それは、暑い晩夏の昼下がりの出来事だった。
「なるなる、ちょっと店の前に水撒いといで。こう暑いと客足にも影響するからね」
「はい、先輩」
 あゆの言葉に、鳴美は外の水道のハンドルとホースを持って、外に出ようとした。陽炎が立つほどに熱せられた歩道のタイルを見ると嫌気がさしてくるが、あゆには逆らえない。
 が、彼女が店を出るより早く、大きなボストンバッグを抱えた男が店に入って来た。鳴美は挨拶をしようとした。
「いらっしゃいませ。お一人様で……」
 その言葉の途中で、男は鳴美の身体をがばっと抱き上げた。
「にゃあああぁぁぁぁぁっっ!?」
 いきなりの狼藉に鳴美は悲鳴を上げ、彼女の手からハンドルやホースがこぼれ落ちた。何事かと店の中にいた人々が入り口に注目すると、男は鳴美の頭に拳銃を突き付け、大声で叫んだ。
「大人しくしろ! 騒ぐとこのガキをぶっ殺すぞ!」
 店内の空気が凍りつく。その中で、鳴美は何で自分がこんな目に、と苛酷な運命に涙を流していた。


誰が望む永遠?

第十二話:囚われのお姫様気分



 しばし静寂が続いた後、すっと男の前に進み出た者がいた。
「で、要求は何さ?」
 あゆだった。仁王立ちと言うに相応しい堂々としたポーズで、まるで銃など眼中にないように男を睨む。
「お、おう……そうだな、まずは車だ。車を用意しろ!」
 ちょっとあゆに対して怯んだ口調で言う男。なかなかヘタレだ。すると、男の足元にちゃりんと音を立てて何かが投げ出された。 
「せんぱい、それは……!」
 まゆが驚きの声を上げる。あゆが管理している「すかいてんぷる」のデリバリー用バンのキーだった。
 ちなみにあゆは車の免許を持っている。どんな手段を用いて入手したのかは定かではないが、運転技術はまゆの証言によると
「拙者、せんぱいの運転に付き合うのはもう嫌でござる」
 だそうだ。
「……いいのか?」
 話は逸れたが、あまりにあっさりしたあゆの行動に、それを要求した男が呆れたような口調で言う。
「あによ、言う通りにしてやってるのに、不満な訳?」
 あゆが不機嫌な口調で応じると、男はいや……と呟きながらキーを拾った。
「他には何かある?」
 あゆが聞くと、男は鳴美を抱く腕に力を込めた。
「こいつは人質として預かって行く! 警察に言うなよ!?」
 あゆはそれにもあっさり頷いた。
「わかったわ。早く行ってしまいなさい」
「ええっ!?」
 鳴美とまゆが驚いたように声を上げるが、その時には男は身を翻して出口の方へ向かっていた。
「は、薄情者ーっ!」
 鳴美の悲鳴が遠ざかり、店に静寂が戻った。さすがにまゆが見かねてあゆに突っ掛かった。
「せんぱい、今のはあんまりでござるよ! 鳴美ちゃんを見殺しにする気でござるか!?」
 普段のあゆの鳴美に対するいぢめっぷりを見れば、まゆがそう思うのも無理はないところだが、あゆは不適に笑った。
「ンなわけないでしょ。拳銃持ってる相手に逆らっても無駄よ。まずはお客に被害がでないようにお引き取り願うのが先さ」
 まずは狙いどおり、とあゆは言い、そして続けた。
「もちろん、なるなるの身は無事に返してもらうわよ。あんないじりがいのある玩具はそうないからね」
「せんぱい……それもちょっとヒドい」
 見捨てるつもりはない事が解ってホッとしつつも、鳴美への同情を禁じ得ないまゆだった。しかし。
「それにまぁ、なるなるを助ける作戦はちゃんとできてるのさ。耳貸しなさい、まゆまゆ」
 あゆの次の言葉を聞き、まゆは手を打ってあゆへの尊敬を新たにした。
「さすがせんぱい! その遠慮深謀、拙者感服仕りました!」
「ふ、もっと誉めなさい。じゃ、警察に電話するわよ」
 
