「風に舞う夢 静かに溶け とらわれの空 今呼び覚ます
幾千の星より ひとつの勇気を
JUST TIME HAS COM NOW!  SET THEM FREE  その叫び 掲げて行け!」
『HOLY WORLD』
「斬魔大聖デモンベイン」OPテーマ(ニトロプラス) 

プロローグ 黒き蒼空に墜つ
1968年3月11日 14時32分
ヴェトナム国家社会主義共和国 ハノイ上空

 地球に存在するすべての生命にとって、重力とは中天からの圧力に他ならない。ニュートンが誇らしげに唱えた事例を持ち出すまでもなく、それは当然の物理法則だ。
 しかし、だからこそ蝶ははばたく能力を得て、鳥は滑空する能力を得て、人は自らが創り出した暴力的な能力でもって地から蹴り上がり続ける。空という高みには彼らにとってそれほどの価値がある。
無論、そのための犠牲も必要となる。重力からの支配に抗いつつ空を飛ぶには、まずもって力が必要だからだ。純粋な生物的能力だけではない。邪魔者を空から蹴落とすための力も必要不可欠だ。特に、世界を滅ぼすことが可能な唯一の種として地上に君臨する人間にとって、空はいまや余りにも狭く、その支配を握って常に競争が行われている。よって犠牲も盛大に生じ続けている。ヒト、モノに関わらず。
今、雲中で黒煙を吐きながら、密林へと落下しつづけている物体も、その事例の1つだった。
物体は鶴のように尖った先端を地に向けながら、ひたすらに地上へと突き進んでいる。錐もみ状態となりながらも、その力強い美しさを必死に保とうとしている。とはいえ、その周囲には物体から吐き出された炎と煙、爆砕された破片、そして物体と同種の存在が好き放題に撒き散らした化学物質で汚れに汚されている。もしかしたら目に見えぬなにものかも漂っているのかもしれない。生けとし生けるものの魂は、その全てがこの星の重力に束縛されていると述べる者もいるからだ。
まさに、この空における生存の為の力の酷使、その証明。
落下を続ける物体は、まさにその最適事例だった。
その物体の名はF4NJファントムU艦載機型。自由主義陣営の盟主たる合衆国が、分断国家の片割れである同盟国日本国――西日本海軍へと売り込みを図った新鋭機。この北ヴェトナムの空で、機銃が皆無であるという致命的な不利をその高速で補いつつ、ミグとメッサーを屠り続ける複座重戦。西日本が保有する最大の航空母艦<凛鳳>からはなたれた、幾度目かの鏃。旭日旗を描いた歴戦の"亡霊"。
哀れなこの機の現状の形態は無残そのものだった。後方から20ミリ以上の機銃を食らった結果として、クリップド・デルタ形状の左翼は部分的にもげ、機体のあちこちから赤い炎を煙とともに噴き出している。この機を重戦たらしめている二基のJ79GE3エンジンは停止状態。銃弾による大穴と傷は機体中に存在し、ファントムUの合衆国製の機体らしい強靭な防御力と、その限界を露にしていた。
コクピットに生存者はいなかった。後部座席のパイロットは頭を打ち抜かれて即死していたし、前部座席はすでに無人で、脱出した痕跡を示すように風防は開け放たれている。この機体から敗北者である彼ら二人が誰であるかを推測するには、機首付近に派手に描かれた十のキルマークと機体番号、そして、翼を持つ乙女を模したノーズアートのみが証拠だろう。
―――そして、重力という触手に抗うすべもなく、瞬く間にファントムUは深緑の腐海へと吸い込まれていった。続いて一瞬の感覚を置き、地上へと激突、爆発を発生させ、周囲の全てをなぎ払っていく。その後に残ったのは無数の焼け爛れた残骸と、不気味に立ち上る黒煙のみ。
おそらくは、この北ヴェトナム――つまりはホーチミンとナチズムに支配されたヴェトナム国家社会主義共和国を最期の空としたことは、この機にとって全くもって不本意な結果だったといえるだろう。2年前、合衆国のマグダネル社の工場において821番目のファントムUとして産声を上げたこの機は、常に自由主義陣営の盾として、ヴェトナムで戦いつづけてきたのだから。そして同時に、機銃が皆無という致命的欠陥を持つ機体にもかかわらずスコアを上げつづけ、ついには西日本空軍初のファントムUダブルエースとなった男の搭乗機として、その存在を世界中に知らしたのだから。
とはいえ救いがないわけではなかった。この機が戦いそして落ちた紺碧にして漆黒の空では、いまだ旭日機を描いた機体"同士"が激しい空戦機動を繰り広げていたし、そしてなにより、この機の撃墜をしっかりと見届け、忘れえぬ記憶として脳裏に刻み付けたものたちがいたからだ。たとえその者達の大半が、敵対国家である大日本帝国海軍航空隊の、そしてこの機を叩き落した本人達であったとしても、気にしなかったに違いない。
なぜならば、黒煙立ち上るその空には、墜ちたるこの機に続くようにゆっくりと落下をしつづける、ひとつの白いパラシュートが揺らめいていたからだ。そう、重力に逆らう道具に過ぎない機体にとって、いつか復讐を遂げることが出来るだろう自らの主人が生き残ることこそが、最も重要なことだった。
―――その主人が、この後に見舞われる運命までは、残骸と化したこの機体も、さすがに予想は出来なかったであろうが。



「おい、どうしたんだ。状況を知らせろベクター07。こちらルーシー01。いったい、なにがあった! この、東日本の奴らの歓声ぶりはなんだ! どこもかしこも万歳三唱をしていやがるぞ!」
「―――が墜ちた! そんな、まさか、あの腕のやつが……」
「はっきり聞こえない! E−2C早期管制機の誘導能力を舐めているのか! メッサーの機銃で胴をぶっちぎられたくなければ、ベクター07、はやく繰り返せ!」
「うるせぇ! ヴァルキューレ01が、墜ちたっていっているんだよ!」
「……なんだと」
「シザース機動で低空に降下した時、山岳に隠れていたメッサーに背後から機銃を食らった。一瞬だった……」
「クソったれ。ヴァルキューレ02はなにをしていたんだ。僚機じゃなかったのかよ」
「燃料が尽きてついさっき引き返した。01は仕方なく単機で交戦していた。運が悪いとしか言えん」
「ならば脱出は!? パイロットは生きているのか!?」
「射出されたパラシュートは1つだけだ。おそらく、フロントシート」
「よし! 生きているんだな? ヴァルキューレ01は―――折原中尉は生きているんだな!?」
「ああ、しかし、ジャングルに吸い込まれちまった。北の奴ら絶対に見つけ出して、さらしものにするに違いねぇぞ」
「判っている。これからすぐにオオサカ・ステーションに救援を要請する。安心しな。<凛鳳>には必ず戻す」
「信じるぜルーシー01。こっちは東のメッサー相手にまだ手がはな―――なんだ!?」
「今度はなんだベクター07!」
「……畜生、東の奴ら、正気かよ。ルーシー01! 俺たちクルーセー……ええぃ、ベクター編隊の無線周波数に急いでつなげ! 奴ら、とんでもないことを言い出していやがる!」
「いったいなんだってんだ、いつもの交信妨害だろ!」
「いいから聞け! あいつら、なんてことを言い出すんだ……」
「クソッ、わかったよ……………なっ」
「どうだ!? 聞いたか!?」
「…………なんて、こと」



「発 大日本帝国海軍 ヴェトナム派遣航空団『西沢』 第4飛行隊指揮官
 宛 日本国海軍 第2護衛戦隊 空母<凛鳳>
本文
 本日14時50分、我々はハノイ基地上空において諸君らの輝けるダブルエース、折原浩平中尉の乗機、F4NJファントムU―――符丁コード"ヴァルキューレ01"を撃墜した。そして同時に、機体周辺において折原中尉本人も即座に救助、生存を確かめた。小さな掠り傷以上の傷は認められない。
我々は彼個人になんの危害も加える気もない。国際条約にのっとり、通常の捕虜として歓待することを確約する。諸君らが米帝の侵略主義的尖兵であり陛下に対する最悪の裏切りを働いた者達であることも考慮する気はない―――今のところは。
ただし。
 もし、早期の返還を望むのであれば、ハノイ"上空"において返還交渉を行う準備がこちらにはある。この交渉に臨む意志あらば、本日から翌日夜明けにかけて、空母<凛鳳>所属のパイロット2人を、1機のファントムUに搭乗させ、派遣されたし。無論この際、合衆国及びその他同盟国が交渉を妨害する不穏な行動を見せた場合、折原中尉の安全は全く保障できなくなる。その点だけは特に留意されたし。
 なお、ファントムU操縦パイロットには、誉あるメッサーエースにして折原中尉最良の僚機、符丁コード"ヴァルキリー02"パイロット、七瀬留美中尉と指定する。
彼女の派遣は交渉実施の最低条件である。
以上。
―――第4飛行隊指揮官 折原 みさお」


レイド・オン・ジャパン
RAID ON JAPAN 

断章]V
泥まみれの戦乙女
――Only One My Lovers――

1、オオサカ・ステーション
3月11日 17時10分
ヴェトナム沖 トンキン湾 西日本第2護衛戦隊


 この時期、自由フランス政府の愚劣な支配方針の最悪の結末として、そして合衆国の紛れもない慢心によって開始されたヴェトナムにおける局地戦――越南紛争(ヴェトナム戦争)は、結果的には北ヴェトナム軍の戦術的失敗・戦略的成功に終わったテト攻勢を経てもなお、激化の一途を辿っていた。
さすがに陸上戦は、両軍ともにテト攻勢による消耗を癒すべく小休止――いや、次なる攻勢に向けての準備期間――に入っていたが、空と海の様相は、テト攻勢以前となんらかわっていない。特に、合衆国が開戦以来、徒労感を深めつつも継続する北爆――DMZ以北に対する爆撃――をめぐる海空戦は、衰えを見せる様子はない。これには、テト攻勢に連動して行われたドイツ武装SS義勇航空団『マルセイユ』の攻撃によって、反応動力空母<エンタープライズ>が大破、廃艦となる他ないほどの打撃を被ったことへの報復――という意味合いも存在しているが。すでに世論すら敵に回しつつある合衆国にとり、世界唯一の反応動力艦を失ったという事実は、合衆国そのものの威信を失わせたに等しいからだ。
 無論、その激しい航空戦に、太平洋における合衆国海軍の最良の盟友――西日本海軍も、当然のように巻き込まれている。64年の国場内閣におけるヴェトナム派兵決定以後、西日本海軍はつねに合衆国海軍とともに、ヴェトナムで戦闘を繰り広げていたからだ。しかもその投入戦力は(実質的に航空戦が不可能となるモンスーン到来時期を除き)年々増強されている。当初は、護衛空母<千歳>やヘリ軽巡<矢矧>を主力とする対潜護衛任務群――であったはずのヴェトナム派遣艦隊は、いまや戦艦<大和><甲斐>以下12隻を揃える水上打撃戦部隊である第一護衛戦隊、そして空母2隻、護衛艦艇10隻で編成される空母機動部隊、第二護衛戦隊を派遣するに至っている。空母に関していえば、整備や艦載機の補充、そして世界最大の空母<播磨>を保有する東日本海軍への睨みを利かせるために、全4隻の空母を2隻づつローテーションさせての派遣であったが、他の艦艇に至っては、西日本の第一線艦艇を根こそぎ投入しての派遣となっている(さすがに戦艦<尾張>は現役復帰していない。足が遅すぎたし、なによりも日米ともに、この戦艦をドイツの<マンシュタイン>級に対する対抗馬としてしか価値を認めていなかった)。
 そしてこの日、第一護衛戦隊、第二護衛戦隊は、西日本艦艇遊弋海域――通称"オオサカ・ステーション"に展開、ともに合衆国の北爆、その支援に参加していた。いうまでもなくそれは他国への爆撃に他ならなかった。日本戦争後の大規模な組織改編時、西日本海軍はその部隊名に必ず『護衛』という二文字を冠することとなった事情を考えると、皮肉としかいいようがない戦いではあったが。

 改<大鳳>級1番艦にして西日本最大の航空母艦、<凛鳳>も、その1隻としてトンキン湾の洋上にあった。
ペアを組んでいる空母は<生駒>だ。すでに、ハノイの物資集積所を叩いた攻撃隊の収容は完了し、<凛鳳>をはじめとする各艦は、空襲圏内からの離脱を開始している。
 世界初のファントムUダブルエースである折原浩平中尉の被撃墜――その報は、すでに日米ともに知れ渡っていた。



 甲板上で開始された戦闘は、すでに10分にわたって行われていた。
 とはいえその経過はまさに一方的。最初に立ち向かった屈強な整備士3名は、すでに防止索付近で仰向けとなっていたし、その後に駆けつけた同僚たちも、今では根こそぎ吹き飛ばされ、甲板に点在する形でダウンしている。現在、防衛戦を繰り広げている艦橋付近では、物量戦とばかりに手空きの乗組員が突破の阻止に徹している。おしくら饅頭を行うようにせめぎ合う彼ら・彼女らにとって恐るべきは、突破を行わんとする人物が、ただの1人の少女だということだった。剣道の有段者で、しかも全国大会クラスの腕前あることを誰かが知っていたならば、ここまで事態は悪化しなかったであろう。しかし現実には、たった一本のブラシを手にした彼女によって、大の大人達が、手もなく叩きのめされている。
そしてまた1人、阻止線を張る一人の若者が吹き飛ばされた。彼は甲板右舷に向かって弧を描きつつ落下し――そして機銃座要員に抱きかかえられた。しかし、彼の犠牲は始まりに過ぎない。見事な、そしてリミッターを外したかのような剣さばきによって、彼女の周囲にする数十人が、同様に甲板の端まで吹き飛ばされた。
「なんだってのよ……」
 周囲から人だかり――その一部を吹き飛ばした少女は、肩で息をしながらそう呟く。右手にはブラシ、左手には握り拳。二つに結んだ髪には赤いリボン。そして瞳には純粋な怒り。
「なんだって邪魔するのよ! 私は、私はただ、東のやつらを叩きのめしにいくだけじゃない!」
「落ち着きましょうや、中尉」
 機関科に属する軍曹が、瘤が出来た顔を思い切りしかめながら、なだめるように言った。すでに少女の全周囲には、再び取り囲むように集まった乗組員達が群れている。
「あれは誰にだって判る罠ですぜ。中尉1人で行っても、みすみす殺されるか、捕虜にされちまうだけです。だから今は、抑えて―――」
「抑えて!? ふざけないでよ!」
ブラシをもった少女は犬歯を剥き出しにして周囲を見回す。
「折原が、折原があんな目に会っているのに、列機の私が黙っていろって!? あそこまであからさまな挑発されて、なにもするなって!? 舐めないでよ!」
 少女はそう咆哮しながら、華麗な動作でブラシを再び構えた。彼女を取り巻く群衆は、気圧されるように一歩下がる。すでにそこで勝敗は決まっていたのかもしれない。少女は、一閃――という文字を具現化したような踏み込みによって、また数人を切り捨てる。彼女を説得しようとした軍曹も例外ではなかった。
そしてその後、ブラシを上空へと投げ放し――少女は右手を空に伸ばす。
 ぱんっと、柄を掴む乾いた音とともに、艦橋に裂帛の叫びが響き渡った。
「七瀬なのよ、あたしは!」
<凛鳳>第69戦闘飛行隊第4小隊所属の西日本海軍中尉、七瀬留美は、左手を腰に当て、全世界に宣言するように、自らの名を高々と述べた。
 留美のその肩口では、エースの称号を示す腕章が、どこか寂しげに光っている。

「ひぃふぅみ……ほぅ、今度は5人やられたか。やるじゃないか、あの子。うちの息子が通う道場に招いてみようか」
 左舷を望む艦橋の窓際で、長身の人物が楽しげにつぶやいた。両手を軍装に突っ込み、口元には軍からの配給煙草「朱」を燻らせ、にやつきながら甲板を眺めている。普段、いかにもやる気なさそうに仕事を行う、彼らしい態度だった。
「おっ、また2人やられた……今の技、なんだかマンガか何かに出てきそうな技だったな。なんだったっけな。今度、<生駒>の千堂の奴に聞いてみるか。あいつなら詳しいだろうし。どうせ、<甲斐>での艦長会議か、明日の<生駒>のでパーティで顔合わすんだしな。もしかしたら、格闘家たる来栖川中将も知ってるかも。お前は知っているか? 副長」
 そういって彼は艦橋に立つ1人の人物に振り向く。しかし、その視線の先の副長――深山中佐は、深々とため息をついた後、尋ねた。
「国崎往人艦長」
「なんだ? 深山美雪副長」
「……止めないんですか?」
「止めないね」
「なんでですかっ!」
「見ていて楽しいからな」
 そう言って、空母<凛鳳>の指揮官である艦長――国崎往人大佐は、唖然とする深山に対し、もともと細い目をさらに細め、楽しげに口を歪めてみせた。
「考えてもみろ。あの、いつもは澄ました顔の(といっても、俺たちの前だけだろうが)七瀬が、あそこまで弾けているんだぜ。いやはや全く、折原は幸せモノだな。いくら仲がよいとはいえ、あそこまで慕ってくれる女性はそうそういないぜ?」
その言葉に深山は、この<凛鳳>に乗り込んで何度めかの呆れを覚える。彼女は、国崎のいいかげんな言動に慣れてしまってはいたが、許すことは出来ていない。深山の真面目な性格故の苦労だと言える。
と同時に、数年前まで、彼はめったに笑わない人間であったという噂も思い出す。ここまで人が代わる要因ってのは、なんなんだろ。やっぱり結婚なのかな。それって、そんなに人生にとって大きいものなのかしら。奥さんはかなりすっとぼけたひとだと聞いているけど。
 深山はわざとらしく咳をし、意識を現実に戻した。ともかく今は、このだらけた艦長に対して、副長として進言を続ければならない。たとえこの艦長が、戦闘時には冷徹極まりない判断を躊躇なく下す、尊敬に値する指揮官だとしても。
「では、副長として進言します。止めるべきです。あの調子では、東日本軍の、あの脅迫じみた通信そのままの事態になりますよ」
「そうだな。まったくもって頭が痛いねぇ」
視線を甲板に向けたまま、国崎は気のない返事を返した。そして深山の不快度指数はさらに上昇する。
「本気でそう思っているんなら、そういった態度を取ってください! まったく、折原中尉といい艦長といい、この艦に乗っている有名人は、みな変人ばかりですか!」
 深山はそういって鼻息を荒々しくならした。彼女の言葉は事実だった。艦長の国崎はこんな調子で部下と接する人間であったし、折原浩平は、その言動の奇抜さでいえば、西日本海軍随一だと言われている人物だった。無論、それに比例して、人気と戦果も高かったが。
「わーった、わーった、そんなにかっかするな、副長。ここは演劇の舞台じゃないんだから」
「私が演劇部所属であったことなど関係ありません!」
「はいはい、今見ますよ」
 そういって国崎は、ポケットの中にねじ込んでいた紙切れを取り出し、広げてひらひらと揺らしてみせた。
それは数時間前、ハノイ上空で、<凛鳳>が誇るダブルエースパイロット、折原浩平中尉の機体が撃墜されたと同時に、北ヴェトナムに展開する東日本軍から発せられた電文の内容が書かれたものだった。その内容を要約してしまえば次のようなものになる。
折原浩平を帰してほしければ、七瀬留美をファントムU単機で出撃させろ―――
 完全な、そしてあからさまなにすぎる罠だった。なにしろ、この文面では、折原を返す「交渉」を行うとは述べていても、決して「返還する」とはかかれていない。たとえ七瀬が単機で出撃し、その「交渉」やらに望んだとしても、西日本海軍が得られるものは、貴重なエース二人を1日のうちに失ったという、左翼反戦活動家たちにとっての絶好のネタぐらいなものだろう。失われるまでの過程までは推測できないが。
 深山も無論、それはわかっている、おそらく国崎も理解しているだろう。だからこそ、国崎の楽観的な態度の意味が掴めなかった。
 国崎は壁に背もたれ、煙を吐き出しながら言った。
「<伊吹>の艦隊司令部からも、徹底的に無視しろとお達しが来ている。"ヤンキー・ステーション"のお偉方からも同様だ。まぁ、1護戦の来栖川中将ならば、出来るならば自分がハノイに乗り込みたい心境だとは思うが。とにかく、折原が撃墜されたことは、もうどうしようもない。今後、二度と優良なパイロットを失わない努力を行うこと――艦隊司令部はそう考えているらしいな」
「まったくもって同意見です」
 深山は頷いた。西日本軍がヴェトナムの地獄に片足どころか脇の下まで突っ込んでからすでに数年、内地の世論は、泥沼化しているこの戦場で発生する犠牲に容易に看過できる状勢ではなくなってきている。
 続いて深山は、その補足としての知識を口にした。
「……そして、たとえ七瀬中尉をおびき出そうとしているのが、死に別れたはずの折原中尉の妹――折原みさお中佐であっても」
「耳が長いな。どこで仕入れた、その情報」
相変わらずの笑い顔で国崎が尋ねた。しかし、話題としては危ない橋を渡っている。彼女に関する情報は、西日本軍においても、ごく僅かしか判明していない――つまり、上級指揮官でしか知り得ぬ情報だったからだ。
東日本海軍中佐、折原みさお。
東側の公表によれば、ヴェトナムに派遣したドイツ帰りのパイロットにして、西側のエース折原浩平の実妹。
西日本軍にとっては、その生い立ち、経歴などの全てに確証のとれぬ、謎の空戦指揮官。
なぜならば、彼女は日本戦争の最中、入院していた呉の病院を爆撃され、死亡しているはずなのだ。
「一護戦司令部の情報幕僚に、出来の悪い友人がいまして」
深山は小さく舌を出しながら言った。内心で思う。まったく、あんたの情報管理はいいかげんすぎるのよ、みさき。
「ともかく、東の折原みさお中佐が絡んでいるとすれば――なおさら七瀬中尉を出すわけにはいきません。危険です。折原みさお中佐といえば、その名を我々が知ったのは、僅か一ヶ月前、彼女がヴェトナムに派遣されてからのことですが―――」
「数日のうちに、旧式のMig17で合衆国機を食いまくった。それも新型のファントムばかりを」
国崎は後を継いだ。視線は変わらず甲板に注がれているが、表情は戦闘時にみせる指揮官としてのそれに戻っている。
「その後、東や北の宣伝で一挙に有名に。いまではファントムエースの一歩手前までスコアを伸ばしている――らしいな」
「そうです。いまだに西日本軍機と交戦していないとはいえ―――紛れもない強敵です(無論、パイロットの技量ひとつで戦局が代わるはずはないのですが)。合衆国軍は、彼女が率いる2個小隊のミグを『8匹の魔獣』とまで呼んでいるそうですから。まぁそれはともかく、彼女が何を思って折原中尉を確保し、七瀬中尉を誘い出そうとしているは理解できませんが――どちらにせよ、不用意な行動はこちらの命取りです。政治的にも、軍事的にも」
「だろうな」
「では、七瀬中尉の暴動を止めてください。いや、止める命令を下してください。あの子、このままじゃ本当に機体に乗り込みかねません。このまま放置すれば、営倉行き間違い無しの状況になってしまいますし」
 深山は眉を潜めながら言った。
彼女はこの<凛鳳>に乗り込んでからいまだ半年だが、パイロットたちの気質は把握しているつもりだ。その中でも、七瀬留美という少女が、いかに凶暴な性格であることも。彼女を諌めることが出来るのは、高校の時からの付き合いだという折原浩平だけであることも。
 そして、二人は最良のパートナー同士であることも。互いに失われてはならぬ存在だということも。
しかしそれは七瀬と折原にとっての個人的事情。そして軍隊とは、個人的事情などを気にしてよい場所ではない。ここが戦場で、しかも国家の威信がかかった場所であればなおさらだ。
「安心しろ」
国崎は火を消した「朱」を弄びながら言った。
「すでに手は打ってある。もう少ししたら収まるさ。それにな、俺は経験上、知っている」
「なにをですか」
 不思議そうな顔をした深山に対して、国崎はいつものにやついた顔を浮かべて――しかしその目は、どこか遠い過去をみつめているかのように――言った。
「泣きたいときに泣けず、怒りたい時に怒れず、笑いたいときに笑えないやつは、とんでもなく不幸だってことさ」
 
