「……あれ?」

 鳴美は目を覚まして見上げた天井が、見慣れたものではない事に気づき、首を傾げた。そして、昨夜はあゆの家に泊まったのだという事を思い出した。
「眠い……昨夜は話し込んじゃったな」
 鳴美が参謀になりたい、と言う希望を出したことに対し、自身参謀職でもあるあゆは、簡単な参謀の心得を鳴美にいろいろと教えてくれた。とはいえ、それはあゆが属する斯衛軍の戦術思想に基づくものでもあるから、目指すなら国連軍の参謀育成コースだろうと言うことも。
 帰ったら、夕呼にも相談して、今後の進む道を考えなくてはなるまい。とは言うものの、眠気がまだ晴れない頭では、なかなか考えもまとまらない。にゃふぅ、と妙なあくびを漏らしたその時、すっと襖が開き、顔を見せたのはまゆだった。
「鳴美ちゃん、朝食の準備が出来てますぞ。少佐もお待ちですのでどうぞ」
 鳴美は頷くと、久々の布団から身を起こして立ち上がった。



誰が望む永遠?

第二十四話:二つの再会




 朝食後、これまた天然もののコーヒーを淹れてもらい、ようやく眠気が取れてきたところで、あゆが鳴美に聞いてきた。
「ところでなるなる、今日はどうするの?」
「え? 少佐のほうからわたしに用事はないんですか?」
 鳴美は聞き返した。彼女の現在の役目は、一応今後予測される斯衛軍のクーデター計画に対し、国連軍とあゆの間の連絡役を務めることである……が、確かに別に常時あゆのところにいるわけではない。
「あたしからは、あんたんとこの雌狐……香月博士のところに、資料を持ち帰ってもらうくらいよ。他に用事がなければ、日の出埠頭まで送らせるけど?」
 どうやら、あゆが鳴美を家に招いてくれたのは、純粋に好意であったらしい。鳴美はしばし考え、あゆに申し出た。
「電話を貸していただけますか? 一応博士に確認して、何も用事がなければ基地に帰ります」
 あゆは頷くと、まゆに命じて鳴美を電話のところに案内させた。基地への電話番号をダイヤルし、取り次いでもらうこと数回。ようやく夕呼が出る。
『おはよう、鳴美ちゃん。昨日はご苦労だったわね』
「いえ、大丈夫です。ところで今日の予定なんですが、特に何もなければ基地へ戻ろうと思うのですが」
 夕呼の労いの言葉に答えつつ鳴美が言うと、夕呼は電話の向こうでしばし沈黙した。
『んー……そうね。もう戻ってもらっても……あ、ちょっと待って』
 ようやく返事が返ってきたのかと思いきや、再び数秒の沈黙。カタカタと音がするのは、端末を操作しているのだろう。
『一つ、用事が出来たわ。小菅の軍刑務所まで行ってくれる?』
「え?」
 やっと返ってきた夕呼の指示は、鳴美には不可解な内容だった。小菅と言えば鳴美の本来の世界では拘置所だが、こちらの世界では軍の施設らしい、と言う事はわかったものの、そこに何の用事があるのか。
『実は今日、ちょっと問題を起こして収監されてた部下が出所するんだけどね、迎えに行ってほしいのよ。大丈夫、そんな凶悪な人間じゃないわ』
 夕呼は理由を話し、迎えに行く相手の囚人番号を教えてくれた。鳴美は理由については理解したものの、刑務所に入ってたような人間を迎えに行けと言われれば、恐れが先に立つ。
「だ、大丈夫ですよね?」
 鳴美の再確認に、夕呼が笑いながら答える。
『大丈夫よ。それに、これは鳴美ちゃんのためでもあるのよ? まだ足痛いでしょうから、彼女に手伝ってもらいなさい』
「あ、女の人なんですか? ならちょっと安心かな」
 鳴美はそう言って、小菅行きを了承した。念のため日の出埠頭の駅には武に迎えにきてもらう約束を取り付け、鳴美はあゆまゆに事情を話した。
「小菅ね。行き方はわかる? わかんなかったら送らせるわよ」
「いえ、大丈夫です。最寄の駅までお願いできれば」
 あゆの提案に鳴美は首を横に振った。あのリムジンで刑務所に乗り付けるとか目立ちすぎる。ほとんど組長の出所式だ。それに、この世界の鉄道は、都電が残っていてそれと被る地下鉄の路線が一部無い以外は、元の世界と大差がない。小菅までは問題なく行けるはずである。
「そうね、あんた見てると子供みたいでほっとけないんだけど、齢はちゃんと大人だったわね」
 あゆはそう言って子ども扱いを詫び、運転手を呼びにまゆを走らせた。
 