 その頃、鳴美はデリバリーバンの助手席に乗せられていた。
「これ持ってろ」
 運転席に座った男がボストンバッグを投げるように鳴美の膝の上に乗せる。
「むぎゅ」
 鳴美は妙な声を上げた。重いのだ、このボストンバッグ。十キロ以上あるのではないだろうか。今の鳴美に取ってはかなり厳しい重さである。
「な、何入ってるんですか、これ?」
 喘ぐように言う鳴美に構わず、男はバンを発進させると、大通りを走り始めた。その時、対向車線を数台のパトカーが走ってくるのが見えた。
「む……」
 男の顔に緊張が走ったが、パトカーはバンには目も呉れず走り去って行く。男はホッとした表情でアクセルを踏み込んだ。
「おじさん、何やったんですか?」
 ゴソゴソと身体を動かして、どうにか楽な姿勢を作った鳴美が言うと、男は苛立った声で答えた。
「うるさいな。少し黙ってろ」
 鳴美は言う通りにして口を閉じた。男が落ち着くまでは、何もしない方が良さそうだった。
 バンは街を抜け、郊外の住宅地をも突っ切り、次第に山の方へ登って行く。じっと黙っていた鳴美だったが、だんだん不安になって来た。こんな人気の無い場所に連れてこられた自分はいったいどうなってしまうのだろう?
 バンがそれまでの舗装道路から未舗装の林道に入り、そこすら外れて脇道に入って止まると、鳴美の恐怖は絶頂に達した。
「降りろ」
 男が言った。鳴美の視界がぼやけた。恐怖のあまり涙が出るのを抑え切れない。首を弱々しく振って、彼女は懇願するように言った。
「いや……お願い、殺さないで……!」
 言ってしまってから、逆に相手を刺激したような気がして、鳴美はぎゅっと目を閉じた。すると、意外にも男は戸惑ったような口調で言った。
「いや……殺したりはせんが」
「え……?」
 鳴美がそっと目を開けると、男は何やら小動物でも見るような表情で彼女を見下ろしていた。まぁ、鳴美みたいな小さな少女が、自分の身体なみに大きなボストンバッグを抱え、涙を流して身体を震わせている様は、ほとんど小動物と変わらなかったが。
「本当に……?」
「本当だ。早く降りろ」
 男は口調も優しいものにして、鳴美の上からバッグをどけた。
「これでいいだろう?」
 男の言葉に、鳴美は頷いて立とうとしたが、できなかった。
「……どうしたんだ?」
「あ、あの……足がしびれて……」
 ずっと重いバッグを膝の上に乗せていたせいか、鳴美の足はしびれて言うことを聞かなかった。男はため息をつくと、助手席側に歩いて来て、鳴美を助手席から引きずり出し、お姫様抱っこした。
「あまり手間をかけさせるなよ」
「す、すみません」
 恥ずかしさで縮こまった鳴美はされるがままに男に運ばれて行った。その先には、ログハウス風の山荘が建っていた。玄関まで来ると、男は鳴美を地面に降ろした。
「もう大丈夫だろ」
 鳴美が頷くと、男はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。男に続いて、鳴美は中に入って行った。
「ふぅ……」
 男は入ってすぐのリビングと思しい部屋の中央にあるテーブルの上にバッグを投げ出し、椅子に腰掛けると、胸ポケットから煙草を取り出して火を付けた。一息吸って、紫煙を吐き出す。その間、鳴美はどうしたら良いのか分からず、じっと立っていたが、その様子に気づいたのか、男が言った。
「どこかその辺に座ってて良いぞ」
 鳴美は辺りを見回し、丸太を切ってクッションを乗せたような椅子を見つけると、その上にちょこんと座った。そのまま見ていると、男はバッグを開けて、中から何かをつかみ出した。
(お金……すごい。いくらくらいあるんだろう?)
 鳴美は目を見張った。バッグの中からは後から後から恐らく百万円と思われる一万円の札束が出てきて、テーブルの上に小山を作った。
「……よし、これだけあれば」
 満足げに言う男の様子をみて、鳴美はさっきの質問を投げかけた。
「あの……おじさん、何をやったんですか?」
 男は振り向いた。鳴美はちょっと驚いた。先程までは殺気立って何をするか分からない雰囲気を漂わせていたが、今は落ち着いた様子で、本来はあまり恐ろしい風貌ではない事が分かる。むしろ優しげな人物かもしれない。
「ちょっとな、強盗をして来たところさ」
 男は答えた。
「銀行でも襲ったんですか?」
 男の様子の変化に勇気づけられて鳴美は尋ねた。男はかぶりを振った。
「いや、サラ金だ。は、良い気味だ」
 男の笑い声には、深い恨みのようなものが籠もっていた。
(借金が返せなくなって、それで逆恨みしてサラ金を襲った……ってところかなぁ)
 鳴美はそんな風に推理したが、分からないことがある。
「それで、なんでうちのお店を……」
 襲ったりしたのか。なんで鳴美を人質にしたりしたのか。そう聞く前に、男が言った。
「それについては悪かったな。乗って逃げるつもりだった車がガス欠でね……ガソリンも買えなかったのは情けない限りだな」
 全くだと鳴美は思ったが、口にはしなかった。
「車さえ手に入れば良かったんだが、君は保険だ。悪いが、しばらくは付き合ってもらう」
 鳴美は頷いた。他に何もできない。彼女の力では拳銃を持った男に逆らうなど、無理としか言いようが無い。
「なに、殺したりはしない。そのうち家には返してやる」
 男は言うと、金をバッグに詰め直した。どうやら全部で五千万円くらいあるようだ。それを部屋の隅にあるクローゼットの中に放り込み、見張りをするようにその前に座り込む。
「……なんで、強盗なんてしたんですか?」
 十分ほどして、沈黙に耐え切れなくなった鳴美は聞いた。人質としてはそれくらいは教えてほしい。
「……気になるのか」
 男の返事に鳴美が頷くと、男はしばらく考え込んで、ぽつりと漏らすように答え始めた。
「俺は……こう見えても社長なんだ。小さな町工場だけどな」
 そう言って彼が語り始めたのは、事業に関する失敗の話だった。工場が不渡りを出し、多額の負債を抱えたこと。それを補填するためにマチ金に手を出したこと。高利のために負債が膨れ上がり、支払い不能に陥ったこと……
「それで、そのお金で?」
 鳴美は聞いた。いくらなんでも強盗して奪ったお金で借金は返せまい。
「まさか。これは、社員たちにやろうと思ってる。もう三カ月も給料を払えてないし、このままだと退職金も出せない。せめてそれくらいは……」
 その答えを聞いて、鳴美はこの強盗が本質的には悪人ではないのだな、と思った。ただ、ものすごく切羽詰まっていて、常識論を考える余裕がないのだろう。
(自分もそうだったな……)
 鳴美は孝之だった頃の最後の日々を思い出した。昔の友達からも、知り合いからも、次々に愛想を尽かされ、見捨てられて、孤立して……やけになって酒に逃げたり、喧嘩したり……最悪な日々だった。今考えると、なんて馬鹿なことをしていたんだろうと思う。
(子供だよね……今のわたしの姿は、自分にピッタリの姿なのかも)
 苦い過去を思い出して自嘲していると、男が重要な事を言った。
「ここは、知り合いから借りている別荘でね……そいつと俺以外は誰もここの事は知らない。少しほとぼりが冷めるまではここで暮らすことになるが、逃げようとするなよ」
「……はい」
 鳴美は頷いた。逃げようとしても地理がわからないし、仮にわかっても今の自分の足で、この山奥から人のいる所へ脱出するのは不可能な話だ。拳銃を持った男と暮らすのは不安といえば不安だが、女の子になった時から拠って立つ場所のない身だ。どうという事はない。
 開き直りかもしれないが、そう考えると気が楽になって来たのか、眠気が襲って来た。辺りを見ると、部屋の隅にソファがある。寝るにはちょうど良さそうだ。
「すいません、あれ借りていいですか?」
 一応男に断ると、無言で頷いたので、鳴美はソファに横になり、目を閉じた。

