オジロワシ血風録
第三章 更迭
8.最強と呼ばれる男
木村は、同じ学部の先輩である礼に手伝ってもらって、ようやくレポートを仕上げた。正味五日でA4用紙一〇枚分のレポートを仕上げたというのは、彼の文章作成能力からすれば奇跡に近いことだった。もっとも、内容は無味乾燥なものに近いが、学会に出すような論文でないのだからこれでいいのだと木村は開き直っていた。
「やっと終わった……奇跡だ!!」
レポートを綴じながら、木村は安堵の溜息をついた。これで生物の単位は落とさずに済みそうだ。木村は、もし許されるのであれば、この場で踊りだしたい気分だった。もちろん、静粛が要求される図書館内ではそんなことはできない。そのかわり木村は、両拳を握りしめてガッツポーズをとり、喜びをあらわした。
「とりあえず、一件落着ね」
礼はそんな木村を見ながら、こちらも安堵した表情で呟いた。礼もレポートの課題を出されており、木村より二時間ほど前に書きあがったところだった。
「いやぁ、姐御のおかげですよ」
木村は図書館内の静けさを乱さないだけの音量で言うと、礼に頭を下げた。
「姐御のアドバイスがなかったら、まだ悶え苦しんでましたよ、俺。本当にありがとうございます」
「私はただアドバイスしただけ。今まで習ったことをまとめて、文章にしたのはあなたでしょ」
礼は笑いながら、顔の前でひらひらと手を振った。
「それでは、さっさと学生課にこの忌々しいレポートを預けてくるとしますか」
「賛成」
礼と木村は図書館を出て、学生課のある事務棟へと向かった。図書館と事務棟は、同じ大学にありながら方向はまるっきり逆の方向にある。図書館と学部棟群からの距離は近いのだが、事務棟は大学敷地内の端にある。図書館から事務棟へ行き、また学部棟群へと帰ってくるだけでちょっとした運動になるのだから、その遠さがわかるだろう。
二人は中庭を通り過ぎ、学食前を通り、旧経済学部棟の前へとさしかかった。ここでは骨法同好会の会員たちが、稽古に勤しんでいた。
「骨法の連中、こんなところで稽古してたんですね」
木村ははじめて見る骨法同好会の稽古風景に、感嘆の声をあげた。武道というよりは、格闘技と言いたくなるほど、実戦的な稽古だった。
「FSに追われて、稽古場を転々としている……か。同情したくなるけどね」
礼が微かに顔をしかめた。骨法同好会を目の敵にしているFSを非難するような口振りではあるが、今はこの骨法同好会に〈オジロワシ〉は振り回されているのだ。礼にしてみれば、複雑な心境であろう。
「加納はいるかな?」
木村は、乱取りをしている会員の中から、加納を見つけようと探した。
スキンヘッドにサングラス、藍染めの作務衣という特異な出で立ちの彼はすぐに見つかった。彼は稽古には参加せずに、会員の稽古ぶりを監督していた。礼達には気づいていないようだ。
「あいつ、自分ではやらないのな……」
木村の呟きに、
「ある程度の技量持ってるから、師範みたいなことやってるんでしょ」
礼が指摘した。独り言に返事が返ってくるとは思ってなかった木村は、礼の声を聞いて驚いたように振り返った。
「そんなに驚かなくてもいいでしょ」
礼は呆れたような声を出した。
「さぁ、行くわよ。もうすぐ事務棟が閉まっちゃう」
礼は木村を促して、その場から立ち去った。
剣道部は体育棟の二階にある板張りの道場で稽古を行っている。
柳生晴信は剣道部部長ではないが、その実力を評価されて、筆頭師範として部員に稽古をつける役を顧問から仰せつかっている。部員は柳生の技量をそれこそ身をもって知っているので、それほど違和感を覚えずに彼の手ほどきを受けていた。
柳生は胴はつけているが、面や籠手はつけないで竹刀を振るっている。幼いころからこの格好で稽古を行っているので、防具がなくても怖くはないのだろう。実際、彼の身体に打ち込まれる竹刀は皆無だった。相手が意図的に外しているわけではなく、そこを打たせないように柳生がうまく立ち回っているのだ。
「次、酒井。立て」
柳生は三人の男子部員を軽くあしらったあと、道場の脇に蕭然と佇んでいる由香に声をかけた。あれほど動き回ったのに、息はあがっていない。
声をかけられた由香は考え事をしていた。考えていたのはこれからの後藤との接し方だった。
(いつ謝ろう……)
そればかりを考えていた。考えなければならないほど、由香は後藤との接点というものがなかったのだ。なにしろ、顔をあわせれば常に険悪な雰囲気だった二人である。謝るにしても、うまく話を持って行かないと、後藤はろくに話も聞かないだろう。
どうすれば後藤に話を聞いてもらえるか、由香はそれをじっと考えていた。
しかし、ここは道場である。ものを考えるところではないし、考える余裕もないのだ。
