 首藤の問いに、礼は曖昧に答えた。作戦に携わることのない首藤に話していいものか迷っているらしい。
「よくわからんが、大変そうだな。がんばってくれ」
 首藤はそう言うと、司令室から出て行こうとした。
「ちょっと待った、算盤」
 石川が首藤を呼び止める。
「何だ?」
「少し知恵を借りたいんだ。姐御も、いいか?」
「俺で役に立つなら」
 退出しようとしていた首藤が石川に向き直る。石川の、「立ったままで話すのもなんだから」という言葉に従い、ソファに腰を下ろす。
「何か考えついたのね」
 礼にも異議はなかった。解決の糸口が見えたのだから、歓迎こそすれ、文句を言う筋合いではない。
 石川は首藤に簡単に状況を説明すると、
「肝心要の強制執行班の動静を、別班に調べてもらおうと思う。どう思う?」
 と訊ねた。
「なるほど、別班か……」
 礼は感心したように呟く。
「また別班の手を借りるのか」
 首藤はかすかに顔をしかめた。
「ちょっと働かせすぎじゃないか? いくら連中がタフだっていっても、さすがにやばかろう」
 首藤の言うとおり、今回の一件では別班は班長の堀内以下全員がフル回転で飛び回っている。今も、第二小隊は顧問会議諜報班とともに情報収集を行っており、第一小隊は石川の補佐として、文学部班長の向井らとともに情報分析作業に当たっている。
「探索隊を使った方がいいんじゃないのか?」
「それも考えたんだが、二つの理由で止めにした」
 石川は首藤の言葉に首を振った。
「まず、探索隊は現場から離れすぎている。さすがに二ヶ月も遊びほうけていると、勘を取り戻すのに時間がかかるからな。探索隊は無理使いしないで、リハビリがてら軽い任務を与えておいて、勘を取り戻させた方がいいと判断した。これが第一の理由」
 石川は『遊びほうけている』という表現を使ったが、もちろんこれは誇張である。ただ、冷却期間が長くなり過ぎてしまい、勘が鈍っているのも事実である。情報収集を行う隊員も、最近設立された情報分析班も、この二ヶ月の間、ほとんど仕事をしていない。情報分析を専門的に担当する人間で、休みもなく働き続けているのは石川くらいである。情報分析班には探索隊全体で一五名ほど所属しているが、情報収集任務と掛け持ちしているため、石川以外の隊員は活動を停止している。分析任務に当たる人間は専属としたいのだが、情報収集任務に当たる人間を削るわけにはいかず、暫定的な配置とせざるを得なかった。
「で、第二の理由だけど……強制執行班の動静を探るとなると、最悪の場合、奴らと一戦交える可能性も考えられる。探索隊員は戦闘訓練なんか受けていない。蹴散らされたあげくに捕虜をとられたんじゃ、古内の時とは比べものにならないくらいの損失になる。だけど、別班なら自力で排除できる。もしかすると、捕虜をとれるかもしれない。
 こう考えると、別班を使った方がいいんじゃないか、という結論になるわけだ」
 石川は言葉を切り、
「ただ、この考えにも見落としがあるかもしれない。二人に俺の考えをチェックしてもらいたいんだ。自分の判断ミスに自分で気づくのは、結構難しいからな」
 と締めくくった。
「確認させてくれ。強制執行班は、全部で何人いるんだ?」
 一〇秒ほどの沈黙の後、首藤が口を開いた。
「……細かい数字まではわからんが、上を見ても四〇人くらいかな」
 石川が記憶の片隅から情報を取り出す。それを聞いた礼が、微かに目を見開く。強制執行班の存在は知っていても、規模までは知らなかったのだ。戦場諜報以外のすべての情報を一手に握っている石川が知らせなければ、こういった情報はわからない。
「別班は二個小隊編制だったな。一個小隊の人数は?」
「二五人。第一、第二ともに、定数は完全に満たしている」
 これには即答する石川。
「強制執行班の総数を四〇人と仮定したとして、その全部と別班一個小隊がぶつかるとすると、戦力比はだいたい一対〇・六で劣勢か……」
 首藤は呟く。