 ゴソゴソと言う音で鳴美は目を覚ました。窓の方を見ると、もう暗くなりかけている。六時は過ぎているようだ。
(けっこう寝ちゃったな。でも、何の音?)
 鳴美は音のする方向を見た。すると、男が冷蔵庫の中を覗いてかき回していた。そして、苛立ったように立ち上がる。
「ちっ、何もないじゃないか!」
「どうしたんですか?」
 鳴美は尋ねた。振り向いた男は情け無さそうな、怒ったような、ちょっと複雑な表情をしていた。
「ここを貸してくれた知り合いに、食料も用意するように頼んでおいたんだが、忘れたらしい。ほとんど何も無いんだ。くそ」
 そう言うと、未練がましく冷蔵庫の中をまた見ている。鳴美は立ち上がると、台所の方に向かった。
「カップめんとか缶詰とか、そういうのは台所かも知れませんよ」
 鳴美はそう言いながらキッチンカウンターの扉を開けて見た。すると、確かにそこには食べ物があった。しかし……

 小麦粉一袋
 ホールトマトの缶詰一個
 アンチョビの缶詰一個
 タマネギ一個
 チューブいりおろしニンニク
 
 これが、見つかった食材の全てだった。
「うぬぬ……」
 男が唸る。これをこのまま食うのはかなり辛いだろう。その時鳴美は気づいたのだが、男はかなり顔色が良くなかった。金策に駆け回って、ろくに食事をする暇もなかったのかもしれない。
「あの、おじさん。わたしが何か作りましょうか?」
 鳴美は申し出て見た。すると、男は驚いたように鳴美の顔を見た。
「お前、料理なんてできるのか?」
「まぁ……これだけ材料があれば」
 鳴美は頷いた。夜勤や準夜勤で帰りが遅い愛美のために、ここ数カ月自分で料理をすることが多い。それに、鳴美はバイトが終われば比較的ヒマで、料理の本を見て時間つぶしをすることも多かった。
「ちょっと時間はかかりますけど。良いですか?」
「あ、ああ……」
 不安そうな表情ながら男は了承した。

「よし、それじゃ始めますか」
 必要な道具を探してくると、鳴美は小麦粉をボウルに空けて、水を入れて練り始めた。
「うーん、卵があればもっと良いんだけどな……」
 ぼやきつつ、丁寧に粉を練り、生地をつくってしまう。それを寝かせている間に、今度はタマネギをみじん切りにすると、アンチョビの缶を開けて、油だけを鍋に移して火をかけた。
「うんうん、良い感じ。次はこれを……」
 鳴美は鼻歌を歌いつつ、熱した鍋におろしニンニクをいれて炒めはじめた。良い匂いが漂い、気になった男が様子を見に来た。
「なんかうまそうな匂いだな。もう出来るのか?」
「まだですよ。そんなに焦らないで」
 鳴美は苦笑すると、今度はタマネギを入れてさらに炒め、タマネギのシャキシャキ感がなくならないうちに、ホールトマトとアンチョビを入れて、ヘラで突き崩しながら混ぜていった。途中で味をコショウや塩で整える。
「こんなもんかな……」
 味付けに納得すると、鳴美は寝かせておいた生地を小さくちぎって丸め、スープに放りこんでいった。そして……