柳生は、由香が黙って正座しているのを見て、苛立ったように舌打ちした。
(間抜けな顔してるんじゃねぇ)
とも思った。柳生も〈オジロワシ〉隊員であり、由香に下された処分のことは知っている。もちろん、そのことを大声で指摘することなどできるわけもないが、あまりにも由香の様子がおかしいため、怒鳴りつけたくなった。稽古の時間は限られているのだ。彼が指導しなければならない部員は、まだ大勢いる。
「酒井、どうした」
柳生は由香を一喝した。
由香は、柳生に再び声をかけられてはじめて気づき、慌てて脇に置いてあった面をつけた。柳生はたとえ相手が女であろうと手加減を一切しない。彼の稽古を受けるには相当の覚悟が必要だった。
「お願いします」
由香は声をかけて、柳生との間合いを取った。柳生は来いと言うと、無造作に竹刀を右手に持ち、右半身になって由香と対峙した。構えはとってはいない。
一見すると柳生は隙だらけだが、実際に立ち会っている由香は打ちかかれなかった。このように隙だらけで対峙しているということは、何か罠でもあるのではないか。由香はそう思いこんだ。
状況を変えようと、気合いの声を発して相手を戦意を萎えさせようとするが、柳生は全く動じずに、薄笑いさえ浮かべて、来いと再び言い、ようやく竹刀を下段に構えた。
由香は焦りを覚えた。柳生の構えには隙がまったくなかった。威圧感さえ感じる。竹刀の先端が大きく見え、視界を遮っているようにさえ感じられた。
それでも由香は少し間合いを広めにとって、打ちかかる隙を見つけようとする。柳生はそれに対応して、半歩だけ間合いを詰めた。そして、そのままの距離を保って、円を描くように二人は動いた。
(どうしよう……動けない……)
由香は焦った。どれだけこちらが挑発しても、柳生はそれに乗ってこない。ただ、薄笑いを口元に浮かべてこちらとの距離を一定に保ち、こちらが仕掛けてくるのを待っている。由香の額に汗が浮かんだ。
「そんなに堅くなるな。俺はお前と同じ大学生なんだ。神様じゃない。遠慮無く打ち込んでこい」
柳生が声をかけるが、由香はまったく動けなかった。柳生の言葉につられて動けば、みすみす打たれに行くようなものだ。柳生の打ちは鋭いことで定評がある。由香は痛い思いをするのはいやだった。
「どうした、酒井。そっちが動かないなら、こっちから行くぞ」
柳生はそう言うやいなや、竹刀を青眼に構えなおした。由香も間合いを詰め、タイミングをはかって柳生の頭を狙って竹刀を振り下ろした。柳生も竹刀を振り下ろしているが、自分の竹刀のほうが先に当たる。そう由香は確信していた。
しかし由香の竹刀は柳生の竹刀に当たって軌道をずらされた。
あっけに取られる間もなく、柳生はそのまま由香の面を打った。面切り落とし面。柳生の得意技を食らったのだ。
由香はその衝撃に耐えられず、ふらふらと後ずさった。鼻の奥に金属のような臭いを感じた。面は衝撃までは吸収してくれない。
由香は頭を振って、今の打撃で一時的におかしくなった平衡感覚をなんとか回復させようと試みる。柳生はその様子を面白そうに見て、もう一度来いと言った。由香はなんとか最初の位置に戻って、再び竹刀を構えた。
今度は由香のほうから仕掛けた。すり足で間合いを詰めると、今度も面を狙う。気合いの声を発し、竹刀を打ち下ろす。
柳生は、今度はバックステップで竹刀をかわすと、すかさず大きく足を踏み出し、胴を打った。当たった瞬間ものすごい音がして、道場にいた者全員を驚かせた。
「胴!」
柳生の声で、全員が我に返る。
「……折れたかな?」
誰かが呟いたが、柳生にも由香にも聞こえなかった。
由香は柳生に打たれた瞬間、防具の上からでも激しい衝撃を感じた。息がつまり、思わず竹刀を取り落としてしまった。防具を付けていたのと、当たる瞬間に身をひねって衝撃を殺したことが功を奏し、それ以上のダメージはなかった。もしこのうちのどちらかでも欠けていたら、肋骨が折れていたかもしれない。それほどの衝撃だった。
由香は思わずその場にうずくまった。痛みをこらえかねて、うめき声が漏れる。柳生のあの細い腕のどこにそんな力が秘められているのか、由香には不思議だった。そして、この剣術の天才のことを改めて恐ろしく思った。
「……参りました」
苦しい息の下から一言だけ、由香は言った。そんな彼女を見おろして、
「相手が無造作に間合いを詰めてきたときは、それにつられないことが大切だ。それさえ気を付ければいい」
柳生はアドバイスする。もっとも、由香の耳にはほとんど入らなかった。打たれた脇腹が痛く、話を聞くどころではなかった。
(さすが柳生さん。白兵戦では行動隊随一と言われるだけのことはあるわ)
由香は、ともすれば痛みに支配されそうになる頭の片隅で、そう納得した。
