オジロワシ血風録

  
第一章 三号事件



  
1.湘洋学園大学


 桜も散り、新入生も学園生活に馴染み始めた、そしてゴールデンウイークを目前に控えたある日のこと。日付で言えば、四月一九日になる。
 工学部建築学科の新入生・佐々木和孝は、湘洋学園大学キャンパスの構内を歩いていた。
 その表情は、誰が見てもはっきりとわかるほど暗く、そして重い。
 彼がそんな顔をしている原因は、主に生活環境の変化に伴うストレスによってよく寝られないことだが、それとは別の理由もあった。

「おう、佐々木」
 男の一人が親しげに、佐々木の背後から声をかけた。顔中に、さまざまな大きさのにきびがある。
 もう一人の長身の男は、自然に佐々木の横に回り、ごく親しい様子で肩を組む。
 佐々木は背筋が凍りつくのを感じた。表情が引きつり、足が止まる。無視して歩こうとしても、足が動かない。理由は、よくわからない。
 この二人組が、佐々木の頭痛の種だった。

 佐々木がはじめてこの二人組にあったのは、入学して間もないころだった。入学して初めての講義ということで、緊張して物理の講義を受けていた佐々木に、にきび面の男が話しかけてきたのだ。
「スパイ研究会に入らないか?」
 と。
 佐々木は、よくあるサークルの勧誘だろうと思った。だから、サークルはもう決めてあるから、そんなところに入るつもりはない、と突っぱねた。
 男はそのときは、おとなしく引き下がったが、翌日からは相方を連れて、たびたび佐々木の前に顔を出し、入会を迫った。あまりに佐々木が強情に突っぱねるので、この二人から呼び出しを受けて、何度も殴られたこともある。もちろん大っぴらにではない。
 それでも佐々木はうんとは言わなかった。暴力で入会を迫るようなサークルはろくなものじゃないと思ったからだ。
 それに、佐々木が入会したサークルの物理研究部の雰囲気が非常によく、掛け持ちをする気になれなかった。部長の格好は、少し(いや、かなり、か)特異だったが……
 しかし、それからもこの二人はしつこく勧誘してくる。午前2時といったちょうど熟睡しているときに突然無言電話がかかってきたり、大学構内を歩いている最中、背中に「スパイ研売約済」などという張り紙を貼られたり、挙げ句の果てには校内放送で呼び出しを受け、何事かと急行してみたら、二人組が待っていたり。
 あれやこれやが重なり、精神的にタフではない佐々木は、ノイローゼになりかかっていた。

「どうだ? 決心はついたか?」
 囁くように肩を組んだ男はたずねた。佐々木は黙っていた。黙って歩いていた。
 本当に嫌だったら拒絶するべきだろう。自分の意志を伝えないことには、何も解決しない。しかし、今までさんざん拒絶してきたのに、この二人はなおもつきまとってくるのだ。ここで拒絶しても、何の解決にもならない。だから佐々木は沈黙を続けた。
「まだだな」
 話しかけてきたにきび男はそう言うと、肩を組んでいる男に目で合図をした。それを見て、もう一人の男は佐々木から離れた。佐々木は思わず立ち止まった。何か言おうとするが、できなかった。唇に強力な接着剤を付けられたように、口が開かなかった。
「いい返事を期待してるぜ」
 男はそう言うと、佐々木に背を向け、すたすたと歩き出した。佐々木は震えながら、その背中を見送っていた。
 気のせいか、胃が痛い。