「こ、これは美味い! 美味いな!!」
 男は鳴美の作ったトマトスープのニョッキをかき込むようにして食べていた。ニョッキはイタリア風スイトンとでも言う感じの料理で、生地を作るのは少しめんどうだが、比較的手軽に作れて美味しい。
「あの、お代わりありますから……」
 鳴美が思わずそう言うほど、男は喉に詰まらせかねない勢いでニョッキを食べ、鳴美だったら五人分はあろうかという鍋の中身をほとんど食べてしまった。
「明日の分もあったんだけどなぁ……まぁ、粉はまだあるから良いか」
 そう言って、あ、でも……スープの材料が……と考えている鳴美に、男が声を掛けた。
「いやぁ、大したもんだな。小さいのに偉いよ」
 誉めながら頭を撫でてくる。ちょっと痛い。鳴美は抗議した。
「もう、子供扱いしないでくださいっ。これでもわたしは十八歳なんですから」
「……十八歳?」
 男は鳴美の全身を見回し、それからフッと笑って頭を撫でるのを再開した。
「それはかなり無理があるな、お嬢ちゃん」
「まぁ……信じてもらえないのは想定のうちですけど」
 鳴美はため息をつく。初対面の人と必ずこのやり取りをしているが、一回くらいはストレートに信じてくれる人がいないものだろうか。
「でも、なかなかしっかりしているな。娘も、お前と同じくらいしっかりしてると良いが」
「娘さん……いるんですか?」
 鳴美は尋ねた。男が社長だった事は知っているが、プライベートな話が出てきたのは初めてだった。
「ああ。いる……いや、いたというべきかな。出て行った女房について、俺から離れて行ったよ」
「……」
 鳴美には何も言えなかった。自分も波乱の人生を送っていて、苦労はしてるしあまり幸多くないなぁとも思っているが、この男に比べたらどうだろう。まだ恵まれている方ではないだろうか。
「もう一年近く会ってないけど、甘えん坊だったからな。今のお前の方がお姉さんに見えるよ」
「……それはどうも」
 鳴美は礼を言った。たぶん、一応誉めてくれてはいるのだろう。どんな年齢だと思っているのか、聞いてみたい気もするが……ここで十二歳とか言われた日には立ち直れない事間違いなしなので、聞かないことにした。
「明日はどこかで食料を調達してくる。そうすれば、料理してもらうこともなくなるだろうな。ちょっと惜しい気もするが」
 その言葉を聞いて、鳴美は顔を上げた。
「そんなに美味しかったですか?」
「ああ。久しぶりにまともな物を食ったからな……」
 男が本心から喜んでいるのは確かなようで、鳴美も嬉しくなった。
「それなら、明日からも料理はしても良いですよ」
「良いのか?」
 鳴美の申し出に驚く男に、彼女は頷いた。どうせ人質の身では他にやる事もないし、これで少しは男に好意を持ってもらった方が良いだろう、というのが鳴美の計算だった。
 しかし、そんな計算とは別に、彼女は純粋に嬉しかったのだ。誰かに必要とされる、という事が。たとえ人質としての価値だったとしても。
 誰にも必要とされなかった酷い時代の経験は、鳴美の心にそんなトラウマを植え付けていたのだった。
「そうか。じゃあ、お願いするかな」
 男は笑って鳴美の申し出を了承した。そして、大きなあくびを一つした。
「腹が膨れたら眠くなって来たな……」
 なかなか体力はあるらしい男だが、強盗をして、重い金入りのバッグを担いで走り回り、鳴美を誘拐してここまで来たのだから、疲れているのも無理はない。
「お前も、寝るならあのソファを使ってて良いぞ。俺は適当に寝るから」
「はい、お休みなさい」
 そう言って男が立ち上がった時、突然玄関のドアが轟音と共に蹴り開けられた。
「!?」
 思わず呆然とそっちを見た二人の前に、覆面をして拳銃を構えた男たちがなだれ込んで来た。
「警察だ、動くな!!」
 男が拳銃を持っていたためか、SATが出動したらしい。しかし、男が呆然としていたのは、本当に一瞬だった。咄嗟にテーブルの上にあったフォークを掴み、鳴美を抱き寄せる。
「にゃあっ!?」
 驚く鳴美の首筋にフォークを突き付けて、男は叫んだ。
「お前らこそ動くな! 動けばこの娘を殺すぞ!」
「く、貴様……」
 警官隊が悔しそうな声を上げる。男が鳴美を盾にするようにして動いたため、撃つことが出来なかったのだ。
「お、おじさん……」
 不安そうな表情で見上げる鳴美に、男は答えた。