 戦いが急転したのは、ブラシで叩き切った人間の数が30を超え、そしてついに、目前に彼女のファントムU――ヴァルキューレ02を捉えた瞬間だった。
 留美は、その目に乗機を捉えた瞬間、自らの勝利を確信した。数時間前までヴェトナムの空で死闘を繰り広げたヴァルキューレ02。そして、救えるはずだった折原を救えなかったヴァルキューレ02。しかし、今度は違うはずだった。
もう二度と、折原は失わない。どこにも行かせない。それが、私が恋する戦乙女として、なにかに誓った盟約。
それが、彼女がこの空で戦いつづける所以そのものだった。彼女は折原浩平から自身を引き剥がす気はなかった。家庭の事情により、浩平が首都大阪にある国防大学に進学を決めた時、留美が周囲の反対を押し切った末にそれまで通っていた大学を中退し、すぐさま共に軍人としての道を歩み始めたのも、そうであるがゆえだった。
浩平を巡る女性的な対立によって、数年前、親友であり浩平の幼馴染である長森瑞佳を彼の前から排除した時でさえも、その盟約を忘れていない。
留美は思った。そう、"あの時"のように、何も出来ないまま、あいつが消えるのを見ているわけには――絶対にいかない。
絶対に。
人ごみから風のように突き抜けてきた人物に先手を取られたのは、留美がそう決意を確認し、最後の駆け込みを行おうとした瞬間だった。
ある意味、それは奇襲に等しかった。留美は成功を信じていたからだ。
それが誰であるかを認識した時にはすでに遅かった。反撃の構えをする余裕もなく、留美はブラシで襲い掛かる衝撃を弾き返す。木と木がぶつかりあう、空母内では不釣合いな鈍い音響が木霊し、そして続いて鍔迫り合いが開始された。
「……あんたもブラシなの? 似合わないわね」
 留美は苦笑というには凶暴に過ぎる微笑を相手に向けた。
「いつのまにか帰ってきてるし。ホント、嫌みったらしいったらありゃしない」
「僕としては不本意なのだけれどもね。ブラシに関しては、これしか武器がなかったことだし」
 留美につっかかった青年は、邪心のない顔でにっこりと笑った。
「それに、つれないじゃないか。七瀬さん。こういうイベントには誘ってくれないと。僕にも折原君にフラグをたたせるチャンスをくれないか」
「戦場に出もしなかったホモ野郎が……わけわかんないことをほざくなぁ!」
 そういって留美は相手を押し返し、間合いを取る。いいかげん腰と腕が痺れてきているが、気にするわけにはいかない。故障によって現役を退いたとはいえ、剣の腕で素人に負けるはずもない。彼女はブラシの柄の先をカンッと甲板に打ち付けると、目の前に構える相手に叫んだ。
「だったら、だったらなんで邪魔するのよ! あんたも事情はきいてるはずでしょ! 折原を救い出したいんじゃないの、氷上!」
「もちろんそうだが、物事には順序があるということも忘れてはいない。これは艦長からの命令でもあることだし」
 氷上とよばれた青年は、微笑みを絶やすことなく、落ち着いた声で答えた。
彼の名は氷上シュン中尉。留美や浩平と同様に、<凛鳳>の艦載機隊――第69戦闘飛行隊第4小隊の1人だった。立場的にはファントム・ナビゲーター――航法士だ。搭乗する機体は言うまでもなく、ファントムUNJ――符丁コード"ヴァルキューレ03"。
とはいえ、彼の機体は、現在は損傷修理の真っ最中であり、そのため彼は、ここ数日、ペアとともに内地からの新たなファントムUの受領任務を遂行していた。今にしたところでも、沖縄からに長距離飛行から、ようやく帰還したところだった。
 なお、空母<凛鳳>は、彼らファントムU装備の第69戦闘飛行隊の他に、部隊を載せてはいなかった。これには、西日本海軍の空母戦力が、いまだに4隻の大戦型空母――<凛鳳><瑞鶴><生駒><千歳>によって支えられているという、苦しい台所事情と関係がある。つまり、最近の機体大型化傾向に付いていけなくなってきているのだ。<凛鳳>はその回答として、ヴェトナム戦争勃発直後、ファントムUクラスの機体を運用するための大改装を受けた結果、西日本海軍で唯一のファントムU運用空母となっている。そして西日本海軍は、他の空母がどう改装してもファントムUを運用できない代わりに、<凛鳳>の全ての艦載機をファントムUとすることによって、艦載機性能の向上をなんとか図っていた(その影響で、<生駒>や<千歳>などの比較的小型な空母は、AD−1スカイレーダーの日本生産型<新星>や、A4Cスカイホークなどの攻撃機のみしか搭載していない。残る<瑞鶴>はファントムUを搭載できない代わりに、全艦載機をF8クルーセーダーにしている)。
 ブラシを構えたまま、シュンは続けた。衆道趣味をもっていると噂される所以である、その歯がゆいまでの笑顔は消さない。
「もちろん、住井君の死には憤りを感じているし、折原君が捕虜となったのには、僕らにも責任があることも理解している。僕らヴァルキューレ03、04は、つい1時間ほど前まで艦を空けていたし、君のヴァルキューレ02は、いつものとおり派手な空戦機動を行った結果、燃料不足で引き返してしまった。そういえば、君の相棒はどうしたんだ。姿が見えないが」
「ああ、真希ね。悪いけど、ファントムから降りた直後、私を止めに入ったんで、速攻でダウンさせてもらったわ。今は医務室で寝ている」
 留美はほんの少しの罪悪感を滲ませながら言った。彼女にとって広瀬真希少尉――ヴァルキューレ02の航法士――は、親友に他ならなかったからだ。しかし、彼女にとって、折原浩平の安否はその親友の安否より上位の価値をもっていた。
「それはいけないね」シュンは苦笑した。「航法士なしで君はファントムUを奪い、ハノイに殴りこみをかけるつもりだったのか? 無謀すぎるね。それだったら<生駒>でF3デーモンを借りたほうが賢明だ。あれは単座だから。それとも、そこまで深く考えていなかったのかい?」
「……う、うるさい!」
留美は顔を真っ赤にしながら言った。シュンの最後の推測が、まったくの図星だったからだ。
「ともかく、私は今から折原を助けにいく! たとえ1人だって関係ない! みさおだかなんだかしらない妹に、折原を好き勝手に弄ばれてたまるもんか!」
「遊ばれているのは君のほうだよ。現に、君が出撃してしまえば、彼女の思い通りになる。折原みさおが"本当に"折原君の妹かどうかは疑問がなきにしもあらずだが」
「相手がだれだろうと関係ないわよ。あんなふざけた挑戦状をよこすバカ野郎のことなんて」
「僕から見たら、どちらもどっちなんだけどね」
「だったら……」
七瀬は再び構えた。幾多の血を吸ったブラシの刷毛が、夕日に当たって鈍く煌く。
「止めれるものなら、止めてみなさいよ。あたしの腕は、すでにご承知済みでしょ」
「そうか」
シュンはにっこりと笑った。そして、なにを思ったか、先ほどまでみせていた構えを完全に解く。闘志さえ消えたようだった。留美でさえも意外な顔を浮かべてしまう。シュンはその顔に向かって、さらに微笑みを大きくした。
そして―――
「では、遠慮なく」
 そう言った瞬間、シュンはブラシを留美に対して投げつけた。留美は一瞬、思わぬ攻撃にたじろいだが、すぐさま反応し、自らのブラシでそれを叩き落す。 
しかし、それが勝負の分かれ目だった。
ブラシとブラシが接触する甲高い音が鳴り響き、留美がその衝撃で動きを固まらせてしまった一瞬の後には、シュンは留美の目前にいたからだ。
驚きの声も罵りのうめきも、漏らす暇などなかった。
次の瞬間、留美の意識は、腹部への激痛と鈍い音響、掌底を放ちつつにっこりとするシュンの笑顔、そして、折原浩平と初めて会った時のデジャヴとともに、ゆっくりとブラックアウトしていった。
「……相手と同じ土俵で戦う必要は、ないってことだよ」
 意識が完全に途切れる刹那、シュンのそんな憎たらしい台詞も、聞こえたような気もしたが。



 反射的に起き上がった先には、見たことのある鉄の壁があった。
数秒の意識の混乱の後、留美はそこがどこかを理解した。1年ほど前、Me1110の射撃を食らい負傷した際に世話になった<凛鳳>の医療室だった。そして、自分が寝台に寝かされていたことも理解する。周囲では、おとこどもの気持ち悪い呻き声が響いている。
 直後、思い出したかのように、腰と腕に痛みが走る。思わず留美は歯軋りするが、声は漏らさない。そしてその間に、自分が置かれた状況をようやく認識する。
敗者としての、苦い立場を。
「ったく、無理するからよ」
 突然、背後から聞こえてきた声に、留美は振り向く。そこには、自分が(不本意ながらも)意識を失わしたはずの広瀬真希少尉が、困ったもんだといった顔をして、寝台に座っていた。
「いったい、今日で何人の乗組員をのしちゃったと思ってるの。看護科の人たちはカンカンよ。国崎艦長や、坂井飛行隊長の計らいがなければ、今ごろアンタ、営倉行きよ。今は、9番が空いているから、さながらプリズナー9ってとこかしら」
「うっさいわね、好きで負けたわけじゃないわよ」
 そういって七瀬はいつもの調子で返した。
と、次の瞬間、自分が目前の相手になにをしたか再度思い出す。七瀬は思わず顔を逸らし、力なく呟いた。
「……ごめん。私、真希にひどいことしちゃったわね」
 その言葉に真希は、なにか信じられないものを見たかのように目を丸くし、その後、くすくすと笑い始めた。
「気にしてないからいいってことよ。私と七瀬の仲じゃない。アンタにのされたのは、これが最初じゃないし、最後でもないだろうし」
「……そういってくれると助かる」
留美は苦労して笑顔を作りながら言った。その顔を見て、真希は、まぁいいってことよと言いながら留美の肩をぽんぽんと叩いた。
留美と真希。この二人は、高校時代からの親友だった。いや、その説明は正確ではないかもしれない。なぜならば、当時、転校生として真希の高校に来た留美は、真希をはじめとする他の女生徒から嫌われていたからだ。
それがどうして、このような関係へと変換されたかは―――要約してしまえば、ある機会を気に、互いが互いを理解しあったといったところだろうか。
そして、その「ある機会」には、折原浩平が関わっている。真希も留美も、それを忘れてはいない。
「それで……今、何時?」
 留美は周囲を見回しながら言った。残念ながら彼女の視界内に、時計はない。
「アンタがシュンにのされてから、二時間がたってるわ」
「夜8時ってわけね……何か新しい動きは?」
真希は無言で首を振った。
「なにも。ただ、艦隊は、折原の撃墜に対する報復攻撃を行うみたい。今、格納庫では、明朝の攻撃に向けて、整備が続いている。<生駒>も同じみたい。第1護衛戦隊のほうも、1時間前に艦隊から分離して、姿が見えない。ハイフォンでも、明け方に砲撃する気なのかもしれない。あるいは、逆に東日本航空隊をおびき出し、逆に殲滅するつもりなのかも」
「明朝……」
 留美は小さく呟き唇をかんだ。真希の解説など、その一言の単語以外、あまり頭にはいっていない。
明朝。それは、あの通信内容にあった「交渉」のタイムリミットに他ならない。つまり艦隊は、あのわけの判らない挑戦状など、はなから相手にするつもりはないのだ。
気に入らなかった。たとえ、艦隊の方針がまったくの正解だと理解していても、留美は気に入らなかった。まったくもって気に入らなかった。まるで世界中が、留美を例外として、浩平のことを忘れ去ってしまったような感触すら覚える。
舌に、唇からの鉄臭い味がゆっくりと沁みる。自らの焦燥と、いつかの苦い記憶を代弁するかのように。
「……アンタ、またなにかしようっての?」
 さすがの真希も、留美の表情を察して言った。
「やめときなさいよ。どうせシュンのやつにまたのされるわよ。あいつが空手有段者なんで艦長以外知らなかったけど。それに、今度は確実に営倉行きよ。もしかすると、査問会行きかもしれない。戦争どころじゃなくなる」
 だが、留美はうつむいたまま、目線を合わせようとはしない。何かに耐えるように、そして必死に何かを考えている。
「ちょっと……留美ったらっ」。
 真希は肩をゆすった。留美の見事なツインテールが、力なく揺れる
「今、アンタが動いても、なんにもならないわよ! 折原だって、アンタが動くことなんて、望んでいないことくらい判るでしょ。そりゃ、アンタと折原の関係くらい、私だって理解しているけど……。それに、きっとあのバカのことだから、自力で脱出してみせるよ。ともかく―――」
「約束、してたんだ」
 ゆっくりと視線を上げながら、留美は真希の言葉を遮った。
「約束?」
真希は尋ね返した。留美は、うん、とでも言うように頷き、言葉を続けた。
「あいつさ。真希も知ってのとおり、すっごくバカなんだけどさ。"あの時"以来、絶対に約束を破ったことはないんだ。デートに遅刻したこともなかったし、戦っている時でも、私との機動にしっかりあわせてくれる。あの折原が、だよ?」
 留美の思わぬ言葉を聞き真希は思わず苦笑した。二人の関係はともかく、浩平のいいかげんな性格は、すでに周知の事実だったからだ。同僚からは"ばかエース"という称号を頂いているという。いや、ダブルエースとなった後は"ばかばかエース"だ。それが、留美との話となると―――なんともはや。のろけられているのやらなんなのやら。
 留美は構わず言葉を続けた。その瞳は心なしか濡れ始めていることに、真希は初めて気付く。
「でさ、昨日さ、ドンホイから帰って来た時さ、何気なく、いつものように約束したんだ。ほら、<生駒>じゃ月に一回、甲板でダンスパーティやるよね。あれに一緒に参加しようって。もし可能ならば、お互いスコアをプラスして、ひらひらのドレスとビシっとしたタキシードきめて、自慢げに踊ってやろうって」
 真希は小さく頷いた。留美の言うとおり、空母<生駒>では、艦長の千堂和樹大佐が祭り付きであることも合い間って、月に一度、艦隊から参加者を集って、甲板上において仮装も可としたダンスパーティを開催している。真相を述べるならば、それは千堂が自身の趣味を満足させるための手段に他ならなかったが、日米ともに評判はよい。艦隊司令部も、長官の新藤大将や一護戦の来栖川中将が大の騒ぎ好きとくれば、賛同せずにはいられなかった。パーティの名は、この戦争の発端と自身の立場を皮肉り、「コミュニスト・パーティ」と呼ばれている。
 そして、次回の開催は明日の予定だった。いや、数時間後には当日となる。留美はそのことを言っている。
「……折原はさ、『そんなエンギの悪いことやめようぜ』って言ったけど、結局は了承してくれた。だってあいつ、ああ見えてもイベント好きだもの。私と踊るのも好きだもの。だから、私は、今日は絶対に東のやつらを叩き落とすつもりだった。折原を守ってみせるつもりだった……なのにさ」
 そう言葉を区切った瞬間、留美は両腕で真希の肩を掴んだ。はっとした真希は、その手を掴む。留美の手は、まがうことなく震えていた。
 そして、留美は感情を抗いもせず爆発させた。
「なのにさ! 折原はあたしのせいで撃墜されて、妹だかなんだか知らないヤツの道具にされて、あたしは挑発されているというのに、こんなふうになにもできなくて……。今度は、私が約束破っちゃうよ……。また、ダンスパーティの前に、あいつはどこかにいっちゃうよ……!」
 留美の震えは拡大していく。白い寝台に、ぽつぽつと沁みが出来ていく。
「前は1年だった。1年で帰ってきてくれた。私と一緒に踊ってくれた。私の想いに答えてくれた、私を乙女にしてくれたあの日のように。でも今回は何年? 1年? 10年? そもそも、この戦争は終わるの? もう、もうそんなのあたし嫌だよ。待ち続けるのは絶対に嫌だよ! 今度は、私があいつを助けてあげなきゃいけないよ! そうじゃなきゃ、あたし、あたし、あいつにとっての"七瀬"じゃなくなっちゃうよ! 畜生、折原、折原ぁ……」
 留美は真希の両肩を握り締めながら、泣き崩れていった。真希の胸に顔をうずめ、周囲の目も気にせず、大声を上げて泣きつづける。先ほどまで無理やりに形を保っていた七瀬留美という「乙女」は――折原浩平という存在によって形作られた「乙女」は――、完全に崩壊している。
真希は痛いほど痛感していた。自分は、この子との付き合いは長いほうだが――この子にとって、折原の存在は、自分を保つ血肉そのものとなっているとは。
 天駆けるヴァルキューレは、守るべきものがいて初めて、戦乙女となる、か……。
 子供のように泣き続ける留美をさすりながら、真希はそうぼんやりと思っていた。


2、異国よりの魔獣
3月11日 22時30分
ヴェトナム国家社会主義共和国 フクエン 東日本義勇航空隊

 第二次世界大戦に続いて勃発した第三次世界大戦(ユーラシアを制した日独伊枢軸国と、欧州奪還を目指す合衆国との全面戦争)の敗北東西に分断された日本列島に、更なる破壊をもたらしたのみに終わった1950年代の第一次日本動乱――日本戦争。その戦争に、実質的な敗北を喫した東日本――大日本帝国にとって、ヴェトナム戦争は福音そのものだった。
理由は簡単。過度な軍需産業国家として復興されつつあった東日本は、すでにこのころから、世界中の紛争地域に武器を売りさばくことのみによって生き長らえることが出来る、あのやっかいな種の国家体制――つまりは、死の商人――として台頭していたからだ。
要するに、東日本にとってこのヴェトナム戦争は、最良の武器輸出対象であり、一度は崩壊しかけた経済を立て直すためにカンフル剤そのものだった。地理的に見ても、北ヴェトナムが支援を申し出るのに、国家社会主義陣営の首領であるドイツやロシアは遠すぎたし、第3次世界大戦後も中共との内戦を飽きもせずに続けている中華民国、日本人からロシア人にその支配権がうつった満州国も、信用に足る同盟国ではなかった。それに比べて東日本は、(その国土の半分を失ったとはいえ)海洋国家としてのノウハウを積んでいたし、その軍事製品の信頼性も、ロシア人や中国人の造るものよりはよほどマシだった。国家戦略としての正誤はともかく、東日本と北ヴェトナムの関係が密接となるのは、ある意味当然の結末と言えた。
 自由フランス軍の撤退、トンキン湾事件、米軍の本格介入、北爆の開始と、劇的に激しさを増していくヴェトナムの戦争に、東日本がのめりこんでいったのは、以上のような理由からだった。義勇軍としての派兵も段階的に行われ、ヴェトナムに展開する東日本軍は、今では一個師団規模の(ヘリボーン部隊を含めた)陸上兵力と、50機あまりの海軍機、30機あまりの陸軍機という規模にまで膨れ上がっている。
なお、この地における東日本の陸海軍航空隊の指揮系統は(いつものように)統一されていなかった。彼らの組織的対立は、第三次世界大戦、そして日本戦争を経てもなお続いている病理だった。だが、この二つの航空隊は、現地指揮官たちの尽力によってヴェトナム戦争が終わることには完全な共同作戦が可能なほど親密な関係となり、後に、藤堂守大将の総指揮下で発足する東日本空軍の母体となる運命にある。発足後の急成長、中東、シベリアでの活躍、そして統一戦争において果たした役割を考えるならば、ヴェトナムで流された幾多の血こそが、まさに東日本空軍の羊水であったといえる。無論、現段階ではそのような未来など、陸海軍の誰一人として想像してはいなかったが。