 東部鉄道小菅駅を降りて歩くこと数分。軍刑務所はまるで要塞のように巨大な建物だった。
「お前みたいな子供が出所者の出迎え?」
「子供じゃありませんっ!」
 というお約束のやり取りを受付の係員、看守と繰り返し、待合所につくまで駅から刑務所正門に行くより時間がかかった。あゆまゆには子ども扱いされなかったし、そろそろ横浜基地でも彼女の存在は誰もが見慣れたものになり始めていたので、久々の感覚ではある……が、やはりムカつく。
(ああ、身体も大人になりたい)
 そんな事を考えつつ、ぼーっと鳴美はテレビを見ていた。この世界は娯楽番組というものがほとんど無く、流れるのはニュースや国防意識涵養のためのプロパガンダ番組ばかりで、これに比べると芸人がひたすらスベったり、大食いをするバラエティであっても面白かったんだなぁ、と鳴美は思う。
(この世界がいつか平和になって、テレビも馬鹿みたいな番組ばかりになればいいのにな)
 ニュースもどこどこの戦線でまた大きな被害が出た、というような暗いものばかりなので、いい加減見るのさえ苦痛になってきたその時、鳴美の背後で扉の開く音がした。
「41984号、お前の出迎えだ」
「私に出迎え?」
 その声に、鳴美は驚いて顔を上げた。それは、もう聞くことが出来ないかもしれない、と思っていた声。「自分の世界」で今どうなってしまっているのか、不安に思っていた人の声。
 振り向いた鳴美の目に、その声の主の姿が飛び込んできた。長い緑の黒髪を二つのおさげにまとめ、眼鏡の奥に人のよさそうな笑みをたたえた女性。
 自分の世界での鳴美の「姉」、穂村愛美がそこにいた。
「あなたは「お姉ちゃん!!」えっ!?」
 戸惑う愛美の胸に、鳴美は思わず飛び込んでいた。
 
