オジロワシ血風録
第二章 リアルバウト・フットボーラー
4.
後藤が何者かに尾行されていた頃、石川は佐伯幸平からラグビー部内の、知り合いのアメフト部員数人からアメフト部内の情勢を、それぞれ聴取していた。
「梶川拓真……」
佐伯が口にした名前を、石川はおうむ返しに呟いた。
「ああ。そいつがここ二週間ほど、田原さんにあれこれと吹き込んでいるんだ」
佐伯は日焼けした顔を引き締めて頷いた。「田原さん」というのは、ラグビー部キャプテンの田原邦岳のことだ。
「もちろん、俺のところにも来たぜ。今ならアメフト部を叩き潰せるってな。俺はスルーしてたんで、そのうち来なくなったけど」
「確かにそう言ったんだな?」
「間違いない」
佐伯の言葉は明確だった。
「っていうか、この時期に二年が入部してくるのは、あからさまに怪しい。普通は一年の春に、入る部活は決めるもんだ。絶対怪しいって、こいつ」
「確かにそうだな。……何となくわかってきたけど、いまいち腑に落ちないところがあるな」
石川はあごに右手を添え、しばらく考えていたが、佐伯が『もう帰してくれ』と言いたげな目で見つめているのに気付き、慌てて佐伯に向き直った。
「悪い、考えこんじまった。すまないな。こんな時間までつき合わせて」
石川は佐伯に向かって謝罪の言葉をかけた。今の時刻は午後一〇時。さすがに構内に人影はほとんどない。隊務の性格上、夜遅くまで活動する〈オジロワシ〉隊員も、もう大半が自宅へと帰ってしまっている。今構内にいるのは、彼らを別にすれば、当直勤務を命じられた行動隊一個小隊程度である。
「気にするなよ。俺にも関係あることだからな」
佐伯はそう言うと、隠し部屋から出ていった。
「さて、俺も帰りたいけど……レポーターから、何も言ってこないな」
石川はいつでも帰れるように身の回りの支度をすると、後藤からの報告を待った。後藤が知り合いのラグビー部員から情報を聞き出すことを、石川は事前の通告で知っている。その報告を受けてから帰宅するつもりだった。
そうして待っている間に、探索隊のアメフト部員から連絡があり、いろいろと情報が入ってきた。
総合すると、アメフト部にはこれといった動きはない。それでもラグビー部の放言の噂が入ってきたらしく、「向こうが来るなら、受けて立つ」という意見があることがわかった。ただ、今のところ口だけで、部全体としては、具体的な行動は起こしていない。
これまでに手に入った情報をまとめていた彼は、隠し部屋の机で、ときどき虚空を見つめてペンを走らせていた。タバコを吸いたいと思ったが、石川は情報を分析しているときは吸わないことに決めているので、我慢しながらメモを取っていた。
唐突に石川の携帯が鳴った。着メロから、探索隊員であることがわかった。石川は規定どおり、五秒間待って、通話ボタンを押した。
「俺だ。……レポーターか。待ってたぞ」
石川は受け答えをしながら、胸ポケットに忍ばせてあるラッキーストライクを一本取り出して、火を付けた。声にところどころ雑音が混ざるのは、携帯電話で話しているためらしい。
『今日聞いた話を簡潔に報告します。ラグビー部主将を煽動しているのは、二年生の梶川拓真という男です』
「そうか。よし、よくやった」
石川は後藤をねぎらって、口元に笑みを浮かべた。佐伯から聞いた情報を裏付けるのに、後藤の情報は欠かせない。一方から見た情報だけを根拠にしてスパイ研エージェントの動きを判断するのは難しい。後藤の情報は、まさに渡りに船だった。
『この名前、私は聞いた事がありません。今日接触した相手の話によれば、つい最近入部してきたらしいです。二年生がこの時期に入部してくるのはおかしいと思い、覚えておきました』
「ああ、そのことだったらビールからも聞いたよ」
石川はメモを取りながら、後藤と話す。その合間に煙を吸い、肺におさめ、そして吐き出す。
