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りばーしぶるハート〜しおさい女子寮物語〜

第零章 それぞれの事情

第七話 呪われたミューズ



 何も描かれてはいない真っ白なキャンバスと向かい合い、麻生大輔は苦悩していた。描けない。手が動かない。まるで絵の書き方を忘れてしまったかのように。
 それでも、無理に手を動かし、絵筆をキャンバスに這わせる。…しかし、何も形にはならなかった。彼の内心の迷いを映し出すように、無意味な線を描きつづける。やがて、大輔は絵筆を置いた。もう、駄目なのだ、と思う。昔はあんなに絵を描く事に夢中だったのに…
 道具をしまいこみ、無意味な色彩がのたうつキャンバスに目をやってため息をつく。その時、ふと一人の少女の事を思い出した。君影百合奈。学校の一年先輩。自分を呪われた存在であると言っていた少女。
 自分も、呪われているのかもしれない。大輔はそんな事を思った。幼い頃から絵に関して天賦の才能を発揮し、幾多のコンクールに入賞。今の学校にも特待生として入学した彼だったが、何時の間にか自分が学校の名誉のために利用されていると感じるようになり、それ以来絵を描く事への情熱を失っていた。
 それでも、自分には絵を描く事しかないのだ、と必死に絵筆を握ってきたが、もうそれも限界になりつつある。呪われているように絵筆が重く、キャンバスの白さが心を押しつぶすような巨大な壁となって立ちはだかる。とても正常ではいられない。
 その苛立ちのせいか、最近は他人に対してもとげとげしい態度を取ってしまうようになっている。今日も、義妹の恋と言い争いになった。大輔の投げやりな態度に激怒した恋は、最後に捨て台詞を残して立ち去っていった。
「ふんだ、女々しい奴!アンタなんか、女の子になっちゃえばいいのよ!!」
 元気がよく、男にも負けない行動力とバイタリティを持つ恋。大輔もよく蹴られたりしていたが、そんな彼女に「女々しい」と罵られた事は少し堪えた。そんな事は自分でもわかっているのだ。悪いのは自分なのに、それを回りに押し付けている。恋だけでなく、自分に好意を抱き、後押ししてくれている多くの女の子や友人の事を考えると、なおさら自分の不甲斐なさに腹が立った。
(でも…本当にわからないんだ。俺は…いったいどうすれば…)
 考えることすら億劫になった大輔は、書き掛けの絵も画材も放り出し、ベッドに身を投げた。天井を見上げながら、恋の言った言葉の一つを反芻する。
(女の子になっちゃえばいい…か)
 大輔は自分の知っている周囲の女の子を思い浮かべた。どの娘も魅力的な娘ばかりだ。
(あやかりたい…くらいだな)
 そのまま、彼の意識は、眠りの中に落ち込んで行った。