「もちろん、相手の全員が襲いかかってくるわけじゃないから、もう少し分はよくなるだろうけど、それでも厳しいか」
「そうかしら? 全部合わせてもそんな少人数なら、向こうが強制執行班を本格的に動員してくるとは思えないけど」
 礼が首藤の考えに反論する。
「向こうにとっても、強制執行班は虎の子よ。一度の実戦ですり潰すにはあまりにも惜しい存在のはず。ここぞというときには投機的な行動をとるべきだけど、今はとてもその時期とは言えない。関も山本も、そんなことがわからないほどの馬鹿じゃないはず。たとえ強制執行班の指揮官が突出しようとしたとしても、自重させるはずよ」
 礼は他人を個人名で呼ぶときには、だいたい「君」や「さん」をつけて呼ぶが、さすがにスパイ研の幹部である関にも山本にも「君」はつけなかった。
「それに、強制執行班は私たちの行動隊と同じように、S研の力の象徴よ。裏を返せば、強制執行班がいなくなれば、S研は力を失って瓦解する。私たちに対抗できる存在が消滅するんだから。S研にとっての強制執行班の存在価値は、私たちの行動隊のそれよりも、かなり大きいでしょうね」
「つまり?」
「まず間違いなく、全力を投入してくることはないわね。出してきても、せいぜい一個分隊程度。これなら、別班で十分に制圧可能よ」
 礼は力強く断言した。
「……なるほどね」
 首藤が頷いた。
「確かに、姐御の言う通りかもしれない」
 首藤が礼の言葉に納得したのを確認した石川は、礼に軽く頭を下げた。
「教授、デルタを呼んでくれるかしら?」
 礼は石川を軽く睨み付けると、表情を引き締めた。
「私から、直接命令を下す。重要な使命だもの、他の人に任せるわけにはいかないわ」


 八月五日の夜、堀内は石川から情報を貰い、別班第一小隊を率いて、寒川区の外れにある宇野の家の周りを捜索していた。幸い、そのアパートの周りには他の家はほとんど存在せず、他人に見られる危険は少ない。
(こんな田舎にアパート建てて、大家さんは何をしたかったんだか……。まぁ、今は好都合だけどな)
 〈オジロワシ〉探索隊別班班長・堀内覚は宇野の住むアパートからやや離れた位置で、ぼんやりと考え事をしていた。今回与えられたのが偵察任務なので、堀内も第一小隊員も正規の重武装ではなく、拳銃と特殊警棒のみの軽武装である。
 堀内は全身を黒い服で覆っていた。顔が月明かりで明るく浮き上がらないように、黒いバラクーダで顔を覆っている。彼の周囲で目立たないように偽装された状態で待機していた第一小隊の隊員たちも、彼と同じように黒い服を着ている。中には、顔をドーランで黒くしている隊員もいた。
「盗聴の準備は終わっているか?」
 堀内の問いに、そばにいた副官がトランシーバ越しに二言、三言交わして、
「まもなく終わるそうです」
 と報告した。盗聴班には第二分隊を充てている。
「そうか。向こうにチャンネルを9番にセットするように伝えろ」
「わかりました」
 副官はトランシーバに向かって堀内の言葉を伝えた。9番チャンネルは堀内の専用回線である。
 堀内は自分のトランシーバを手に取り、
「こちらデルタ。現在の状況知らせ」
 と呼びかけた。
『第一分隊、所定の位置に進出完了』
『第三分隊、警戒線への展開完了』
 部下から応答が返ってくる。
「デルタ了解。別命あるまで現地点で待機せよ」
 と堀内は指示をした。事前の打ち合わせで、第一分隊は堀内とともにアパート全体の調査を行い、第三分隊は周辺の警戒にあたることとされていた。
「班長、二分隊からです。盗聴の準備が整ったそうです」
 盗聴班との連絡役を務めていた副官が報告する。その報告に頷くと、堀内は自分のトランシーバを握った。
「こちらデルタ。現在の状況知らせ」
『こちら第二分隊、盗聴班。現在異状なし』
 盗聴班からの連絡を聞くと堀内は軽く頷いた。
「デルタ了解。盗聴を開始せよ。何かあったら最優先で知らせろ。復唱」
