オジロワシ血風録
第三章 更迭
1.思わぬ伏兵
六月にはいると、学生の服装はガラッと変わる。
それまでは地味な色彩の服を着ていたものが、これからしばらくは薄手で明るい色の服が目立ってくる。まだ朝方は肌寒いことが多く、半袖のシャツを着るには時期が早いが、それなりに学生はおしゃれを楽しんでいるのだ。
しかし、何事にも例外というものはあり、学生の中でも未だに暑苦しい格好をしている集団というのは存在する。
誰が呼んだか「年中迷彩服集団」こと、大学公認サバイバルゲームチーム〈レッド・ロブスター〉の団員たちだ。
経済学部経営学科二年、木村泰徳は駐車場に愛車(中古のマーチ)をとめると、助手席に放り出してあったリザードパターンの上着をはおり、カバンを取って車を降りた。きちんと鍵をかけると、下手な鼻歌を歌いながら校舎へと歩いた。
〈レッド・ロブスター〉の団員は、いついかなる状況であろうと、学園内では迷彩服を着ていなければならないという規則がある。暑くなればなったで、薄手の迷彩服を探しだしてそれを着用するか、袖をまくり上げて着なければならないのだ。
なぜこのような規則があるのか、木村にもわからない。誰に聞いても『サークル結成時からの規則だから』という答えが返ってくるだけだ。もっとも、木村は迷彩服を普段着がわりに着ているような人間なので、あまり積極的に反対しようとは思わない。
「木村。おはよう」
背後から声をかけられる。彼は背後から声をかけられることに慣れていない。一瞬身構えたが、見ると同じ学部の友人だったので、
「オッス」
と木村は明るく挨拶を返した。
しばらくの間たわいもないやりとりが続いたが、ふと友人は木村の服に目をとめて、
「なぁ、木村。そんなの着て、暑くないのかよ?」
呆れたような声だ。
確かに今日は六月にしては暑く、さすがに友人も半袖を着ている。
しかし木村の上着は未だに長袖、しかもダークグリーンを基調としている服だった。見るからに暑苦しい。
「暑いっちゃ暑いけど、気になる程じゃねぇな」
木村は平然とうそぶいた。事実、彼は汗一つかいていない。
「……お前、病院に行ったほうがいいんじゃないか? 体温調節、ちゃんとできてるのか?」
「失礼な奴だな」
木村は怒ったように声を荒げた。
「こう見えても、この服は結構涼しいんだよ。何せ、柄はリザードだけど、ジャングルファティーグ並みの通気性を持ってるんだからな」
「……何、それ? ジャングルファ、ファティーグ?」
その友人は軍装品の類にはまったく疎かった。まったく普通の学生である。
「あ、わかんねぇか。えーとだな、米軍が、ベトナム戦争のときに着ていた迷彩服だよ」
木村が簡単に説明する。本当はこの説明には若干の偽りがあるのだが、木村は訂正しなかった。細かいことを言ったところで理解できないだろう。相手は軍事には何の関心もない大学生なのだから。
「まぁ、その話はいいや。そういえば、レポートの提出期限が近いよな」
友人が強引に話題を変えた。
なんでもない言葉のはずだったのだが、木村がぎくりとしたように顔を引きつらせて立ち止まる。
「……レポート?」
木村はおずおずと言った。
「何のレポートだっけ?」
「忘れたのか? 一般教養の生物のレポートだよ。確か、A4用紙に一〇枚だったかな?」
木村の額に汗が浮かぶ。暑さによるものかどうか、それはわからない。
「……そうだ。思い出した。締め切り、いつだっけ……?」
「確か、今週の金曜だったはずだけど」
「間に合わねぇよ!」
木村は悲鳴をあげた。
木村はレポートというものが苦手なのだ。彼の作文能力は実にお粗末なもので、これまでにまともに書いた文章のうち、もっとも長いもので原稿用紙二枚に過ぎない。それでさえ書き上げるのに三週間ほどかかっていた。小学校時代の読書感想文などは、新学期が始まる前日までその存在を忘れていて(というよりも、むしろその存在を考えないようにしていて)、慌てて物語の粗筋を羅列し、最後の二、三行にありきたりなコメントを書いてお茶を濁していたほどだ。
そんな木村にとって、正味五日間でA4のレポート用紙一〇枚分のレポートをまとめるのは不可能に近い。今まではレポートの提出を義務付けられていない講義ばかりを履修してきたが、それだけでは卒業するには単位が足りないことがわかったため、仕方無しに五つほどレポートを提出しなければならない講義を入れてある。それがどうやら最悪の展開を招くことになりそうだった。
「……俺、まだ手ぇ付けてない」
木村の顔面から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「おい、まずいぞ。間に合うのかよ?」
「ヤバイ……非常にヤバイ……」
木村は完全にうろたえていた。さっきまでの飄々とした態度から、驚くほどの変貌ぶりである。