 そして、翌朝。どすどすと元気が良いのを通り越して豪快と表現したくなる足音と共に大輔の部屋に突入してきた人物がいた。
「いつまで寝てるのよーっ!!朝だ起きろーっ!!」
 態度と口調の割に可愛い、と表現したくなる声が部屋の空気を震わせる。大輔の義妹、桜塚恋であった。本当は大輔のことが気になってしょうがないのに、それを隠してわざと義兄に対しては粗暴に振舞う、その天邪鬼ぶりが可愛らしいとは、彼女の親友鷺ノ宮藍嬢の評である。
 まぁ、それはともかくとして話を元に戻すと、ベッドの上で布団に包まったまま、身じろぎもしない大輔にキレた恋は怒鳴った。
「この可愛い恋ちゃんが起こしに来てるのに、無視するなんて!!き〜っ、むかちゅくぅ〜っ!!」
 自分で自分を可愛いと言うところはかなりのものだが、その言葉と共に、恋はそのしなやかな肢体を宙に舞わせた。
「チェスト―――!!」
 そのまま、ベッドの上の大輔めがけて必殺の飛び蹴りを放つ。実を言うと、ここまでは毎朝恒例の儀式。普段はここで起き上がった大輔が間一髪で恋の蹴りをかわし、そして言うのだ。
「殺す気かっ!!」
 と。心の中では義兄を信頼しているからこそできる、恋なりの愛情を込めたモーニング・コールであった。
 が、この日は様子が少し…いや、大いに違った。
どがっ!!ぐるるるるるる、べちっ!!どさっ…
 解説を加えると、最初の「どがっ!!」は恋の蹴りが大輔を捕らえた音、次の「ぐるるるるるる、べちっ!!」は、大輔が布団に包まったまま転がっていって壁に叩きつけられた音。
 そして、最後の「どさっ…」は大輔が床に倒れこんだ音である。
 要するに直撃だった。しかも、この上なく完璧な。床に転げ落ち、ぴくぴくと震えていた布団の塊が、すぐに微動だにしなくなる。
「え…あ・・・」
 恋の顔からさーっと血の気が引いた。彼女にも、大輔の体につま先がめり込むなんともいえない重い手ごたえ(足ごたえ?)が感じられたのである。布団が若干のクッションになったとはいえ、与えたダメージは想像を絶するものがあるだろう。
「や、やだ、どうしよう…お、お兄ちゃんが…!!」
 普段、大輔に対してかぶっている演技の表情を忘れ、本来の彼女に戻って恋はベッドの上でおろおろとうろたえた。その時だった。
「大輔ちゃーん、いないの?入っちゃうよ〜」
 突然、廊下からそんな声が聞こえると同時に、部屋の入り口からひょこっと顔を出した人物がいた。
「…恋ちゃん?なにしてるの、そんなところで」
「あ、天音ちゃん…」
 恋は絶句した。隣の家の住人で、大輔の幼馴染みにして恋にとっては先輩兼大輔を巡る有力ライバルの一人たる橘天音だった。この麻生家に自由に出入りできる数少ない人物でもある。普段は玄関まで迎えにくるのだが、麻生兄妹が出てこないので入って来てしまったらしい。
「あ、天音ちゃん…どうしよう…お兄ちゃんが…」
 恋は床の上の布団を指差す。それを見て、この兄妹の朝のやり取りを知っている天音は事態の深刻さを悟った。
「まさか…当たっちゃったの?」
 天音の言葉に恋が泣きそうな顔で頷いた。天音はともかく大輔を助けるのが先だと判断し、布団をめくりあげた。
 そして、凝固した。
 その固まってしまった天音を見て、恋はとてつもなく不吉な予感にとらわれた。
「ど、どうしたの?天音ちゃん。まさか…お兄ちゃんが…」
 最悪の想像を必死に押し殺し、恋は天音がめくりあげた布団の中を覗いた。
 そして、恋もまた凝固したのであった。