『盗聴班、了解。盗聴開始します。異状があれば最優先で知らせます』
「よし。この回線は常時開放しておく。頼むぞ」
 堀内はいったん通信を切った。
(昨日から仕込みさせてるからな。うまくいって当然っちゃあ当然だけどさ)
 堀内は石川から命令を受けてすぐに取りかかったこの盗聴作業の様子を思い出していた。
 宇野のアパートの近くにある電柱から電話線を分岐させ、目立たないように処理したあと、用意していた電話機につなぐ。そのほかにもあれやこれやといった作業はあるが、簡単に言ってしまえば、これで盗聴はできる。本来なら電気工事の資格を持っていない人間が行ってはいけない工事だが、非常時ということでその原則はあっさりと無視された。
 この工事はすべて日中には終わっていた。怪しむ人間は皆無だった。元々人通りの少ないところだし、人が通りかかったとしても、実際に工事にあたる隊員にそれらしい作業服を着せ、それらしいバケット車を用意し、それらしく警戒員などをつけておけば、怪しむ者などいない。もちろん、今回の作戦が終了したら、分岐させた電話線は速やかに元の状態に戻すことになっている。
「班長、五分前です」
「了解。少し早いが、始めるとしようか」
 声をかけられた堀内は、軽く咳払いをすると、意識を任務へと切り替えた。無線機のマイクを握る。
「総員、こちらデルタ。先に指示したとおり、これより偵察を開始する。少しでも怪しいものを見つけたら、すぐに俺に報告しろ。……状況を開始する」
 堀内の命令に従い、隊員たちは指示されたとおりの行動を開始した。堀内自身も、顧問会議諜報班が入手したアパートの間取りを思い起こしながらアパートへ向かう。彼の後に第一分隊の隊員が続いた。
 アパートに着くと、堀内は一階にある宇野の部屋の窓の下にへばりついた。そして、その窓から室内を鏡を使って覗き込む。室内には誰もいなかった。鏡の角度を変えてみたが、やはり誰も見えなかった。
(まるで泥棒だな)
 堀内は顔をしかめた。このような光景を赤の他人に見られたら、それこそ申し開きなどできようはずもない。警察に通報されて一巻の終わりである。警戒隊が目を光らせているとはいえ、用心するに越したことはない。
(月明かりに照らされないように、音を立てないように、素早く動きすぎないように……)
 堀内は細心の注意を払いながら、ゆっくりと進んでいった。
 程なく宇野のアパートに着く。
 堀内はアパートの壁に取り付くと、右の拳を背後にいる隊員たちにもよく見えるように上げた。『傾注しろ』という合図である。彼のグローブの指と手の甲にはそれぞれ色の違った反射板がつけられており、どの指を立てたのかがわかるようになっている。  次に、ハンドサインで別の場所へ行けという指示を出す。背後の隊員たちが分かれてゆくのを、堀内は耳で感じた。そして彼も、隣の部屋の軒下へとそっと忍び寄った。古内を居間に置いておくとは考えにくい。おそらく居間ではなく、別の所にいるはずだった。
 その部屋の窓にはカーテンが掛かっていなかった。不用心なことだ、堀内は思った。
(奴等、警戒してないのか? アホなのか、自信があるのかわからんな……。まぁ、そのおかげで中が見られるんだから、俺達にとってはいいことだけどな)
 堀内は小さな鏡で室内の様子をうかがった。
(……いた)
 やつれてはいるものの、椅子に座っているのは間違いなく古内だった。後ろ手に縛られているらしく、ただ呆然と室内を見ている。いや、目に入ってくる風景を理解しているのかどうかすら怪しい。情報が正しければ、ここに連れてこられてから半月が経っている。もはや逃げようという気力すらないのかもしれない。
(まずいな、大丈夫か?)
 堀内はかすかに顔をしかめた。行動隊の救出作戦が行われても、古内に逃げようとする気力が残っていないのでは、逃げ切れるかどうか怪しいところだ。
(見たところ、強制執行班員はこのあたりに駐屯していないようだが……奪回作戦はやれるかな?)