 
「そう、生き別れのお姉さんが私そっくりなの?」
「は、はい。驚かせてすみません」
 電車の中で、鳴美は愛美と話しながら、何度目かの謝罪の言葉を口にした。武たちに出会ったときも驚いたが、やはり自分の世界で数ヶ月間を家族同然にすごした愛美に対しては、鳴美も冷静ではいられなかった。
 思わず抱きついてしまったわけだが、こちらの世界の愛美は、もちろん鳴美の事を知らない。と言うことで、鳴美は頭を下げるしかないのだった。
「そんなに気にしてないわよ。それにしても、あなたも苗字が「穂村」だなんて、すごい偶然ね」
「そ、そうですねー……あはははは」
 笑った鳴美だったが、見上げた愛美の顔に、言いようの無い寂しさが浮かんでいるのを見て、思わず息を呑む。それは、向こうの世界の彼女も浮かべたことの無い表情だった。
「私はね、両親ともBETAに殺されて、天涯孤独の身なのよ。だから、鳴美ちゃんにお姉ちゃんって呼ばれた時、驚きもしたけど、すごく嬉しくもあったの」
「穂村さん……」
 昔の、孝之だった頃のような気持ちで鳴美は愛美を呼んだ。自分の世界でも、愛美が天涯孤独の身であるらしいことは、ちらりと聞いた覚えがある。そんな事を思い出した鳴美に、愛美は言葉を続けた。
「だから、鳴美ちゃんさえ良ければ、しばらく私の事をお姉ちゃん代わりだと思ってくれても良いわよ?」
 言ってから、愛美は顔を赤らめた。
「あ、ご、ごめんね。こんな厚かましい事……」
「いえ、いいですよ。わたしも嬉しいです」
 鳴美は自分の提案を引っ込めようとする愛美を制した。そして、笑顔を浮かべて呼ぶ。
「よろしくお願いします……お姉ちゃん」
「うん……よろしくね! 鳴美ちゃん!」
 愛美が花咲くような笑顔を見せる。自分の世界では最初は強制的に愛美を姉と呼ぶ事にさせられた鳴美だが、こちらでは自分からそれを了承し、受け入れた。それだけ、鳴美にとっては愛美はもうかけがえの無い「家族」と言う意識だったのだ。
(それにしても)
 また愛美と姉妹になれた事を喜びつつも、鳴美は頭のどこかで自分の世界との関連性を考えていた。
(自分の世界では、お姉ちゃんはたぶんわたしの事で捕まってる……もしかして、向こうのお姉ちゃんも釈放されてるのかな)
 天涯孤独であり、囚われの身となっていた、平行世界の二人の愛美。彼女だけでなく、他の多くの人々も、世界間で立場は全く違うのに、どこか似たような境遇を持っている。自分からして、遥を失った事で自棄になり、引きこもりになったと言う共通点がある。
(これは偶然なのかな?)
 鳴美はその事を疑問に思った。科学的には根拠のない話だが、そもそも異世界にこうやって来たこと、自分が少女の姿になったことなど、有り得ない経験をいろいろとして来た彼女にとっては、偶然ではない何かがそこにはある、と考えるほうが自然に思えた。そこで、愛美に尋ねてみる。
「お姉ちゃんは、どうして刑務所に?」
 もし、何かものすごく重い理由があれば、気まずい結果になること間違いなしの質問だが、鳴美は仮説が正しければそうではないだろうと思ったし、この時は好奇心が勝った。果たして、愛美は不思議そうな表情をしたものの、笑みを浮かべて答えた。
「ちょっと、薬の扱いでルールを破っちゃって」
 衛生兵である彼女は前線には出ないが、後方で激戦に傷ついた兵士たちを多く見てきた。ことにBETA相手の戦闘では、身体を無理やり引き裂かれたり、食いちぎられたりした、普通の戦闘では有り得ない悲惨な傷害を負った兵士や、戦友がそうなるのを見て精神に多大な衝撃を受けて廃人同様になってしまった者も少なくない。
 愛美は彼らの苦しみを見るに耐えず、規定に違反した薬の使い方をして、それが発覚して逮捕されたのだ。
「そうなんですか」
 鳴美は頷きながら、自分の世界とこの世界に何かの因果関係があるかもしれない、と言う考えをいったん棚上げした。実際には、彼女の今の姿は、自分の世界の愛美が密かに隠匿していた薬を使用した結果であり、愛美の証言はまさに鳴美の推理を裏付けるものだったが、この時点では鳴美にはわからない話だった。
 
 
 愛美と他愛のない話をしている間に、電車は日の出桟橋の最寄り駅――浜松町についた。改札を出たところで、武が二人を待っていた。
「ご苦労さんです、鳴美先輩」
「ごめんね、白銀君。訓練とかで忙しいだろうに」
 さっそく会話する鳴美と武に、驚きの視線を向ける愛美。衛士候補生は最下級とは言え下士官相当の階級であり、二等兵待遇の軍属である鳴美が、こんなフランクな会話をしていい相手ではないからだ。
 そんな愛美の驚きに気づいたのか、武は笑顔で愛美に話しかけた。
「夕呼せ……副司令から話は聞いてるよ、穂村一等兵。俺は白銀武。衛士候補生だけど、堅苦しいのは苦手でね。出来るだけ気楽に話してくれると嬉しい」
「は、はい……よろしくお願いします」
 愛美はちょっとどぎまぎした様子で答えた。武は頷くと、今度は鳴美に話しかける。
「どうする、鳴美先輩。またおぶっていこうか?」
「恥ずかしいからやだ」
 鳴美はあっさり答えた。武は苦笑すると、こうすれば少しは楽でしょ、と言いつつ怪我をしている足と同じ方の鳴美の手を握った。
「うん……」
 鳴美はちょっと胸がドキッとするのを感じながら答えた。昨日、武におんぶされた時もそうだが、男性に優しくされたり、容姿を褒められた時の自分の反応が、だんだん普通の女の子のようになって来た気がする。それをごまかすように、鳴美は聞いた。
「白銀君って、女の子にはいつもこうなの?」
「え? 何がですか?」
 きょとんとする武。どうやら質問の意味が本気でわからないらしい。
「ん……いや、いい。刃物には気をつけるようにね」
 鳴美はそれ以上追求しなかった。武が女性に優しくするのは、彼の生来の気質であって、おそらく他意や下心はないのだろう。そういうところが女性に好かれるのか、同じ小隊の女子候補生たちは、いずれも武に友情以上、恋愛未満くらいの感情は抱いているように見える。
(一歩間違うと、修羅場にはまって死ぬような目に合えるんだけどね……まぁ、白銀君なら平気かな?)
 ヘタレな自分と違い、武は人間関係をうまく作っていけるタイプのようだから、きっと大丈夫だろうと鳴美は考えることにした。
 