「それで私を呼んだ、と」
 恋と天音から事情の説明を受け、麻生家の隣に住む篠宮悠は言った。彼女は大輔たちが通う撫子学園に実習に来ている教師の卵で、大輔にとっては初恋の女性だったりする。
「はい、とっさに頼りになりそうな人は篠宮先生くらいしか思い浮かばなかったものですから…」
 天音が答えた。最初布団の「中身」を見てパニくった彼女だが、なんとか落ち着きを取り戻す事に成功していた。
「あぁぁぁ…どうしよう…まともに入っちゃってたし…目が覚めなかったら」
 一方、恋はまだ混乱していた。そう呟きながら彼女が見る方向には、先ほど恋と天音を混乱させた正体がベッドに眠っていた。
 それは、一人の少女だった。天音や恋が「可愛い」と表現すべき美少女なのに対し、「美人」と言ったほうが良いかもしれない。大人びた、そしてどことなく物憂げな雰囲気を漂わせる顔立ちを持った少女だが、まるで似合わない男物の服を着ているのが謎だった。
 そもそも謎と言えば、なぜこんな少女が大輔の部屋で眠っていたのかの方がよほど謎ではあったが。
 そして、彼女は今も眠っている。なにしろ、恋の殺人キックを後頭部と思われる場所に直撃され、勢いで壁に叩きつけられたのだ。布団がクッションになっていなければ死んでいたかもしれない…と言うのが大げさでなく思われるほど線の細い少女であった。
「息はしているし、時々苦しそうにしているから、目が覚めないって事はないと思うけど」
 悠はそう言って少女を見た。悠の言葉を裏付けるように、軽く身をよじり、「うう…ん…」と声をあげている。「苦しげ」と言うよりは「悩ましげ」に近いものがあったが…
「とにかく…この娘がどこの誰かを特定するのが先決ではあるんだけど」
 悠は恋と天音の方を向いて言った。
「これ…大輔君の服よね?」
 二人はこくこくと首を縦に振った。白のジャケット、チェックのYシャツ、少し色の褪せたジーンズも、大輔が昨日着ていたものだ。今は少女が着ているので少しぶかぶかになっている。
「…ともかく、なにか身分証明になるようなものを探しましょ」
 少し後ろめたいが、悠はそう言ってジャケットのポケットを探った。が、出てきたのは大輔の財布だけだ。
「胸ポケットにはうちの鍵がありました」
 と、こちらはYシャツを探っていた恋。
「あれ…きゃっ!?」
「どうしたの!?」
 突然天音が小さな悲鳴をあげ、恋と悠が慌ててそっちのほうを見る。
「この娘…下着まで男の子の」
 天音が指差しながら言った。見ると、ゆるゆるのジーパンがずれ、男物のトランクス―当然これもゆるゆるだ―が覗いていた。
「あ、これお兄ちゃんのパンツだ。洗濯した事があるから間違いないよ」
 恋がトランクスの正体について指摘する。そこで、悠はおもむろに少女の胸を触った。
「んっ…」
 少女の口から切なげな吐息が漏れる。けっこう敏感な方らしい。
「な、何してるんですか?先生」
 驚いたような、呆れたような天音の問いに、悠は少女の胸を掴んでいた手を離して、そこからわかった事実を述べた。
「この娘、ブラも付けてないわ…」
 そこで、3人はしばし顔を見合わせて考え込む。現状では、件の少女に関しては「不法侵入して大輔の服を着用した上に、ベッドで眠り込むヤバいストーカーっ娘」と言う結論が導き出されても良いのだが、少女の身体を探っているうちに、そう断言できない事情が3人には出来ていた。
「えっと…」
「あの…」
「うんとね…」
 期せずして話題を切り出そうとした3人の声が重なり合う。思わず顔を見合わせ、今度は言い出し役を譲り合う。
「あ、天音ちゃんからどうぞ」
「い、いえ…篠宮先生から」
「れ、恋ちゃん。お先にどうぞ」
 しばし意味のない事を続けた末、結局天音が最初に話す事になった。
「あのね、まさかとは思うんだけど…この娘って…」
 そこで、残る二人も同じ結論にたどり着いていた事に気がついた。頷きあい、一斉に言う。
『この娘って、大輔ちゃん/大輔君/お兄ちゃん?』
 3人がその信じがたい結論を述べたその時、これまでよりもはっきりした少女の声が響き渡り、身体が激しく動いた。3人は一斉に少女に注目した。
 
