オジロワシ血風録
第三章 更迭
5.学内治安維持組織月例総会議
次の日、木村はいつもより早くアパートを出た。また今日も図書館に篭もり、レポートの下書きを書いてしまわなければならない。彼はそう思い、いつもより一時間早く愛車のエンジンをかけた。リザードパターンの迷彩服をはおり、彼はアクセルを踏み込んだ。
彼が大学の駐車場に車を停めたとき、大学の門は開いていた。この門は平日は終日開放されているのだ。だが、図書館はまだ開いていなかった。木村は司書に事情を話して拝み倒し、中に入れてもらった。
それから、午前中いっぱいを費やして、彼はやっと二ページほどの下書きを終えた。食物連鎖について、ノートや参考資料を見ながら書き留めたところで、休憩することにした。
「あ、もう昼か」
レポートが一段落したので、大きく伸びをした彼は、腕時計を見て現在の時刻を確認した。昨日のように昼食をとらないというのは、健康管理上きわめてよろしくないとわかったので、昼食を取りに食堂へと向かった。ちょうど食堂が混む時間帯だったが、背に腹はかえられない。
ごった返す食堂で、木村はカツカレー定食をさんざん待たされた後で受け取り、空いている席を見つけようとした。しかし、食堂内には学生が溢れかえっていて、空席は見つからない。
仕方なく、木村は中庭へ出ることにした。中庭にはオープンカフェのような席が五、六席あるが、すでにそのすべてが埋まっていた。階段に腰を下ろして食事をとることもできるので、木村は階段のほうへ向かった。ここにはまだ若干のスペースがある。
さて、どこに座ったものか、ときょろきょろしていると、
「木村じゃないか。こっちへ来いよ」
と、聞き覚えのある声がした。見ると、地面に座った石川が手招きしている。
「あ、石川さん」
木村は石川のいるところへと歩いた。
「久しぶりだな」
石川が木村に会うのは先週末以来だ。
「お久しぶりです」
挨拶をして隣に座ろうとした木村だったが、その動きが止まる。不審そうな顔をして、辺りを見回す。
「どうしたんだ?」
「姐御はどうしたんですか? いつも一緒にいるのに。それに、そのサンドイッチ、どうしたんです?」
木村は石川の隣に誰もいないのを見て首をかしげた。いつもなら、礼が石川の隣で弁当を食べているはずだ。石川は今日も自作のサンドイッチを持参してきているが、木村は昨日のことを知らないので、なおのこと驚いた。
「ああ、礼は午前中は講義がないから来ないよ。午後から来るはずだ。弁当をもらえないってことを昨日言われたんで、このサンドイッチは俺が作ったってわけさ」
「そうですか、なるほど」
拍子抜けしたように、木村は言った。
「てっきり、喧嘩でもしたのかと思ったんですけど。で、弁当を自分で作ってこないといけないのかな、と思って」
「お前な、なんで俺が礼と喧嘩しなくちゃいけないんだよ」
石川が言った。むくれた顔になっている。
「そうですね。石川さんたちの仲の良さは、大学でも一、二を争いますからね」
「なんだよ、それ。誰がそんなこと言ったんだ?」
「猿渡さんです」
「……あの野郎」
石川は猿渡のいかつい顔を思い浮かべた。あの皮肉屋なら、確かにそのくらい言いかねない。もちろん、いい意味で言ったのではないだろう。僻みの混じったものであるに違いない。
「ところで木村。レポート書いてるんだって? 昨日は講義をすっぽかして、図書館に篭もりきりだったそうじゃないか」
石川の何気ない一言に、木村はぎくりとなった。昨日あったはずの〈オジロワシ〉の例会――正式名称は学内治安維持組織月例総会議――に出席しなかったのだから、そのことで責められるのではないかと考えたのだ。
驚いた拍子に、口に入れていたカレーと白米が少し気管に入る。盛大に噎せかえる木村を見て、石川が大丈夫かと言って、背中をさする。
「……な、なんで知ってるんスか?」
やっと落ち着いた木村は、目元に浮かんだ涙を拭いながらたずねた。
「ん? 礼が後輩から聞いたんだってよ。お前さんと同じ講義を受けてるって話だ。代返頼むって言って図書館にすっ飛んでいったんだって? 無茶するな、お前も」
石川の口調はからかうような調子のもので、とても木村を責めているようには見えない。木村は少し安心した。
「ええ、確かに昨日、俺は図書館に篭もってました。例会に出られなかったのは、言い訳のしようもありません。すいませんでした」
木村は頭を下げた。話題が話題だけに、小声になっている。
「何言ってるんだ。昨日は例会の日じゃないぞ」
「え?」
怪訝そうな石川の顔を見て、木村はきょとんとした。昨日は六月の第一月曜日。確か例会があるのは……毎月第一火曜日である。