 雑談をしつつ、日の出埠頭から横浜基地専用鉄道に乗った三人は、地下貨物駅で思いがけない人物に迎えられた。夕呼がわざわざ自ら出張ってきていたのだ。
「お疲れ、鳴美ちゃん。それにおつとめご苦労様、愛美」
「いえ! 大事な時期に仕事に穴を開けてしまい、申し訳ありませんでした」
 敬礼する愛美。鳴美は夕呼に尋ねた。
「副司令、おね……穂村一等兵とは、何か面識が?」
 夕呼はええ、と頷いて、思いがけない事を言った。
「愛美は薬の扱いにかけては天才的でね。この基地の衛士たちは、みんな愛美のスペシャルブレンドの薬を戦闘中に使っているのよ」
 それを聞いて、武が感心した声を上げた。
「そうだったんですか? なんか身体への負担が少ないと思った」
 衛士たちは戦闘が始まる前に、様々な肉体的・精神的「調整」を受ける。BETAへの恐怖感を和らげ、闘争心を引き出したり、戦術機の激しいGに耐え、疲労を感じにくくさせたりするものだ。それには多くの薬品が使われるが、これ自体が依存性の少ない麻薬のようなものであり、決して身体にいいものではない。
 愛美は正規の薬学の教育を受けているわけではないが、それらの薬品をうまく調合し、最大限の効果を発揮させつつ、身体への負担を軽減する事が出来た。「自分の世界」の愛美が鳴美を少女の姿に出来たのは伊達ではないのである。
「それに、私のメインの仕事には欠かせない助手でもある」
「メインの仕事、ですか?」
 首を傾げる鳴美に対し、武が声を上げる。
「そういえば、まだ"今回は"夕呼先生の成果を見せてもらっていませんね。穂村一等兵がいなかったからですか?」
 その質問に夕呼は頷いた。
「ええ。それもある。それもあるけど……白銀が体験してきた今までの時間線と、この世界は微妙に違いがあるの。だから今まで直接見せては来なかったのだけど」
 夕呼はそう言いながら、鳴美の顔を見た。いつになく真剣な表情だった。
「どうかしましたか?」
 鳴美が言うと、夕呼はその表情にあった真剣な声で答えた。
「これは、あなたにも関係があること。この世界にあなたがやってきた、たぶん最大の理由がある」
「え……?」
 戸惑う鳴美についてくるよう促す夕呼。武に手を引かれ、彼女はその後を追った。向かった先は地下貨物ヤードからさらに地下深く、感覚的には数百メートルは潜ったのではないか、と思える場所だった。
「地下十九階……こんなに深く?」
 辺りを見回す鳴美に、夕呼がこっちよ、と言って先頭に立つ。全員がその後を追っていくと、やがて一つだけ扉があった。部屋のプレートには「香月実験室」「Altanative-IV」と言う文字が刻まれている。
「ここが、あたしの本当の根城。あたしが進めている"オルタネイティヴ4"計画の拠点よ」
「オルタネイティヴ4……それが、メインの仕事なんですか」
 鳴美の言葉に夕呼は頷いて、それまで浮かべていた微笑を消し、真顔になって鳴美を見た。
「これから、鳴美ちゃんにはたぶん、そう簡単には受け入れられない酷い事実と、おぞましい現実に触れてもらう事になるわ」
「え……」
 思いがけない深刻な事を言われ、言葉に詰まる鳴美。どう反応して良いかわからない。
「白銀、もし鳴美ちゃんがパニックを起こしたら、取り押さえて」
「わかりました」
 武が頷く。やはりその顔が真剣なのを見て、鳴美は言いようのない不安を感じた。この先に進む事が恐ろしく思えてくる。何か、取り返しのつかない間違いを犯すような……あるいは引き返せない深みに嵌りに行くような、そんな不安だ。
 しかし……引き返そう、とは思わなかった。鳴美もどうしても知りたかったのだ。この世界に来た理由とは何なのか。それがこの先にあるのなら、どれほど恐ろしくても進むしかない。