「う…」
 切なげな声をあげ、少女の目が開いた。自分の周りを天音たち3人が取り囲んでいるのに気が付き、声をあげる。
「…こ、ここは…」
 声を出すのも辛いような、そんなか細く途切れ途切れの口調で言う彼女に、悠が安心させるように声をかける。
「心配しないで。ここはあなたの部屋よ。…身体のほうは大丈夫?」
 少女は少し考え、やや顔をしかめて言った。
「頭が…何かで殴られたみたいに痛い…」
「うう…ごめんね」
 恋が謝る。しかし、少女の方はなぜ謝られるのかわからなかったらしい。恋に向かって問い掛ける。
「…なんで…謝るの?」
「いや…その…私が思いっきり蹴っちゃったから」
 恋が気まずそうに言う。少女の方は謝罪の理由と頭痛の原因に付いては理解したようだが、それはそれとして新たな疑問が湧き、恋にもう一度質問する。
「…蹴った?…どうして…?」
「え?あ、それはその〜」
 少女の上目遣いの、いかにも弱々しい表情と口調に、普段は元気一方の恋も自分のペースがつかめず苦労する。そこで、天音が割って入った。
「あ、あのね…あなたのお名前は?」
 それは、全員の聞きたい事だった。これで、少女の正体がわかる…と思ったのもつかの間、首をかしげて考え込んでいた少女が暗い顔つきになって言った。  
「名前…名前…なんだっけ?思い出せない…」
 全員の顔に愕然とした表情が現れた。
「ま、まさか…記憶喪失?」
 悠が言った一言が、事態の深刻さを物語っていた。

「あううぅぅぅ〜ど、どうしよう。私のせいでお兄ちゃんがお姉ちゃんにあまつさえ記憶喪失だなんてああそんな」
 頭痛を訴える少女を再度寝かせ、隣室に移った一行。その中で恋は完全に頭が混乱しているのか目を渦巻状にしてぶつぶつと訳の分からない事を呟いている。
「ま、まぁ落ち着きなさい恋ちゃん。あの娘が本当に大輔君かどうかはまだわからないんだし」
 悠は言ったが、その可能性はかなり高いと彼女は見ていた。少女を取り巻く、気だるげというか、物憂げな雰囲気は、最近のスランプに悩み塞ぎ込んでいた大輔のものと同質だった。
 他にも、ほくろの位置とか、身体的に少女と大輔の共通点は多く、そうなった原因は不明だが、少女=大輔なのは確実だと思われた。
 しかし、肝心の本人が記憶を失っているのではどうにもならない。天音が物騒な事を言い出した。
「…同じショックを与えると良いと言うけど」
『死ぬ。今度こそ死ぬっ!』
 恋と悠が同時にツッコんだ。天音がう〜ん、とうなって考え込む。そして床に目を落とした時、彼女はそこに落ちていた物を見て、今度こそ名案を思い付いていた。
「そうだ、絵を描いてもらおうよ!!」
『え?』
 恋と悠が少し間の抜けた声を上げて天音を見る。期せずしてダジャレになってしまった事には気づいていない。
「絵を見れば、あの娘が本当に大輔ちゃんかどうか分かるよ」
 その言葉に、悠は一瞬考え込む。
「確かに…それは良いアイデアだけど」
「描いてくれるかが大問題よね…」
 後を恋が引きとって続ける。天音も思い出して口をつぐんだ。何しろ、大輔は重度のスランプだったのだ。絵を描く事すら断念しようかと考えてはじめていた彼(彼女?)が、この状況下で素直に描いてくれるだろうか?
「…でも、だめでもともとだよ。大輔ちゃんがどうなったとしても、今はあの娘しか手がかりが無いもん」
「…そうね。やるだけはやってみましょう」
 悠の決断により、少女に絵を描かせてみる事が決定した。