 ハノイ上空において、西日本のエースパイロット、折原浩平中尉が撃墜されたこの日に夜、海軍のヴェトナム派遣航空団『西沢』が展開するフクエン基地は、まさに勝利の歓声に湧き上がっていた。
さすがに陸上では、通常どおりの夜間哨戒飛行や、各SAM・レーダーサイトの絶え間ない監視が続けられていたが、フクエン基地の、司令部を兼ねた地下施設だけは違った。ヴェトナム上空で死闘を繰り広げるヴェトナム人、日本人、ロシア人が、ウォッカと日本酒を飲み交わし、それぞれの国言葉で喜びを分かち合っている。なにしろ今回の空戦結果は、つねに数的劣勢下にある派遣航空団にとって、久々の勝利だったからだ。折原浩平の誇るべき撃墜に加え、出撃機数で劣勢にあったのにも関わらず、その他に二機の撃墜を記録し――そして東日本側の犠牲が皆無、という点もすばらしかった。東日本のマスコミが国民に伝える事実とは正反対に、この地の東日本軍は(陸海軍ともに)慢性的な補給不足と、数的劣勢、そして士気の低下に悩まされ続けていたから、今日の戦果を歓喜で迎えるのは、なおさらのことだった。なお、ドイツ人の姿はそこにはない。彼らの航空基地機能は、ドンホイに集中している。
 勝利の宴は、その開始から2時間を過ぎた後も、収まりを見せていない。航空団司令の西沢弘正中将(第二次世界大戦時からの歴戦パイロットで、100機以上の撃墜数を誇る)や、ケプに展開する陸軍派遣航空隊指揮官の遠野中将は、乾杯の挨拶のみを交わして退席していたが、エースパイロット撃墜の報に押し寄せた陸軍パイロットやロシア人の軍事顧問団などは違う。戦闘に参加した海軍パイロットたちと、気分良く酔いながらも議論を戦わせている。陸海軍の組織対立がいまだに激しい本土とは違い、ヴェトナムに派遣された航空隊には、苦楽をともにする影響か、互いを戦友として認め合う空気が存在していた。
 そうした喧騒の中、大日本海軍少佐、美坂香里は、先ほど大柄のロシア人に次がれたウォッカを宴会場の壁にもたれかかりながら、舐めるように飲んでいた。彼女は前の戦争からの歴戦の戦闘機パイロットだ。
酔いが醒めてしまったのか、内心のある思いが首をもたげてきたのか、妙に乾いた気分になってしまっている。まったく、ロシア人ってのは、こんなキツいものを飲みながら仕事するから、あんな不細工な設計の機体を―――
「おいどうしたミサカ、そんなシけた面をしていたら、今日の宴会がおじゃんだぞ」
 顔を程よく赤くしたロシア人が、上機嫌な調子で尋ねてきた。気分良く酔っているらしいが、その目の鋭さまでは失っていない。見るものが見れば、特殊部隊指揮官だとすぐさま判る顔つきだった。
香里は目線の数十センチ上にある彼の顔に向けて、ええ、と頷いたが、すぐ目線を手元のウォッカへと逸らした。
「どうも、今日は乗れない気分なの。興奮が冷めちゃったからかしら。今日の撃墜にしても、いくつかの幸運、いや偶然に過ぎないし。まさに完全なラッキーストライク。あなたもみていたはずよ? コンドラチェンコ少佐」
「おいおいミサカ、今日の主役がそんなことを言っていたら、皆失望のあまりトンキン湾に身投してしまうぞ。なんたって君は、あの折原浩平を撃墜した人物なんだからな」
 そういってロシア人は、香里のかたを軽く叩き、威勢良く笑った。
アンドレイ・バラノヴィッチ・コンドラチェンコ少佐。ロシア陸軍から軍事顧問として派遣された特殊部隊「スペツナズ」、そのうちの1人だった。彼は数ヶ月前、ベトナムでの初の任務であったDMZ地帯におけるとある任務――藤堂守という東日本海軍パイロットの救出作戦――以来、この基地の日本海軍パイロットたちと親しく付き合っている。
彼にとって香里は、負傷によって本国送還となった藤堂の部下であり、藤堂と同じく敬意を払うべきファイターパイロットだった。所属はヴェトナム派遣航空団第3飛行隊。日本動乱におけるスコアは知らないが、香里はこのベトナムの空で、これまでに少なくとも2機の敵機を撃墜していると聞いている。それも、旧式の15式局地戦闘機<咆電>――Me1110のライセンス生産バージョン――で、だ。
 そして今日、彼女のスコアは、折原浩之のファントムUを撃墜したことによって、また1つ追加されている。コンドラチェンコの見たところ、友人となった藤堂守が片腕として認めるに相応しい腕の持ち主だと言える。
 もっとも、彼女がそうした腕を持つに至った理由を噂で聞いているコンドラチェンコは、それを素直に喜ぶことは出来ていない。彼女は西日本空軍で戦闘機パイロットを務めている実の妹を殺すために、エースへの道を駆け上がったのだ。
「しかし、その憂いを持つ顔はいささか問題だぞ、ミサカ。なにか理由があるのか?」
コンドラチェンコは上機嫌なまま言った。酔いがまわっているだけでなく、この宴会の場に、あの厄介な政治士官――国家社会主義ロシア労働者党の犬ども――がいないことも、関係しているのかもしれない。
「もしかして、マモルから祝電がこないから落ち込んでいるのか? まったくあいつは女性の扱い方がなっていないな。今度、俺の妹を紹介してやると約束してやったのに―――」
「違うわよ」香里は腕を組みながら、平坦な口調で否定した。「まったく、別の理由」
「それはなんだ?」
「私が今日墜とし、あなたの部隊が確保した人物のことよ」
「折原浩平のことか」
 コンドラチェンコは目を細めた。意識を一点に向けた影響か、酔いが急速に醒めていく。
香里が<咆電>で撃墜し、彼のスペツナズ部隊がすぐさま確保した西日本パイロット、折原浩平は、すぐさま捕虜収容所に送られたと聞いている。しかし、香里やコンドラチェンコは、それがあからさまな嘘であることを知っていた。軽傷を負っていた折原浩平は、このフクエン基地のどこかに、「治療」のためと称して監禁されている。例の、香里達から見れば意味不明な電文を西沢の許可を得て発信した張本人―――折原みさお中佐によって。他の西日本人捕虜を救助、連行したコンドラチェンコの部下の1人が、それを確認していた。
「いったい、なにを考えているの、あの中佐は」
 香里は不機嫌に眉を潜めながら言った。彼女にとって折原みさおは上官ではあったが、同じ飛行隊には属していなかったし、指揮系統にも別だった。一ヶ月前、折原みさおがこのヴェトナムに派遣されてから何度も顔を合わせているが、好意を抱く印象はもっていない。優しげに見える顔つきはどうにも詐欺師臭く感じられたし、酒ではなく乳飲料ばかり飲むところも気に入らない。それに、香里の見たところ、どこか、得体の知れない部分が彼女には存在しているようにも思えたからだ。
手段のためなら目的を選ばない――そういった、狂気に犯されたような部分が。
「私も人のことを言えるような義理じゃないけど、全くもっておかしいわよ。実の兄の恋人か親友なにかしらないけど、あんな電文を発して、いったい、何が目的なの? 七瀬留美が自分の恋敵とでもいうのかしら。ったく、それを墜してしまった私の身にもなってほしいわ。西の奴等に無用な喧嘩を売るようなものじゃない。もし本当に七瀬留美がのこのこ現れて撃墜されでもしたら……こんな基地など、艦砲射撃でなにもかも吹き飛ばされるわよ」
 そういって香里は、コップに残っていたウォッカを、苛立たしげにぐぃと呷った。直後に咽かけるが、我慢する。彼女には、兄弟(姉妹)を求め合うという感情が理解できなかった。何しろ彼女は、10年前、自らの手で自らの妹を撃墜した経験がある。それも、自分の殺意によって。
「なにか、狙いがあるのかもしれない」
コンドラチェンコは、特殊部隊指揮官としての口調で低く言った。
「折原浩平だけでなく、そのペアである七瀬留美をも撃墜する。純軍事的に考えれば、成功すればまさに快挙と言える目論見だな。政治的には愚行そのものだが――君らの指揮官は愚行ではないと考えているのかもしれない。もしかすると、それよりもずっと上の立場の人間が」
「……ふん、もしそうならば、私がこうやって悶々と悩んでも、仕方がないということね。柏木首相かハイドリヒ総統か知らないけど、好きに陰謀をめぐらせればいいのよ」
 香里は諦めたように吐き捨てた。が、その直後に歪んだ微笑を浮かべる。
コンドラチェンコの推測が本当ならば、たとえ折原みさおの起こした行動の結果がどうなったとしても、香里に責任は及ばないはず――そう気付いたからだ。
折原浩平を取り巻く人間関係がどうだろうと、好きにやらせておけばいい。このヴェトナム派遣航空団にとってはどうかは知らないが――知ったことでないわ。私は、私の目的でこのヴェトナムでとびつづけるだけ。ここから数百キロ南の南ヴェトナム、ダナン基地には、私の殺すべき過去の幻影が、まだしぶとく生き残りつづけている。
 香里は近くの机からウォッカの瓶をひっつかみ、自分でグラスに注いで口をつけ始めた。口元は未だに歪んでいる。
そんな彼女の様子を、コンドラチェンコはどこか悲しげな表情で見つめていた。彼のグラスは、先ほどからずっと空だった。

「貴官は……なにを考えているのだ!?」
 香里やコンドラチェンコが勝利者としての宴に身を任している場所から、さらに地下へ数階下った空間―――大日本帝国海軍ヴェトナム派遣航空団司令部に、怒りと呆れがない交ぜになった声が響いた。
周囲は薄闇と、僅かな光を放つ電子機器に包まれ、オペレーターは静寂を守りながら、管制作業を続けている。その貴重な例外は、部屋のまさに中心に置かれた、漆黒の司令官席だった。そこには、航空団指揮官、西沢弘正少将と1人の海軍士官が、友好的とは言い難い面持ちで向き合っている。
「あの奇妙な電文の発信だけでなく、今度は第631防空ミサイル大隊の指揮権を移譲しろと? 気は確かなのか、折原中尉!」
「まったくもって正常ですよ、西沢少将」
 航空団司令官を前にしても、全く畏縮することない声だった。いや、畏敬の念すら感じられない。指揮官の目前に立つ女性――"折原みさお"中佐にとって、100機以上の撃墜数を誇る西沢は、その程度の人間らしかった。
 なお、彼らの言う第631防空ミサイル大隊とは、大日本海軍がベトナムへと派遣した、地対空誘導弾装備の防空部隊だった。主要な装備は、西側では"ガイドライン"のコード名で知られているHs582"ルールボーテ"(ロシア名称ではSA−2)などの短/中距離誘導ミサイル。ハノイ周辺に配置され、防空戦の際は、各レーダーサイトの誘導にしたがって敵機を迎撃する。空爆に対抗する上で、大隊の存在は航空隊と同等の比重をもっている。
 小さなポニーテールを黄色いリボンで纏めた髪を、ゆっくりとなでながら彼女は続けた。
「第631防空ミサイル大隊は、日本国海軍のもう1人のエースパイロット、七瀬留美を撃墜するために必要な部隊です。私の指揮下において頂ければ、必ず戦果を上げて見せます」
「そういうレベルの問題ではない!」
 西沢は立ち上がり、目線をみさおと同様の位置に上げた。目前の海軍中佐は、青い鳥を信じていた少女が集団暴行を受けた後のように、擦り切れたような鋭さの視線を彼に向けている。
 西沢はその場違いな圧迫感に耐えながら言った。
「貴官が行っていることは、明白な指揮権無視の独断専行だ! なんだあの電文は? 貴官の航空隊が加わった空戦において、折原浩平が撃墜出来たことは快挙に違いない(撃墜したのは美坂大尉だが)。だが、かってに西のやつらを逆上させるようなメッセージを発信し、さらには防空大隊の指揮権までよこせだと? ふざけるのもたいがいにしろ!」
「私の最初の要請を断らなかったは西沢少将、貴方では?」
「それは、貴官が本当に折原浩平の返還に関して『交渉』すると思ったからだ。返還に成功すれば、それは間違いなく我々の政治的な得点になるからな。しかし、貴官は最初から誘き出した敵を『撃墜』するために、あのメッセージを送りつけ、さらには防空大隊まで使用しようとしている。その結果を考えているのか!? 我々がヴェトナム派兵を継続できているのは、米帝の政治的束縛がやつらを縛り付けているが故なのだぞ。敵に軍事的なフリーハンドを許せば、俺たちは瞬時に崩壊する。貴官の行動は、その事態を誘発する危険がるのだ。それを理解しているのか、折原みさお少佐!」
 西沢が述べていることは事実といってよかった。
 現在、合衆国を中心とする自由主義陣営は、南北ヴェトナムを切り裂いているDMZを越えての進撃はおろか、東ヴェトナム領内の飛行場、そして首都ハノイへの空爆すら行っていない。
その理由は――端的に行ってしまえば、ホワイトハウスがこの戦争の拡大を恐れていると同時に、攻撃による反戦運動の広がりを抑えることを望んでいるからだった。
前者の、ドイツとの全面反応兵器戦開始の危機感はともかく、特に後者の問題は、合衆国全土を蝕む問題といってよかった。ヴェトナム戦争の模様がマスコミによって奔流のように全米の家庭で流されるようになってからというものの、戦争の現実を知った合衆国市民はヴェトナムで流されている無数の軍人の血、その代償として得られる筈の未来に疑問をもち始めているのだ。その感情は、テト攻勢における、サイゴンの合衆国大使館へのヴェトコン侵入に代表されるような衝撃的な報道によってさらに助勢されているといってよい。ありていに言ってしまえば、合衆国は史上初めて、自らの国民を敵に回した戦争を遂行しつつあるのだ。
とはいえ、それはあくまで合衆国軍の軍事的束縛を意味するものであって、ヴェトナムにおける軍事的優劣の問題ではない。確かに合衆国軍を始めとする自由主義陣営は、ホワイトハウスの恐怖を体現したかのような任務制限に絡め取られている。しかし、正面戦力でいえば、彼らの戦力は、結局は寄り合い所帯ともいってよい北ヴェトナムの軍事力に対して優勢を誇っている。特にそれは、直接牙を向き合うことがない海軍力で圧倒的といってよいほどの差がついている。テト攻勢における空母<エンタープライズ>撃破の代償として壊滅したドイツ武装親衛隊航空隊が再編途上にある今、洋上で協力無比の海空兵力を展開する日米機動部隊に、北ヴェトナムにとって対抗手段は皆無に近い。
優勢を誇る彼らの政治的トリガーが、東日本側の卑劣な行動によって外されてしまったら―――西沢はそのことを言っていた。
「奴等が全力で我々を叩きに出たら――もう、どうにもならん」西沢はみさおをにらみつけながら、諦観を滲ませた声で言った。「今は、敵が自ら航空撃滅戦のセオリーから外れた行動をとっているから、まだ対等に戦える。だが、やつらが戦術の原則を取り戻したならば、戦力の格差がはっきりしてしまう。貴官も知っているだろう。この北ヴェトナムには、俺たちを含めて200機程度の実用機しか存在しないのだぞ。敵の空母二隻分だ! そして敵は、その数倍の戦力を、無駄な使用で消耗している。よって、程度の戦力でやつらを苦しませている現状の状勢を、こちらから崩すわけにはいかないのだ」
 西沢はそう言い切り、疲れたように席にもたれかけた。「だから貴官の要請は許可できない。可能ならば、折原浩平を返還しろ。それが東日本にとって、最良の策だ」
 だが、彼の言葉を聞いたみさおは、数秒の間眉間を指で弄んだ後、鼻で笑ったような顔を浮かべた。いや、実際に笑っている。口元をゆがめ、西沢を嘲笑している。
「なんだ」
不快感を露にして西沢は言った。
「まだ納得できないか」
「いや」
みさおは苦笑を抑えつつ言った。
「そこまで判っていられるならば、話は早いですよ」
「どういうことだ」
「本気でこちら殴らせてやればよいじゃないですか」
微笑を大きくしたみさおは言い切った。
「な……」
西沢は絶句したような表情を浮かべた。みさおはそれに構わず続ける。
「私の行動が引き金になって敵が激情し、反撃し、こちらが壊滅する」
なかば楽しげな表情をみさおは浮かべていた。
「結構なことじゃないですか。合衆国の首脳部は、軍事的成功に喜ぶよりも、政治的反動――つまりは反戦運動のさらなる拡大に苦しむことになる。今ヴェトナムは、全土がCNNのカメラ砲火に射すくめられている状況なのですよ。こちらの軍事的損害は計り知れないでしょうが、敵の損耗も無視できないレヴェルに達するでしょう。そして、その損害を民衆が許容しなければ? このヴェトナムを巡る政治交渉で、我々"国家社会主義陣営"は、ますます有利になるでしょう。大日本帝国にとっても悪い話ではありません。政治的動向に関係なく、結局のところ北ヴェトナムは我々の援助なしでは立ち行かない。よって、現状の戦力が壊滅した後も、援助を請うことは必然。そして我が国はさらなる軍事需要を得る。以上の理由よって、私の行動は国益に適っていると思いますが。無論、死すべき軍人も存在するでしょうが……大日本帝国再興の礎となるならば、決して無意味な死ではないはずです」
「貴官は」
西沢は苦しげに呟いた。
「このヴェトナムを、俺たちを、国にとってのスケープゴートにするつもりか。あの戦争、祖国解放戦争におけるドイツの忌まわしき役割を、今度は大日本帝国が為せというのか。それも、自ら望んで血を流すことによって」
「それが国益の追求というものです。大日本帝国は何百もの神の下の国なのでしょう? その程度の悪行など、だれが気に止めるのですか? いや、すでに同胞と殺し合っている現状から考えれば……この野蛮な国の運命など、些細な問題ですよ」
口元の両端を引き裂くように歪めたみさおが断じた。
「認められるものか!」
西沢は突然怒鳴った。軍人として祖国に誇りを持ち、祖国を信じて戦ってきたこの数十年間が、みさおの言葉を拒絶していた。
「たとえ貴官の言葉がただしいとしても、俺は認めない! 俺は前の戦争を覚えている。国そのものがドイツ人の道具と化していったあの戦争を。国土を二度も焦土とされた屈辱を。俺たちが同じ轍を踏む――いや、この国に踏ませるなど、俺は認めない!」
 西沢は言い切った。大日本帝国の軍人として敗戦で故郷を分断され、家族を失い、祖国解放を掲げた戦争にすら勝利をもたらすことが出来なかった彼にとって、同様の悲劇を北ヴェトナムに味わすことなど、その悲劇の重さを知るがゆえに出来るはずもなかった。そしてそれが、大ドイツ帝国という、尊大な覇権国家によってもたらされた惨劇だったことも含めて。
 だが、西沢の言葉に対し、みさおは肩の力を緩めて、諦観を滲ませた嘲笑を浮かべただけだった。
「……まったく」
 わざとらしく大きく溜息をついてから、みさおは言った。
「せっかく理論立てて正当性を説明をしたというのに。残念です。西沢中将、ドイツ帰りの中佐を、あまり舐めないほうがいいですよ」
「なんだと」
 西沢の言葉を無視するように、みさおは両手を軽く二度ほど叩いた。その音につられるように、地上へとつながる階段から、指揮所へと人影が入ってくる。西沢はすぐにその人物が誰かわかった。折原みさお中佐がドイツから連れてきた男だった。東日本海軍パイロット、長瀬祐介大尉。確か、人材交流の名目でドイツ本国へと向かい、SSの実験航空隊において経験を積んだ後、みさおとともに日本へと戻った人物だと聞いている。無論、本当のところは、みさおと同様にわからない。
 長瀬は西沢に一礼すると、にこやかに笑顔をふりまきつつ入室した。周囲のオペレーターは、誰一人として気付いたような素振りをしない。 
「長瀬大尉」
困惑の表情で、目前に出現した男に西沢は言った。
「貴官は、たしか折原浩平の治療に当たっているはずでは――」
「そうです。先ほどそれは終了しました」
爽やかというに相応しい笑顔を浮かべたまま、長瀬は答えた。そしおみさおに対して視線を流す。みさおの頷きを確かめた長瀬は、おもむろに西沢の額を右手で掴んだ。
いや、掴んだというよりは―――握ったというに等しい握力。
「なっ!」
突然の行為に、西沢は驚愕の声を上げた。
「なんのつもりだ、長瀬少尉!」
「そして次は、あなたの番です」
 口元に満面の笑みを浮かべながら、長瀬はそう言い放った。そして上官の額にゆっくりと力を込めていく。西沢が苦悶の表情を浮かべていくのをみても、長瀬の笑みは変わらない。どこからかチリチリと何かが焼けるような音響も響いてくる。
「なっ、これはっ、離せっ、どういう意味だ、折原みさお中佐っ!」
両腕で長瀬の腕を引き剥がそうとしながら、恐怖に歪んだ顔で西沢は叫んだ。
「どういう意味だっ!」
「先程申し上げたとおりです、西沢少将」
どこまでも傲慢な瞳で、みさおは言った。
「これが、国益の体現なのですよ」
「それは貴官の個人的――」
「個人的事情と国益をリンクさせることの、どこがいけないのですか? ただただひとつの感情に流されて、なにがいけないのですか? まぁ、そんなことはもはや貴方にとってどうでもいいことです。これからは、私のために動いてもらいますよ」
「貴様!」
 だが、西沢の抵抗もそこまでだった。長瀬の信じられぬほどの握力が掛けられた額の両側から、言葉にし難い「なにか」が電流、いや電波のように全身へと巡り―――それを知覚した瞬間、彼の意識は暗転していったからだ。
 視界が壊れたTV画面のように、ノイズを散らしながら暗黒に染まっていく。彼の意識は、微笑を浮かべる長瀬と、どこまでの冷酷な表情の折原みさお、そして、何事もなかったかのように――人形のように業務を続ける、指揮所のオペレーター達を最後の記憶としていた。
もちろん、彼がその意味を思考することなど、出来るはずもなかったけれども

 ヴェトナム派遣航空団指揮官西沢弘正中将の名でもって、海軍第631防空ミサイル大隊に臨戦待機命令が下されたのは、それから数分後のことだった。命令は当然のように西沢少将の肉声でもって伝えられ、数時間後には正式な書類でもって通達された。軍事組織行動としても、なんら問題のない手続きだといえる。
ただし、第631防空ミサイル大隊のある幕僚は、後にこの命令発動に対して、「内容の是非はともかく、命令を伝えた西沢少将の声は、どこか奇妙に平坦すぎる発音だった」と、後に回想している。