「大丈夫だ。本当に刺したりはしない。でも、おとなしくしてろよ?」
 鳴美は頷いたが、どう考えても無事に済むとは思えなかった。自分がではなく、この男がである。こうして警察に見つかったからには、到底逃げ切れる訳がない。
 自分を拉致してこんなところまで連れてきた迷惑な相手ではあるが、憎む気にはならなかったし、まして怪我をしたり死んだりして良いとは思わない。
 ここはおとなしく投降してほしいところだが、そのためにはどうしたら良いだろう、と考え込む鳴美をよそに、男は警官隊と睨み合っていた。
「良いか、お前ら、こっちに寄ってくるなよ……」
「落ち着け。人質を解放するんだ」
 警官は警官で、主張を譲らない。
「くそ、何でこんなに早くここが見つかったんだ?」
 苛立って悪態を突く男に、鳴美は言った。
「あの車じゃないですか? うちのロゴ入りですから、きっと目立ったと思いますよ」
 鳴美が言ったのは、例のデリバリーバンである。車体の左右前後に「すかいてんぷる」のロゴステッカーが貼られ、制服を着た女の子のキャラクターまで書いてある。かなり恥ずかしい外見だ。
「そういうことか! くそ、もっと足のつきにくい車にすれば良かった……」
 悔しがる男。ふと鳴美は思った。
(ひょっとして、大空寺のやつ、これが狙いで……?)
 もしあゆが車が目立つことを計算して、あっさりキーを渡していたのだとすれば……いや、あゆは頭は切れる少女なので、間違いなく計算ずくだろう。
(やられた……借り作っちゃったな。どうにか返さないと)
 鳴美は苦笑し、今はそんな余裕はないのだと思い直す。男が自棄にならないうちに、説得して投降するようにしなければ。
「おじさん……」
 鳴美が声を掛けると、男は外の様子を窺う姿勢のまま答えた。
「なんだ?」
 ちゃんと声が届いていることを確かめて、鳴美は言った。
「もうやめよう、おじさん。逃げられっこないし、社員さんたちだって、盗んだお金で給料もらっても、きっと喜ばないよ」
 言ってしまってから、鳴美はストレートに言い過ぎたと後悔した。もし男が逆上したら、さっきの言葉を翻して襲ってくるかもしれない。
 しかし、男は考え込んでいるようにじっとしていた。鳴美の不安が高まったその時、彼はボソッと答えた。
「わかってる。分かってるんだ、そんな事は。でも、俺はこんな馬鹿な事をしてでも、あいつらを……俺を社長と呼んでくれた連中を助けたいんだ……」
 鳴美には、その男の声にすぐには答えることができなかった。こんな時に、一体何を言えば良いだろう?
「それでも……」
 しばらく考えて、鳴美は言葉を絞り出した。
「それでも、こんな事だめだよ、お父さん」
 男がビクッと震えた。その拍子に、フォークの先が軽く鳴美の喉に刺さる。血は出なかったが、鳴美はむせそうになって、苦しくて涙が出たが、それでも声を振り絞った。
「お父さんが犯罪者になっちゃったら……悲しむよ」
 娘さんが、と続けようとして、鳴美はとうとう我慢し切れなくなって、軽く咳き込んだ。頬を涙がつうっと伝い、咳き込む声がしゃくりあげるような、嗚咽の声に聞こえた。
 すると、男はきつく抱き上げていた鳴美を、優しく抱き締め直した。
「え?」
 戸惑う彼女に、男は言った。
「済まなかったな……ダメな父さんを許してくれ」
 まるで憑き物が落ちたような、穏やかな声で詫びると、男は鳴美を解放した。信じられない、という表情で見上げる彼女の前で、男はフォークを床に放り投げ、手を揃えて警官たちに差し出した。
「……申し訳ありませんでした。逮捕してください」
「え? あ、ああ……」
 警官も戸惑った様子で、男の手首に手錠を掛けた。別の警官が鳴美のところに着て、肩にジャンバーを着せ掛けた。
「君、大丈夫かい? ケガは無いかい? 何か変なことはされなかった?」
 警官の質問に、鳴美は首を縦に振った。
「大丈夫です……あの、おじさんはどうなるんでしょうか?」
 パトカーに乗せられる犯人を見ながら彼女が聞くと、警官はそうだな、と言って答えた。
「これからの取り調べ次第だが、怪我人を出したりはしていないから、そうものすごく重い刑を受けることは無いんじゃないかな」
「そうですか」
 鳴美はほっとした。迷惑な人ではあったが、できれば立ち直ってほしいと思う。転落人生を歩んだ同志として、彼女はそう祈らずにいられなかった。