 夕方、大輔の部屋に入ってみると、少女は目を覚ましており、上体を起こして何かを見ていた。
「身体の方は大丈夫?」
 悠が本日二回目の質問をすると、少女はこくりとうなずいた。
「はい。頭痛も治まりましたし…」
 記憶を無くしたのと関係があるかどうかは分からないが、やけに丁寧なしゃべり方をする少女。自分でも自分の事が分からない不安から、少し脅えたような表情で全てを見ている。そのため、期せずして彼女のまとう雰囲気は保護欲を否応無しに掻き立てるものとなっていた。同性の天音たち3人でさえそう思ったのだから、多分男に見せたら大変に危険な状態になるだろう。
「で、何を見ていたのかしら?」
 そう言いながら、悠は少女の視線を追った。そこには、昨日大輔が描きかけていたらしいキャンバスがあった。
「絵が気になるの?」
 天音が尋ねると、少女はこくりとうなずいた。
「なんだか…懐かしい気がします」
 天音たち3人は少女の顔を見つめた。彼女が絵を見る目は真剣で、まさしく大輔が画布に向かう時の顔付きだった。
「ねぇ、お願いがあるんだけど…」
 話を切り出したのは恋だった。何でしょうか?と首をかしげて問い返す少女。その仕種と口調に恋は大ダメージを受けた。
(お、落ち着いて…あれがお兄ちゃんだったとしても、記憶喪失でヘンになってるだけなんだから。そうなんだから…)
 内心の動揺を押し隠し、恋は少女への「お願い」を口にした。
「絵を描いて欲しいの」
 その恋の言葉は、少女を少なからず困惑させたようだった。
「…絵を?」
 自分を指差し、戸惑った声で言う少女に悠が言い聞かせる。
「これは、あなたに記憶を取り戻してもらう上でも大事な事なの。やってもらえないかしら?」
 少女は軽く首を傾げた後、やってみます、と言って、乱雑に片付けられていた画材に手を伸ばした。ラフデッサン用の鉛筆と、新しいキャンバスを手際良く用意する。彼女自身は意識していない様だが、やはり絵を描く事に馴れた人間の手つきだった。
「では…モデルは誰がしてくださいますか?」
 準備を終えて尋ねてくる少女に、天音たち3人はまたしても無意味に譲り合った挙げ句、結局3人全員でモデルをする事になり、大輔のベッドの上に腰掛けた。
「じゃあ、はじめますね」
 少女がキャンバスに手を走らせ始める。描けなくなるのではないか、と言う3人の懸念をよそに、少女は真剣な顔付きでキャンバスと向かい合っている。しばし無言のまま、部屋の中にはさらさらという画布をこする音だけが響いた。
 どれだけ時間が経ったのか、いつしか窓の外ではすっかり日が傾いていた。3人が疲れを意識し始めた時、少女が突然手を止めた。
「ど、どうしたの?」
 天音が緊張した顔付きで尋ねた。スランプの症状が出たのかと思ったのだ。しかし、少女は立ち上がると、イーゼルを廻して3人の方に絵を向けた。
「とりあえず…ラフなんですけど」
「わぁ…」
 そこに描かれていたものを見て、3人は驚きと感嘆の声を上げる。画布には、夕日に照らされた3人の顔が、美しいタッチで描かれていた。それは、まさに大輔の絵だ。この瞬間、3人は少女の正体が大輔である事を完全に確信した。
「えっと…どうでしょうか?」
 小首をかしげて感想を求める少女。「うん、凄く良いね…」と言いかけて、天音たちは正気に返った。
「いや…そうじゃなくて。何か思い出した事はある?」
 悠が尋ねると、少女は腕を組んで考え込み、やがて口を開いた。
「なんだか…凄く自然に身体が動きました…ずっと絵を描いていたみたいに」
 少女の言葉に、悠は頷いた。
「えぇ…あなたは確かに絵を描いていたわ。それも、とても将来有望な高校生画家として有名なくらいに、ね…」
 忘れてしまった自分の過去を聞かされ、身を乗り出す少女。そんな彼女に悠たちは告げた。
「あなたの名前は、麻生大輔。私、篠宮悠の教え子であり隣の男の子」
「それで、わたし、橘天音の幼なじみで…」
「私、桜塚恋のお兄ちゃんよ」
 そうして、3人は自分と大輔の思い出をかわるがわる少女に語って聞かせた。

