2006年4月22日 Kanon国 スノーシティー Kanon空運ホテル
「わっ」
水瀬名雪は、その部屋に入るなり、感嘆が多量に混じった驚き声を上げた。
彼女の視線の先にはひとりの女性。人生における大きな到達点のひとつを待っているところだ。その到達点が具体的に何なのかは、女性の格好を見るだけですぐに理解できるだろう。
汚れなき新雪を思わせる純白のドレスとヴェール。派手ではなく、さりとて全く目立たない訳ではないネックレスやイヤリングなどの装飾品は衣装と女性を程よく引き立たせる。
そして何よりも、それらを身に纏う女性自身が可憐で美しい。彼女は少し緊張したように口を真一文字に閉じ、その時が来るのを待ち焦がれていた。
名雪の口から、溜息と共に出る本音からの言葉。
「あゆちゃん、綺麗……」
そう、簡潔に言うと「綺麗」だけで事足りる。名雪の呟きは、見事に的を射ていた。
その綺麗な女性の名は、月宮あゆ。もっとも、「月宮」の姓とは今日でお別れになる。装いからもわかる通り、彼女は今日、結婚の日を迎えたのだ。
カノンコンバットONE シャッタードエアー
外伝 アクトレス――ISAFで最も幸運に恵まれた男――
部屋にやって来た名雪に気づくと、あゆは開口一番にその名を呼んだ。
「あっ、名雪さん!」
「凄く綺麗だよ、あゆちゃん」
するとあゆは、緊張で硬くなった面持ちを笑顔に代えて、自分の姿を褒めてくれたことについての返礼をする。
「ありがとう、名雪さん」
「あゆちゃん、結婚おめでとう。先越されちゃったね。ちょっとくやしいよ」
と言いつつも、全く悔しそうではない名雪だが、あゆはそんな彼女の左手薬指に光るものを見逃さなかった。それを与えた人物の見当も。
「名雪さんももうすぐなんでしょ? 祐一君とのゴールインは」
「えっ? あ、そうだよ……6月に」
「ジューンブライドなんだ。名雪さんもおめでとう。あははっ」
「うん。ありがとう。えへへっ」
顔を見合わせて、控えめに笑い出すふたり。しかし、声からも表情からも、明らかに幸せが滲み出している。
「何のろけあってるのよっ、あんたたちは」
「わぁ……あゆさん素敵です〜」
「お邪魔します、あゆさん。名雪さんもいらしてたんですか」
と、そこに数人が乱入し、彼女たちの幸せな時間を中断させる。いや、それもまた幸せの一部だろう。自分たちの幸せを祝い、喜んでくれる人がいるのだから。
「真琴、栞ちゃん。それに美汐ちゃんも」
「あっ、みんな来てくれたんだ。ありがとう、ボクのために」
名雪に遅れて新婦の控え室に姿を見せたのは、喫茶店「百花屋」の3人娘――沢渡真琴と美坂栞、店主の天野美汐である。
「えぅ〜、いいなぁ……私も着てみたいです〜」
栞が目を輝かせている。彼女も年頃の女性、あゆの着ているような純白の花嫁衣裳に憧れるのはごく自然だ。
すると、真琴がやけに明るい声で言い出した。
「栞ももうすぐ着れるわよ。いつもお店に来るあの学生さん、ウチのメニューよりも栞のほうが絶対に本命よ」
「えっ!? あっ、それは――ちっ、違いますっ! 隣町の人で、レジスタンスの時に少しお世話になっただけですっ!」
「それにしては、名前で呼び合っちゃったりして、いい雰囲気じゃない〜?」
「っ……」
焦った栞が一瞬だけ口をつぐむ。この時、真琴は栞の急所を見事に貫いていた。栞の無言は、真琴の指摘が図星だったことの明らかな証拠だろう。
「そ、そんなこと言う人嫌いですっ! だったら真琴さんだって――」
しかし、そんな栞も逆襲の術を持っていて、少々乱暴な口癖とともにそれを投入した。