3、同志の如く
3月12日 4時12分
ヴェトナム沖 トンキン湾 空母<凛鳳>


 たとえ真夜中であっても、軍艦というものは機能を停止することは許されない。たとえ、乗組員の大多数が明日の戦いに備えて眠りをむさぼっている最中であっても、ボイラーは炊かれ、電探は作動し、格納庫では夜を徹しての機体の整備が行われている。人間が作り出した政治的環境によって、昼と変わらぬ緊張を強いられるヴェトナムにおいても、それは同じことだった。
 そうした、静寂と喧騒が入り混じった<凛鳳>の艦内を、留美は猫のような足取りで進んでいた。いや、正確には泥棒猫というべきか。音を立てることなく床を踏み、十字路に差し掛かるたびに左右を確認しつつ進む彼女の様子は、ツインテールをぴこぴこと揺らすその風貌と相俟ってまさに泥棒猫に相応しい。
彼女が歩く<凛鳳>艦内は、軍事的常識に従い、最低限の照明しか灯されていなかった。しかし、それでも<凛鳳>のどこか古びたような様子は、薄闇の中でも観察することが可能だった。大日本帝国がその国威の絶頂にあった1945年に改<大鳳>級1番艦として長崎において建造が開始され、完成度80%の段階で米機動部隊の空爆を受け中破、終戦までそのままの状態で放置され、そして日本戦争勃発直前に西日本海軍の艦艇として蘇った、最後の艦隊型空母。すでに20年ちかい年月を現役艦として務めており、軋む床や亀裂に入ったパイプなど、通路の所々に存在する老朽化の跡が、辿ってきた苦難の道を目に見える形で刻んでいる。留美の歩く<凛鳳>の通路は、そうした、連なった歴史というに相応しい静かな空気に充ちていた。
 そして留美は、目指していた場所に誰にも出会うことなく到達する。
<凛鳳>が日本国海軍最大の空母として君臨する力を与えている場所の1つ―――機体格納庫。
その中では、<凛鳳>の保有する全てのファントムの整備が行われ、<凛鳳>の能力を少しでも高める努力が続けられている。無論、留美の愛機であるヴァルキューレ02もその例外ではないだろう。
 ヴァルキューレ02。24時間前ならば、その僚機であるヴァルキューレ01と並び、その翼を甲板に並べていた機体。いまは最良のパートナーを失い、出撃の時を失われた機体。その乗員と同じ様に。
 留美は機械音響が響いてくるその扉の前で、拳を握り締めた。掌に何度めかの、爪が皮膚に食い込む痛み。先ほど流した涙と同じ、苦い痛み。
そう、これが最後のチャンス。ここでしくじれば、もう私には後はない。でも、私は後悔しない。この後に起こることなんて気にしない。折原と今日、<生駒>の甲板で踊れるならば。
折原が傍にいてくれたなら、私、他になにもいらない。
 留美は決意を固めた。そして行動を開始する。ヴァルキューレ02に乗り込むために。静かに扉に手を掛け、誰にも気付かれぬ間に格納庫に忍び込もうと―――
「やぁ、それは愚行だと思うよ」
 その、朗らか極まりない言葉が聞こえたと思った瞬間、留美は口元に手を掛けられ、同時に床へと叩き伏せられていた。背骨に走った激痛に顔をしかめた一瞬の後に彼女がみたものは、優しげに微笑む氷上シュンの顔だった。
 


 周囲は明るい光で充ちている。整備作業に不可欠な光量が、その空間を黄色く色づけている。
「……で、君はまたもや同じ手を使おうとしたと」
「………」
「……あきれてモノも言えないな、僕は」
 シュンは額に手のひらを当てたまま、目の前でふてくされている留美に対し、深い溜息をついた。
 彼らがいる場所は煌々とした明りに充ちた機体格納庫の片隅。シュンは留美を床へと叩き伏せた後、何食わぬ顔でそこへと(留美を引き摺りながら)入り込み、嘘をついた小学生を叱る教師のように留美に説明を求めていた。
彼らの周囲では、人に比べれば巨大というに相応しいファントムが整列し、整備員たちが留美たちを気にすることなく、無数のチェックがなされている。夜間哨戒飛行に出撃している機体を除き、ほぼ全ての機体がここに収められている。数は30から35機といったところか。<凛鳳>よりも大型の<エセックス>級ですら運用を諦めたファントムを運用している結果、<凛鳳>の搭載可能な機体数は第3次世界大戦時の<大鳳>級の半分以下となってしまっている。機体の大型化が旧式空母に頼らざるを得ない日本国海軍に過度の負担を掛けているのだ。日本国海軍はこの現実を打破するために、近代型空母である<飛竜>級の設計を開始していたが、その実戦化はどう見積もっても70年代中盤までかかりそうだった。
 シュンは呆れ顔のまま言葉を続けた。
「さっき、僕はいったじゃないか。ファントムを1人で動かすことなど不可能だと。それにしても真希さんはどうしたんだい? また気絶させたのか」
「真希はもう寝てる。あの子に迷惑はもう掛けないつもりだった」
視線を床に落としたまま、留美は答えた。嘘はついていないと思う。真希が寝ている隙に毛布でがんじがらめにくるんでしまった以外は。
「まったくもう……」
 シュンは留美の言外を察したかのように再び額を手のひらで埋め、頭痛を抑える仕草をした。そして、ほんの少し、険が入った調子で続ける。
「君はわかっているのか、自分のしようとしたことが。昼の一件はまぁ、いいだろう。艦長も理解を示してくれた(僕自身は無茶苦茶な理解だと思うが)。しかし、同じ手を用いれば、こうなることは確実じゃないか。まったく、こうも予想通りの行動を取ってくれるとは――君は、学習能力がないのか。七瀬さん」
「……うっさいわね。これの他に、手段が思いつかなかったのよ、あたしは」
「そうか……。僕は、もう少し君は賢明だと思っていたが、残念ながらそれは誤解だったようだね」
 シュンは再び溜息をついた。七瀬はその言葉に歯をむき出したが、何も言わなかった。少なくとも、折原浩平に関することならば、どうやら自分はシュンの言う通りの人間らしいと自覚していたからだ。
「……で、どうするつもりなの、わたしを」留美は眉に皺を寄せながら言った。「艦長に突き出すの? このまま寝床に返してくれるの? それとも、このまま私に朝まで説教を行うわけ? 私、こんな状況に陥っている暇はないんだけど」
 すねた子供のような口調で七瀬は言った。しかし、それを聞いたシュンは、留美が予想もしなかったような表情を浮かべる。
彼はにやりと口を歪めたのだ。まるで、それでこそ期待通りだというかのように。
「遺憾ながら、僕はそのどれも選択するつもりはない」シュンは留美を見据えながら言った。
「どういうことよ」眉を潜めながら留美は尋ねた。
「僕は君に言った。相手と同じ土俵で戦う必要はないと。ならば」
シュンは留美から背後のファントムへと視線を移しつつ言った。
「ならば、それを実行するだけさ。例えば、騙すなら味方から、とかね」
だから、どういう意味――そう疑問を投げつけようとした時、留美の視界はある一点に釘付けとなった。
そう、シュンが、口元をゆがめながら視線を注ぐ先に。
そこには、<凛鳳>があたりまえのように搭載しているファントムUが存在していた。その登場時は、前例のないスタイルに、醜いという評価を受けたF4ファントムU。今ではそのような不当な評価などなかったかのように、力強いフォルムを留美達に見せ付けている。しかし、どこか違和感が存在する。留美はその違和感が発生する場所に瞬時に気付いく。
牙状のノーズアートが描かれた機首下面に、機銃が存在している。ファントム最大の弱点を克服する、近接攻撃兵器である機銃が。よくよく見れば、他にも無数の改修点が見て取れる。
つまりは、新鋭機。
他でもないシュン自身が本土から持ち込んだ、新たなるファントムU。
 そこまでを認識したところで、留美はシュンの真意を理解した。どうして自分の不手際を責めないのか。どうしてこの場に連れ込んだのか。まさか、まさか、こいつは、このホモ野郎は、私と同じように。
 はっと振り向いた先のシュンの横顔は、いつしか鋭いものに変わっている。
「そして僕はこうも言った。物事には順序があるということも忘れてはいない、と。住井君を失い、折原君を失ったことに憤りと責任を感じていると」
 そういってシュンは、似合わない苦笑いを浮かべつつ、留美をまっすぐ見つめた。
「今こそ、その言葉に従おうと思う。君がここ数時間大人しく寝ていてくれた御蔭で、準備は整った。僕も折原君を救い出したい。無論、同意してくれるよね? 戦乙女たる七瀬留美少尉」
 そしておもむろに手を差し出す。他でもない留美本人に掌底を放った右腕。その掌には、指が食い込んだような傷痕が蒼く残っている。まるで、今の留美と同じように。
「……あんた、顔に見合わず、かなり外道ね」
呆れたような、そしてどこか嬉しげな声で留美が言った。「最初からこうするつもりならば、アンタ、もうちょっと優しく出来なかったの?」
「不器用なものでね、君と同じく」シュンは何食わぬ顔で答えた。「しかし、今は何不利構っていられない。そこは君と同じだと思う。いやはやなんとも不本意ではあるのだけれどね。それで、君の答えは?」
「はっ! 決まってるじゃない。私は七瀬留美なのよ」
 そう言って七瀬は、まるで親の敵かのように、シュンの掌へと自身のそれを叩きつけた。そして渾身の力をいれて握りしめる。とびきりに乾いた音響が格納庫へと響き渡り、続いていつの間にか二人の周囲に集まっていた整備員たちが黄色い歓声を上げる。留美は掌に快感と痛みに憶えながら、再度呆れたような思いを憶える。こいつら、シュンと一緒にグルだったってわけ!? これじゃ、私だけが道化じゃない。まったく、このホモ野郎が……。 
そんな留美を尻目に、シュンは周囲の状況に満面の笑みを浮かべる。そして何が楽しいのか、留美とつながれた手を天高く掲げながら――そして、いつもの清ました笑顔を振り撒きながら何かに向けて宣告する。
「ならば問題ない。軍法会議確定済みの行動の手順は決定済みだ。さぁ、征こう。折原君をダシにつかうような非道な奴等に、僕らがヴァルハラまでの最短距離を教えてあげようじゃないか」
 格納庫に再度の歓声が共鳴し、幾多のファントムUの防弾ガラスに武者震いを強制させ、その場の空気を狂気へと変えていく。かくして<凛鳳>は、七瀬留美という、たった1人の、たったひとつの慕情を発端としての、暴走に向けての一歩を踏み出した。


4、リフト・オフ
3月12日 4時30分
ヴェトナム沖 トンキン湾 戦艦<甲斐>


 西日本海軍第1護衛戦隊は、第二護衛戦隊と分離後、<甲斐><大和>をはじめとする水上打撃艦による輪形陣を組みながら、ひたすら西への航行を続けていた。
彼らの上空には、ダナンの西日本空軍基地から飛来したBARCAP――艦隊上空直衛任務のF4ファントムUが張り付いていた。以前ならば、夜間にこのような布陣を行う必要は感じられなかったが、現在では事情が違ってきている。彼らはテト攻勢における<エンタープライズ>大破という事件において、この明け方という最も注意が散漫となる時間帯に奇襲を食らっており、その轍を二度も踏むわけにはいかなかったからだ。
無論、その輪形陣の外周には、数隻の駆逐艦と対空哨戒機が展開し、幾重にもわたるピケットラインを張り巡らせている。いまだ被害はないものの、ヴェトナム沖に多数の潜水艦―――ドイツの主力反応動力潜である]]][型や、東日本が北ヴェトナムへと有償で引き渡したことが確認されている通常動力型高速潜伊707型が展開していることは確実だったからだ。彼らは、合衆国をはじめとする艦隊に手を出しはしなかったが、その動向を逐一本国や北ヴェトナムへと報告していることは確実だった。撃沈するわけにも行かない存在なので、西日本海軍にとっても、扱いにくい相手だと言える。まぁ、その点は西日本海軍も同様だったのだから、お互い様というべきかもしれない。これら敵潜の動向を探るために、トンキン湾には<むるち>型、<まんだ>型などの数隻の通常動力潜が、常に監視のために張り付いている。
「BARCAP機より入電。1630時現在、いかなる敵性情報も確認されず」
 戦隊旗艦である戦艦<甲斐>艦橋に、CICからの報告が響いた。艦隊周囲を数時間に渡って飛行しつづけるBARCAP機の定時連絡だ。
どうということもない、いつもどおりの報告内容。よって<甲斐>艦長、水木茂大佐はいつもどおりの返信を命じた。
「<甲斐>艦長より返信。了解。睡魔に負けず任務遂行せよ」
 続いて艦橋に、いつもどおりの失笑が広がる。水木の言葉は、BARCAP任務が、その重要性とは裏腹にパイロットにとっては酷く退屈な任務であることを知っての発言だったからだ。空中戦とは違い、空域を旋回しつづけるだけの機動は単調な動作の繰り返しであり、乗るものにとって睡眠欲を沸き立たせる。
 そして静寂が艦橋に戻る。若干の者が動き回る以外、なんの変化のない情景が復活し、人々に倦怠感を惹起させる。
水木は、自らに緊張を再び課す為に、低く唸りを上げてみせた。自身の身に意志が戻る―――その感触を確かめた瞬間、彼は内心の屈託を思い出した。
うちの司令は、なにを考えているんだ、と。
 現在、第一護衛戦隊は、戦隊指揮官である来栖川綾香少将の指揮によって、トンキン湾へと接近しつつある。本格的な上空護衛が存在しない現状としては、危険を伴う行動とも言える。しかしその理由は――残念ながら、戦隊司令部の幕僚以外には今のところ誰にも明かされてない。艦長である水木ですら、情報は回ってきていない。綾香の命令で、最低限のものにしか、作戦行動の意図が伝えられていないのだ。
そして現在、戦隊司令は仮眠中。非常時以外に彼女を起こすことは全艦終日エクストリーム稽古開始と同様の意味を持っていることを考えれば、現在の艦隊の行動を知る手段は、今のところ存在しない。
水木の屈託はそこにあった。情報の秘匿を図る上で、それは仕方のないことかもしれなかった(稽古云々はどうかと思うが)。だが、相手が来栖川綾香であることを考えると、残念ながらそう思うにとどめるわけにはいかない。彼はヴェトナムに派遣されてからここ半年の経験上、半ば確信していたからだ。
戦隊司令である来栖川中将がこうした意図不明の命令を下す時は―――絶対にろくでもないことを考えているということを。
水木は思った。こうした状況は、今回が最初ではない。そう、あの時――テト攻勢を迎え撃ち、ベトコンどもを包囲陣のなかで殲滅した時も、そして、<エンタープライズ>大破の報復として、タンホア橋にミサイルを叩き込んだ時も、今と同じ状況だった。来栖川司令は情報を秘匿し、それを暴露する時は嬉嬉として無茶な任務を遂行する。やはり今度もろくでもないことになるかもしれない。来栖川中将は決して悪い上官ではないのだが、あの、無茶を平然とこなす神経は、どうにかならないものか。まぁ、今回もそうなるとは、決まったわけではないのだが
水木の考えは、ほぼ事実に沿ったものだったと言える(多少、被害妄想的な部分もあるが)。しかし、彼の考えはまだまだ甘かったといわざるを得ない。そう、来栖川綾香という日本国海軍最強にして紅一点の水上打撃艦隊指揮官は、「ろくでもないことになる"かもしれない"」といった、希望的観測で収まる人物ではなかったのだ。
 そして、誠に残念ながら、彼のその屈託――いや、たち悪い予感というべきものは、今度も的中することになる。
何故ならば。
「空母<凛鳳>より緊急入電! 本艦より無許可発艦をおこなった機体あり。パイロットは七瀬留美少尉及び氷上シュン少尉。機体はハノイ上空を目指すと思われる。各艦はこの機の動向に注意せよ! 繰り返す―――」
「はじまったわね!」
 驚愕すべき報告と、歓喜というに相応しい上官の声。同時に響き渡るその矛盾すべき2つの声を耳にしながら、水木は視線を海上から外すことなく、うんざりしたように溜息をついた。あぁ、やはり今度もこうなってしまうのか。彼が自分の考えを訂正した。ろくでもないことに"かもしれない"ではなく、"絶対になる"へ。
 彼の背後では、腕をぶんぶんと振り回しながら、戦隊司令――来栖川綾香少将が、「さぁて仕事仕事!」と、嬉嬉とした――つまり、ろくでもない考えを実行せんとしている――表情で、寝癖も直さず艦橋へと参上しつつあった。

「甲板においてタキシング作業に以降しつつあるファントム、直ちに止まりなさい! 危険です! 貴官の行っている行為は重大なる軍令違反であり―――ええぃもう! 七瀬留美中尉! 貴方だってことはわかっているのよ! さっさと発艦作業を停止しなさい! 停止しないと酷い目に会うわよ! あ、こら、逃げるなっ! とまれぇ、とまってぇ!」
「逃げるなと言われて立ち止まる馬鹿なんてどこにもいないわよっ!」
 アイランドから最大音量で流される静止の声(おそらくはエアボスではなく深雪副長)に対してそう叫びながら、その操縦席に座る七瀬留美は艦尾エレベーターから揚げられたばかりのファントムUを<凛鳳>甲板上のカタパルトデッキへと移動させていった。普段ならば誘導員が定位置までの誘導を行うが、今回の発艦ではもちろん期待できない。スロットルレバーとブレーキを巧みに操りながら左折。ジェットの騒音が響く中、事情を知らない甲板要員が右往左往し、道を空けていく様子が一望できる。留美はそんな彼らを一瞥したのみで、操縦に意識を集中させつつ右舷側カタパルトの真後ろに機体を静止させる。
 シュンと、そして彼と結託した整備員たちの手際は完璧だった。彼らは自らの手でなんらの不自然もない整備計画を作り上げ、シュンの乗機である新型のファントムU――F4GNファントムUの出撃準備をこの瞬間に整えた。同時に「新機材導入のための整備・発艦模擬訓練」と称して、甲板上へと機体を揚げることまで周囲に了承させていたのだ。もちろん、甲板作業を行っていた者たちが、揚がって来た機体に七瀬留美が乗り込んでいることに気付いた時には、このように、もうなにもかもが手遅れ―――というわけだった。
 留美は笑い出したくなっていた。数時間前までは、失意で涙を流した自分が、いまや機上の人となっている。まったく、あたしってなに1人で悩んでいたんだろ。こんなにも、あたしと同じ気持ちのやつらがいるなんて。恋は盲目なんてよくいったものだわ。
 後部席に座るシュンが、開け放たれたキャノピーから身を乗り出して叫ぶ。
「そこの人、カタパルトを固定して!」
 彼らの様子を呆然と見つめていたカタパルト要員は、シュンの言葉に電流が走ったように背筋を伸ばし、ファントムUの機種部から伸び出る射出バーをカタパルトのピストン部へと接続する。どうやら、混乱のあまり、なにも考えることができずに身体だけが行動を起こしたらしい。留美は苦笑した。
 直後、整備員の1人が、不慣れな手つきで手信号を送る。スロットル開けの合図だ。七瀬はそれに軽く頷き、左手に握るスロットルバー推力を次第に上げていく。日本国が合衆国からライセンス生産している富士重工製エンジン、J79<水星>が、唸りをあげて全てを震わす。留美は会心の笑みを浮かべた。シュンの持ち込んだこの機体――留美にとっては初めての機体――に対して、ある確信を得たのだ。
この子は、いい子だ。
「ちょっと七瀬中尉! 聞こえているならば返事をしなさい!」
 コクピットのレシーバーから、歪んだ声が発せられる。先ほどから必死に彼女を静止しようとしていた声だ。やはり深雪副長だった。どうやら国崎艦長は、いまだ就寝中らしい。
「は〜い、きいておりま〜す」
留美は楽しげに答えた。
「ただし、もうでかけちゃいま〜す」
「ふざけるんじゃありません! さっさとそこから出なさい! 今ならばまだ間に合います! 折原中尉は、あなたが動かなくても―――」
「嫌です」先ほどの口調とは一転して、留美はきつく断じた。そして内心の感情を吐き出させる。「絶対に嫌です。あいつがいないこの空で戦いつづけるなんて、絶対に嫌です。あいつは、わたしがいなきゃ駄目なんです。わたしが、あいつがいないと駄目なように。だから、行かせてください――いや、必ず行きます!」
「そんな――ちょっと氷上中尉! 後部席に乗っているのは貴方でしょう!? この機体を扱えるのはあなたくらいなんだから。七瀬中尉をいますぐ止めなさい!」
「残念ながら」シュンは、いかにも困ったような声音で答えた。「七瀬さんのお陰で、体がシートに縛り付けられてありまして。どうしようもないのですよ」
「はぁ? 本当なの七瀬中尉!? 貴方、氷上少尉をどうにかするなんて、どこまで馬鹿力―――」
「んなことやってないわよ馬鹿!」留美はとっさに反論する。氷上は苦笑を漏らすしかない。
「……とまぁ、そんなところでして」
「そんなところって……ええぃ、いいから止まりなさい! 艦は風上になんか向いてないわよ! 止まらないと―――」
「七瀬さん、さっさと発艦してしまったほうがいい」
シュンが冷たく言い放った。
「時間の無駄だ」
「了解っ!」
 そういって七瀬は、スロットルをミリタリー推力にまで上げたことを甲板上のカタパルト要員たちに伝える。状況的にもはや止めようがないと判断したカタパルト幹部が渋々と頷き、大きくてを振り下ろす。カタパルト作動の合図だ。
 次の瞬間、七瀬のファントムUは、空中へと放り出された。しかし彼女の緊張は終わらない。すぐさまアフターバーナーをふかし、急上昇を開始していく。<凛鳳>が発艦に的確な速度と方向でないために、アフターバーナー無しでの発艦を行うには合成風力が不足していたのだ。
 ――そして、<凛鳳>に大混乱をもたらした機体は、夜空の光点となりながら、急速に暗黒と溶け込んでいった。
すべての喧騒を、すべての混乱を、残されたものたちに丸投げしたまま。