「どうした、酒井? あばらが折れたか? ……本気を出した覚えはないんだが」
じっとうずくまったままの由香を見て、柳生が心配そうに声をかけてきた。身をかがめ、手を取って立ち上がらせようとする。
「お嬢、司令からの伝言だ。今日限りで謹慎は終わり。明日から隊務に復帰しろ」
介抱するふりをして柳生が由香の耳元に顔を近づけ、小声で囁きかけた。由香は驚きのあまり、痛みを忘れて思わず硬直した。
この謹慎期間中には、普段なにかと由香のことをかわいがってくれる礼も、あくまで知り合いの学生にあったという態度しか見せず、挨拶を返さないこともたびたびあった。実の姉のように慕っている礼からそのような仕打ちを受けるのが、由香には何よりもつらかった。
「これに懲りたら、もうレポーターに喧嘩を売るなよ。今度そんなことをしでかしたら、俺がお前を『狩り』に行くからな。覚悟しておけ」
柳生はそう言うと、目つきを鋭くして由香を睨んだ。
「あの……レポーターの謹慎も解かれたんですか?」
由香も囁き声で、柳生にたずねる。さすがに、この会話を他人に聞かれるのはまずい。
「いや、あいつにはもう少し謹慎していてもらう。……どうした? 喧嘩相手がいなくて寂しいのか?」
柳生は片頬をつり上げて、皮肉げに笑った。
「いえ、そういうわけでは……」
由香は顔を背けながら答える。どうしてレポーターという言葉を聞くと、胸が苦しくなるのだろう。今まで経験したことのないことに、由香は困惑した。
「そろそろ立て。部員が怪しむ」
そう言うが早いか、柳生は由香の手を強引に取って、立ち上がらせた。少しふらつくものの、由香はなんとか立つことができた。
「もう一番行くか?」
柳生は竹刀を肩にのせて、挑発するように由香にたずねた。
「……やめておきます。今度は本当に肋骨を折られかねないですから」
由香は力無く言うだけだった。
「そうか。では、次。鈴木、来い。お前、しばらく稽古をサボってやがったな。その分まで稽古をつけてやるから、覚悟しろ」
柳生は男子部員を指名し、今度は最初からちゃんと中段に竹刀を構えた。
由香はさっきまで座っていた場所に座ると、面を取って、柳生の稽古を見ていた。
柳生の動きは軽快で、完全に鈴木を翻弄している。振り下ろされる竹刀をかわして胴を抜き、小手を狙って打ってきたのをバックステップでかわして小手を打ち返し、打ち下ろされる竹刀を摺り上げて面を打ち、逆銅をねらって打ってきた竹刀を交わして喉に突きを入れる。そのことごとくが面白いようにと決まってしまう。立て続けに五、六本取って、柳生は竹刀を収めた。
「よし、鈴木、もういいぞ。お前はちゃんと稽古すれば強くなるんだから、これからは稽古をサボるなよ。じゃあ、次。井上、来い」
柳生は疲れた様子も見せず、息も切らせていなかった。次から次へと部員に稽古をつけていく。疲れを知らないのだろうかと、由香は改めて、柳生晴信という男の底知れぬ力に恐怖した。
管理人のコメント
骨法同好会に関する情報収集が上手くいかない中、もう一つの本分である学生生活を送るオジロワシのメンバーたちもいます。今回はそんなお話です。
>「やっと終わった……奇跡だ!!」
木村のピンチもようやく半ば過ぎた模様。これでダメ出し食らったら悲惨ですが、まぁ大丈夫でしょう。
>礼はそんな木村を見ながら、こちらも安堵した表情で呟いた。
行動隊を率いながら、由香を諭し、木村も助ける礼。実に頼れる人です。
>武道というよりは、格闘技と言いたくなるほど、実戦的な稽古だった。
骨法は実際に実戦的な側面が強い武術だそうですが、それにしても湘洋大学のサークルはFSといいレッド・ロブスターといい、ガチな連中が多いですね(笑)。
>柳生晴信は剣道部部長ではないが、その実力を評価されて、筆頭師範として部員に稽古をつける役を顧問から仰せつかっている。
そして今回のタイトル、柳生登場。この人もガチですが、師範を頼む剣道部もガチですね。
>(いつ謝ろう……)
こちらはまだ問題の片付かない由香。経緯が経緯だけに、まだまだ解決には時間がかかりそうです。
>由香はその衝撃に耐えられず、ふらふらと後ずさった。
>防具の上からでも激しい衝撃を感じた。
柳生の最強さを示す描写。竹刀剣術とは思えないような威力です。
>どうしてレポーターという言葉を聞くと、胸が苦しくなるのだろう。
なにやら、謝りたいという以上の感情が芽生えてきたようでもありますが……さて?
ここに来て、過去の事件ではそれほど目立っていなかった隊員にスポットライトが当たってきた気がします。これが今回の事件での活躍を暗示しているのか、それとも次回に持ち越しなのか。実に気になるところですね。
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