 堀内は考えた。礼からは事前に、余裕があれば別班が奪回作戦を行ってもよいという一札を得ていた。その奪回作戦を阻止するため、スパイ研の実戦部隊である外事局強制執行班が何人か寝泊まりしていると思っていたが、その気配はない。スピードが要求される今回の作戦は少人数で行うことが望ましいが、強制執行班による迎撃があった場合、少人数では蹴散らされるおそれがある。
 堀内はさらに注意深く室内を観察したが、古内以外に人はいないようだった。監視カメラの類も発見できなかった。無線式の盗聴器を発見するために携行している探知機にも、異常は見られない。盗聴器が有線式だった場合には探知機では発見できないが、堀内はそこまでは気にしなかった。見つかったら自分の運と洞察力が劣っていたとあきらめるしかない。そんな開き直りに近い気持ちを堀内は持っていた。
 それに、強制執行班がいないなら、宇野達に見つかったとしても返り討ちにできる自信はあった。別班一個小隊の定数は、小隊長の堀内を含めて二五人。そして、第一小隊はその定数を完全に満たしていた。五対二五では、相手が人外の存在でない限り、数の多い方が勝つのは自明である。応援が呼ばれたとしても、宇野宅の電話は有線も携帯も盗聴している。応援が駆けつける前にけりをつけて撤収するには十分すぎる時間があると、堀内は確信していた。
(……いや、万が一ということもある。もう少し様子を見よう)
 別班が宇野達を圧倒できると結果を導くためには、強制執行班がいないという前提が満たされる必要がある。重要なファクターが不明な以上、とりあえず様子を見ることにする。
 堀内はトランシーバーを取り出した。送話スイッチを押しながら命令を下す。
「第一小隊、こちらデルタ。玉を見つけた。待機位置に集合。盗聴班はそのまま」
 と短く告げた。『玉』とは古内のことを示す即興の隠語である。
 数分後、第一小隊の隊員たちが待機位置――宇野のアパートから三〇〇メートルほど離れたところに集まってきた。堀内は簡単に事情を説明した。
「オイルは引き続き周辺警戒。陸奥は居間の様子をうかがえ。俺は古内とコンタクトをとる。いいな?」
 と、手早く指示を下した。彼らが頷くのを見ると、堀内は手を動かして、部下を散らせた。そして、周囲を見回してから立ち上がった。
「こちらデルタ。盗聴班、状況知らせ」
『こちら盗聴班。異状なし』
 すぐに第二分隊から返事があった。
「デルタ了解。盗聴を継続せよ」
『盗聴班、了解』
 堀内は短くやりとりを交わすと、再び古内がとらわれている部屋の窓までやってきた。そして、軽く窓をノックする。しかし、古内は何の反応も見せない。聞こえなかったのかと思い、再び窓をノックするが、やはり古内は身動き一つしなかった。
(……こりゃ、本格的にまずいな)
 堀内は軽く舌打ちした。どうやら、古内の精神はかなり疲弊しているようだ。外界からの刺激に何の反応もできなくなるほど、精神的に追い詰められているらしい。首尾よく奪回作戦が成功しても、社会復帰ができるのかどうか危ういと言わざるをえない。
(それでも何とかコンタクトをとらないとな……こいつを使ってみるか)
 堀内はタクティカルベストの肩に止めていたライトのうち、小さい方のライトを取り出した。もう一本に比べて小さいが、強力な光を放つライトで、これで照らせばさすがに古内も気づくだろう。もっとも、強い光を放つということは、それだけ他からも発見されやすくなる、ということでもある。言ってみれば、諸刃の剣だった。
 ままよとばかりに、堀内は室内に向けライトをかざし、断続的にスイッチのオンオフを切り替えた。
 その明滅する光に反応して、古内の顔がゆっくりと窓のほうを向いた。今まで何の感情も見せなかった古内だったが、堀内がバラクーダをとって髪をかき上げると、信じられないといった表情になり、やがて満面の笑みになった。隊歴の浅い古内ではあるが、別班班長である堀内の顔は知っていた。堀内が静かにするようにジェスチャーで指示すると、古内は小さく、しかし何度も頷いた。