「……あ。き、今日が例会ですか?」
木村はこめかみのあたりに汗が浮かぶのを感じた。曜日の感覚すらなくなっていたのか。木村は恥ずかしさのあまり、逃げ出したくなった。
「そうだ。今日が例会だ。出れるな?」
石川は、慌てた様子の木村を見て苦笑した。
「あ、はい。出ます」
木村は、気を取り直して、スプーンをとった。
「正直な話、有資格者全員に出てもらわないと困るんだ」
石川は声をひそめた。
「まだ実験をしてないんで詳細は不明だが、どういうわけかコバルトが硫黄に激しく反応しているらしい」
石川は、〈オジロワシ〉内部で通じる符丁を使った。
『実験をしていない』というのは未確認情報であること、『どういうわけか』というのは何者かの干渉が認められること、コバルトとは骨法同好会を、硫黄はスパイ研を表す。『激しく反応する』というのは暴徒化する、もしくは過激化することを指している。つまり石川は、『まだ未確認情報だが、骨法同好会がスパイ研に煽られて暴徒化しようとしているらしい』といったことを伝えているのだ。
「ああ、その話でしたら、昨日番長から聞きました」
木村は昨日の夜、秘密部屋で聞いたことを思い出していた。
「今日の例会ではそれについての議論をする。何が何でも出ろ。いいな?」
石川は眼光を鋭くして、木村に迫った。
「はい」
木村は、反射的に頷いた。
「結構。では、昼飯の続きを食べるとするか」
言葉の後半は、うってかわって明るいものだった。サンドイッチをつまんで、口に入れる。
「レポートなんてものはな、自分が思ったことを書けばいいんだ。下手にうまい文章を書こうと思うと、絶対期日に遅れる。自分が講義を通じて感じた、特に興味を持ったことを軸にして書いていけばいいんだよ。もちろん、日本語として間違ったものを提出するなんてのはもってのほかだけどな」
ゼミで何度もレポートを書いている石川の忠告は、木村にとって非常にありがたいものだったが、木村はそれを聞いていなかった。彼は骨法同好会がS研の傀儡となったらどうなるかを考えていた。
「でもそれだけだと、小学校低学年の児童が書いた読書感想文みたいな、何の意味もないレポートになる。これじゃ、担当講師は点をくれない。
そこで、比較しやすい二、三の事項を引き合いに出して相違点を述べる。あるいは同じ事柄を多角的に見て、細かく分析してやる。その上でさっき言ったようなことを書けば……おい、木村。聞いてるのか?」
石川は、木村が自分の話を聞かずに何か考えているようなので、ちょっと怒った。
「え? あ、はい」
木村は我に返り、曖昧な返事をするしかなかった。
「じゃあ、俺がなんて言ったか、言ってみろ」
石川は、意地悪く追及してくる。
「え、えっと……」
木村は言葉に詰まった。まったく聞いていなかったのだから、何を言ったか言ってみろと言われても、何も言えない。
「お前、そんなんで、本当にレポートは大丈夫か?」
「すいません……」
石川の溜息混じりの言葉に、木村は力無く応じるしかなかった。石川は、まあいいさと言い、早く食えと木村を促した。そして、自分も残ったサンドイッチを頬張る。木村は持て余し始めたカツカレー定食を懸命に胃袋に押し込んだ。大盛りと言った記憶はないのに、妙に量が多いような気がする。
「今日も何となくまずかったな。じゃあ、俺はこれで。理学部棟に行って、講義の準備をしないといけないんだ」
「あ、では、また後で」
木村は石川の後ろ姿を見送った。そして、やっとの思いでカツカレー定食を平らげると、食器を食堂に戻し、また図書館に向かった。食べ過ぎたので、腹が張っている。
満腹しては眠くなる。こんなことで、本当にレポートが書けるんだろうか? 木村は今更ながらに、漠然とした不安を抱いた。
五限終了後、旧法学部棟の中会議室で〈オジロワシ〉の定例会合が開かれた。この会合には行動隊小隊長に相当する地位より高位の者なら誰でも出席できる。いくつかある会議の中で、もっとも大規模なものだ。
木村は1番隊第三小隊長という職にあるので、出席する権利――とはいえ、半ば義務だ――がある。レポートの仕上がり具合が今一つなので、彼は気分転換を兼ねて会議に出席していた。レポートについては、後で同じ学部の先輩である礼にアドバイスしてもらおうと思っている。
「今日の議題は二つある。
まず一つ目だが、骨法同好会がS研に汚染されかかっているらしい、という情報がある。それに対する対処法を検討する。
もう一つは、今後の対S研戦略に関することだ。このまま強硬路線を継続すべきなのか、それとも路線を変更するのか。今後半年間の短期戦略を決定する。
