オジロワシ血風録

第三章  更迭



9.ストレス



 司令室で榊原に諭された日はおとなしく休んだものの、次の日になると石川は休まずに仕事に取りかかった。いや、休めなかった、と言ったほうがいいだろう。石川はなおも睡眠時間を削って、乏しい情報から真実を探ろうとつとめた。
 その日はちゃんと家に帰って眠ったものの、その眠りは浅いものであったために疲労を取り去ることはできず、かえって疲労感を増しただけに過ぎなかった。
 それからも彼は探索隊の面々を督励して情報収集を続けたが、成果は一向にあがらなかった。ストレスから逃避するために、喫煙量も急増した。今では一日に四箱を越えるようになっている。
「ねぇ、少しはタバコ、控えたら?」
 礼はそんな石川に再三忠告していた。
「だめだ。止めたらかえっていらいらする」
 石川はその都度こう言って、礼の忠告を退けつづけている。


「いいかげんにしてよ!」
 秘密部屋に礼の声が響いた。部屋にいた隊員たちは、何事かと声のしたほうを振り返った。
「少しはタバコを控えなさいよ! 体に悪いわよ!」
 礼が石川を怒鳴りつけている。石川は礼と話し始めてから一時間足らずの間に一〇本以上のラッキーストライクを灰にして、さらにもう一本に火をつけた。それが礼の逆鱗に触れたらしい。
「前から言ってるだろ。情報分析には冷静な判断力が必要なんだ。俺にとって喫煙は、心を平静に保つのに一番いいんだって」
 怒鳴りつけられた石川は、もううんざりといった表情で言い返した。
「心の健康にはよくても、体の健康には悪いわよ!」
 そんな石川のふて腐れた態度は、礼の怒りを買うだけだった。
「何も、全面的にやめろなんて言わない。でもせめて半分、ううん、三分の二には減らせるでしょう? 我慢しなさいよ!」
 礼の言葉は石川の耳を通りすぎ、心に届いていないようだった。ふて腐れた表情でそっぽを向く石川。それでも礼は石川に語り掛けていた。
「ガード、よく見て置け。あれが痴話喧嘩だ」
 そんな二人を面白そうに見て、猿渡は木村に言った。顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「痴話喧嘩……ですか? あれが?」
 木村は思いっきりの疑問形で答えた。木村から見れば、痴話喧嘩の範疇をとうに超えているようなもののような気がする。
「なんか、やばそうな雰囲気ですが……止めましょうか?」
「いや、もう少し待ってろ。あの二人の喧嘩なんて、滅多に見れるもんじゃないからな」
 猿渡は明らかにこの状況を面白がっている。他の隊員も猿渡と同じ意見のようで、誰も止めに入らない。
「見世物じゃないんですよ。そんなこと言ってる場合じゃないでしょう」
 木村が呆れたようにそう言ったとき、
「うっせぇな、いちいち!」
 石川は大声を出して、立ち上がった。
「お前は俺の何なんだ? 親か? 兄弟か? 親戚か? プライベートに、いちいち口を出すんじゃねぇ!」
「……何よ、その態度!」
 石川の言葉に、かろうじてつながっていた礼の堪忍袋の尾はあっさりと切れた。
「俺が自分の責任でやってることだ。がたがた言うんじゃねぇ!」
「人がせっかく心配してるのに、そんな言いかたは無いでしょう!」
「誰も心配してくれなんて言ってねぇよ。お前が勝手に心配してるだけだろうが!」
 石川の暴言に、礼は何から口にするべきかわからずに、石川の顔をものすごい形相で睨み付けた。なまじ整っている容貌だけに、凄みが感じられる。もっとも、見なれている石川にはさほどのものではないだろうが。
「ちょ、ちょっと……これ、まずいですよ」
 木村は顔色を変えた。このまま口論だけで終わるとは思えない雰囲気になってきた。面白がって見ていた猿渡も、このまま口論を続けさせると、取り返しのつかない事態になると思ったのだろうか、
「ガード、止めてこい」
 と木村に囁いた。
「無茶を言わないで下さい。この段階になって止めろだなんて、絶対に無理です! もう少し早ければ、止められたでしょうけど」
 木村は囁き返した。言外に、これまで面白がって傍観していた猿渡を非難している。
「かといって、このままにできるか?」
「できないから、困ってるんじゃないですか」
 猿渡と木村が言い合っている間にも、石川と礼の罵り合いは続いた。
 そして、ついに。
「もう、知らない! 絶交よ!」
「ああ、結構だね。口うるさい奴がいなくなってせいせいするよ、本当に」
 室内の全員が固唾を飲んで見守る中、礼は憤然として席を立つと秘密部屋から出ていった。乱暴にドアが閉められると、三年生の主だった者――猿渡、山田、大川、柳生、向井といった面々が、石川の周りに集まった。
「おい、教授、今のはちょっと言いすぎじゃないのか?」
 山田が口を開くと、石川はまだ興奮が冷めていないようで、山田を睨み付けた。
「お前らまでそう言うのか?」
「いや、そういうわけじゃない」
 探索隊文学部班長の『コンピュータ』向井一也が言った。
「でもな、姐御の言い分もわかるんだよな、俺。お前、近頃息吸うよりも煙吸ってるほうが多いんじゃないか?」
「俺が自分で決めて、覚悟した上でやってるんだ。何も言わないでくれ」
 石川はそっぽを向いてしまった。
 猿渡が溜息をついて頭を振った。
「何を言ってもダメだ。しばらくそっとしとこうぜ」
 猿渡の言葉に、全員頷くしかなかった。