「近所の中華料理屋さんの肉まんよりも、あのコックのお兄さんが目的なんじゃないですか?」
「あ、あうっ! あ、あいつはそんなんじゃないわよっ! 真琴は肉まんが好きなだけで――」
「別に隠さなくてもみんな知ってますよ。ね、美汐さん?」
「真琴は恥ずかしがりやさんですから」
美汐はさりげなく栞の言葉を肯定する。真琴の反応を楽しむように、口元に微笑を覗かせながら。だが……。
「何よ、美汐だって気があるんじゃないの? 店の大家さんの息子に」
これまでと打って変わった、冷ややかな真琴の一言に、美汐の余裕は消滅した。
「……そ、そんな酷なことはないでしょう」
幾分か顔を青ざめさせながら、それだけを口にする。何が酷なのかは、本人だけの秘密をいともあっさりと見破られたことに対してだと、他のふたりは見ていたし、美汐は気づいていないがそれは事実だった。
「あはっ、もうすぐなのは名雪さんだけじゃないみたいだね」
「ふふっ、そうだね」
そんな友人たちのやり取りを、あゆと名雪は微笑ましく眺めている。平和が戻り、少なくとも自分たちの親しい人々は自分なりの幸せを謳歌している。そのことがとても嬉しかった。
「遅いと思ったら……何やってんのよ、あんたたちは」
その時、自分なりの幸せに包まれている人物がまたひとり、控え室へとやって来た。結婚してから1年8ヵ月、しかし倦怠期などとは全く無縁の北川香里である。なお彼女の夫、北川潤は新郎の控え室に行っている。
というのも、料理が苦手なあゆは将来の主人に美味しい(まともな)手料理を食べさせたいとの一念で、婚約後の一時期、水瀬家で花嫁修業をしていたのだ。彼女の婚約者も観光がてらと同行し、そこで北川夫妻たちと知り合い、仲良くなった。それで今日は友人の結婚式に出席している、ということだった。
「あ、香里さんっ!」
「あれ、香里? どうしたの?」
皆が一斉に香里へ振り向く。彼女の腕の中には、今の幸せの象徴とも言うべき存在が抱かれている。2月に生まれたばかりの愛娘、祐名だ。玉のようなこの幼子は、周囲の賑やかも意に介せず、母親の腕の中ですやすやと眠っている。名前の由来となった人物のひとりに似たのだろうか。
「お姉ちゃん、どうしたんですか?」
「それはこっちの台詞よ。呼びに行ったきり帰って来ないから、どうしたのかと思えば……見に来て正解だったわね。みんな待ち焦がれてるわよ」
妹の問いに呆れ交じりの言葉で答える香里。彼女の来訪によって変な言い争いが沈静化し、控え室は暖かい空気はそのままにして落ち着きを取り戻した。すると、真琴がふと何かを思い出したようにはっとなる。栞も同時に「あ」と小さく呟いて人差し指を口元にあてた。
「えう〜、すっかり忘れてました」
「美汐、真琴たちは喧嘩しに来たわけじゃなかったわよ」
「そうでしたね。あゆさん、もう行きましょう。準備が終わったそうです。ご主人の斉藤さんも待ってますよ」
「いよいよだね、あゆちゃん。頑張って!」
名雪が「ふぁいとっ、だよ」のポーズをしてあゆを励ますと、あゆも強く頷いて、幸せな笑顔と共に、元気に応えた。
「うんっ!」
桜は満開から少しだけ旬を過ぎたこの季節、式はホテルの中庭にある小さなチャペルで挙行された。
ウェデイングドレスのあゆと、金モールの入った国防空軍礼装を着た新郎――斉藤大尉が並んで立つと、それは大層絵になる光景だった。方や美少女の元AWACS管制官(彼女は結婚に先立ち、軍を退官した)、方やハンサムに見えなくもない凛々しいエースパイロット、実にお似合いのカップル。これが会場にいる人々の共通した感想だ。
