オジロワシ血風録

  
第三章  更迭



7.混沌



 定例会議の散会と同時に、石川以下の探索隊員は情報収集を開始した。
 しかし、その作業は思ったように進んでいない。骨法同好会に所属している探索隊員は一人もいないし、同好会会長の原口良太には友人が多く交際範囲も広いので、この方面から探るにはまだまだ時間がかかる。
 石川の神経は高ぶって、よく眠れない日が続いている。そのため、この一週間で体重が三キロも落ちた。もともと石川は痩せているほうなので、その姿は痛々しいものだった。
 タバコの消費量も日増しに増えた。それまでは一日一箱半のペースだったのが、いつの間にか二箱になり、今では三箱に届こうとしている。
 しかし、それだけの逆境にも関わらず、石川は必ず何かの兆候を捉えることができると信じていた。そう信じなければ、精神の平衡が保てないせいもある。

 卓上の電話が鳴った。石川は規定の回数だけ待って、受話器を取った。
「俺だ。……そうか、ダメか」
 石川の顔が曇る。今入った報告も、活動がうまくいっていないというものだった。石川は頭をかきむしりたくなる衝動を、なんとか抑えた。
「……なに? 諦めるな。まだ経路はあるだろう? ……うん。……うん。よし、今度はそっちから攻めてみろ。じゃあ、期待してるぞ」
 石川は受話器を置くと、肺を空にするほどの大きな溜息をついた。窓辺に歩み寄り、ラッキーストライクに火を付ける。しかし、まずく感じる。銘柄もライターも変わっていないのにまずく感じるのは、やはり彼も相当苛立っているのだろう。
 石川は、火をつけたばかりのタバコを必要以上に強く灰皿に押しつけた。さっきは懸命にこらえていた頭をかきむしる動作を、今度は遠慮無しに行う。 「暗号を解読しようにも、その暗号が出てないんじゃ、どうしようもないしな……」
 石川は頭を抱えたまま、机の上に置いてある旧式のタイプライターに似た暗号解読器を横目で見た。
 彼はスパイ研が使用している暗号をほぼ完全に解読している。もし指令がエージェントのもとに送られてくるなら、それを傍受して、相手の手の内を読むこともできる。
 しかし、肝心の指令が送られていないのでは、それもできない。この暗号解読器も、今のところ単なるオブジェとしてしか機能していない。
 どうやら今回の工作に当たっているエージェントは、上層部からよほど信頼され、独力で状況を判断し臨機応変に工作を行える賢い人間なのだろう。
 石川は司令室に定期報告に行くことにした。調査がほとんど進んでいないことを正直に告白し、ついでにあることに関し、榊原の判断を仰ぐためだ。石川は念のため、隠し部屋に電話がかかってきた電話を携帯電話に転送するようにセットし、隠し部屋から出た。
 秘密部屋では、新入隊員数名が教育隊の先輩隊員から話を聞いている。新入隊員は真剣な面もちで、先輩の話に耳を傾けていた。
「司令室に行ってくる。誰か来たら、対応を頼むぞ」
 石川はそう言い残して、秘密部屋を出た。その足で旧経済学部棟にある司令室へ向かう。
 司令室のドアをノックすると、榊原の声で入れという答えが返ってきた。石川が声をかけながら室内へ足を踏み入れると、紫煙が漂ってきた。何事かと榊原を見ると、榊原と猿渡がカードゲームをプレイしながらタバコを吸っていた。
「おう、教授。現在、ヤボ用の真っ最中だ。ちょっと待ってくれ」
 榊原はカードが並んでいる机の上を睨みながら言った。石川は、緊張感のかけらもない彼らの様子に呆れた。
 石川がやってきて五分が経った。ゲームはなおも続いている。戦況は猿渡に不利なようで、先ほどからずっと渋い表情をしている。榊原が満面の笑顔なのと対照的だった。
「司令! 緊急の用件があるんですが!」
 なおもゲームを続ける二人に業を煮やし、石川が大声を上げる。
「緊急?」
 ようやく榊原は顔を上げた。その頃には、隊務に熱心な〈オジロワシ〉司令の顔になっていた。
「わかった。番長、しばらく待ってくれ」