 そのまま窓を開けようとした堀内だったが、あいにく窓には鍵がかかっていた。押せども引けども、全く動かない。
 この時点で、堀内は別班による奪回作戦をあきらめた。無理をすれば古内を連れて逃げることもできるだろうが、そのためには窓ガラスを割らなければならず、リスクが格段に大きくなる。他に入り口があるのかもしれないが、そこまでは調べきれていないし、そもそも部屋の間取りが全くわからない。奪回作戦を行うにはあまりにもリスクが高すぎると、堀内は瞬時に判断していた。
 堀内は溜息を吐くと、礼が書いた手紙を窓越しに見せた。あらかじめ大きな文字で書かれた手紙を広げ、先ほどとは違うライトで照らしながら室内に向ける。古内は食い入るようなまなざしで手紙を読んでいた。そのあと、読めたかと最初に使ったライトで発光信号を送ると、古内は何度も頷いた。
『近いうちに行動隊が助けに来る。必ず来る。それまで辛抱しろ』
 堀内はがんばれとガッツポーズをすると、古内は泣きそうな顔になりながら、大きく頷いた。表情には、生気が戻ってきていた。
「こちらデルタ。目的達成。撤収するぞ」
 堀内は短く言うと、足音を忍ばせながら、宇野のアパートをあとにした。

(俺は見捨てられてない)
 堀内が去った後に残された古内は涙をこぼしていた。
 古内は拉致された七月一七日から、ずっとここに監禁されていた。最初のうちは隙があれば脱出しようと機会をうかがっていた。しかし、四六時中監視の目が光っていて隙が見出せなかった。昼間でさえ、誰か一人は必ずここに残っているのだ。そして二時間おきに尋問を受けた。
 覚悟していた拷問はなかった。しかし、その質問は単調なもので、何度も同じことを繰り返したずね、古内に考える努力をさせないようにしていた。この尋問で古内は次第に消耗していった。
 おまけに食事は流動食のみ、しかも量は少ない。一日四回の食事というのだけが、せめてもの救いだった。一日三食であれば、間違いなく飢えていただろう。
 用を足しに行くのでさえ、自由にはできない。二分を過ぎると、彼を縛めているロープが強く引かれ、早く出るように催促されるのだ。
 夜になれば、家主である宇野と居候の四人とが交代で眠る。一人は必ず起きているので、逃げ出すことはできない。しかも、このとき古内は椅子を取り上げられ、一晩中立っていなくてはならないのだ。立ちながら眠れないわけではないが、熟睡はできない。それに加えて今度は四時間おきに尋問を受けるのだ。
 このような待遇を受ければ、古内が消耗しきるのも当然だろう。
 一日目は、まだ余裕があった。二日目も耐えられた。三日目は気力を振り絞って耐え抜いた。
 しかし、我慢が続いたのはここまでだった。四日目以降は立っているのも苦しかった。椅子に座れる昼のうちにわずかずつ寝て、体力を少しでも温存するように努めたが、その努力もむなしいものだった。決して強靱とはいえない体の持ち主でしかない古内にとっては、いつ倒れてもおかしくない状態に置かれていた。
 体力の消耗に従って、気力も萎えていった。最初のうちはすぐに助けが来ると自分を奮い立たせていたが、それも四日ももたなかった。衝動的に自殺を図ったこともあったが、宇野に止められ、以降の監視が厳しくなった。
 諸々のストレスにさらされ、古内は廃人寸前というところまで追いつめられていた。
 それを救ったのが、堀内だった。いつもなら誰かしらが残っているこの部屋には、今日に限って古内独りになっていた。これは山本の『督促状』にあるとおり、監視態勢が緩められたからだが、これは古内の与り知らぬことである。とにかく、監視が緩んだときに堀内がコンタクトをとれたのは、ある意味運がいいと言えるだろう。
 堀内が見せてくれた礼の手紙と、去り際に堀内がしてくれたガッツポーズは、すっかり萎えてしまっていた彼の気力を奮い起こしてくれた。
「……俺は、見捨てられてない」
 古内は思いを声に出した。久しぶりに声を出したので、ひどくかすれていた。だが、声を出したことによって、また気力がよみがえってくる。あと二、三日は耐えられそうだ。