 佐々木は学生食堂に入った。周りの学生たちは、一人で黙々と食事をとるか、ゴールデンウイークの予定について楽しく談笑しているかのどちらかだが、彼だけは学生食堂の隅のほうで、食事にも手を付けず、溜息を吐いていた。周りからかなり浮き上がっていることが、誰の目にもはっきりとわかる。誰もが、その雰囲気を怪しみつつも、自分には関係のないこととして無視していた。大部分の学生にとっては、見知らぬ学生が落ち込んでいようと、自分に関係の無いこととして、無視できることでしかなかった。
 佐々木の方も、誰かに声をかけてほしくなかった、というのが正直な感想であろう。嫌な先輩に付け回されているということは言いたくないし、何よりあの二人については、考えたくも無かった。
 一〇分ほど経ってから、ようやく佐々木は箸を取った。冷めかけのCランチ――メインディッシュは鶏の唐揚げとスパゲッティナポリタン――思い出したように食べ、また溜息を吐く。それを繰り返していた。
「どうしたんだい?」
 そんな彼に、突然声がかけられた。
 はっとして顔を上げた佐々木は、見たことのない学生の顔を発見して、怪訝そうな顔をした。
「浮かない顔をして。何か悩み事でも?」
 声をかけた学生――おそらく佐々木より二、三歳上の男が、佐々木の顔を覗き込み、言葉を継いだ。両手には、学生食堂で一番まずいと評判のフライ定食を持っている。
「俺は工学部機械工学科の三年、山田健。あんたは?」
 フライ定食を持った男はそう言って、再び佐々木の顔を覗き込んだ。
「あ、俺、佐々木和孝っていいます。工学部建築学科の一年です」
 佐々木は、自分でも気付かぬうちに、氏名と学部学科を教えてしまっていた。それほど、山田のたずね方は自然なものだった。
 佐々木の答えに山田は頷くと、
「どういう字を書くんだい?」
「……なぜ、そんなことを聞くんですか?」
 ここまで来ると、さすがに佐々木は露骨に顔をしかめた。初対面の人間の名前を聞くのは、それほど不思議ではないだろう。しかし、いきなり字まで聞くものか。少なくとも、佐々木にとって、山田の行動は理解できなかった。
「単なる個人的興味……って言ったら、怒るか?」
 山田は、変哲のない表情で答えた。その返事に、
「……はぁ?」
 佐々木は怒るよりも、まず呆れた。盛大な溜息を吐いてみせる。
「冗談だよ。本気にするなよ? な?」
 さすがに山田も自分の言ったことが相手に悪印象を持たせることになると気づき、慌てて訂正する。
「物理研究部の新入生だろ、お前? 俺、あそこの部長とは、ちょっとした知り合いなんだ」
「柳生部長と、ですか?」
「ああ。1年のころからのつきあいでね」
 山田は言った。
 物理研究部部長・柳生晴信は、剣道部と掛け持ちの理学部物理学科生だ。
 先ほど、柳生の格好は少し特異なものだと書いた。彼は現代の大学の構内を、羽織袴に木刀の二本差しという、まるで江戸時代の武士のような格好で歩く変人として、学生の間ではちょっとした有名人となっている。そんな見かけの彼が航空力学を修めようとしていることについて、口の悪い学生などから「たちの悪い冗談にしか見えない」という言葉が飛び交うほどだ。
「で、その柳生から、佐々木っていう新入部員の様子がおかしいって言われたんだ。何か悩みを抱えているようで、できることなら解決できるように力を貸してくれって、頭を下げられたんだよ。で、こうしてお前さんを探していた、って訳だ」
 山田は一息にまくし立てた。
「で、話を戻すけど、何か悩みでもあるのかい?」
「……いえ、特にありませんが」
 佐々木は答えた。嘘だった。あの二人組のことが、一日中頭から離れない。忘れてしまいたいが、忘れさせてくれないのだ。
「本当か?」
 山田は、佐々木の目を覗き込んだ。山田の目は、佐々木の心の奥底まで見透かそうとするかのように光っていた。
「なぁ、つまらない嘘をつかないで、悩みがあるなら話してみろよ。見ず知らずの俺に話したところで解決はできないかもしれないけど、独りで鬱々としているよりは、精神衛生上もいいと思うぜ」
 と、まるで友人に話しかけるように言った。
 佐々木は不思議な感覚にとらわれていた。普通なら、見知らぬ人間に声をかけられたのだから、相手に対する不信感や不気味さを感じるのだが、目の前にいる山田に対しては、そのような気持ちは起こらなかった。それどころか、胸のつかえをこの男に話し、少しでも楽になりたいという気になってきた。
 しかし、佐々木はその考えにおののいた。もしここで、あのことを話したら……。考えるだけでも身の毛がよだつ。
 佐々木の内心の動きを読んだように、山田の目つきが変わった。しかしその変化は微妙なもので、葛藤を続ける佐々木にはわからなかった。
「い、いえ。ほんとになんでもないんです。ただ、ちょっと講義についていけないかな、って思っていたもので、それで、ちょっと……」
 そう言って佐々木は席を立ち、足早に食堂から出ていった。せっかく頼んだ昼食も、半分以上残している。
「お、おい、待てよ」
 慌てた山田が呼び止めたが、佐々木は振り返りもしなかった。
(怪しいな……絶対に何かあるぞ)
 山田は佐々木の背中を見送りながら、直感的に、彼の身辺に何か只ならぬことが起こっていると判断した。佐々木は、何かを強要されている。だが、それがいったい何なのか、想像すらできない。
 いや、正確に言えば、一つだけ心当たりがある。しかし裏付けが無い。そうである以上、山田には何も出来ないといってよかった。
 お節介かもしれない。だが、たとえそうであっても、山田は何かをしなければ気が済まない性格だった。
(このことは、上層部に話しておく必要がありそうだな)
 山田はそう結論づけ、先程まで自分が座っていたテーブルに着き、昼食のフライ定食を急いでかき込むと、食堂を後にした。味など、さっぱりわからなかった。


(つづく)


管理人のコメント

中東からの帰還者(笑)、片岡城一さんからオリジナル作品を戴きました。巨大なキャンパスを舞台に繰り広げられる陰謀劇。燃える設定ですね。

>「スパイ研究会に入らないか?」

むちゃくちゃ怪しいんですが(笑)。


>嫌な先輩に付け回されているということは言いたくないし、何よりあの二人については、考えたくも無かった。

素直に誰かに相談しましょう。一番カモにされやすい間違った態度です。それは。


>彼は現代の大学の構内を、羽織袴に木刀の二本差しという、まるで江戸時代の武士のような格好で歩く変人として

柳生という苗字にはこの上なく似合う格好ともいえますが、やっぱり実際にいたらかなり驚きますね。


>(このことは、上層部に話しておく必要がありそうだな)

そして、「スパイ研究会」に対抗する謎の組織の影。これから激しい暗闘が展開されるのでしょうか?

ところで、この大学、特定のモデルはあるんでしょうか?


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