「……はぁ」
がっくりと肩を落としながら、深雪はアイランドから飛行甲板へと出た。先ほどの問答のお陰で喉がいたむ。しかし、その上のこめかみはさらに痛かった。これから引き起こされる混乱を思うと、さらに痛みが増すような気がした。
甲板上では、誰もが虚脱したような顔となっている。大半のものが、事態の進展についていけないのだ。唯一、カタパルトの始動を命じてしまった幹部要員が、幕僚の1人に大目玉を食らっている。それ以外の者達には、どこか奇妙な達成感すら感じている表情のものすらいる。
「大変だったようだな」
 背後からなんとも大儀そうな声が聞こえきた。その声の聞こえた方向に、深雪は鬼神のような形相となって振り返った。無論、<凛鳳>副長である深雪にそのような言葉を吐けるのは、この空母に一人しかいない。口元に<朱>煙る艦長、国崎大佐だ。
「……なにが、なにがのんきに『大変だったようだな』ですかっ!」
ずかずかと足音を立てながら、深雪は、アイランドに偉そうにもたれかかる(実際に偉いのだが)国崎に歩み寄った。彼が手にもっている灰皿には、すでにたっぷり1ダースほどの吸殻が積んであった。それを見た深雪はさらに憤怒を増す。
「ずっとそこにいたんですか! だったら止めてくれたらよかったじゃないですか、艦長!」
「いやぁ、あれだけ怖い副長の形相は始めてみたよ」
「そうじゃなくて!」
そう言い捲くし立てている間に、深雪ははたと思いついた。国崎は、決して理由なくして意味不明の行動はとらない。七瀬たちの行動は、直接、国崎の責任に関わってくる。がっくりと肩を落としながら、息を落ち着かせる。
「……それで、どうしてですか」
いまだむすっとした顔のまま、深雪は言った。
「どうしてって?」
「どうして、彼女たちをとめなかったんですか。本当の理由を教えて下さい」
「……そうだな」
国崎はそう呟き、どこか遠くを見るように、夜空を見上げた。甲板では、いまだ収まっていない騒ぎが、妙に波風の音に混ざり合っている。
視線を上げ、煙を波涛と空の狭間へとゆっくり吐き出しながら国崎は言った。
「命をかけて誰かを守りたい、という行動の結果を、結末まで見届けてやりたい――そんな感じで駄目かな、副長?」
「その結末が、悲劇だとしてもですか」
「かもしれない。しかしな、俺はこう思っている」
国崎は煙草を加えたまま、少年のような笑顔を浮かべた。
「だとしても、あいつらは絶対に後悔しないだろう。ならば、いいじゃないかと。諦めをしらない人間がどんなに強いか、俺はよくしっている」
「無責任すぎです」
深雪は肩の力を抜きながら、ようやくのことで微笑んだ。
「艦長としても、人間としても。艦長、まともな社会生活営んだことがないんじゃないですか?」
「俺は軍に入るまで、立派な孤児だったよ。一応、学歴はがんばって取得したが。だから、責任の取り方などしらない――いや、知った事か」
 国崎はそういって、小さく笑いながら<朱>を空へと放り投げた。そして再び<朱>に火をつける。
深雪が見たその背中は、どこか寂しげに黒く染まっていた。まるで、自らの悔いた過去を、空の彼方の二人に投影するかのように。

 飛行は順調に進んでいた。エンジンは快調そのもの。電子機器も、新型機にしては大きなトラブルを来たしていない。そして、小さなトラブルなどは、後部席のシュンが、沖縄での講習で仕入れた知識をフルに生かして、すぐさま解決している。
しかし、すでに時刻は0603時。ヴェトナムの西に上る夜明けまでは―――あと、少し。
「ったく、こんなことになるのならば、もうちょっと説明があってもよかったんじゃない!?」
 J79エンジンの振動に酔うように、留美は叫んだ。彼女の視界には、永遠の続くかと思われるトンキン湾の波飛沫が続いている。
すでになんの迷いもなくなった彼女の声は、愚痴ですら滑らかに走った。
「御蔭であたしは、今日も涙に枕を濡らすことになったんだからっ!」
「なんとも乙女な表現だなそれは。君の精神年齢は中学生あたりか」シュンは嬉しそうに皮肉った。「折原君と君とのデートはさぞかしバカップルなのだろうな」
「ほっといてよ! まぁ、いいわ。ここまでくれば、あんたも同罪よ。絶対に逃しゃしないんだから」
「それは光栄。ちなみにその言葉、僕が始めてかい?」
「残念ながら二人目よ。だから、あんたもいい人、早く見つけなさい」
「のろけは後にしてくれないか。僕はこの後に待ち構える運命だけで、押しつぶされそうなんだから」
「自分が撒いた種だっていうのに、よく言うわっ!」
 そういって留美は、視界に生じた変化に注意を向ける。水平線の先に、なにかが存在していたからだ。おそらくは艦隊ではない。第一護衛戦隊と思われる艦隊には、数十分まえにすでに遭遇している(不思議なことに、なんら妨害の行動はなかった)。
ならば、あれは―――
「氷上、見えたわよ」
留美はスロットルを押し込んだ。
「ヴェトナム国家社会主義共和国。悪しきナチズムの尖兵。同情すべき分断国家。戦火にさらされる罪なき民族。日本人同士が延々と殺しあう悲劇の地」
「君はそのどれだと思っている」
「敵。あたしの大切な人を奪った敵。ただ、それだけ。それだけの大地」
「それでこそ七瀬留美といったところか。そういえば聞き忘れたことが1つあった」
「なによ」
いぶかしむ留美に対し、かみしめるような口調でシュンが尋ねた。
「後悔、しないか」
「あったりまえじゃない!」
留美は躊躇いもなく即答した。
「そうか」
シュンは微笑んだ。彼もすべてを投げ捨てたような声だった。
ならば、もう何も言うまい。しっかりと君の愛馬となろう。手綱の引き方は任せるよ。隣に並ぶ王子様の役は、折原君に譲らざるを得ないが」
「それも、あったりまえのこと!」
 そういって留美は、彼方に見える緑の魔界へと機体を進めた。東方からは朝陽がかすかにのぼり、ただ1機のファントムUを眩しく照らす。そして西方からはドイツ製の無数の電波が、魔獣の触手のように空駆ける戦乙女を怪しく包み込み始めている。しかし、躊躇する理由はどこにもない。約束の地ハノイ上空まで、時間にしてあと数分の距離だった。


5、接触
3月12日 6時15分
ヴェトナム国家社会主義共和国 ハノイ
東日本海軍第631防空ミサイル大隊


 洋上からの敵機接近の報は、すぐさま北ヴェトナムに展開するあらゆる防空部隊に伝達された。北ヴェトナム全土に張り巡らされた防空監視網は、少なくとも洋上から首都ハノイへの進撃を捕捉するに十分な密度を保っている
とはいえその情報の伝わる速度は各軍によってまちまちだった。名目上、ロシア、東日本、ドイツ、そして北ヴェトナム軍は索敵情報をリンクさせ、早期の迎撃態勢確立が可能となっているはずだが、実情は全く違っている。誰も彼もが自軍の手にいれた情報しか信用しないため、信用度が情報の出所によって変化してしまっているのだ。さすがに日本本土で共闘を演じたドイツと東日本軍は例外だったが、彼らとてお互いを完全に信用しあっているわけではない。その証拠に、例えばドンホイを中心に展開するドイツ義勇航空隊は、東日本の各レーダーサイトからの情報を取り寄せつつも、ヴェトナム沖に秘密裏に展開している対空レーダー潜水艦の支援を受けてその精度を確認している。
 今回の索敵情報も、そういった面倒極まりない経路を巡って確証に至ったものだった。そして当然のことながら、この単機でハノイに接近しつつある国籍不明機に対して最も早く行動を起こしたのは、ヴェトナムと同様に「西側」への怨念を募らせる分断国家のひとつ――東日本、その海軍防空部隊だった。
より正確に述べるのならば、ハノイ沿岸に展開した、ヴェトナム派遣航空団「西沢」の指揮下にある第631防空ミサイル大隊、その第14中隊である。

「ハノイ西方の洋上より未確認飛行物体、急速接近中。単機です!」
 第14中隊の保有する警戒/目標探索・追尾用レーダー車(スプーン・レスト・レーダー)からの報告によって、ハノイ近郊の森林に隠されたコンピューター指揮車の内部は俄然騒がしくなった。この報告から数秒後、敵味方識別レーダーからIMFを用いた敵味方識別情報が送られる。結果は無論のことクロ――自由主義陣営が放った侵略の尖兵、つまりは敵機に他ならない。
「目標、我々の地点から約70キロ西南方向を進撃中。間違いなく、ハノイの第71レーダーサイトからもたらされた目標情報と同一の機体です。……照準レーダー、作動しますか?」
 レーダーオペレーターの野村茜少尉が、控えめな声で尋ねた。彼女の眼前には、古めかしい多数のPPIスコープが、暗闇の中で黄色く点灯している。無論、その片隅では、ひとつの移動する光点が、徐々にスコープの中心へと接近している。
「いや、まだだ」
 中隊指揮官である北川潤大尉は、落ち着いた様子で答えた。彼の視線は、茜と同じスコープに向けられている。慌てる必要がないことは、彼が一番よく理解している。
大隊がヴェトナムに派遣されてから現在でほぼ1年。彼の中隊は、2機の敵機を撃墜破する戦果を上げている。その戦果を達成するたびに彼が自身に誓わせていることは、確実に、出来るだけ確実に、敵機を懐で仕留める努力を行うことだった。
 北川は変わらぬ口調で言った。
「大隊からの命令がまだだ。それに、派遣航空団司令部から妙な命令も届いている」
「妙な命令?」
茜が尋ねた。北川は小さく頷きながら答える。
「今日の朝早くに、な。敵機の単機襲来があった場合、絶対にこれを撃墜するな、と。大隊司令部の頭越しにだ。おかげで新藤大隊長は、いつも以上に機嫌が悪そうだった。俺相手に、30分くらい延々と愚痴をまくしたてていた」
「敵機を攻撃圏内に捉えても、ですか」
茜が不服そうな表情で言った。
「納得できません。あと数十キロで、SA−2の射程距離圏内に捉えます」
 茜の言葉の後半は事実だった。中隊は掌握している対空ミサイルは、もはやヴェトナムでは定番となった"空飛ぶ電柱"――つまりはHs582"ルールボーテ"(東日本での馴染み深い名称でいえば、SA−2"ガイドライン")であり、射程は20〜30キロ。中距離射程地対空ミサイルにしては若干短いが、近接対空戦闘が多発するヴェトナムでは、これで十分な射程と言えた。ちなみにランチャーの数は3基。無論、この他に、彼女たちが乗り込むコンピューター管制車や警戒レーダー車、ミサイル追尾レーダー車、そしてこれらに電力を供給する発電機搭載車などが存在し、中隊が構成されている。そしてこれも当然だが、SA−2のランチャー以外は地上に溶け込ませるような偽装がなされている。
「納得できないのは俺も同じだ」
北川は片手で茜を制した。
「しかしまぁ、様子を見よう。もしかしたら、本当に、西側のエースパイロット、七瀬留美が参上したのかもしれない。まさか、本当にこちらの罠にかかるとは思えないのだが」
「やはり罠ですか」
茜の隣のオペレーターが怪訝そうな顔で呟いた。昨日の、折原浩平の撃墜に端を発した一連の事象は、北ヴェトナムの東日本軍に、噂とも真実ともつかぬ形で伝わっている。
「これも推測だ。しかし、可能性は否定できん――まぁ、そのうちわかるだろうさ」
北川はそういって会話を打ち止めた。横目でちらりと茜を見る。栗色の気味の髪が目立つ彼の部下は、いまだ不機嫌そうにPPIスコープを見つめている。
我は抑えてもらわないとなと北川は一人思う。彼は知っていた。目の前にいる野村茜という海軍少尉は、幼馴染をこのヴェトナム戦争で失ったことへの憤怒の一心で、ヴェトナム派遣に加わったことを。
畜生め、この国の人間はどいつもこいつも、復讐にしか生きる糧を見つけられないということなのか。このヴェトナムで戦っているはずの、俺の恋人―――美坂香里と同じ様に。

 敵機襲来の報は、無論のことフクエンに展開する、大日本帝国海軍ヴェトナム派遣航空団にも達していた。そのことに限れば、それは日常的なこと。彼らは敵機邀撃のためにこの地にいる。しかし、この日は事情が違った。理由は言うまでもない。
 七瀬留美が、本当に単機で出撃した。折原みさおの挑発によって。
「ホント、なに考えているんだかっ!」
 更衣室で手早くパイロットスーツに着替えた美坂香里は、乱れた髪を忙しくなでながら、飛行場の防空壕へと早足で向かっていた。睡眠不足と二日酔いが彼女の脳を蝕んでいたが、それを気にする余裕はない。彼女には理解できなかった。こちら側の罠とわかり切っているような挑発に乗ってくるなんて――西側陣営のエースパイロットは、こんなバカばかりで構成されているの? 私たちは、そんな奴等に翻弄されているというの? まったく、なに考えているんだか!
彼女の後ろで、列機のパイロットである早坂夕奈が、同様に歩を早めながら、醒めた口調で答えた。
「なにも考えていないからじゃないの?」
香里はげんなりとした顔で振り返った。
「朝奈、それをいっちゃ御仕舞いと思うんだけど」
「まぁ、そう思っておいたほうが、健康にいいのは確かよ」
相変わらずの口調で朝奈は答えた。とはいえ、香里はその毒舌に不愉快を感じない。彼女と香里は、すでに10数年ペアを組みつづけている相棒同士だったからだ。互いに気心は知れている。
 香里がその言葉に対し、なにか気の効いた返答をしようと思った矢先――彼女たちの目の前に、ドイツ製の中古ジープが走り込んだ。第2、第3次世界大戦の双方で使われた長寿車――Kfz.1キューベルワーゲンだ。
乗り込んでいたのは、第4飛行隊の整備兵だった。右肩に、8匹の魔獣が描かれた部隊称が張り付いている。しかし、その目は奇妙に虚ろだった。彼はキューベルワーゲンから降り立ち、人形のように香里達に敬礼を行った。
「……なによ」
さすがに身構えた香里が、後ずさりながら言った。「私たちに、なにか用でも」
「西沢司令よりの命令です」
奇妙に平坦な声で整備兵が伝えた。
「本日の迎撃は、第4飛行隊のみで行うとのことです」
「はぁ!? それってどういうことよ!」
香里よりも先に、朝奈が声を荒らげた。
「あの折原みさおに、すべてを任せるってわけ!? あの挑発文章通りに! そして私らには邪魔はさせないってこと!?」
「詳細を語る必要は今のところありません」
整備兵は変わらぬ口調で答えた。そしてキューベルワーゲンに乗り込む。
「貴方がたは、待機所で命令をお待ちください。では、これで」
 そう言って彼は機械的に走り去っていく。残された香里は、夜明けの濃密な空気と交じり合う砂塵を見つめていた。内心で、昨日から残されている疑念が再び持ち上がってきていることに気付いている。朝奈の呼びかけにも気付きもしない。彼女の思考は、疑念という一点に集中していた。
コンドラチェンコの言った「狙い」。折原みさおの、もしくは上層部の「狙い」。それはいったい誰のための狙いなの? 折原みさおはドイツ帰り。そして、今動こうとしている部隊は第4飛行隊。ドイツ帰りの8匹の魔獣。そうか、つまりはそういうことか。
香里は理解した。
この作戦は、大日本帝国のために行われている作戦ではない。そう、折原みさおが過去に忠誠を誓ったドイツのために行われている作戦に違いない。
ならば、その狙いがなんであれ どのみち、ろくでもないことに違いない。少なくとも、祖国を大日本帝国とする私たち日本人にとっては。もしかしたら、折原みさおすら道具なのかもしれない。ええぃ、私というものが陰謀史観に捕われるなんて。でも、それこそ私の「感」がアラームをならす予測。
 香里は、先ほどの整備兵の言葉も忘れて、愛機へと駆け出した。朝奈も無言でそれに続く。どのみちろくでもない結果ならば、この不可解な状況に、せめて空で決着をつける――香里はそう思っていた。たとえそれが、利敵行為であったとしても。
彼女たちが走る滑走路のはるか前方では、整備を完了した8機のドイツ製戦闘機――タンクTa214"グレンデル"――ロシアでの名称は、ミコヤンMig21"フィッシュベット"――が、日本戦争で活躍したTa183V譲りの細長い機体からジェット噴流を吐き出しながら、朝焼けの蒼空に向けて離陸を開始していた。むろんその先陣は、第4飛行隊指揮官、折原みさおの機体で占められている。
 
ハノイ上空の展望は、通常の爆撃行とは比べ物にならぬほど静かだった。時折思い出したかのように、(おそらくは北ヴェトナム軍の)対空陣地から当たるはずもない火線が伸びてくるのみだ。しかしその事実は、留美の機体は違うことなくこの空域に「招待」されていることを意味している。それは考えてみれば当然であると同時に、どこか不気味な感触すら抱かせる。
「……静かね」
 ファントムUのキャノピーから、絶え間なく機外を覗いていた留美が、ぽつりと呟いた。高度は5000。中高度といったところの位置。はるかな下方には、戦争がなければ古都というに相応しい偉容を保っていたはずの、ハノイ市外が広がっている。
「折原みさおってヤツは、よほどの指揮統制が可能な人間ってところかしら」
「あのような非常識なことを行える人間は、そうであるか、もしくは狂人か、どちらだろうね」
シュンが醒めたように言った。
「僕としては、その双方に当てはまるのだと思うのだけれども」
「どうして? どうしてそう言えるの?」
留美が尋ねた。
「私と同じように――折原をただただ求めているのではないの?」
「折原みさおという人間は、いや正確には、折原浩平の妹としての、折原みさおは、いまやこの世には存在しない」
シュンは静かに言った。
「本当に、日本戦争の戦火の最中で死亡している」
「でも、噂では、そこから生き残って、ドイツに―――」
「その死は浩平君や、彼が後に預けられた孤児院の人間も確認している。沖縄の嘉手納を発つ直前、折原君の撃墜劇の情報が入ってね……そこから彼の幼少のころの関係者(といっても、彼が一年ほど過ごした孤児院の人々だけなんだが)に電話で話を聞いた。聞き難かったが、仕方なかった。そこで判ったのがこの話だ。彼女は露天の応急所で、死の直前まで兄である浩平君の名を呼びつづけていたそうだよ。おそらくそれがトラウマとなったのだろう。以来浩平君は、身近に居る幼馴染や、君のような恋人に依存しての生活を望むことになった。いや、正確には依存ではく癒着か。兄として妹を救えなかった自分を忘れるために。君も知っているはずだ。彼は、日常生活において、君なしの生活は送れなくなっている。しかし、だからこそ彼の妹は、もう生きてはいない」
 シュンはそこで言葉を止めた。友人を、第三者的な観点で述べた自分を嫌悪しているのだ。彼のルールでは、それは友人に対する冒涜に等しかった。
「そんな……」
留美は言葉を詰まらせた。彼女は、シュンの言葉の前半に対してショックを受けているようだった。
「んじゃ、私たちが相手とする"折原みさお"は……」
「真っ赤な偽者。つまり、折原君の妹を語る狂人だ」
後方とスコープを交互に見据えながら、シュンは断定するように答えた。レーダーなどの各部のチェックの行いつつ、周囲すべてに緊張を走らせる。
「彼女は折原の妹であることを宣言し、彼を手に入れようとしている。ただし、彼の妹の名を知るものは少ない。ならば、その正体は自然と限られ……七瀬中尉、レーダーにクロ2〜3、増加中。ブルズアイ(合衆国が北ヴェトナムに設定した基準点)の240度、30マイルから高速接近中!」
「了解っ!」
 彼女はファントムを左旋回に入れ始めた。そして接近を開始する。これから敵が何をするのかはわからない。しかし、あちらから「交渉」と行ってきた手前、いきなり撃たれることはないと思っている。ハノイ周辺のミサイルサイトが沈黙を続けていることがその証拠だ。
折原みさおの正体に関する疑問は、すでに彼女の脳裏からは綺麗に忘れ去られていた。留美の全ての注意は彼方に存在するはずの、憎むべき敵機に向けられている。


5、ゲーム
3月12日 6時28分
ヴェトナム国家社会主義共和国 ハノイ上空
日本国海軍<凛鳳>戦闘機隊 ファントムU 七瀬留美搭乗機


 Ta214"グレンデル"の装備するハインケル製のエンジンはいつもの如く好調だった。相変わらずドイツ空軍に媚び売ることしかしらないメッサーシュミット、爆撃機だけ作っていれば幸せなユンカースとアラド、職人気質が抜けないタンク、自分でもなにを作っているのかよく理解していないブローム&フォス社の機体やエンジンではこうも行かない。そんな愚にもつかない感想を抱きながら、"折原みさお"と自らを呼ばしめる女は、目前のPPIスコープに捉えられた機体――おそらくは、彼女自身がこの空へと導いた七瀬留美の操縦するファントムU――への接近機動を継続する。
Ta214は、日本戦争最末期に実戦投入した、Ta183"フッケバインV"(ロシア名称Mig19"ファーマー")の、完全な後続機だった。葉巻型の胴体に、申し訳程度につけられた三角翼、特徴的なノーズコーン。完全な局地迎撃戦闘機といってよいデザインだった。ドイツ空軍はこの"グレンデル"を安価な輸出機と定めて生産を開始していたが、それはロシアがMig21"フィッシュベット"、中華民国が"強撃1"、そして東日本海軍が22式局地海軍戦闘機"天光"として採用していることからも成功しているといってよい(ちなみに日本陸軍はメッサーシュミット系列の機体を好んでライセンス生産していた。無論性能の問題ではない。企業間の癒着と海軍への政治的対抗意識によってだ)。
局戦であるから、当然ファントムUとの戦いとなれば性能差に不安はある機体だったが、それはたいした問題でない。これから彼女が行おうとすることは、機体性能云々などという問題など存在しなかったし、そしてなにより、現実には8:1の数的優勢を保っている。やろうと思えば簡単に撃墜を果たすことが出来るはずだ。無論、彼女はそのような無粋なことを行おうとは思わない。それではなんのために、ここまで大芝居を打ち、そして、彼女の後方に付き続ける"最強の僚機"を手に入れたのかわからなくなる。
 彼女がそう考えた次の瞬間、第631防空ミサイル大隊、その指揮下のレーダーサイトの1つから報告が入る。敵機、まもなく目視距離に到達。そのとおりだった。彼女の視界の一点には、黒点から徐々に形を描いていく機体――双発重戦、ファントムUのフォルムが明確となっていく。ドイツでの教育中、F8クルセーダーと並び、西側海軍最強の戦闘機となるだろうこととの予想が語られた、"グレンデル"の仮想敵。それが目前に、呪うべき人物の足と手となって、彼女に突き進んできている。
 折原みさおは口元を残虐に浮かべながら、昨日、あの文章を発信した周波数に無線をあわせていく。無論、相手も同様の周波数にあわしていることを見越してのことだった。
もし、七瀬留美がそこまで頭の回らぬ人間だったのならば――という予想はなかった。
彼女はよく知っていた。七瀬留美は、ひとたび相手を敵と認めたならば、その言動からは想像もつかぬほど、繊細で注意深い女であるということを。
折原みさおは、そのことを実戦で学んでいた。忌まわしき記憶とともに。
 