「……わかりました。覚悟を決めます。見せてください」
 鳴美が震えながらの小さな声で、それでもはっきりした口調で言うと、夕呼は頷いた。
「わかったわ。ようこそ、あたしの世界へ」
 扉がゆっくり開かれる。武に手を引かれ、鳴美は中へ進んだ。後から入ってきて扉を閉めた夕呼は、二人を追い抜いて再び先頭に立つと、部屋の奥で更にスイッチを操作する。次の瞬間、壁が左右に開いて、更に奥の空間が現れる。
「これが、鳴美ちゃんに見せたかったものよ」
 夕呼がそういって指し示したもの。それは、銀色のシリンダーだった。一見では何のためのものなのかわからない。これは何ですか、と質問しようとした鳴美だったが、次の瞬間、彼女は硬直した。シリンダーの外側を覆っていた銀色のカバーが開き、そこに現れたのは……
「これ……人間の……?」
 震える声で言う鳴美に、夕呼は頷く。
「ええ。脳よ。人間の脳と、脊髄部分」
 それは、透明なケースの中を満たした液体の中に浮かぶ、人間の脳だった。それが二つ。鳴美は学生時代に理科室でホルマリン漬けにされた犬猫の内臓標本を見た事があるが、それと同じような感じだった。
 動物の標本なら見てもさして何も感じないが、人間ともなると話は別だ。自分と同じ存在がこんな風にされるなど、考えただけでもおぞましい。だが……鳴美の感じたおぞましさ、恐ろしさとは、そんな次元の話ではなかった。
 ただの脳髄を、夕呼が研究対象としたりはしない。こんな厳重な体制で保管するとも思えない。まして、自分に見せたりはしない。この脳は、特別な存在なのだ。そう、鳴美にとっても。
 なぜ特別なのか。これは――
「誰の脳なんです?」
 その恐ろしい疑問を口にしたのは、意外にも鳴美ではなかった。
 武だった。彼の手も震えている。鳴美と同じように。その事を鳴美は意外に感じた。武は知っているはずだ。今回は見せてもらっていないといったが、過去には、と言うより、彼が体験した別の世界では、やはり夕呼が同じ研究をしていて、こうやって武に脳を見せた事があるはずだ。当然、誰の脳かも知っているだろう。
「白銀君? どうしたの?」
 武の震えは、鳴美には逆に落ち着きをもたらしていた。鳴美が聞くと、武は手を離し、額を押さえた。
「俺が知ってるのは、ここには純夏の脳しかないはずだって事です。二つの脳があるなんて見た事がない。教えてください、先生。もう一つは誰のものなんですか」
 鳴美に答えると言うより、夕呼への質問の一環としての回想という形ではあったが、鳴美は脳の一つの正体を知り、やはり驚きを覚えていた。純夏……鑑純夏。武の幼馴染みの、あの犬っぽい女の子。
 どんな事情があるのかは知らないが、彼女がこんな姿になってしまっている事は、確かにおぞましい事実であり、ショッキングな事態には違いなかった。しかし、鳴美は直感していた。次の夕呼の答えこそが、自分にとっての最悪の事実である事を。
(やめて)
 鳴美はそう叫びたかった。だが、口には出せなかった。どんな酷い事実であっても受け止める。そうさっき言ったばかりではないか。だから、夕呼は答えを言う事を止めなかった。
「そう。あんたの過去の世界線では、そうなっていたのね……大丈夫。これは白銀の親しい人のものじゃない。こっちの脳の持ち主の名前は……」
(やめて! 聞きたくない!!)
 鳴美の声にならない叫び――それを、夕呼ならば承知していただろう。だが、彼女はためらいなく、そしてあっけなく、鳴美にとっての最悪の事実を告げた。
「涼宮遥よ」
 次の瞬間、鳴美は世界がひび割れ、粉々に砕け散る音を聞いたような気がした。
(続く)
 


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