ふたりはそのような印象を周囲に与えていたものだから、誓いのキスの際、周りからはやし立てられた末に1分近くの長い口づけを神前で皆に披露する破目になった。さらに思い切り投げたブーケが勢い余って空中分解し、結果として女性招待客の全てに行き渡るといった慌て者のあゆらしいアクシデントが起きたりしたが、ともかくこれで月宮あゆは「斉藤」の姓を名乗ることとなった。
桜吹雪の中、幸せそうに微笑んで寄り添い合う花婿と花嫁の仲睦まじい姿は、来客たちに「この夫婦ならずっと大丈夫だ」と思わせるには十分な様子だったという。
式が終わると、今度は場所をホテル内に移して披露宴となる。
新婦は天涯孤独で身寄りはないが、親類席が空になることはなかった。本来なら友人席に座るべきはずの水瀬家の人々がそこにいたからだった。
その筆頭であり、料理におけるあゆの恩師のひとり(もうひとりは名雪)でもある水瀬秋子が述べた祝いの言葉と挨拶は、娘を嫁に出す母親の愛情がしっかりと込められていた。それを聞く誰もが彼女の温かく優しい気持ちを感じ取り、落涙を堪え得た者は少なかった。水瀬秋子は、あゆの母親としての役割を完全に果たしたのだ。
あゆにとって水瀬家の人々は、血の繋がりはなくともまぎれもない家族であり、逆に水瀬家の人々もそれは同じで、あゆはれっきとした家族の一員なのだった。
「え〜、今回、仲人を務めることになった相沢祐一です」
その「家族」のひとりであり、知る人ぞ知る旧ISAF空軍の英雄「メビウス1」=相沢祐一元大尉が仲人としての役割を果たすべく奮闘していた。もはや暗記しておいた台本の中身など緊張感によって忘却の彼方にある。
軍を辞めてから半年以上が経ち、すっかり市井の生活になじんだ祐一。最愛の人を取り戻し、日々を幸せに過ごす彼があの「メビウス1」だと言っても、(ISAFが彼の詳細を軍事機密として伏せていることもあり)すぐに信じる者はまずいないだろう。ただ、この場には当時の関係者も数多く出席しているので、ここで彼が過去の経歴を隠す意味はなく、周囲もあえて彼の正体を大っぴらにしないのが暗黙の了解となっていた。
「こういう役割は本来なら石橋教官が適任だと思うんですが……斉藤とあゆがなぜか俺に頼むんで、まぁ引き受けることにしました。よろしくお願いします」
と言いつつ、来賓席にちらりと目線を移すと、ISAF時代に彼を一人前のファイターパイロットに仕立てた石橋大佐が「しっかりやれよ」と言わんばかりにニヤリと笑った。もう腹をくくるしかない。そんな中、彼の婚約者が笑顔と共に「ふぁいとっ、だよっ」の軽いガッツポーズを見せてくれたのは何よりの応援になった。
「新郎の斉藤にも、新婦のあゆにも、とにかく世話になりました。特に、もし斉藤と出逢っていなければ、俺はどこかの空で死んでいて、今ここにはいなかったかもしれません」
台本を忘れていても、話すべきことは自然に浮かんできた。戦場の大空で、または基地内で――とにかく常に自分を支えてくれた自分の片腕――いや、片翼とでも表現すべき戦友への感謝の気持ちとなって。
しかし、感謝ついでにちょっとした悪戯心が発生していたのも事実であり、祐一はそれを抑えることができなくなっていた。
「で、挨拶の代わりとして、ここからはあのふたりの馴れ初めについて報告します。これは昔、斉藤やほかの連中から聞いた話なんで、ちょっと記憶があやふやな所もあるかと思いますが……」
2003年7月25日 1230時 Kanon国防空軍 CLANNAD市国駐留基地
「わああああっ!」