「梶川について、すぐに調べてみよう。おそらく奴が、この事件のキーパーソンだろう。ご苦労だった。できれば、梶川について、もう少し詳しい情報が欲しい頼んだぞ」
『はい。……あの、まだ話があるんですが……』
「ん? なんだ?」
必要な事項を聞き、電話を切ろうとした石川だが、なおも受話器の向こうの後藤が何かを話している。
『実は、尾行されまして……。酔っぱらって気付くのが遅れましたが、気付いたときには、かなり近くまで来ていたようです』
「尾行? 一体、誰がお前さんを尾行なんて……」
相槌を打ちながら、吸いかけのタバコを灰皿の縁に置き、しばし考えた。しかし、見当もつかない。
『S研のエージェントが尾行していたのかもしれませんが、どうして俺に危害を加えなかったのかがわからないんです』
「なるほど、それはそうだな」
石川も首をひねるが、真相などわかるはずもない。
「誰が尾行したかはわからんが、とにかく気を付けろ。何かあったら、すぐに報告してくれ。いいな?」
『わかりました。明日は昼休みに一人、放課後に一人、それぞれ接触してみます』
「ああ。それじゃあ、今日はゆっくりと寝ろ」
石川は電話を切ると、長くなった灰を灰皿に落とし、タバコの火を消して、コンピュータの電源を入れ、OSを起動させた。そして、キーボードからパスワードを入力して、マウスを忙しく操作し、データベースを起動した。
彼が検索しているのは、スパイ研会員のリストだ。『Sリスト』と通称されているそのリストには、スパイ研会員全員の氏名・年齢・本籍地・学籍番号・所属学部やサークルなどといった事項が記載されている。このリストを閲覧できるのは〈オジロワシ〉の司令と顧問会議議長、探索隊総隊長、そして探索隊総隊長が許可した人間だけであり、その他の者は『Sリスト』の存在すら知らずに、隊期を全うしていく。
リストには、毎年三〇名前後の氏名が追加され、そしてほぼ同じ数の氏名が消えていく。それはつまり、〈オジロワシ〉の活動の証でもあった。そして、〈オジロワシ〉の作戦が常に成功しているわけではないことも示していた。その不成功の原因は、情報収集の段階にあるものが大半である。そもそも、スパイ研エージェントの会員増加工作を細大漏らさず把握しているならば、〈オジロワシ〉は常にその企みをつぶし、とっくの昔にスパイ研など壊滅しているはずなのだ。
「梶川……梶川、と。……あった」
石川は目的の名をその中に見つけて、指を鳴らした。しかしうまく鳴らなかったので、微かに顔をしかめる。
しばらくそれを凝視していた石川は素早くメモを取り、何かを入力すると、コンピュータの電源を落とした。そしてまたラッキーストライクを一本取り出すと火を付けて、実にうまそうに一服した。
石川は、今回の事件はエージェントの暴走だと思っている。これまでに入った情報を総合すると、工作を行っているのはラグビー部だけのようである。片方だけというのは不自然だ。
(梶川の独断専行ってことだな。間違いなく)
石川はそう結論づけた。
会長からの指示によって煽動工作を行うのなら、ラグビー部とアメフト部、双方の対決ムードを煽って、ここぞというときに全面的に闘争を行わせるはずだ。しかし、ラグビー部にだけ工作を仕掛けているということは、エージェントが単独で工作を行っているということになる。これではこの二つの部を全面戦争に駆り立てることはできない。
(たぶんS研の人間は、絶えず何かしていないと落ち着かないんだろうな)
石川は想像した。
スパイ研の人間はその地位に関わらず、絶えず陰謀を企んでいないと不安なのだろう。まるで何者かに脅されているように怯え、その脅威を排除して己の存在を誇示するかのように陰謀を企み、学園内に不安をばらまくことによって自分たちの存在意義を示そうというのだろう。ある意味で、究極の社会生活不適合者と言えなくもない。
(だが、一体誰に、その存在意義を示すんだ? それに、ただ不安だというだけで、こうも次から次へと陰謀をたくらむかな?)