 その翌日。
 石川は頭痛で目が覚めた。身体も妙に重い。
(風邪でも引いたか?)
 と思ったが、それでも大学に向かった。アパートでじっとしていても治るとは思えなかったし、看病してくれる人間もいない。唯一看病してくれそうな礼とは、昨日大喧嘩してしまった。まず来てくれないだろう。
(たかが風邪、それも引きはじめだ。生きる死ぬという病気じゃない)
 無理矢理自分を納得させて、石川はバスに乗った。とてもではないが、自分で運転できそうにないからだ。
 一限は材料物性論だった。石川にとってあまり興味のある講義ではなかったが、必修科目であるため出席することにした。
 化学科棟へ行く間も、
 講堂に入ってきた石川の様子を見た三宅敦士は、
「どうしたんだよ? 顔色悪いぞ」
 と驚いたように言った。三宅も〈オジロワシ〉隊員で、探索隊理学部班化学科分遣隊長である。探索隊理学部班長でもある石川の直属の部下といえた。
「ん? ……風邪でも引いたかな?」
 石川はぼんやりした頭で、やっと答えた。
「風邪って……家で寝てろよ」
「家にいたって、治るとは思えない。それに、講義を休むわけにもいかない」
「代返ならしてやる。病院に行けよ」
 石川の言葉に、三宅は強い口調で返した。
「大丈夫だよ。死にやしない」
 石川はそう言って、席に着いた。
「……わかった。でも、気分が悪くなったら、意地張らないで病院に行けよ」
 三宅はそう言って、自分の席に着いた。

 講義の間、石川は頭痛と吐き気をこらえながら、じっと座っていた。すでにまじめに講義を受けることは放棄している。
 石川はそのまま九〇分間我慢し続け、講義が終わる頃には机に突っ伏したまま動くことができなくなっていた。よっぽど途中退出しようかと思ったが、『講義には出席しなければならない』という彼の信念が邪魔をして、そうできなかった。
「大丈夫か?」
 担当講師が出ていったあと、三宅が心配そうな表情でやってきた。
「大丈夫だよ、あまり心配するなって」
 この期に及んでも、石川はなおも強がりを言っていた。
「悪いことは言わん。このまま病院に行け。何なら連れて行ってやろうか?」
 三宅は石川の強がりを無視し、なおも言った。
「いや、いいよ。今日一日、なんとかなるだろ」
 そう言って、石川も立ち上がった。いや、立ち上がろうとした。
 しかし、立ち上がりかけたところで、視界がぼけや始めた。
(何だ? どうした?)
 そう思う間もなく、石川は床に倒れ込んでいた。
「石川! しっかりしろ!」
 三宅の慌てた声を、すでに石川は聞いていなかった。
(おかしいな……)
 そう思いながら、石川は意識を手放していった。


「あのバカ。素直に休んでいればいいのに。無茶しやがって」
 榊原は、『石川、過労で倒れる』の報を聞いたとき、そう言って舌打ちした。
 石川の融通の利かない一本気な性格は、これまで探索隊の情報分析部門で大きく貢献してきたが、それと同時に彼自身の身体を内部から侵していった。榊原は石川の能力を高く買っているが、その性格を常に心配していた。根を詰めすぎて倒れるのではないかと、いつも気遣っていた。
 それが現実のものになってしまった。榊原は自分の目を潰されたような衝撃を受け、つい石川を罵るような口をきいてしまったのだ。
 石川が過労で倒れたという話は、瞬く間に〈オジロワシ〉全体に広がった。探索隊員たちは、指揮官が突然いなくなってパニックに陥った。どのようにしてこれからの作業を進めればいいのか、さっぱりわからなくなったのだ。
 湘洋市内の病院に入院した石川の命令で、探索隊の指揮は向井に委ねられ、このパニックはひとまず鎮静化した。しかし、相変わらず探索隊による情報収集ははかどらない。このまま事件は迷宮入りし、骨法同好会はスパイ研の支配下に置かれるのではないかと、楽観的な隊員でさえも思い始めていた。

管理人のコメント


 真面目な人間は手抜きが苦手なため、ついつい無理をしがちなもの。石川も例外ではないようです。

>石川はなおも睡眠時間を削って、乏しい情報から真実を探ろうとつとめた。

 頭脳労働担当がこれでは逆効果というもの。こういう時は休んだ方が良かったりします。


>「ガード、よく見て置け。あれが痴話喧嘩だ」

 なんか今回の猿渡はまったりモードですね……


>「何を言ってもダメだ。しばらくそっとしとこうぜ」

 案外、止めに入っても逆効果だと知っていたのかもしれません。


>石川は頭痛で目が覚めた。身体も妙に重い。

 ついに危険信号が出てしまいました。


>「あのバカ。素直に休んでいればいいのに。無茶しやがって」

 難しい局面だけに、榊原の舌打ちしたくなる気持ちも理解できます。

 石川が倒れ、オジロワシ内部にも不安が広がり、事態はますます深刻な状況に。次回、いよいよ急転が彼らを待ち受けます。



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