「あいつ……か」
ドイツ式に言えば"バルバロッサ夏季迷彩"と呼ばれることが多い、深緑を中心としたまだら模様を施した敵機――Ta214"グレンデル"を見据えながら、留美はファントムを旋回軌道に持ち込んでいく。軽いGが体にかかるが、彼女は敵機から視線を離さない。後方などを注意する必要はない。その役目は、"ファントム・ナビゲーター"たる氷上シュンの果たすべきものだ。
彼女と同様に旋回を開始するTa214の後方には、その列機と思われる同様の機体が、従者のように後続している。七瀬は一目で、二人を歴戦にパイロットだと感じる。特に後方の列機。つねに周囲に気を配っている。もちろんキャノピーの内部など見えはしないが、そう感じることが出来る機動を行っている。若干、機体の不慣れに苦しんでいる気もするが――
「後方にさらに6機。こちらを包囲するようにロール開始」
シュンが報告した。留美は一瞬だけさらに前方へと視界を移す。なるほど、ヴェトナムの森林を背景として、数機のTa214が、左右へと展開していく。右が2機、左が4機。留美は思った。まったく、女一人に8人がかりとは。恥ずかしくないのかしら。
「七瀬中尉、無線周波数を――」
シュンの言葉に、留美は即答した。
「わかっているわよ。あのクソ忌々しい番号に、すでにセットしてあるわ」
「それなら、いい」シュンはそう言って言葉を切った。おそらくはにこりと微笑んだのだろう。後ろを振り向くことなく留美にはそれがわかった。なによと思う。こいつ、意外といいヤツじゃないの。
 留美がシュンに対する評価を改めようとした次の瞬間――彼女があわせた無線周波数に、紛れもない女性の音声が入った。
留美は瞬間息を飲んだ。
――これが、折原みさおの、声。
「本当のヴェトナムへようこそ、七瀬中尉。確認するけど、貴方、この名前で正しいよね?」
「自分から誘っておいて、なにいってんのよ」
 留美の答えに、無線越しの声の主は、小さく笑った。可愛げな声が悪意を持つように歪んで聞こえる。彼方の機体も左右にバンク。その様子は、留美の感情を妙に逆撫でする。
「……で、私も燃料に余裕があるわけじゃないんだから、さっさとアンタと交渉とやらを始めたいんだけれども」
留美はきつい口調で語り掛けた。同性にここまできつい言葉をしゃべったのは、何年ぶりかとおもう。何故かすぐに思い出す。大学生だった5年前。浩平の下宿で、浩平を寝取ろうとした女――長森瑞佳を躊躇なく張り飛ばした時。
「それで、アンタの要求はなに? 残念ながら、あたしの身体なんか求めるのは無粋よ。あたし、そんなに身体が丈夫なほうじゃないの」
「それはよく知っているわ。七瀬中尉」
歪んだ声の向こう側は、酷く楽しそうに言った。
「交渉内容は、簡単。これから私が課す2つの命題をクリアしてほしいの。そうすれば、お兄ちゃん――折原浩平中尉は、貴方の手元に返すわ。どんな手段を講じても」
「もったいぶらないで。で、1つ目は?」
「簡単よ」
そういって、折原みさおは機体を、旋回から急激に下降させ、留美の機体の下方を抜けていく。だが、留美はその機動に従わない。何故ならば――
「七瀬中尉、左右に展開した6機、こちらに接近中。攻撃態勢。回避を!」
「くそっ!」
 留美はゆるやかな旋回を止め、内側に回り込もうとする1機に対しバレルロール機動をかけ、射撃に適当な位置へともぐりこもうとする。まさに反射的な行動。しかしもう1機が後方に付き始め、留美は舌打ちをしながら先ほどの機動によって溜め込んだ運動エネルギーを位置エネルギーに返還しつ、機体を上昇させる。突っ込んできた6機は、その様子を見るように後方で旋回を開始。しかし、その行動に留美がいぶかしんでいる暇もなく―――
「30度方向よりガイドライン! ロックオンされている!」
「!!」 
 下方から伸びる火を噴く電信柱――SA−2"ガイドライン"。ハノイ周辺に展開しているという、東日本海軍第612防空ミサイル大隊の装備機だろう。留美はすぐさまチャフを散布、機動を逸らすことに成功する。ガイドラインは空の彼方で自爆。しかし、彼女とシュンのコクピット内部には、数秒前から次々に、地上の照準レーダーからの電波照射が行われていることを示す、あの不愉快な警告音がひたすらに響き渡る。
肩で息をしながら、留美は、折原みさおの企みを察した。
「アンタッ、もしかしてっ」
「そう、そのもしかして」
ざらつく無線の奥で、声の主が口を捻じ曲げているのが留美には判った。
「これから十分間、この6機の攻撃と、そして地上からの攻撃に耐えて見せること。エースなんだからそれくらい可能ですよね、七瀬留美中尉?」
「あったりまえじゃない! こんなこと、朝飯前よっ!」
「では、私はその様子をとぉ〜くで高見の見物しているから、がんばってね。燃料切れが近くなったら帰ってもいいよ。帰りたければね」
「……外道が」
 留美ではなくシュンのうめきが、コクピットに響く。シュンの形相は修羅のようだった。折原みさおの真意がわかったからだ。彼女は、七瀬留美の撃墜を望んでいるのではない。苦しめて楽しむことを望んでいる。シュンはそう理解した。怒りが込み上げる。しかし罵りを漏らす暇もなさそうだった。彼と留美の視界では、6機のTa214が、各々に機動を行いつつ、留美の機体に向かってきている。空戦の基本ともいえる、互いを補佐しあう、ペアでの機動は行っていない。どこか機械的な動きすら感じられる。あるいは、相手が留美一人であるからか。どちらにしても、容赦はしないつもりだろう。
 留美は再び機体を上昇に乗せた。まずは生き残らなければならない。ならば、高度を稼ぎ――そして、その位置エネルギーを利用し、可能ならば1機でも撃墜する。撃墜しつつ誘導弾を避ける。ばかばかしくなるような戦闘だった。たとえ敵機を5機以上を地に叩き伏せた留美であっても、その貫徹は実現不可能な気がしたからだ。
が、すでに身体は、そのとおりに動き始めている。だからなんなのと留美は思っている。私は七瀬留美なのよ。ならば――やってみせぃ!
留美の内心の叫びと同時に、朝焼け昇るの空の下、7つの噴煙の激しい交錯が開始された。その様子を旋回しつつ見守る折原みさおの列機は、どこか苦しげに機動を続けている。無論、留美はそのことに注意を払う余裕すらない。ハノイ上空は、絶望のみに彩られた空域となりつつあった。

 
6、崖淵の希望
3月12日 6時40分
ヴェトナム トンキン湾 西日本第2護衛戦隊

「いい? 69戦飛のみんな。現在ハノイ上空では、我々の七瀬中尉のファントムUが卑劣な東のナチ豚どもの陰謀に嵌り、苦戦を強いられます!」
 海上を驀進する空母<凛鳳>のブリーフィングルーム。多種多様な目的で用いられるこの場所は、現在、第69戦闘飛行隊指揮官である袖木誌子少佐の独壇場となっていた。無論、彼女が得意のアジテーションを振るう相手は、<凛鳳>のファントムU乗り達だ。
「つまり、私たちが行うべきことはただ1つ! このままハノイまで殴りこみ、七瀬留美中尉を救出し、同時に卑劣な敵機群を叩きのめす! 単純明快勧善懲悪漢の浪漫! まさに自由主義陣営たる所以の行動! みんな、わかったカナ?」
 無論、そんな単純なことで終わるはずがないことは、誰もが理解していた。それは誌子も同じだった。しかし、彼らの士気を奮い立たせるには十分な効果があった。誌子の、いつもの如く支離滅裂な作戦説明に、皆が雄叫びをあげる。その中には、布団という束縛具から何とか抜け出し、親友の行動に呆れ果てつつも、雄叫びに加わる広瀬真希の姿も合った。
「すべてはタイミングなの」
ひたすらアジっていた誌子の隣で、状況説明のボードにせっせと戦況を書き記していた情報幕僚、上月澪大尉が、ようやくホワイトボードに言葉を記し、本来の仕事を始めた。言語障害をもつ彼女だったが、若いながらもこうして<凛鳳>の幕僚を必死に務めている。
「今回の作戦は、現在、ハノイ沿岸に西進中の第1護衛戦隊と共同してなの」
「でも、今回の作戦に限っては、七瀬留美中尉及の指示を至上命令として動くことが肝要なの」
「だから、第69戦闘飛行隊は、総力をもって出撃後、ハノイを掠めるようにDMZへと南下、そこで給油を受けつつ、第1護衛戦隊もしくは七瀬留美中尉の命令によって、一挙に北ヴェトナム領域へ侵攻、上空に展開する枢軸空軍部隊を撃破しつつ、七瀬留美中尉を救出するの」
「というわけで、全員、艦長の訓示があるので、アイランド前に整列なの」
「以上でブリーフィングは終了っ! 天佑我にあり晴天なれど波高し! というわけで、いっちょブァーッといこう!」
 誌子の掛け声に呼応するように同様の雄叫びを上げながら、パイロットたちはブリーフィングルームから退席していく。後に残ったのは、誌子と澪だけだった。
 散らかるだけ散らかった部屋を見回し、誌子は、先ほどまでのハイテンションなどなかったかのように溜息をついた。七瀬留美が強引に出撃を行ってから、すでに二時間近く経過している。その間には様々なことがあったが、行われたことはたった1つ。七瀬留美と折原浩平の救出への決意――ただそれだけ。昨日、留美に弾き飛ばされていたものたちや、この後に冷や飯を食らう運命にあるはずの艦長ですら、その動きに同調していた。あとは奔流のようだった。<伊吹>の艦隊司令部への直訴、渋々ながらの承認、合衆国の不介入宣言、<生駒>、そして第一護衛戦隊との作戦打ち合わせ――そして、ブリーフィング。まるで嵐のような二時間。だが、誰も後悔だけはしない二時間だった。
 誌子は思った。今回の不祥事では、絶対にあたしにも責任がふっかかってくると思うけど――ならば、そのまえに好きなことをしてみせるわよ。まったく、あのふたり。やってくれるわ。さすがバカバカエースの仲間。いや、三人そろってバカバカバカエースどもか。まったくもってすばらしき愚息たち(年はおんなじなんだけど)。呉に寄港したら、絶対に吐くまで飲ませてやるんだから。
もし、三人そろって、本当に生きて帰れたらの話だけれども。
「きっと大丈夫なの」
澪が誌子の内心を透かしたように、ホワイトボードを見せた。そして、もう一枚のホワイトボードも見せる。先ほどと同じ言葉が、わざわざかかれていた。
「きっと大丈夫なの」
「馬鹿ね」
そういって誌子は、艦内ではもっとも若い幕僚の顔をなでた。この子に慰められるとは、私もまだまだということなのかしら。
「そうにきまってるじゃない」
外では、国崎艦長が、普段からでは信じられぬほどの怒号でもって訓示を行っている。そしていつもどおりの昔話。この日本には翼人という、翼の生えた特殊な人間がいて云々。まるで艦長自らが体験したような語り口。しかし彼女を含めた全てのパイロットは、その結末を知っていた。そう、諦めぬことは、即ち強さであること。千年という月日の間、ある翼の少女を救うために、それを体現した人々が存在したように。
 誌子は立ち上がった。彼女とて飛行隊指揮官に上り詰めたほどのパイロット。残念ながら撃墜数は部下たちに及ばないが、統率力には自信がある。ならば、この出撃に参加せぬ理由は存在しない。

 機体を防空壕から引き剥がすのかかった時間は20分だった。エンジン不調と、そしてそれに当たる整備員の不足が原因だった。昨日の宴会の間に、香里の所属する第3飛行隊の整備員たちは、原因は不明であるが、第4飛行隊の機体整備に引き抜かれてしまったらしい。
 そして今、第2飛行隊から強引に連れてきた整備士の努力によって、ようやく気難しいユンカース・ユモ012Bエンジンが本調子となり彼女の愛機の飛翔を確約した。フクエンの滑走路に、甲高いジェットの音響が、また一つ加わる。
 メッサーシュミットMe1110"ウルクハイ"。野獣と人との間に生まれた幻の獣人の名を冠した、50年代最強クラスの制空戦闘機。
 何の因果か、彼女はここ十年ほどこの機体に乗りつづけている。しかし、悪い気はしない。ヴェトナムの空でも、この機は香里に幾多の勝利をもたらしたし、なによりも相性に合った。上官である藤堂守は、「それじゃ零戦や烈風に固執した"格闘家"どもと変わらんぞ」と嗜めていたが、今となっては致し方ない。香里はせめて、このヴェトナム派遣が終了するまで、この機体を操ろうと思っている。無論、彼女が戦いを終えるのは、ずっと後のあとになるだろうが。
 奇妙な静けさに包まれたフクエン基地の滑走路で、香里は機体を進めていく。ちらりと防空壕を振り返ると、朝奈のMe1110も、同様に滑走開始位置への移動を開始しようとしている。香里は小さくそして残虐な微笑みを浮かべると、スロットルを掴み、離陸へ――
 そう思った次の瞬間、香里の目の前を、先ほどのキューベルワーゲンが遮った。香里は舌打ちしながらブレーキをかける。急停止。Me1110は、キューベルワーゲンのまさに直前で立ち止まった。
「ちょっと、なに考えているのよ、あんたたち!」
 キャノピー越しに、香里は罵声を投げつける。あのまま突っ込んでいたら、お互い命はなかったはずだ。そしてそれ以前に、離陸しようとする機体の前を横切るなど――常識ハズレにもほどがある。
 だが、キューベルワーゲンの乗組員――第4飛行隊の整備員たちは、なにごともなかったかのように降り立ち、そして、目前のMe1110の機首部を掴む。そして衝撃。香里がキャノピーに捕まることでそれに耐えた後に見た機首部は――粉々に潰れていた。そう、数名の整備員の握力のみで。
「……な」
 さすがの香里も青ざめた。目前で展開した光景は、人間業ではなかったからだ。よく見ると、整備員たちの様子もおかしい。先ほども感じたことだが、まるで機械のように、何かに操られているかのような動きで、コクピットにふらふらと迫ってきている。
香里は確信した。こいつら、おかしい。絶対におかしい。
「ええぃ!」
 香里は、キャノピーに掴みかかった一人の整備員の頭部を蹴飛ばすと、そのまま地上へと飛び降りた。2メートル近い高度から飛び降りたことによって、着地した瞬間、背骨への衝撃が走る。しかし香里に気にする余裕はない。激痛を堪えつつ、逃げ出そうとする。
 だが、整備員たちはただのデク人形ではなかったらしい。すかさず懐から拳銃を取り出し、香里へと向ける。振り向いた香里は、恐怖よりも凄愴な皮肉を覚えた。なんてこと。この私が、こんなわけのわからない状況で、しかも地上で殺されるなんて。栞、あんたはこんなお姉ちゃんみたいな最後、絶対に――
 次の瞬間、銃声が響き渡った。倒れ伏せる香里。しかし、次の瞬間、身体中にまったく痛みがないことに気付く。そして彼女は顔を上げ、銃声の発信源を見る。大柄のロシア人が、彼女を守るようにたたずんでいた。
 コンドラチェンコだった。彼の手に握られた狙撃銃によって、香里を襲った二人の整備兵は、脳天を打ち抜かれていた。無論即死だ。
「……なんなの、こいつら」
 一切の説明を行う気力もない香里は、Me1110の破壊された機種と、死亡した整備員を見比べた。数日前までは、香里と冗談すら交し合っていた整備兵たち。しかし今、確かに香里は彼らに命を狙われていた。恐るべき力でもって。
「なにこれ。なにかの実験? それとも悪夢? 私としては、どっちも遠慮したいのだけど。特に後者は、現実のそれで手一杯だから」
「俺にもわからん」
コンドラチェンコは言った。しかし、瞳には危機の前兆を察知した、特殊部隊人員特有のなにかが宿っている。
「しかし、どうもただ事ではないようだな。なにかに操られているようだった。もしかすると、こいつらがドイツ帰りであることと関係しているかもしれない」
 ドイツ帰り。その言葉に香里の記憶が再び反応し――そして何かにひっかかった。そう、先ほど味わったあのような奇妙なこと為し得る輩など、SSの豚野郎どもしか存在しない。そして、このヴェトナム派遣航空団で、SSと係わり合いがあるとすれば――もはや一人しかいなかった。
折原みさおとともに帰国したパイロット、長瀬祐介。現在では第4飛行隊の補佐的な役割を担っている。
「あいつか……」
香里は転んだ際に擦りむけた指を舐めながら呟いた。もし、長瀬がなにかしらのクスリかなにかで第4飛行隊の支配に貢献していたら、今までの全ての奇怪な状況に合点がいく。もしかしたら西沢司令すら、彼の支配下になっているのかもしれない。今朝から続くこの状況を説明するには、それしかない。
そしてその中心には、やはり間違いなく、"折原みさお"が存在している
香里はコンドラチェンコの顔を見据えた。彼女の見たところ、コンドラチェンコも同様の結論に至ったようだ。
「アンドレイ」
初めて香里は、コンドラチェンコに対して親しみを込めて読んだ。
「私はあの馬鹿女をなんとかするわ。あなたは、あの怪しげなガキ、長瀬祐介を」
「了解した」
どこか嬉しげな表情で、コンドラチェンコは頷いた。同時ににやりとする。
「しかし、守がこの場にいないのは残念だな」
「そうでもないわ」
香里は眉を潜めた。何故だとコンドラチェンコが尋ねる前に、香里はその理由を早口で述べた。
「あの人の手は、血に塗れすぎている」
 香里はその言葉の返答を待たず、Me1110の予備機が格納してある防空壕へと駆けて行った。コンドラチェンコが溜息を吐いたその後方では、一連の事象を見守っていた朝奈のMe1110が、ようやくのことで離陸を開始しようとしていた。

「ハノイ上空の敵機群、七瀬機と交戦を開始! 七瀬機、押されています!」
「ハノイ周辺のミサイルサイトのほとんどがレーダーを作動! まずいですよコレ、いままで秘匿されていたレーダーですら、全力稼動の勢いです"」
「ドンホイなどの、ドイツ・ロシア空軍部隊、沈黙を継続しています」
 戦艦<甲斐>CIC。ここはいつの時代でも、本流のように流れ込む情報と、そして本当の敵との戦いで埋め尽くされている。現状とて例外ではない。綾香が仮眠を終了した直後から、艦隊幕僚はここにこもり、状況を見極めようとしている。無論、戦隊司令である来栖川綾香や、艦長の水木も例外ではない。
 そして現在、<甲斐><大和>を始めとする第1護衛戦隊は、数時間前と同じく、カムラン湾をひたすら西方へと向かっている。先ほどと違うのは、西方突進の理由を尋ねられた際、
「んなもの、この戦いに勝利するために決まっているじゃない!」
と、高々に宣言した結果、幕僚たちがなんともいえぬ絶望感を味わってしまったことくらいだった。無論、危急というに相応しい現段階で、そんな感情を後生大事に憶えているものなど一人もいなかったが。
「……で、通信内容の解析は終了したの?」
 CICの戦況表示板を眺めながら綾香が尋ねた。すかさず幕僚の一人が、びっしりと文章に埋まった用紙を手渡す。ここ数時間の、ハノイ周辺で交わされた無線交信の全ての記録だった。綾香は閲覧すべき場所を数秒で見つけ出し、そして数秒それを読み終える。吐き気すら感じた。その感情を吐き捨てるように断じる。
「外道。なんて女々しい、卵の腐ったようなヤツ。女なのだから仕方ないか」
「そうなんですか?」
水木が同様の用紙を見ながら、茶化すように言った。
「私は、正直立派だと思いますがね。ここまで大風呂敷を広げるとは、なんというか……男としては、うらやましいというか」
「男性から見ればそうかもしれない。しかし、私はこの、オリハラミサオという女が、今この瞬間に大嫌いになったわよ。どんな理由であれ、本当に想っている人間を囮に使うなんて……ヘドがでる。狂ってるわ。もう少し、私はマシな狂い方をした子をしっているけれど、その子とは180度以上違うわね」
「誰なんです、その子」
「友人の恋人。いや、正確にはどうかな。ま、そんなことはどうでもいいわ。それで、この情報をどう打破したものか。二護戦から出撃があるとしても、これでは手の出しようがないわ」
「えっと、それなんですが……」
幕僚の一人が会話に割り込んだ。川名みさき中佐。盲目ではあるが、その頭の切れ具合を綾香に買われて、戦隊司令部幕僚に引き抜かれていた。事実、彼女はテト攻勢における航空攻勢を事前に見事予測し、魚雷艇の夜間襲撃によって中破した<瑞鶴>を、激烈な空襲下、見事戦場から脱出させている。
「なに、みさき中佐。遠慮なく意見を言って頂戴」
この子、やはり姉さんにどこか似てるかも。綾香はそう思いながら発言を即した。
「では、改めまして」
みさきはペコリとお辞儀をした後、意見を述べ始めた。
「これまでに聞く"折原みさお"の行動を一通り見聞――あ、私の場合、聞聞ですねぇ(一同失笑、綾香怖い顔)――っと、見聞しましたが……やはり彼女の行動は、七瀬留美中尉への個人的な憎悪によるものだと思われます。その証拠は、まぁ、皆さんの手元にある、彼女が創り出した、この外道な状況が一番はっきりしていますね」
 CICを囲む幕僚の全員が頷いた。それを空気の流れ(そうとしか言えないもの)で感じ取ったみさきは、言葉を続けた。
「で、この後に、(無論現在の攻防で、七瀬留美中尉が生き残ったという前提で、ですけど)彼女が起こす行動なのですが――」
そこまで言って、みさきは言葉を止めた。
「ここから少し、不愉快なお話をしなければなりませんが……よろしいでしょうか」
「なにがよ」
綾香が尋ねた。
「いいから、貴方の意見をのべなさい。貴方の直感は、当たっていることのほうが多いのだから」
「では、言います」
 前置きを行った後。みさきは自らの予測を述べた。そして、周囲に絶句と悪寒が広がる。みさきが述べた内容は、彼らの想像を越えていた。まさに――外道。
しかし、綾香だけは例外だった。彼女だけは、その予測に対して、なにかを思案するような面持ちを崩さない。彼女にとって戦場の悪夢など、慣れ切った――いや、慣れ切ってしまった事象に過ぎなかった。第3次世界大戦からはや20年。その全てを文字通り硝煙の中で過ごした彼女の経歴は、すでに血で汚れ過ぎている。関東沖。沖縄沖。鹿島灘。そして日本海。<信濃>や<武蔵>、<バルバロッサ>と生死を賭けて殴りあったあの地獄の凍れる海。負傷しなかった、そして血塗れの床を見なかった戦いなど、1つとして体験していない。それに比べれば、現状の悪夢など、まさに餓鬼の雑技に等しい。
「それで、みさき中佐、あなたの結論は」
綾香は表情を変えずにいった。
「すでに、対応策は考えているのでしょう。あの狂った子を地べたへと叩き伏せ、そして"3人"を救出する手段を」
「もちろんです」
これだけは自信あり、そう言うかのようにみさきは答えた。彼女の闇しか見えぬ瞳の奥には、この悪夢を打破するための策が、まさに目に見えるように存在している。まるで、暗闇への底へとつながる崖淵、その突端に存在する希望のように。