「確か、あの教授、レポート出さないと、単位はやらんって言ってたよな?」
「ああ、確かにそう言ってたな」
「嘘だよな? な、嘘だよな?」
「いや。去年、あの講義を履修してた先輩もそう言ってたからな。嘘じゃないだろう」
友人は気の毒そうに、すがるような目でこちらを見ている見ている木村に向かって言った。
「……ヤバイよ」
木村は呆然と呟くと、しばらくその場に立ち尽くした。それからはっと我に返ると図書館へ向けて駆け出した。慌てて友人は肩をつかんだ。
「お、おい。どこに行くんだよ?」
「今日は図書館に篭もって、レポートの下書きをする!」
「講義はどうするんだよ! 今日は国際経済学と英会話があるだろ!?」
「代返とノート、頼む!」
木村はそう言い残して、一目散に走り出す。陸上部にも籍を置いているだけあって、じつに素晴らしいスピードだ。見る見るうちに姿が小さくなっていく。
残された友人は、ただ呆然と、小さくなっていく木村の後ろ姿を見ていた。
それから木村は五限の講義が終わるまで、図書館に篭もりきりになってレポートの文面を練っていた。
とはいえ、木村の文章作成能力はあまりにも貧弱で、作業は遅々として進まない。進まないから焦ってしまう。焦ると文案が浮かばず、さらに作業は遅れる。それが焦りを生み……、という完全な悪循環になってしまっている。
それでも彼はレポートのテーマを決め、柱になる項目を絞り込むことに成功した。あとは下書きをして字句を修正し、校正・清書するだけだ。しかし、これから先が彼にとっては難しいところだった。何しろ、ようやく全体の一割程度が終わったばかりなのだ。残り九割は、木村にとって苦手な文章作成や校正作業である。
しばらくの間、何も書かれていないレポート用紙を前にして木村は悶えていた。頭をかきむしったり、腕組みをしたりと、悶え苦しんだ。それでも一向に用紙は埋まらない。
「……今日はここまでにするか」
二〇分ほど悶えた挙げ句、木村は決断した。神経が高ぶっている今、無理にレポートを書こうとしてもできそうもない。今日はここでやめて、明日から下書き作りにかかるのも一つの手だ。木村はそう判断した。
一度決断してしまうと、木村の行動は素早い。参考資料として持ち出していた書籍を返却棚に置き、荷物をまとめると足早に図書館を後にした。
あたりはもう薄暗い。蛍光灯の明かりには羽虫が集まっていた。昼食をとっていないので空腹を感じる。しかしすでに購買部は閉まり、ジュースの自動販売機くらいしか稼動していなかった。いや、カップラーメンの自販機もあるにはあるのだが、全て売り切れとあってはどうすることもできない。
「腹減ったな……」
木村は胃のあたりをさすりながら、ポツリと呟いた。
ジュースなら買えるが、さすがにジュースだけでは満腹感を味わえない。そもそも、昼食・夕食の両方を抜いたのは初めての経験だった。
(部屋に食うものは残ってないし、そもそも口座に金残ってたっけ……? あったとしても、コンビニには行きたくないし……)
今のご時世、二四時間営業のATMもあるが、大学の構内にそのようなものはない。それに木村が使っているのは郵便局であり、こんな時間に現金を引き出すには、コンビニのATMに行かないと無理だ。それと、木村がコンビニ嫌いなのは、スーパーよりも値段が高くなるからだ。貧乏学生にとっては、二〇円三〇円の差はかなり大きい。
(そうだ、秘密部屋に顔を出してみよう。もしかしたら、誰かが何か菓子でも買っているかもしれない)
こう木村は考え、旧法学部棟にある〈オジロワシ〉の秘密部屋へと向かった。
#本編とあまり関係ないネタを頭に持ってくるのは、正直どうかと思うぞ……<自分
管理人のコメント
前回の事件も終わり、季節の変わり目を迎えた湘洋大学。我らがオジロワシの面々もとりあえずは平穏な学生生活を送っているようですが、そうでないのも中にはいます。
>誰が呼んだか「年中迷彩服集団」こと、大学公認サバイバルゲームチーム〈レッド・ロブスター〉の団員たちだ。
いくら公認とは言っても、日常生活で迷彩服はどうかと思いますが、まぁ知名度の高い連中だから良いか。
>「忘れたのか? 一般教養の生物のレポートだよ。確か、A4用紙に一〇枚だったかな?」
>「……俺、まだ手ぇ付けてない」
木村、大ピンチ(笑)。文章に慣れている人でも、五日で10枚のレポートを書くのは結構大変です。
>(部屋に食うものは残ってないし、そもそも口座に金残ってたっけ……? あったとしても、コンビニには行きたくないし……)
追い込まれた感が漂いまくっている一文です(笑)。
さて、この何気ない個人的トラブルから、どういう風に話は展開していくのでしょうか? そして「更迭」されるのは一体?
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