諸君の活発な議論を期待している」
榊原が開会を宣言すると、石川が発言を求めた。
「今朝になって本格的な情報収集を開始したので、まだ詳しいことはわかりません。S研の内部に潜り込ませているスリーパーからも連絡はありません。そこで、実際に骨法同好会に籍を置いている者から、この場を借りて質問させていただきたいのですが」
「わかった。いいだろう。では、行者。質問に答えるように」
「はい」
会議出席者の中で、唯一の骨法同好会員である加納勇が頷く。彼は4番隊第四小隊の第一分隊長であり、本来なら参加する資格はない。しかし、骨法同好会は二〇名足らずの小規模な組織であり、〈オジロワシ〉隊員で同会に所属している人間は加納しかいないため、特別に参加を命じられていた。
「では、行者。二、三質問させてもらうぞ」
石川はメモ帳を開き、ペンを構えた。
「今回の事件は、骨法同好会内では話題になっているのか?」
「いえ、それといった話はありません。おそらく会長か、それに近い者にしか、工作は仕掛けられてはいないのではないかと思います」
石川はしきりに頷いた。加納の顔を見る限り、嘘ではないようだ。
「少なくとも、お前にはそういう工作は仕掛けられていないんだな?」
「はい。S件の人間もバカ揃いではないでしょう。私に仕掛けてくるようだったら、全力で阻止してやるのに」
加納は不敵に笑った。その風貌とあいまって、凄みを感じさせる。
「次の質問だ。顧問は、骨法同好会内部には影響力を持っているか? 顧問に工作を仕掛けられていると思うか?」
もし顧問がスパイ研の意を呈して工作に当たっている、もしくは顧問がスパイ研のエージェントと接触しているのなら、〈オジロワシ〉だけで事件の解決を図るのは難しくなる。理事長を動かして、顧問の罷免をも考えなければならない。
「いえ。顧問はたまに顔を出す程度で、稽古にはまったくと言っていいほど、関与していません」
「そうか」
加納の答えは、石川が考えていた最悪の事態を払拭するものだった。
「稽古は学生だけでやるのか?」
「基本的にはそうです。時折、学外から師範を招き、稽古をつけてもらうこともあります」
「顧問の影響力は、無視していいほどに小さい。そういうことだな?」
「はい」
「ふむ、そうか」
石川は尋問しながら、逐一メモを取っている。
「では、俺からは、これが最後の質問だ。骨法同好会会長・原口良太は、個人的にFSを憎んでいるのか?」
もし原口がFSを憎んでいるのならば、スパイ研と組んでFSとの対決を考える可能性がある。その可能性を探るための質問だった。
「はい。会長はFSを骨の髄から憎んでいます。以前、FSの人間に学内で喧嘩を売られ、気絶するまで痛めつけられたそうです。それ以来、会長はFSの名を口にするのさえ避けているほどで、会長の前でその名前を出したヤツは稽古で痛めつけられています」
「そうか……わかった」
石川はわずかに顔をしかめながら、席に着いた。
(厄介だな。時間はかかるが、原口に接触する人間を徹底的に洗う必要がある)
石川はそう判断した。
「他に何か質問のある者は?」
榊原の言葉が響く。
木村は自分の斜め前に座っている礼が手を挙げるのを見た。榊原に指名され、礼は立ち上がって質問を始めた。
「愚問かもしれないけど、会員の中でFSを憎み抜いている人間は何人いるの?」
「……どういう意味でしょう?」
加納が戸惑ったように問い返す。
「もし会長がS研と協力するかわりにFSと対決するつもりなら、その前にそのことを会員に伝えるはず。そのとき、会員の中からそれに同調する人間がいないとも限らない。
実戦部隊を指揮する立場としては、最終的に何人を相手にすればいいのかわからないと身動きがとれない。それによって対処方法を変えないといけないからね」
礼はそう答えた。少し苦い口調だ。顔は木村からは見えないが、おそらく形のいい眉を微かにしかめているだろう。
「……そういう意味でしたら、新入生以外のほぼ全員がそうですね。もちろん、俺はそう思っていませんが」
加納は顔を強張らせながら、かろうじて答えた。おそらく、今まで一緒に稽古してきた会員のほとんどが反FSの姿勢を明らかにして、学園追放の憂き目にあうのを想像し、寂しさと自分が何もできないことに起因するもどかしさを感じているのだろう。
(行者……辛いだろうな)
木村は加納に同情した。
木村は、加納がどれほど今のサークルに入れ込んでいるか知っている。純粋に強くなりたいと思う一方で、周りの友人と楽しい時間を過ごすのが大好きな加納にとって、小規模だがそれだけに会員それぞれの結びつきの強い骨法同好会は、まさに理想的なサークルなのだ。