7、オゾム
3月12日 6時40分
ヴェトナム トンキン湾 西日本第2護衛戦隊


 なにもかもが擦り切れた精神状態のなか、留美は交戦を継続していた。
折原みさおが開始した"ゲーム"は、すでに9分間が経過している。しかし、彼女と彼女のファントムUはボロボロだった。シュンが切り札として期待した機首の機銃など、3分後には1機の撃墜を代償として弾切れとなっている。両翼下に収められたAIM−9"サイドワインダー"及びAIM−7"スパロー"は、慎重に使用しつづけたにもかかわらず残弾は各1。その代償として誘導弾による撃墜は2機。この時点で、七瀬はダブルエースパイロットの称号を得るに至っている。しかし、本人にその自覚はない。ひたすら、ただひたすらに、残る3機のTa214と、地上から突き刺さる多数のSAMとの死闘を繰り広げている。彼女の操るファントムUも、至近弾によって無数の弾痕が刻まれている。
残り時間、僅か――いや、いまだ60秒。

「中尉、20度下方!」
「!」
 すでに何度目かすら記憶のないシュンの叫び。それに留美は全身全霊を持って答える。留美は右旋回を強引に入れ、下方から迫る敵機を引き離す機動を行う――が、引き剥がれない。わずか数分の体験で学んだ脳内の警報が響きだす。あと数秒で、やつの対空誘導弾の射程に――
「えぇい、うざい!」
 そしてファントムは急降下。そのまま旋回を継続する敵機をにらみつけながら、降下によって生まれた運動エネルギーを溜めに溜め――急上昇。一般には低速ヨーヨーと故障される機動だ。背後へと見事に食らいつく留美。
「中尉、前方!」
 しかし、シュンの言葉で我に返った留美は、すぐさま獲物から視界を外し低空への旋回を開始。彼女が存在していた空域を、もう1機が射撃を行いながら突っ込んできていた。そして低空恒例の警報。つまりはロックオンを食らった証拠。いままで命中しないのが奇跡のような、文字通りのSAMによる飽和攻撃の連続。七瀬は情けなさに歯を食いしばりながら、上空に向けて無茶苦茶な機動を開始する。その結果、発射された2発の針路はそれていった。しかし、その間にも、残る3機のTa214は、体勢を立て直し、留美の後方へと食らいつこうと、新たな機動を開始している。
「七瀬、中尉……」
旋回機動へと移りつつある敵機を凝視しながら、目の前で荒い息を吐く操縦士に向けて、シュンは尋ねた。
「大丈夫、か?」
「ハァッ、大丈夫っ、なわけっ、ない、じゃないっ、ハァッ」
声を出すのも苦しげに、留美は答えた。飛行帽からたれる髪に、シャワーでも浴びたかのように汗がこびり付いている。
「ハァッ、でもっ、これでっ、あと何秒ってところっ? ハァッ」
上向きの視線をシュンに流しながら、留美は口元を歪めた。
「あと……15秒だ」
シュンは自らの飛行時計を見つめて言った。
「あと15秒だ、七瀬中尉」
「ってことは……ハァッ、アレが、来るわね……」
苦笑というには余りにもきつい笑顔を浮かべながら、留美は言った。
「わたし1機のために、こんな馬鹿な戦場を準備するなんてことをするんだから……ハァッ、やるとしか考えられない」
「そうだな……来ると思ったほうが確実だろうな……」
シュンは全周への警戒を行いながら言った。
「あと、時間まであと13秒」
「こんなこと……アニメかなにかだけの演出かなにかだけに、して、ほしかったわよ……」
「僕も同感……だ」
「で、あと……、あと何秒!?」
「あと、9、8、7……七瀬中尉!」
「うぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 留美は絶叫に近い雄叫びを上げながら、スロットルを全力で叩き押し、機体を急上昇へと移行させた。燃料を馬鹿食いするアフターバーナーすら躊躇わない。そうしなければ、おそらくは数秒後には生き残っていないことを、彼女は判っていたからだ。
そして、次の瞬間、地上のありとあらゆる方向からSAMが発射され、留美の機体めがけて飛来する。これまでの十分間で残されたSAM、その一挙放出だった。射程にある、ない関わらず、すべてが意志もつ槍ともって、留美のファントムへ襲い掛かっていく。しかし、留美の機体はそれひたすらに無茶な上昇で避けつづける。シュンの報告も間に合わない。己の感のみが、彼らの周囲の生死を分けていた。
 ――そして、留美の機体が我武者羅な上昇を開始してからきっかり10秒後、すべての砲火が停止した。誘導することが無駄となったSAMが、ハノイ上空で次々と自爆していく。生き残った3機のTa214も、遠巻きに旋回を行い、戦闘を仕掛ける気配はない。
「はぁっ……」
 みさおの命題であった10分間が経過したことを確認した留美は、思わずシートに体重を預けた。シュンも同様に気分らしい。硝煙で汚れに汚れた上空を見上げる。早朝に見たはずの青い空などどこにもなく、黒く煤けた空が広がっている。その空を見つめながら、留美は内心で、いままで繰り広げた戦いの非常識さにめまいすら感じていた。
折原みさおは、おそらくはあたしへのあてつけだけに、大量のSAMと3機のTa214、そして3名の搭乗員を犠牲にしているのだ。その結論は、まるで辞書の内容のように、簡潔すぎるほどに明らかだった。
狂っている。間違いなく、折原みさおは狂っている。
「いやはやいやはや、お見事だったよ。ぱちぱちぱち、と」
 無線に相変わらずの声が響いてきた。この10分間、周囲を旋回ばかりしていた狂人―――折原みさおの声だった。
「さすが自由主義陣営のエース――いや、今ではダブルエースだね――七瀬留美。機体に違わぬ戦い振り。まさか、こちらの機体が3機も失われてしまうとは――いやはや、さすがさすが」
「ざけんじゃ、ないわよ……」
 唾を苦しげに飲み込んだ留美は、ふらふらと旋回を続ける、折原みさおの機体を、最大限の憎悪で持って睨んだ。
「あんた、自分がやったことの意味、わかってんの!? あたし一人のために、ここまでのことをしたわけ!? それが軍人のすることなの!? 狂ってるわ、あんたは!」
「狂っているのはお互い様だよ、七瀬中尉」
せせら笑うように、折原みさおは答えた。
「今日、貴方がどうやってここまできたかは知らないけれど、どうせ真っ当な方法なんかじゃないのはわかっている。それでも。私を狂っているとでもいうのかな?」
「狂ってるわ」
鼻息を大きく出しながら、留美は凝視をやめない。
「私は少なくとも、アンタみたいに、他人の命まで粗末にして、あの人を追おうとはしない」
「そうかな、貴方でもそうしかねないと思うんだけれど」
「何を根拠に―――」
「さて、無駄話はこれくらいしして、ふたつめの、最後の命題をこなしてもいましょうか」
 そういって折原みさおは、列機とともに何度目かの旋回を開始する。無論、その後ろの列機も。寸分違わぬ機動でもって、2機は留美の機体の右上方へと向かう。
「二つ目の命題。これも簡単。これさえクリアできたら、お兄ちゃんは七瀬中尉のものだよ」
 眉を潜めたまま、留美はそれを追尾する機動へとゆっくりと移る。彼方のハノイは、空に漂う黒煙で、廃墟のように爛れている。
「その命題は、私に後方についている列機を撃墜すること。無論、この私は手出しなんてしない。正真正銘の一騎打ち。忘れ去られた騎士道精神の復活。ハッ、下らない伝統もこうして復活することもあるんだねぇ」
 そして、それまで、折原みさおに付き添っていた1機のTa214が、静かに留美のファントムへと接近していく。ゆっくりと接近し、ファントムへと並行する機動を取る。
「ただし、そのパイロットの名を告げた後でも、七瀬さんは戦えるかな?」
「……どういうことよ」
「みれば、わかるよ」
 右舷から接近しつつあるTa214との距離は、数メートルにまで近づく。パイロットの顔がおぼろげに確認できる。そう、あと少しで―――
「……見るな、七瀬中尉」
 シュンが険しい顔で言った。視線は七瀬と同じく、横合いのTa214。
「どうしてよ」
留美は尋ねた。しかしシュンは答えを示さない。
「いいから見るな! 七瀬中尉、見たら、戦えなくなる」
「どうしてよ」
留美はそれでも視線を離さない。
――そして、Ta214のパイロットの顔が明らかになる。
それは、留美が見知った顔だった。

「おり、はら?」

8、泥だらけの戦乙女
3月12日 6時40分
ヴェトナム トンキン湾 西日本第2護衛戦隊


 留美が戦うべき機体は、折原浩平が操っていた。
 
手を伸ばせばすぐに届くような距離に、留美の恋人が、戦友が、無表情にこちらを見つめている。その目は、信じられるほどに、冷たい。
 留美の顔が、手が、全身が凍り付いていく。
 そして、数秒の時間停止の後、折原浩平が操るTa214は、急激に速度を増し――旋回、留美の後方への機動を開始した。その動きにはなんの躊躇も隙もpない。明らか過ぎるほどに、留美のファントムを敵機としてみている。
 留美は悪夢を見ているような心地だった。なんで折原が東の機体にのってるの? なんで、私を狙っているの? なんで、なんで――
「なんでなのよ、おりはらぁ!」
「七瀬中尉!」
「くっ!」
 留美ははっと我に帰り、フルスロットルでTa214を引き離す。しかし、留美は困惑から抜け出せない。
「どうして、どうして、どうして! どうして折原がっ!」
「落ち着け七瀬中尉!」
「落ち着いてられるかくそったれ! 折原、そんな、こんなのってないよ、折原、畜生ッ!」
 そういって留美は、再び機体を旋回させた。留美の耳には、折原みさおの甲高い笑い声が聞こえてきたが、彼女にはもはやそれすら聞こえない。しかし、七瀬の叫びも浩平には聞こえておらず、Ta214はすぐさま追撃に移ってくる。その翼下には赤外線空対空ミサイル"アトール"、翼上には赤い旭日。
 後方の機体へ必死に振り返りながら、シュンは誰にも聞かせたことのない怒声を混乱つづける留美に言い放った。
「いいから落ち着け! いいか!? 今、折原君はTa214を操縦士、このファントムを撃墜せんとしている。それは事実だ。しかし、これだけは言える。彼の意識がどうあれ、絶対に望んでのことではない! あの折原君が君を撃つことなどできるはずがないからね。どのような手段かはわからないが、おそらくは何者かに精神を乗っ取られているのだろう。だから、まだ手はある!」
「手があるって……どんな手よ!」
留美は悲鳴のように叫んだ。スロットルを押し込み、太陽の方向へ突き進みつつアトールの有効距離から回避しようとする。
「どうやって折原を正気に戻せって言うのよ! 私、折原を撃つことなんて出来ない!」
「じゃぁ撃たれて死ねば?」
蟻を甚振る子供のように純粋な声で割り込むみさお。シュンは怒りに任せて叩きつけるように彼女との交信を遮断する。
「ともかく、今は逃げろ! いまや最優先事項は生き残ることだ。生き残らなければ、もう折原君を助けるチャンスもない!」
「無茶言わないでよ! 相手は折原なんだよ! あいつの腕は私が一番よく知ってるのに!」
「だったら、それを超えてみせろ!」
 無論、それが無理なことはシュン自身にも判っていた。戦場での折原浩平は、留美ですらもてあますほどの技量を持つ戦神。まさに天賦というしかない才能を縦横に駆使するパイロット。精神的に追い込まれつつある留美に勝てるはずもない。しかし、今のところは、ただ逃げる他に打つ手がないこともたしかだった。
シュンは思った。畜生め、七瀬さんを精神的に痛めつけることが目的だとは感づいていたが――まさか、ここまでするとは。
 留美は、そんなシュンの内心など知らぬかのように、アフターバーナーを全開にふかし、急激な旋回によって必死に浩平の必殺距離からの離脱を図っていた。強烈なGがかかり、Gスーツが細い彼女の身体を締め上げる。残燃料も少ない。しかし、躊躇したら殺される――それだけは、理解できていた。
 なにもかもを振り切るように、留美は再び叫んだ。
「目を覚ましてよ、折原!」

「やってくれたわね……」
 戦艦<甲斐>CIC。戦況表示板の前を睨みつつ、綾香はレシーバーを耳に当てつつ、きつく舌打ちをする。彼女の鼓膜には、洋上で哨戒を続ける哨戒機から中継される、ハノイ上空の死闘の様子が叩きつけられている。
「川名中佐、貴方の言ったとおりよ。折原みさおは折原浩平中尉を用いてきたわ」
「やはり、そうですか」
みさきは悲しげな表情を浮かべて頷いた。先ほどの会話で、彼女はみさおが取り得る最悪の手を予測した。彼女が予測した手とは七瀬留美を苦しめるのに最も適当な行為である、「両者を相撃させる」こと。そして現在、その予測は現実のものとなって、七瀬とシュンを襲っている。
「わけのわからない電波探知はないの?」
綾香は電子戦オペレーターに尋ねた。折原浩平の機体が、遠隔操作で機動している可能性を考えたのだ。それならば強力な妨害電波を発することでカタはつく。だが、答えは否だった。
「ということは、貴方の手を使うしかないようね」綾香は腰に手を当てながら言った。無論、みさきに対してだ。
「言っとくけど、成功の可能性は低いと思うわよ。でも、これしか手がないんだから仕方ないわね。ったく、戦隊指揮官なんかにはなるもんじゃないわ。私はこの<甲斐>の艦長で充分なのに」
「残念ながら、手遅れです。貴方は我が国を代表する提督ですよ、てーとく」
水木は笑いながら答えた。そしてみさきに対して小さく頷く。
「では、川名中佐。始めてくれ。可能性が少なかろうがなんだろうが、やるしかない。七瀬中尉が飛び出してしまった時点で、俺たちが出来ることは決まっていたんだ」
「了解です」
 そういって、みさきは指示を出し始める。おそらくは、友人である深雪が聞けば卒倒しかねるほどの凛とした声で。

<凛鳳><生駒>から発艦した攻撃隊は、小隊ごとにフルードフォー編隊を組みつつ、ハノイに向かって西進していた。総数は24機。第二護衛戦隊の全保有機は76機だったが、たとえ全力でも艦隊防空や整備を考えるとこの程度しか出せないのが現実だった。なお、その半数は<凛鳳>第69戦闘飛行隊のファントムである。
「"千里眼"を使用させろ、だって?」
 そのなかで編隊長をつとめる袖木誌子は、自らも乗機のファントムを操りつつ思わず尋ね返した。
彼女の言っている"千里眼"とは、東日本海軍が合衆国から買い取った電子作戦機、グラマンEA−6B"プラウラー"のコールサインだ。この機の原型は全天候攻撃機グラマンA−6"イントルーダー"。合衆国、西日本はこの新型の電子偵察機を、空母1隻につき1個飛行隊(4機)配備する計画を進めている。
「そうです」
1護戦の情報幕僚と名乗る人物が答えた。
「ファントムが従来装備する電子戦闘機材の能力は限られたものです。電子戦ポットをつけた機体でもそれは同様。しかし、"千里眼"なら、ハノイ上空すべての電子戦を引き受けることが可能なほどの能力を持っています」
「かまわないわ。機体はすでに攻撃隊に先行しているし。それで七瀬が救えるのならば」
 誌子は言った。彼女も、現在留美が陥っている状況は、プラウラーを通じて理解している。
「で、一体何をやらせるつもりなの? どうせろくでもないことなんでしょ」
「七瀬中尉の言葉を発信して欲しいのです。全周波数で。どんなことをやっていようとも、どこにいようとも、その声が届くように」
「どういうことよ。一体、何を考えているの、あなた」
「そうですね……」
無線越しの女性は、ほんの少し考えるような間隔を空けて、茶目っ気を帯びた声でこう答えた。
「『眠れる森の美女』って、知ってますか? 私は小学校のころに読んだだけですけど」
「……はぁ?」

「で、できるわね?」
「で、出来るって……そりゃ出来ますけど、出来ますけどっ!」
 七瀬留美機コクピット。この機の主は相変わらず混乱の最中にあった。浩平は攻撃の手を決して緩めず、留美は回避機動を行いつづける以外にない。燃料は5分の1を切っており、このままでは母艦に帰ることさえおぼつかない。そして空戦は続いている。
 そして、数秒前に突如として入った無線交信――他でもない、1護戦の来栖川綾香中将からの交信で、その混乱はさらに助長されている。彼女が無理難題を吹っかけているのだからなおさらであった。
 ――折原浩平の目を覚まさせるような一言を叫べ。
「出来ますけどっ! でも、そんなことであいつが……折原が正気に戻るんですか?」
「やってみなけりゃわからないわ」
「はぁ!?」
「でも、それしか現状では方策はないわ。遠隔操作でもないとすれば、彼はなにかの精神的な暗示を仕掛けられているとしか思えない。でも、暗示は暗示であって事実ではない。それを彼に教えて上げられるのは、七瀬中尉、貴方しかいないわ」
「でも、そのためには何を言ってやれっていうんですか!? あのバカに対する問いかけなら、さっきからやってますよ!」
 それは問い掛けではなく罵声ですよ、という言葉が、シュンの喉元まできていたが、彼は現状が現状なので黙っておいた。
「七瀬中尉、ひとつヒントをあげるわ」
綾香は楽しげに言った。
「童話の『眠りの森の美女』に登場する王女は、そのクライマックスで、どうやって目覚めたかしら?」
「どう……って、口付けですが。って、司令、まさか!?」
「どうやって航空機からしろというのよ。でも、想いを伝える方法は、他でもあるんじゃないかしら。ほら、よく言うじゃない。女の子は行為よりも言葉だって」
 留美は沈黙した。綾香の言いたいことは理解できていた。その必要性も。しかし、彼女の内心には恐怖がこびり付いている。もし、もしもそれで折原の目が醒めなかったら、私は――
「残念ながら、それしかないようだね」
疲労した声でシュンが口を挟んだ。後方には、いまだ浩平の"グレンデル"が、追尾機動を取りつづけている。
「いいかげん、こちらも限界だ。ならば、賭けてみるのもいいじゃないか。なんのためにここまで来て、なんのためにここにいるのか。それをこの空に精一杯ぶつけてみても」
「……判ったわよ」
留美はぶっきらぼうに言った。しかし続けての言葉は全世界に宣告するが如くだった。
「わかったわよ! 言うわよ! 私は、絶対に今日のダンスパーティで、あのバカと踊ってみせるんだから! ひらひらのドレスで、乙女のように、王女のように! どんなに泥や灰にまみれていたって! だから、言ってやるわよ!」
 留美は後方の折原機を確認、左方へ急旋回。無論、浩平もその機動を追尾する。しかし留美はそのまま機体を右方へ捻りこみ、折原機の背後を掠める。両者の位置を転換させるシザース機動だ。無論、そのような機動にやすやすと捕まる浩平ではない。留美の意図を見抜くと、すぐさま下方へ離脱。しかし留美は追尾をやめない。フルスロットルで浩平の機体へと迫る。速度性能でいえば、ファントムはグレンデルを引き離している。
そして、両者の機体が、重なったその瞬間―――

留美は、叫んだ。
 


 声が、聞こえた。
 どこかで聞いたような声が。
 その声に誘われるように、ゆっくりと瞼を開いてみる。意外にも簡単に開いた。
 両眼にうつったものは、言うならば亡者の凶翼。追いつくもの無き天空の戦乙女。彼が目指していた、永遠にも似た場所である蒼空の彼方へと導いてくるもの。
 そして、そこにいる、最愛の人。
 七瀬留美。高校時代からの恋人。幼馴染よりも、妹よりも、今ではずっと大事なひと。ずっと大切にしたいひと。
 この俺を何度も救った、大切なパートナー。あらゆる意味での、パートナー。
彼は苦笑を漏らした。
なるほどね。
今度は、1日で戻ってこれたってわけか。
 轟音と振動が、そして愛しいひとの絶叫が吹き荒れるなか、彼――折原浩平が、覚醒しきれない意識の中で考えていたとは、そんなことだった。



「…………」
 誌子は、"千里眼"から伝えられた内容を聞いて、腰を抜かしそうになっていた。続いて頭痛が襲う。彼女は思わず、真希の乗るファントムに向かって無線を開く。
「ヴァルキューレ04、感想を」
「……バカだと思います」真希は苦笑するように答えた。
「でしょうね」
「でも……あの子らしくて、とてもすがすがしいです。気持ちいいくらいに」
「それも同感よ」

「うっわぁ」
<甲斐>CICでは、誰もが赤面していた。あまりに恥ずかしいセリフに、身悶えしそうになっている。
「言っちゃった、言っちゃったよ」
綾香は笑い転げそうになるのを必死に我慢しながら言った。CICの壁を苦しげに悶え叩く。
「言っちゃったよ。本当に言っちゃったよ。くっくっく、羨んでいいのやらなんなのやら」
「それで、折原機は!?」
 水木が腹をねじれさせている綾香を無視しながら言った。この人は、これが聞きたかったがために、ここまで無茶を平然としてきたのかという疑念が湧く――が、黙っておくことにする。
「まぁ、大丈夫よ」綾香は半ば咳き込みながら、なにも聞いていないのにも関わらず、断言した。「あの子たちなら、きっと」
「そのいいかげんな予測、正解ですよ。来栖川少将」みさきが自分専用の席で、イヤホンを耳に押し当てながら、嬉しそうに言った。
「折原浩平中尉、意識を回復したようです」

 すべては一瞬で変化した。それまで殺気を放っていたTa214からなにもかもが消えうせ、続いて、留美にとっては、いつもの心地よい安心感が生まれてくる。傍にいる、ただそれだけで判る感覚。つまり、それが意味することは――
「折原!」
 留美は叫んだ。喉の枯れた声で、汗だくの顔で――だけど輝くような表情で。
「戻ったのね!? 戻ったんだよね!」
「どうも状況がよくわからないが――そういうことらしいな」
 無線越しの浩平は、困惑気味に答えた。どうして自分が、空にいるのかすら理解できない。コクピットの内観で自分がTa214に乗っていることは理解できたが、それ以外は記憶が飛んでいる。たしか、俺は撃墜されていたはずじゃないのか。ダナンの美坂少佐を撃墜したことがあるという、あの東日本のMe1110に。
「詳しいことはあとで話すわ」
留美は早口で言った。
「ともかく、今はなんとかその機体、操ってみて! このまま落ちたら洒落にならないわよ」
「わかっている!」
 そう答えて、浩平は操縦を試みる。操縦系統は、以前彼が操縦したことのある(鹵獲機である)Ta183Vとほとんど変わらない。基本操作くらいは出来そうだった。燃料はほとんど残っていなかったが。
「七瀬、燃料がごく僅かだ。どうすりゃいい?」
「んなことくらい自分で考えなさいよ! 待ってて、すぐカタをつけるから。アンタはそこでドイツ人の技術力にでも感銘を受けていなさい」
 浩平はその言葉に引き攣ったような笑いで答える。今の彼にとって、留美のあらゆる言葉こそ、羽毛のように心地よい感触を与えてくれる。