「ごめんなさい…実感が湧かないです」
 少女―大輔は言った。
「…思い出せない。でも、なんだか聞き覚えが有るような気がする…んっ…!」
 またしても頭痛がぶり返してきたのか、大輔は額を抑えて小さなうめき声を漏らした。
「む、無理はしないで…」
 天音たちに支えられて、大輔は再びベッドに横になった。やはり疲れていたのか、すぐに寝息を立てはじめる。それでも、時々小さなうめき声をもらすのは、何か苦しい事があるに違いない。
「あの娘が大輔ちゃんに間違いない事は分かったけど…」
 再び隣室に移った天音たちは、車座になって既出の疑問を確認した。
「問題は、なんで女の子になっちゃったのか…よね」
 天音が言うと、恋がはっと顔を上げた。何か思い当たる事でもあったらしい、と思った悠は恋に声をかけた。
「どうしたの?」
 すると、恋は泣きそうな顔で言った。
「あたし…昨日、お兄ちゃんと喧嘩して…その時に女の子になっちゃえって言ったんです…」
 まるで自分の責任で大輔がああなった、と言わんばかりの恋に、天音が慰めの言葉をかける。
「恋ちゃん…恋ちゃんのせいじゃないよ」
 落ち込んだ恋を支える天音を見ながら、悠は考えていた。
(…確かに恋ちゃんがそう言ったからって大輔君が女の子になっちゃうわけはないんだけど…何かの手がかりにはなるかもね。こういう時、話の聞けそうな相手は…)
 悠の脳裏に浮かんだのは、そうした超常現象に詳しそうな一人の少女の姿だった。
 
 翌日、その少女、君影百合奈が麻生家を訪れた。彼女は自らを「呪われている」と言う少女だったが、それだけにこの世の神秘にも詳しい知識を持っている。彼女が訪れたその時、大輔はキャンバスに向かって天音と恋の二人をスケッチしていた。絵を描いている時が一番落ち着くらしい。少しでも記憶が戻るきっかけになればと、天音と恋も積極的にモデルに立候補している。その様子を見た百合奈は、深いため息をついて、彼女を呼んだ悠に向き直った。
「少し、驚きました。麻生さんの上に、運命の転換が訪れるだろうと言う予感はしていたのですが」
 運命はともかく性別まで転換しているとは思わなかったようだ。
「それで、何か分かりそう?」
 悠が尋ねると、百合奈は少し待って下さい、と言って、大輔の部屋の中を捜し始める。少し経って、彼女は大輔が男だった最後の夜に描いたらしいキャンバスに気が付いた。大輔の心の迷いを表すように、複雑で一見無意味な線が描き殴られた代物だ。
「これは…?」
 首を傾げる百合奈。
「それがどうかしたの?」
 悠が百合奈の様子を見て取って側に歩み寄る。そして、その絵とも何とも付かないものに付いて説明すると、百合奈は得心が行ったと言うように頷いた。
「そう言う事でしたか…わかりました、篠宮先生。変身の理由はこの絵です」
「これが?」
 意外な事実に悠が驚くと、百合奈は絵を持って説明をはじめた。
「偶然でしょうが…この絵は一種の呪術的な文様になっているんです。麻生さんはスランプの事で悩み、苦しんでいましたから、呪いの原動力になる悩みや苦しみ、怒りと言った負の感情をたっぷり持っていたに違いありません。…それが元になって、ああいう風になってしまったのではないかと思います」
 なるほど、と悠は頷いた。ついでに質問する。
「という事は、これは女の子に変えてしまう効果のあるものなのね?」
 しかし、百合奈は首を横に振った。
「…そう言うわけでは…力が十分強くて、何か引き金になるような出来事があれば、そう言う事も起きるかもしれませんけど…」
 悠は恋の一言を思い出した。あれはまさに現在の状況を読み解く手がかりになったのだった。事情が分かったのなら、あとはそれを取り除けば大輔を元に戻せるはずだ。
「うん、わかったわ。それで、元に戻すにはどうしたら良いのかしら?」
 悠は尋ねた。ここまで謎を解いてくれた百合奈であれば、当然元に戻す方法も知っているはずだと思ったのだ。ところが、彼女は首を横に振った。
「私にはわかりません。呪いの事は分かっても、それを解く方法までは知らないんです」
「え」
 悠は固まった。それはちょっと予想外の展開だったからだ。
「こ、困ったわね…大輔君を元に戻せないとなると…」
 大輔は今、スランプの為に次の絵画コンクールへの出展が危ぶまれている。名誉欲が強い今の学園長は大輔に一刻も早く絵を書き上げて出展する様圧力をかけてきていて、それが出来なければ特待生待遇を取消す事をほのめかしていた。
 大輔自身は特待生待遇などには何の未練も無い様だったが、周囲の人が心配して、何とか大輔のスランプが解消されるように助力していた。しかし、スランプ自体はどうやら無くなったらしいのだが、別人になってしまっては出展や特待生待遇どころか、学校に通いつづける事自体が不可能だ。
「偶然とは言え、自分に呪いをかけたのは麻生君ですから、記憶が戻ったりして元に戻りたいと願えれば、解けるとは思うんですが…」
 百合奈は言ったが、大輔の記憶がそう簡単に戻りそうに無い以上、それを待っているのは難しい。
「…とりあえず、今描いている絵を大輔君の名前で出せば時間稼ぎにはなるわね。後は病気で押し通すしか…」
 悠は決断した。大輔の記憶が戻り、男の姿に戻るまで、病気を名目に学校を休ませる。そして、悠は大学の担当教授の知り合いである医者に大輔を見てもらう事にした。