 猿渡に向かってそう言うと、榊原は手に持っていたカードをテーブルに伏せて、石川に向き直った。
「で? 用事ってなんだ?」
「実は、情報収集が思うように進んでいません。そこで、新入隊員の中から探索隊へ配属が予定されている者を臨時に借り受けようと思うのですが、この件について承認を頂きたいのです」
 石川の顔には、焦りの表情が見て取れた。
「なに?」
 榊原の眉が、ぴくりと動いた。
「それはできない相談だな」
 榊原は石川の目を見据え、即座に答えた。
「マリーンの報告によれば、まだ新入隊員は情報収集のやり方を完全には理解していないというじゃないか。半人前を使うわけにはいかないな。情報も、ただ闇雲に集めればいいというものでもないだろう?」
 榊原の反論に、石川は沈黙した。反対されるのはわかり切っていたからだ。しかし、彼はまだ望みを捨ててはいなかった。
「反対はもっともです。しかし、探索隊にとって今が正念場なのです。五、六人でいいのです。使わせて下さい」
「だめなものはだめだ」
 榊原は頭を振った。
「未熟者を使って、本当にうまくいくのか? 本当に必要な情報をもたらしてくれるとは、俺には到底思えない。まだあいつらは情報収集の修羅場を知らない。そんな連中が持ってきた情報に価値があると思うか?
 それに、あいつらが不用意に動いて、我々の存在が暴露される危険性もある。悪いことは言わん。やめておけ」
 榊原は諄々と石川を諭した。
「情報の価値を判断するのは、この私です。隊員には常々、どんな些細な情報でもいいから持ち帰れと指示しています。そんなくだらない情報にでも、真実のひとかけらくらいは含んでいるかもしれませんから」
「情報を持ち帰れるという成算はあるのか?」
 榊原は石川の反論に、さらに言葉をかぶせていった。
「別にマリーンやお前を疑うわけじゃないが、新入隊員たちに過剰な期待を抱くわけにはいかないんだぞ? 新入隊員たちはもう少し基本的なことを実施部隊で身につけさせてから実戦に投入するべきじゃないのか?」
「しかし……」
「教授」
 榊原は説得の方法を変えたようだ。目が軽くすぼめられ、聞き分けのない幼児を相手にするような態度で口を開いた。
「お前は太平洋戦争末期の、まともに機体を操れない新米パイロットを特攻作戦に送り込んだ、そういう日本軍の指揮官みたいになりたいのか?」
 榊原の辛辣な言葉に、石川は沈黙するしかなかった。
「教授、お前は疲れているんだ。今日はもう帰れ。帰って、ゆっくり頭と身体を休ませろ」
 榊原は、先程とはうってかわって優しい声で諭した。石川がここ一週間ほど、講義はおろか、寝食を忘れて情報収集と相手の出方の推理に当たっていることを、榊原は礼から聞いて知っていた。石川が焦りを覚えるほど、今回の事件は厄介なものなのだ。
 榊原は自分がもっとも信頼する探索隊総隊長がそのような激務に追われていることを知って、やりきれない思いだった。同時に、これほど手の込んだ工作を行うスパイ研の人間に、賞賛と怒りが混ざった感情を抱いた。
 石川はなおも言い募ろうとしたが、適当な言葉が思いつかなかったらしく、がっくりと肩を落とした。
「……わかりました。今日は帰らせていただきます」
 そう言うと、石川は髪を掻き上げながら、司令室から辞去した。
「教授、情報が思うように入ってこないんで、かなり焦っているようですね」
 黙って二人のやりとりを聞いていた猿渡が、石川が出ていったドアを見やりながら溜息をついた。同僚として、また親友として、そんな石川を見るのは辛かった。
「焦りもするさ。一週間も経つのに、有益な情報がほとんど入ってこないんだからな」
 榊原は、猿渡からもらったマルボロをふかしながら、苦い声で言った。
「しかし、今、教授に倒れられては困るんだ。教授が過労なんかで倒れたら、探索隊を束ねる人間がいなくなる。そのほうが、こちらにとっては大きな痛手だよ」
 榊原はマルボロを二、三口吸っただけで灰皿に押しつけ、机の上のカードを眺めた。
「さて番長、続きをしよう」
 榊原と猿渡は再びカードゲームに興じた。