「そんな……」
 折原みさおは、信じかねる面持ちで、状況を見つめていた。
虚ろな目の向こうにあるものは、いまや呪縛から解き放たれたように空を飛ぶTa214。数秒前まで、彼女の列機だった折原浩平の機体。彼女が二度と失うわけにはいかなかったひと。
「どうして、いつも、私の傍からいなくなっちゃうの、浩平……」
 彼女にとって、今回の計画は、完璧そのもののはずだった。折原浩平の被撃墜を利用し、同時にそのパートナーである七瀬留美を苦しめるだけ苦しめぬいた後に抹殺し――そして自分は浩平と幸せになる。そのために彼女はドイツから、怪しげな能力をもつ人間である長瀬を引き抜いてきたし、フクエンの基地機能すら奪った。部下の命すら道具のように扱った。すべては、たったひとつの想いを果たすためだった。
 しかし、現実は違った。先ほどまでは完全といってよいほどの進展をしていた彼女の計画は、留美の、たった一言の叫びで崩壊してしまった。たった一言の、たったひとつの想いの表明によって。 
「残念ながら、想定外の事態です、中尉」
どこからか通信が入った。浩平の意識を狂わせていた張本人――長瀬祐一だった。
「僕のチカラを越えるチカラでした。まさか、あんな阿呆な言葉が、あそこまでのチカラを持つとは――」
「言い訳なんて聞きたくないよ!」
みずかは怒声を放った。
「あと少しで、あと少しで、誰にも邪魔されることなく浩平と過ごせると思ったのに。なんのためにドイツへ亡命したのかわからないよ、これでは」
「では、どうするのです?」
長瀬は先ほどと変わらぬ調子で尋ねた。
「逃げる」
みずかは汚辱に歯軋りしながら答えた。
「そして再起する。私は諦めることなんてしない。あの、鹿島灘に突っ込んでいった第501重戦車大隊の指揮官だって、狂気に嬲られながらもそれなりの結果を出したんだよ。だから、絶対に次のチャンスを待ってみせる」
「失礼ながら。それは難しそうですよ」
「どういうこと!」
「後ろを御覧下さい」
 言われなくても、その瞬間には判っていた。
みさおのTa214へ、復讐に燃えるファントムUが猪の如く突っ込んできている。

「逃がしはしないんだから……」
 留美はそう言って、ファントムUの速度を上げていく。目の前には、遁走に移ろうとするTa214。これまで留美を散々な目に合わした折原みさおの機体。まさに悪竜、グレンデル。しかし、グレンデルは最後には騎士ベオウルフによって倒される運命にある。その母竜ともどもに。
ならばと留美は思う。ならば、こいつはあたしが絶対に墜とす。
 Ta214は降下していく。互いに機動が難しい低空での遁走を図るつもりらしい。留美は傷だらけのファントムでそれを追撃する。だが、得意の小回りで射線を逃され、思うように捕捉出来ない。
 しかし、留美が舌打ちした次の瞬間、Ta214は急上昇、太陽の方向にむかって突進する。その後方にはドイツ製の空対空赤外線ミサイル"ブリュンヒルデ"が。そしてさらに後方には、両翼に旭日を描いた美しいフォルムの機体――メッサーシュミットMe1110が2機。つまりは同士討ちか。
シュンが苦笑するように言う。
「折原みさおという女、よほど嫌われていたか、もしくは恨みを買っていたみたいだね」
留美も同様に苦笑する。
"ブリュンヒルデ"を放った2機のMe1110は、貴様らがカタをつけろというようにバンクを交わし、そして反転していった。どうやら、獲物を横取りする気はないらしい。
 太陽をフレア代わりにしたことによって、Ta214を狙っていた"ブリュンヒルデ"はあらぬ方向へと向かっていった。しかし、その機動によって機体は運動エネルギーを使い果たし、ゆるやかな旋回しか行えないようだった。留美はなんの躊躇いもなく、最後に残った1発の"サイドワインダー"の安全装置を解除しつつ、緑の地上を舐めるような旋回でTa214の後方につく。すぐさま発生する連続音。目標が"サイドワインダー"の射程に入ったことを示すの良好なトーン。トリガーを放ちながら、ここ数十分で味わった屈辱を凄惨するように留美が叫ぶ。
「フォックス・ツー! 食らいやがれ!」
"サイドワインダー"がレールを進む振動、ロケットの盛大な音響。勢いよく"サイドワインダー"は、みさおのTa214めがけて突進していく。みさおはそれを旋回で回避しようとするも、先ほどの機動で運動エネルギーを殺された彼女では、無理な話だった。
そして――命中。その箇所は左翼前方の付け根部分。機体はその衝撃によって、真っ二つに折れるように分解していく。コクピットも例外ではなく、無数の機材が細切れになりながら、地上へと落下する。無論、そのなかの人間も。なにもかもが粉砕され、炎と噴煙の混合物とともに空を汚す。

その瞬間、留美は機体から吐き出された"折原みさお"を見た。
恐るべきことに、視線が一瞬あう。
5年ぶりに出会う、懐かしい顔だった。その顔を見た瞬間、彼女は理解した。折原みさおの正体を。その顔、その視線、その行動の意味を。
だが、すべては遅かった。留美が、折原みさお――いや、そう名乗っていた人間――に対しなにかを叫ぼうとした瞬間、彼女は皮肉な微笑みを浮かべながら、地上へとまっすぐに落下していったからだ。
パラシュートも開かず、人としての終焉を、中天からの力と、緑の大地に託して。

「みず…か……」
留美がようやくのことで口に出せたのは、その一言だけだった。



 留美は押し黙ったまま機体を旋回させた。徐々に薄くなりつつ黒煙の周囲を、大きく巡る。それは墓標のように、空中に漂っている。
「感傷に浸っているところを、悪いんだが……」
 シュンが言いにくそうに留美切り出した。
「折原君から今、連絡があった。燃料が尽きるので、不時着するとのことだ」
「えっ!?」
先ほどまでの暗い顔はどこへやらといった勢いで、留美は視線を浩平のTa241へ向ける。脱出の高度を稼ぐために、緩やかに上昇しながら、浩平は苦笑しつつ掌を振っている。そして、無線ではなく手話で彼女に語り掛ける。
おれ、したに、おちる。だから――
「ふん、わかったわよ」
留美は何事かを呟き、機体を強引に旋回させた。その行動にシュンが驚いたように声をあげる。
「おい、七瀬さん、君、まさか――」
「そのまさかよ」
留美は胸を張って、半ば楽しげに答えた。
「私も降りるわ。救助の手配お願い。操縦はまかせるわ。ファントムUは後部席も操縦は可能なんだし。燃料が足らないかもしれないけれども、そこは適当に給油機とランデブーして」
「ちょっと待て! また捕虜になってしまうかもしれないんだぞ! しかも、今度は二人一緒に――」
「望むところよ」
留美はそう言いながら、後ろを振り向いた。にやりとしてみせる。
「私は七瀬留美なの。んじゃ、あとはお願いね」
 直後、留美のコクピットは上空へと射出されていった。そしてパラシュートが開く。続いて浩平のTa214からも、同様に射出が行われ、パラシュート降下が行われる。二つのパラシュートは、じょじょに近づきつつ、広大な森林へと飲み込まれていく。
「まったくもう……」 
シュンは苦笑いしつつ、しかし内心は愉快でたまらないといった表情で、操縦を引き継いだ機体の翼を傾け、帰途につこうとした。レーダーには目標の増加を示す光点が発生し、無線からは、いまごろになってようやく発進を開始したドイツ空軍機と、目的到着と同時に出撃目的を損失してしまった二護戦の攻撃機隊との交戦の模様が流れてきている。しかし、シュンはそれに構おうとはしない。彼の内心は、満足感で充たされていたからだ。
おそらく地上では、留美と浩平がようやくのことで再会している。そしておそらくは泥塗れになりながら、互いに文句を言い合いながら、結局は、二人は口付けを交している。
臓腑を蝕む病魔によって残り数年の命しかないと知っていた彼にとって、それが想像できることは――たとえようもなく、幸せなことだった。



折原浩平と七瀬留美が救助されたのは、それから45分後のことだった。
泥塗れとなりながらも、満面の笑顔で帰還する二人の様子は写真に収められ、そしてこの写真は、米国タイム誌において、その時の最も優秀な写真としての称号を受ける記念すべき1枚となる運命にあった。
泥塗れの戦乙女―――そう、名付けられて。


エピローグ
3月12日 6時40分
ヴェトナム トンキン湾 西日本第2護衛戦隊


 ユンカースJu651輸送機の内部は、思ったよりも静かだった。その内部から見る景色もまた格別なものだった。落ちゆく夕焼けと果てまで続く海、そして延々と伸びる海岸。ヴェトナムという殺戮の大地から、機体は遠ざかりつつあった。
「で、作戦は失敗に終わったと」
「"折原みさお"――そう偽名をつけていた中尉に関してならば、そうですね」
 黒い制服を来た男性の質問に対し、同様の格好の長瀬祐一が答えた。首元には、ジークルーンを描いた襟章と鉄十字が下げてある。となれば、彼が着ているものは他でもない。国家社会主義の戦場での体現者――ドイツ武装親衛隊の制服だ。正確には、第3次世界大戦時に発足し、いまでは1個航空艦隊を持つに至った武装親衛隊航空団の、士官用のものになる。
「つまり、東日本海軍のヴェトナム派遣航空団は」
大佐の称号を光らせた男が、探るように言った。
「1個飛行隊を失い、指揮系統も混乱中。ほぼ、実働状態ではなくなった――そう結論付けてもよろしいかと思います」
長瀬はにっこりと微笑んで答えた。まったくの事実を言っているのだから気にも病まない。どのみち、彼の忠誠は、生まれ故郷の日本にはすでにない。数年前に渡ったドイツにある。それは、このヴェトナムに折原みさおとともに来た後も変化はなかった。
そう、彼の忠誠は他の誰でもなく、ドイツ"だけ"に。ずっと。そしてこれからも。
「ならば、いい」
大佐は満足げに頷いた。
「能力者である貴様を、ヴェトナムに送り込んでおいて正解だったというわけだな。『マルセイユ』が実働状態にない今、東の日本人やロシア人に戦功を稼がせるわけにはいかない。我々の、戦後のヴェトナム統治の際に支障がでる。やつらは、死の商人として兵器だけ売りさばいていればいいのだ。亜細亜を支配するのは、我々ドイツ人でよい。勝てると判っている戦争なのだから、あのような東方の劣等民族どもに手柄を横取りされるわけにはいかないのだよ」
「なんとも下劣な発言。我々は同盟国のはずですが」
「同盟国だったな、そういえば」
大佐は勝利したチェス盤を眺めているかのように笑った。
「しかし、貴様、よく脱出できたな。たしか、ロシア人の特殊部隊が、貴様を追いかけていたそうだが」
「私はあの時、すでにドンホイにいましたよ。私の能力は半永久的なものです。私が意識しなくとも、精神的支配は継続できます。もっとも、効力は弱まりますが」
「だからこそ折原浩平は正気に戻ったのか」
「かもしれません。あるいは、本当に愛やら恋やらの力なのかも」
「まぁ、どちらでもいいさ。能力者の貴様が生き残ればそれでいい。あぁそれと、貴様の次の任地は東日本だ。なんでも、吸血鬼かなにかを飼っている怪しげな施設で、実験に協力してくれ。月一くらいで奥さんには会えるようにしてやる。どうだ?」
「願ってもいないことです」
長瀬は頷いた。彼の表向きの立場は東日本海軍中尉なのだから、不都合はない。
「さて、私はそろそろ一眠りさせてもらうよ。君らが起こした騒動の後始末で、私も忙しかったのだ」
 そういって大佐が立ち上がった――が、思い出したように、長瀬に振り向いた。
 長瀬はいつもの微笑を返した。「なんでしょうか?」
「最後に一つだけ教えてくれ」
大佐は真面目な顔だった。
「"折原みさお"は、本当に自らが望んで、あのような暴走を行ったのか? 貴様の能力――他人の意識を狂わせるオゾム電波によるものじゃないのか?
「どちらでもいいじゃないですか」
長瀬は笑った。
「結果よければ全てよし。まぁ私たちは、このヴェトナムの空の戦いに、一つの史劇を付け加えたのですから、それで納得してください」
 彼の言葉に、大佐は言葉を返すことなく寝室へと向かっていった。
長瀬は、それを見届けると、ゆっくりとソファーにもたれ、自らの右の掌を眼前で広げた。能力者となってからはや10年余り。この手は、幾多の血と裏切りと欺瞞を創り出している。今回の一件もそれだけのこと。
しかし長瀬は後悔だけはしないつもりだった。彼の能力こそが、彼に刻まれた大切な想いだったのだから。
彼に一時の人間的幸福を味あわせ、彼にその能力を授け――そして、ここではないどこかで眠りについている、ある少女への忘れかけた想い。
それを持ち続けることが出来るのならば、この呪われた力の行使の先など、どこででもよいじゃないか。



「はーい、これが追加分ですよ」
 いかにも重たげなダンボールをどさっと机に置きながら、<凛鳳>副長の深雪はそう言った。
 その光景に呆然とする国崎。しかし、作業の手を止めるわけには行かなかった。数秒間のタイムラグを置いた後、艦の揺れなど気にしないかのように、必死に腕とペンを走らせる。
彼らがいるのは<凛鳳>の艦長室。彼の机の後方には、同じ様なダンボールが数箱詰まれている。その内容は、すべて今回の一見に関する、始末書やら報告書やらのたぐいばかりだ。
留美たちが救助された後、<凛鳳>に襲い掛かったのは、噂を1日遅れで聞きつけた取材人と、そして艦隊司令部からの、叱責文の数々だった。
「……なぁ、副長」
いつになく疲れた声で国崎は尋ねた。
「なんですか艦長」
深雪は冷たく答えた。
「手伝ってくれないか」
「嫌です」
「なんで!」
「私の責任じゃありませんから」
「あの時お前が留美を止めておけばこんなことにはだなぁ」
「目の前で煙草ふかしていた人間の言葉じゃないですよそれは!」
「はぁ〜、なんで俺だけこんな仕事を……。来栖川司令なんて、あれ完全に確信犯だろ。絶対に、ああなると判っていたに違いないぞ、畜生」
「はいはい、愚痴はあとでたっぷり聞いてあげますから。今はとっとと書類片付けちゃってください」
 そういって深雪は、国崎の机の上に散らばる書類を整理し始める。国崎も諦めの溜息を吐き、書類に目を移したが――ふと、顔を上げ、深雪に尋ねる。
「なぁ、副長」
「なんでしょうか、艦長」
「<生駒>じゃぁ、今ごろダンスパーティの真っ最中なんだろうなぁ」
「でしょうね」
「俺も行きたいなぁ……」
「まぁ、悪くないと思いますよ、ここで書類仕事というのも」
深雪は、珍しく優しく微笑みながらいった。
「この書類の山は、私たちが為すべき事を為し遂げたという……いわば、記念碑なんですから」
「……そう思えば、気分も楽になる、か」
口元にはまんざらでもない歪みを浮かべながら、国崎は細い目を深雪に向けた。そして2人で笑い始める。
この後、<凛鳳>は80年代はじめまで現役を貫き通し、<飛竜>級の就役とともに予備指定を受け、その5年後に退役、そして長崎において記念艦となって余生を過ごすことになる。その艦長室の片隅には、今でも書類の詰まったダンボールが、埃を被りながらも、まるでなにかの証のように、そこに留め置かれ続けているとの噂である。



 夜の甲板上は、張り巡らされたライトによって、すでに光の中にあった。盛装や、もしくは怪しげな衣装を着飾ったものたちが、思い思いの場所で、踊り、飲み、生の楽しみを享受している。ヴェトナムでの血生臭い戦いを演じる日本人に、まるでつかぬまの安らぎを与えるようだった。
「まったく、いつになってもこのダンスパーティは怪しげだな」
 まったく似合わないタキシードを着た折原浩平が、アイランドから甲板に出るなりそう言った。
「なにか、アニメの登場人物みたいなのもいるし……俺が知っているのは、『宇宙戦艦キイ』ぐらいなものだぞ」
「だれもそんなことは聞いてないわよ」
その隣りを歩く七瀬留美は呆れながらそう答えた。着こなしているのは蒼いドレス。昔、浩平にプレゼントされたものだ。
しかし、甲板上は、千堂艦長の趣味としか表現できないものたちが、ワルツにのって踊っている。なんとも奇妙な光景。しかし、この場所こそが、彼らが約束の場所だった。
「……で、どうする?」
浩平が何気なく尋ねた。
「俺はメシを食いたいのだが」
「どうするって……踊るに決まっているでしょ!」
留美は常識を疑う声で答えた。
「メシなんてあとよ、あと! 踊っていれば、そのうちお腹もすくわよ」
「俺、昨日の夜からなにも食ってないんだけど」
「我慢して」
「まったく……」
 そういって浩平は、ほんの少し恥ずかしそうに留美から視線を外しながら、彼女の手をとった。
「あっ」
「約束だったしな。そして今日のお礼もかねて」
 そういって浩平は、曲に合わせて留美をリードし始める。そんな目前の恋人に、留美は咄嗟に何かを言おうとしたが――止めておいた。
折原みさおの正体など、きっと浩平は、知りたがらないに違いない。
私と同じ様に、奪われたものを取り返すことを望んだ悲しい少女の顔は、私一人が、知っていればそれで充分なのだから。
それで、二人は幸せなのだから。
甲板に流れる曲は、いつしか激しいものに変わっている。どうやら、2人が参上したことに艦長が気付いたのかもしれない。あるいは、真希や、来栖川少将の陰謀か。どちらにしろ、留美にとっては、悪い気は全くしなかった。
「そういえばさぁ」
曲にあわせてリズムを取りながら、浩平はにやにやしながら尋ねた。
「お前、なんて言って俺を正気に戻したんだ?」
「なっ!」
その言葉を聞いた瞬間、留美の顔は真っ赤となる。その場から逃げ出そうともするが、残念ながら両手は折原につかまれている。学生のころからよくデートで踊っていただけあって、残念ながら折原のリードは完璧だった。
「そ、そんなこと、どうでもいいじゃない!」
「俺は聞きたいな〜。噂じゃ、無茶苦茶恥ずかしいことをいったんだって〜?」
「またいつか聞かせてあげるわよ!」
「どこで? いますぐ? ここで? それとも、ベ」
「また今度!」
流れる曲に夜光は揺らぎ、カムラン湾の航空母艦を熱しさせていく。無数の王子と王女が、己のダンスに酔いしげる。
 そのなかで、二人のダブルエースたちの舞だけは、特別に輝きを放ち続けている。
 いままでも、今も。

そして―――これからも。

End

あとがき


えーと、このサイトでは始めまして(だった気がする)。内田裕樹と申します。
このSSは、2001年から2004年にかけて僕が自身のHPで公開したりしていた「ToHeart」+「佐藤大輔」な仮想戦記「レイド・オン・ジャパン」シリーズ(?)の読みきり短編の一つに当たります。初出は2004年の冬コミのコピー誌です。一応、他の短編とあわせてオフセット本に手直す予定ですが、それもいつになるかわからいので、今回、管理人のさたびーさんに我儘を言って掲載させていただきました。
 現在、僕はこのような場所にSSを新たに投稿するにはアレな境遇となっていますが(自業自得です)、死蔵するには惜しいかなと思い立ったのもきっかけの一つです。
 今の僕の目から見るとまさに拙作、文章の荒さがこれでもかといった感じで、読み返して非常に恥ずかしい気分になりましたが、これもあのころ(といっても一年半ほど前)の勢いと思って、大枠は買えずに投稿することにしました。
 一応、世界観やらなにやらは作中で触れておりますが、基本となる話はネットのどこかの、僕の更新停止状態(さたびーさんスミマセン)のHPにあるので、興味がわきましたらそちらを参考にしていただければと思います。個人的には、もう読み返したくないモノなんですけど(笑)。
 なお、作品に関する自分自身の感想などは、コピー本でのあとがきで言い尽くしていますので、その一文を再掲載して、あとがきを終わらせていただきます。うーん、若いなぁ(大苦笑)。
 
『今回は「七瀬をかっこよく書こう!」というところから始まりました。
 私敵にはONEのなかで一番萌えたのは「瑞佳」なのですが、「お気に入り」という点では「七瀬」が一番です(どう違うんだか)。その発火点は、小説版なんですけどね。
 で、書いた結果がこうなりました。勧善懲悪モノです。まったく、ROJはもっと暗くて救いの無い話のはずなのに、綾香や七瀬が暴れまわった御蔭でこの体たらくです(笑)』

多分、続きはありません(笑)。ただし、またいつか、作中で思いっきり元気よく暴れてくれた七瀬や浩平を書いて見たいなとは思っています……いったいいつになるんでしょうねぇ。
 それでは、ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
 あーと、六月に銀河出版から新作出るので、よろしく(謎)。


 
管理人のコメント
 内田祐樹さんから当サイトの100万ヒット記念作品として、本格的仮想戦記「レイド・オン・ジャパン」シリーズの新作を頂きました。
 レイド・オン・ジャパンは内田さんオリジナルの作品世界で、第二次世界大戦に勝利したドイツとアメリカの二大勢力下で分断国家になってしまった日本を舞台にした仮想戦記。そのへヴィというかダークというか、重厚な雰囲気が何とも言えない、実に面白い作品です。まさかその新作をこんな風に戴けるとは思っても見ませんでした。
 下手な解説をすると興が削がれそうなので、とにかく内田さんの生み出す怪しい世界観(笑)とハードな戦闘シーン、それに所々にちりばめられたギャグに浸っていただきたいと思います。
 一言だけ、特に素晴らしかったところを挙げさせてもらうなら……
 留美がヒロイン! 素晴らしい!!
 以上です。内田さん、見事な作品をありがとうございました。


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