 古内はかつて上司の石川から、行動隊総隊長は決して同志を見捨てない、奪回作戦を発動するのにためらうことはない、と聞かされていた。その評判が本当なら、きっと近いうちに助けに来てくれる。そう信じることにして、古内は目を閉じた。このまま油断してもらうために、自分が希望を持ったことをさとられてはならない。本当に行動隊がやってくるまで、もう一芝居打つ必要がありそうだ。


「そうか。わかった。すぐに姐御に知らせる。お前らはすぐに家に帰れ」
 石川は堀内の報告を聞くと、喜びの色を素直にあらわした。
「ところで、誰にも見られてないな?」
『俺達を誰だと思ってるんだ?』
 石川の懸念を、堀内は笑って跳ね返した。
「そうだった。愚問だったな」
 石川も笑った。
「じゃあな。気を付けろよ」
 石川は電話を切り、すぐさま礼に電話をした。
『本当? よかった……』
 石川は古内の無事を伝えると、礼は安堵の息を吐いた。
「居場所はつかんだ。あとは救出するだけだ」
『そうね』
 礼は短く、しかし決意を込めて答えた。
『緊急の隊長級会議の開催を呼びかけるわ。私のほうで行動隊と兵器局に連絡しておくから、探索隊と会計部への連絡をお願い』
 礼は石川の報告を聞くやいなや、隊長級会議の開催を決めた。
「わかった。それで、いつやる?」
 礼が決断した以上、近いうちに行動隊による救出作戦が行われることは間違いない。となると、問題はそれをいつ実行するかだった。
『できるだけ早く。明日……は無理ね。行動隊の全体演習があるし、救出作戦の見直しもしないといけないし。明後日、八月七日に決行しましょう』
「了解。じゃあ、隊長級会議は明日だな。九時からにしようか」
『そうね、そうしましょう。ただ、私たちは二時間前には集合している、ということで』
 礼の言う『私たち』とは、四隊長を指すのは言うまでもない。石川もすぐに悟ったようで、誰のことかと聞こうとはしなかった。
「資料も作らないとならないし、俺たちで救出作戦の叩き台を作っておかないとな」
『そういうことよ』
「じゃあ、また明日に」
 石川は電話を切った。そして、すぐに探索隊の学部班長達と会計部部長の首藤に向けて電話をかけ始めた。メールはこのような場合には使わない。秘密保持のため、あくまで口頭で指示するのが鉄則だった。


管理人のコメント

 顧問会議の協力を得て一気に捜査を進展させた「オジロワシ」。いよいよ救出作戦のお膳立てが整ってきます。 >事前の計画では、行動隊・探索隊から一〇人ほどを拉致して、どこかに監禁しておくということになっていたのだが、その辺りを宇野は忘却してしまったらしい。  そりゃ山本も苛立つでしょう……と思いますが、S研の組織規模ではそれほど大規模な拉致作戦を決行できるのか、ちょいと怪しい気もします。 >すれ違ったときに局員の手から掏りとり、代わりの文書を渡したのだ。  何を思ってそんな事をしたのか不明ですが、これで事件が解決したら、影のMVPは新藤と言うことになりそうです(笑)。 >これまでは全くと言っていいほど入ってこなかった情報が、どんどんと入ってくるようになったのだ。  石川君も満足していますが、やはり専門家ともなると違いますね。 >幸い、そのアパートの周りには他の家はほとんど存在せず、他人に見られる危険は少ない。  堀内は首をひねってますが、S研が今回の監禁のような、非合法活動を人目につかないように行える拠点として確保したのかも……と言うのはうがち過ぎですかね。 >『できるだけ早く。明日……は無理ね。行動隊の全体演習があるし、救出作戦の見直しもしないといけないし。明後日、八月七日に決行しましょう』  古内の無事も確認され、いよいよ救出作戦にゴーサインが出そうです。かつてないピンチだった今回の事件、無事に解決できるでしょうか?


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