 二週間後、大輔の描いた天音と恋の肖像画はコンクールで見事大賞を獲得した。しかし、大輔の記憶は依然として戻っていなかった。と言うよりも、その症状が特異な物である事が分かったのだ。大輔は、ちゃんと男だった頃の自分を思い出せるようになり、天音や恋、悠の事が分かるようになったが、その記憶がはっきりと自分の物だと認識できなかったのである。
 つまり、昔の記憶が他人の物のように感じられるのだった。今の大輔は、昔の自分の事をどこかの別の男の子のように認識していた。
「やっぱり…分からないかな」
 その日も、天音が来ていて、しきりに大輔との思い出に付いて話していた。大輔は真剣な顔をして聞いていたが、話し終わった天音がそう聞くと、悲しげな顔付きで首を縦に振った。
「…ごめんなさい。そういう記憶はあるんだけど、やっぱり自分の事だって分からない…」
 性格の方も別人のようになってしまっていた。記憶があいまいで自分がない不安から、少し気弱で、いつも蔭りのある表情をしている。言葉づかいも、ずっと天音たち女の子に囲まれて過ごしていたせいか、女の子のそれになっていた。
 容姿としては非常な美少女であるし、物腰が丁寧でどこかの御令嬢かと思うような清楚な雰囲気を漂わせる今の大輔であるが、悠にとっては頭痛の種だった。天音や恋はどうにか元に戻そうと連日彼(彼女?)の元に押しかけているが、どうも逆効果のようだ。その事がプレッシャーになって、却って大輔を追い込んでいるような気がする。
 そして、世間をごまかすのも限界になりつつあった。悠は実習期間を終えて大学に戻らなければならない時期になっていたし、長期休校のために学校が医師の診断書を提出しろと言って来ていた。
 そこで、悠はついに非常手段に出る事にした。彼女はある噂を聞いた事があった。教育大学での噂で、どこかの街に、こうした特殊な事情を持つ人間を積極的に受け入れている寮と学校がある、と言う話である。彼女はまず、その裏付けを取る事から始めた。