「鳴美ちゃん!」
 別荘の外に出ると、叫びながら飛びついて来た人がいた。愛美だった。彼女は妹を抱き締めて「良かった」を繰り返す。
「鳴美ちゃん、無事で良かった……怖かったでしょう?」
「わぷ……お、お姉ちゃん、くるしい」
 ボリュームのある胸を顔に押し付けられ、鳴美は息が詰まった。どうにか顔を上げて、胸の谷間から姉を見上げる。安堵のあまりか、愛美の目からは涙が筋をひいて流れ、鳴美の顔にぽたぽたと落ちる。
「お姉ちゃん、どうしてここに?」
「うん、お店から玉野さんって言うんだっけ? お友達が鳴美ちゃんがさらわれたって聞いて……警察の人に連れて来てもらったの」
「そうなんだ。ありがとう、お姉ちゃん」
 鳴美は愛美に抱き着き返した。そんな姉妹の愛情を見ていた警官が、ちょっと困った表情で言う。
「すいませんが……事情を聴きたいので、少し妹さんに同行願いたいのですが」
 愛美は鳴美を見た。鳴美が首を縦に振る……事は出来なかったが、了承するのを見て、愛美が警官に頷く。
「ではこちらへ」
 姉妹はその警官の案内でパトカーに乗り込んだ。ともかく無事に命が助かったことで、二人ともこの時はなんとも思っていなかったのだが……
 これが、それまで一応は平穏だった鳴美の生活を一変させる契機になろうとは思っても見なかったのだった。


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