しかし、その骨法同好会は〈オジロワシ〉の敵になろうとしている。加納は、今での楽しい時間と、自分に課せられた義務とを天秤にかけなければならない。そして、それは簡単にどちらに振れきってしまうものではないのだ。
木村は改めて、怪しい外見をしているが、ある面ではとても繊細な親友に、心の底から同情した。
「わかったわ」
礼は、それで質問を終えた。
「姐御、今のうちに、うちの隊員にテンションを上げておくように伝えときましょうか?」
木村は礼にささやきかけた。『テンションを上げる』というのも隠語で、『いつでも作戦に参加できるように物質的・精神的準備を整えておく』という意味だ。
「まだ早いわよ」
礼も木村にささやき返す。
「教授が何もつかんでないのよ? 今からテンション上げてたら、いざというときには精神的に疲れちゃうじゃない。テンションを上げるのは、私の指示があってからでも間に合うわ」
「わかりました。差し出がましいことを言って、申し訳ありません」
木村の丁重な謝罪に、
「そんなに堅苦しい言葉を使わなくていいわよ」
礼はかすかに笑って応じた。
「他に質問がないのなら、これで行者に対する質問は終わりだ」
榊原は宣言した。
「この件は教授の調査待ちとする。教授、毎度のことだが、今回もよろしく頼む」
「はい。……しかし、こうも立て続けに厄介事が持ち上がると、探索隊は冷却期間もなしに次の任務を命じられることになるんですよね」
石川は少し声のトーンを落とし、呟くように言った。このように立て続けに探索隊に仕事が命じられるようでは、そのうち一般学生に怪しまれ、存在自体が暴露されかねない。石川の嘆息はそういう意味を言外に含んでいた。
「相手は、こちらの事情などお構いなしだからな」
榊原が石川の意を悟って舌打ちする。
「悪いが、そのあたりはうまく工夫してくれ」
「やってみます」
石川は自信なさげにうなずいたが、一体どうすればいいのか、途方に暮れた表情をしている。
「では、次の議題に移ろう。もう夜も遅いので、多数決で採決を行う。従来通り、強硬路線を以てS研に対処することに賛成の諸君の起立を願う」
榊原の声が終わらないうちに、会議室内にいるほぼ全員が起立した。
ただ一人、3番隊隊長の山田だけが着席していた。彼は〈オジロワシ〉入隊以来、スパイ研を徹底的に弾圧するのにずっと反対しているので、誰も不思議に思わなかった。
「起立多数。よって、今後半年間は、S研に対して強硬姿勢をとることにする」
榊原は起立した者の顔ぶれをじっくりと見定め、大きな声で言った。これで解散と、閉会の辞が述べられる。
「そうそう、レポーターとお嬢、この場に残るように」
思い出したようにつけ加えられた榊原の言葉で、退出しようとする二人を引き留められた。『レポーター』後藤誠は探索隊文学部班文学科分遣隊長、一方の『お嬢』酒井由香は行動隊4番隊第三小隊長なので、この会議に出席している。
「なんでしょうか?」
怪訝そうな顔をして、後藤がたずねた。
「ここではできない話だ。司令室で話そう」
そう言って、榊原は二人を連れて司令室へ向かった。
他の者は、特に仲の悪い二人が呼び止められたことを不思議に思って、互いに顔を見合わせあっている。
その中で猿渡は平静そのものだった。気にする様子もなく、帰り支度をしている。
「番長、なんで司令はあの二人を呼び止めたんだ?」
山田が榊原の後ろ姿を横目で見ながら猿渡にたずねたが、彼はニヤリと笑うだけだった。
そのうちにわかるさ。そう言いたげだった。
管理人のコメント
木村のレポートはさておくとして、骨法同好会危機は徐々にオジロワシ側にも浸透しつつあるようです。
>「お前な、なんで俺が礼と喧嘩しなくちゃいけないんだよ」
この自覚無しのばかっぷ(以下略
>レポートの仕上がり具合が今一つなので
やっぱりダメっぽいです(笑)。
>今での楽しい時間と、自分に課せられた義務とを天秤にかけなければならない。
これは難しい選択です。人間、誰でも守りたいものは一つだけではありませんから、こういう過酷な選択を迫られる場面は存在します。
加納君は悔いの無い選択を出来るでしょうか?
>3番隊隊長の山田だけが着席していた。
なんだか不審な感じがしますね……そうと見せかけてあるいは、なのかも知れませんが、今後のキーパーソンになりそうな人物です。
>「そうそう、レポーターとお嬢、この場に残るように」
さて、司令はこの二人をどうするのやら?(笑)
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