 数日後、まず悠は天音と恋を呼んで話をした。大輔を別の学校に転校させ、しばらく静かな環境に置いてゆっくりと回復を待つと言う案を述べたのである。
「そんな…私は反対です!」
 恋は断固反対の意見を唱えた。記憶障害の原因を作った(かもしれない)彼女としては、自分で大輔を元に戻したいのも当然と言えるだろう。
「私も、大輔ちゃんとは離れたくないです…」
 天音もやはり反対の意見を述べた。無理もないかな、と悠が思った時、天音は続けて意外な言葉を口にした。
「でも、それが大輔ちゃんのためになるんだったら、私は賛成です」
 その言葉に、恋が何かを言おうとしたが、天音はそれを制して言った。
「だって…今の大輔ちゃん見てるのは辛いよ」
 これには恋も黙り込んでしまった。記憶を取り戻すためのリハビリと思って絵に打ち込んでいる大輔は、スランプの頃とはまた違う意味で絵に呪縛されていた。描きあがった絵も、大輔本来の柔らかいタッチとは違い、少し暗くて硬い色調、筆使いだ。
「それは…私だって」
 恋が呟くような声で答える。彼女も、焦って元に戻そうとすればするほど、違う人間になっていく大輔を見ているのには耐えられなかったのだ。
「二人とも、頑張ってくれたわ。でも、後は大輔君自身が悟ってもらうしかないと思うのよ…辛いと思うけど」
 悠がそう言うと、恋も大輔の転校に賛成した。そして、本人もその案を了承する事になる。
 一週間後、寮への引越しを仲介した人物から「麻生絵美」名義の代替戸籍が届いた。ちなみに、「絵美」は天音、恋、悠が考え出した名前である。女の子として行き先の学校に転入するにあたり、大輔らしい個性が残る名前を、と言う事で考え出された名前であった。

「む〜…えっと…拍手〜でいいのかなぁ〜?」
 ここへ来た事情としては今までもトップクラスにヘヴィな話に、さすがの美紗緒もちょっと困惑気味だ。
「構わないですよ」
 絵美が肯くと、ぱらぱらと拍手が起こった。
「という事は麻生先輩、まだ記憶は完全に戻ってないんですか?」
 祐香が尋ねると、絵美は苦笑気味に微笑み、首を横に振った。
「いいえ、ちゃんと戻ってますよ」
 その答えに、全員が驚いた表情で絵美の顔を見つめた。ひょっとして、記憶が戻った上で、元に戻りたいと願えば呪いが解けると言う仮説は間違っていたのだろうか?と思ったのだ。
「…いえ、一応元に戻りたいとは思ってますけど…ただ、私はまだ自分が何のためにこれからも絵を描いていくのか、その答えを見つけていないんです。それが分からないうちは…待っていてくれるあの3人に合わせる顔がないですから…」
 絵美は答えた。普段最低限の事しかしゃべらない彼女としては、非常に長い台詞であった。
「そっか…絵美も苦労してるんだなぁ」
 麻咲が言った。彼女と絵美は、陸上と絵画、分野は違っても一芸に秀で、それを自分の拠り所としている、と言う点で共感を感じ合っている親友同士だ。
「お互い頑張ろうな」
 麻咲の言葉に、絵美はにっこりと笑って頷いた。
「さて…次は真奈ちゃんかひろのちゃんだね〜。どっちから先に行く?」
 残る二人は顔を見合わせたが、先に手を挙げたのはひろのだった。
「それじゃあ、私から行きます。住人の方から先に済ませちゃいましょう」
「はい、それでは拍手〜」
 一同の拍手の中、ひろのがちょっと緊張した面持ちで立ち上がった。
「それでは…」

(つづく)


後書き

「りばーしぶるハート」登場ヒロイン中、美人系&おとなしい系の代表格である麻生絵美のお話でした。
 今回は「絵美がどうしてあの性格なのか」という理由付けに苦労した結果、記憶喪失などと言う反則技に頼ってしまいました(滅)。うぅ、私はまだ未熟者だ…
 おまけに本人がおとなしいですから、周囲の人ばかりしゃべっています。おとなしい系は萌え萌えですが、使い方も難しいのだと言う教訓を思い切り味わってしまいました…この反省は今後に生かしたいと思います。
 さて、次回はいよいよメインヒロイン長瀬ひろのの登場。彼女の運命が「りばハ」と「12人目〜」で分岐したその瞬間はどこだったのか、と言う謎に迫ってみましょう。
 
2002年4月某日 さたびー


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