石川は短くなったタバコを灰皿に押し付け、また一本取り出して口にくわえ、考えた。
単なる自己満足か? それにしては、S研の行動には、一本筋が通っているように見える。その筋が何かはわからないが。
学友会から活動費を多く受け取るため? いや、違う。それなら、もっと別な活動をするはずだ。スパイ研の活動の多くは公にできないものだ。どれだけ言いつくろっても、学友会に活動費の増額を申し込めるはずがない。
日本の現政権に不満を持ち、何らかの政治思想に憑かれて、このような活動をするのか? ……ありえない。昭和三〇年代から四〇年代といった、学生運動華やかりし頃ならいざ知らず、今更そんな理由で活動はしないだろう。もしそうだったとしても、それならそれで、もっと別のやり方がある。
考えに没頭していて、タバコをくわえたままで火を付けてないことに気付いた石川は、オイルライターで火を付けた。このライターは、去年のクリスマスに礼からプレゼントされたものだ。節煙を条件としてもらったのだが、石川はそれを守れないでいる。
(この線は無いな。
……でもなんでこんなこと考えついたんだ? 疲れてるのかな、俺……)
石川は頭を振って、先程の突拍子もない考えを一蹴した。学生デモを煽動するには、今の大学生はあまりにもノンポリ過ぎる。いくら激烈なスローガンを飛ばしても、大半の学生は無視するだろう。
そもそも、そのようなことを企んでいるということがわかっただけで、〈オジロワシ〉はスパイ研を討伐の対象にできる。とてもではないが、何らかの方法で〈オジロワシ〉を混乱させない限り、スパイ研にとって危険過ぎる賭けだった。
そして、〈オジロワシ〉は一枚岩だ。スパイ研に対する対応では、徹底的に弾圧するか、目に余ったときだけ排除するか、各人の間でも意見が分かれるが、基本方針は同じだ。
何かをしでかした、あるいはしでかそうとしているスパイ研のエージェントは必ず叩き潰す。
これが、〈オジロワシ〉隊員全員に共通した考えである。
そのような中にスパイを放てば、ただちに正体がばれる。スパイ研が〈オジロワシ〉にスパイを送り込んだことは、これまでにもいくつか実例があるが、ことごとく見破られている。身元の割れたスパイは、二重スパイになるか、レベルの低い情報を与えられて無価値な存在に成り下がるか、『処分』されるかのいずれかである。数としては、最後の例が圧倒的に多い。
(では、一体どうして奴らは陰謀を?)
石川は再び考え始めた。これがわかれば、スパイ研の行動パターンが解明できるかもしれない。石川はそう思っていた。
そんな彼を現実に引き戻したのは、隠し扉をノックする音である。
「教授、帰りましょう」
礼の声だ。こまごまとした事務処理に時間がかかり、今まで帰れなかったのだろう。
「ああ、わかった。ちょっと待ってくれ」
石川はそう言うと、吸いかけのタバコの火を消し、荷物をまとめると、忘れ物がないか確認してから、隠し部屋の扉を開けた。
「また吸ってたの?」
礼は部屋の中に篭もっている煙を見るなり、顔をしかめてそう言った。
「やめろとは言わないけど、せめて本数を減らしたら?」
「できないんだよ、どうしても」
石川は唇を歪めた。彼は自他ともに認めるヘビースモーカーである。礼からは節煙するように言われているのだが、すでに重度のニコチン中毒になってしまった石川にとって、節煙ですらそう簡単にはできない。
「ま、いいわ。そのことについては今度じっくり話すとして……ねぇ、遅くなったから、どこかで軽く食べていかない?」
「ああ、そうしようか」
石川は頷いた。
唐突に、礼がバスで通学していることに気がついた。そこで愛車のキーをポケットから取り出し、乗っていくかとたずねた。礼は、ありがとうと答えると、一足先に教室から出ていった。彼は礼の後を追って教室を出て、明かりを消した。
(どんな理由で陰謀を企もうと関係はない)
明かりを消しながら、石川は考えた。
(どんな些細な陰謀であれ、この学園内に不穏な空気が流れることは許さない。俺たちは、その芽を可能な限り小さいうちに摘む。それが、俺たちの役割なんだ)
石川は改めて決意した。
管理人のコメント
後藤君の活動と平行して、”教授”石川もラグビー部の内情を探っています。さて…どんな情報が?
>「っていうか、この時期に二年が入部してくるのは、あからさまに怪しい。普通は一年の春に、入る部活は決めるもんだ。絶対怪しいって、こいつ」
いや、今まで気付かなかっただろ(笑)。
>彼が検索しているのは、スパイ研会員のリストだ。『Sリスト』と通称されているそのリストには、スパイ研会員全員の氏名・年齢・本籍地・学籍番号・所属学部やサークルなどといった事項が記載されている。
恐るべき調査力。しかし、これでも氷山の一角なんでしょうねぇ…
>いくら激烈なスローガンを飛ばしても、大半の学生は無視するだろう。
私が大学生の頃も、こういうイタい人たちがいたものです(遠い目)。
>(どんな些細な陰謀であれ、この学園内に不穏な空気が流れることは許さない。俺たちは、その芽を可能な限り小さいうちに摘む。それが、俺たちの役割なんだ)
石川の決意。しかし、この夜彼が考えていた事が、あとで大きな意味を持ってきそうですね。
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