 石川は司令室から帰ると、言われたとおりまっすぐ家に帰った。連絡は携帯電話に入れるよう、探索に当たっている隊員に通達しておくのを忘れない。
 加納が秘密部屋にやってきたのは、石川が帰った後のことだった。
「教授はいますか?」
「いや、もう帰ったぜ」
 それまで新入隊員に話をしていた澤登が、振り返って答えた。それを聞いた加納は困ったような顔になった。
「ありゃま。じゃあ、明日まで待つか」
 と呟き、そのまま室内に入ってきた。そして、彼の定位置である、窓際の一番前の席に座る。
「何か用でもあったのか?」
「ええ。探索隊の状況があまり芳しくないようだから、俺も何か役に立てれば、と思ったんスよ。教授に、俺にも情報収集をさせてくれって頼もうとしたんスけど」
 加納は澤登の質問に答えた。
「でも、お前は行動隊員だろ? 情報収集のやり方はわかるのか?」
「教育隊で、一通り習ってはいます」
「心配だな。やめておいたほうがいいぞ。足がつく可能性もあるしな」
 澤登は、加納を止めた。
「しかしですね、自分のいるサークルでこんなことが起こっているのを黙って見ているというのは、正直言って耐えられないんスよ」
 加納はサングラスを外した。意外につぶらな目がその下からあらわれる。その目からは、今〈オジロワシ〉が直面している事態を憂い、落ち込んでいることが見て取れる。
「それに、もしS件の策略によって会全体が暴徒化した場合、俺はそいつらを狩らないといけません。今までダベリながら稽古していた連中を相手にするっていうのは、心情的にもつらいんスよ」
「気持ちはわからないでもないけど、だからといって、お前さんが動いてどうにかなるというものでもないだろう?」
 澤登が同情しながらも加納を諭す。
「つらいだろうが、黙って耐えろ。最悪の状況にならないことを祈っているんだな」
「はぁ……」
 加納は、不承不承だが頷いた。


管理人のコメント

骨法同好会の不穏な動きを掴んだオジロワシ。しかし、今回の敵はそこからが一味違うようです。

>しかし、その作業は思ったように進んでいない。

これまで情報戦では優位に立ち続けていたオジロワシが、初めてかなり苦戦を強いられています。


>榊原と猿渡がカードゲームをプレイしながらタバコを吸っていた。

上に立つ者は余裕を見せる素振りをしなければならないものですが、流石にこれはやりすぎなような。


>そこで、新入隊員の中から探索隊へ配属が予定されている者を臨時に借り受けようと思うのですが
>まともに機体を操れない新米パイロットを特攻作戦に送り込んだ、そういう日本軍の指揮官みたいになりたいのか?

修羅場において、猫の手でも良いから借りたいと言う石川と、それは非効率だとする榊原。どちらも間違った判断ではありません。それだけに「どちらがより正しいのか?」と言う判断には難しいものがあります。


>俺も何か役に立てれば、と思ったんスよ。
>心配だな。やめておいたほうがいいぞ。

加納と澤登のこの言葉も同様です。専門外の事でも良いから、やらせてほしいと願う方と、やめておけと言う方。どちらも間違いではありません。
しかしながら、こうした発言が出るのは追い込まれた証拠でもあり、それだけに今回のS研の工作が根深いものであることがわかります。はたして、窮地のオジロワシに反撃の機会はやってくるでしょうか?


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