絶叫を上げて伏せる斉藤に、砕けたアスファルトの欠片がいくつも襲いかかる。30ミリ機関砲の射弾が地面を砕き、アスファルトの破片が斉藤を叩いたのだ。
直後に鼓膜を破らんばかりの轟音と、身を焦がさんばかりの熱風。彼は、音と熱を吐き出しながら頭上を飛び去ったものの後姿に罵声を浴びせる。
「くそっ、やりやがったな! Tactics野郎!」
Kanon国防空軍少尉の斉藤は、二重の怒りの只中にあった。ひとつはたった今自分の命を奪おうとした軍用機に対して。もうひとつは、つい先ほどまでは曲がりなりにも平穏だった自分たちの基地を滅茶苦茶に――あちこちから炎が湧き、黒煙が噴き出し、男たちの怒号と絶叫と悲鳴に満ちた、地獄に最も近い場所へと劇的に変えてしまったTactics連邦に対してだった。
クラナド大陸ではかねてより不信と不安が膨らんでいたのだが、それはついに爆発した。数日前に始まった「クラナド大陸戦争」は、斉藤と彼の祖国、Kanonに対しても凶暴な牙を剥き出したのである。
開戦の時点では、ストーンヘンジとAir皇国と小国家群がTacticsの戦略目標であり、Kanonとの戦端はまだ開かれていなかった。もちろんKanon国防軍は近隣での戦争勃発に際して、最悪の事態――Tacticsの侵攻を予測し、3軍の警戒レベルをデフコン3に上げていつでも戦える状態を整えたが、あまり意味はなかったようだ。それは大陸と同じ名を持つ都市国家CLANNAD市国の近くにあり、斉藤の所属する空軍基地の有様を見ても明らかだった。
大陸の中央から東寄り、Kanon領内にあるCLANNAD市国は独自の国防組織を持っておらず、Kanonと安全保障協定を結びKanon国防軍に防衛を委託している。CLANNAD駐留基地は厳密に言えばKanon領内にあるのだが、(CLANNADには大きな飛行場がないので)名前からわかる通りCLANNADの防空も担当している空軍の重要拠点で、戦闘機の数もそれなりに多い。
しかし、敵の奇襲を許した結果、大半の機体が地上撃破されてしまった。どんな高性能機でも、飛んでいなければただの的に過ぎない。警報はなぜか間に合わなかった。この基地で災厄に見舞われた斉藤たちはまだ知らないが、用意周到に戦争準備を進めてきたTactics連邦は、あらかじめ潜入させておいた特殊部隊でレーダーサイトを襲撃、破壊していたのだ。
「とにかく、上がらなきゃ……」
一難を切り抜けた斉藤は立ち上がり、駐機場へ駆け出した。
途中での人の流れは様々だった。彼と同じように向かう者と去る者。そして全く動かない者。人の形をしていない者もいた。
(うぷっ……)
血でできた水溜りに足を突っ込んだ時、斉藤は胃の中から込み上げる嘔吐感を必死で堪えた。視界の隅には、文字通り五体を引き裂かれて原形を留めていない、かつては人であったものが。DNA鑑定でもしない限りは、肉親でも判別がつかないだろう。
(しばらく肉は食えないな。畜生!)
やるせなさと吐き気を我慢しながら、斉藤はひたすら駆ける。程なくして駐機場に辿り着くが、そこも今の基地の現状を凝縮したような光景が広がっていた。
「……何たることだ」
青空を覆い尽くす黒煙の元、戦闘機が死屍累々と無残な姿を晒している。吹き荒れるTactics空軍による暴力の嵐は実に激しく容赦がなく、斉藤の愛機もそれから逃れることはできなかった。彼のF−16Cファイティング・ファルコンは、原型こそ留めていたものの、あちこちを30ミリ砲弾で穿たれ、大空を舞う力を完全に奪われていた。
目の前の残骸に、瞬時に見切りをつけた斉藤は再び駆け出す。まだ飛べる機体を探すが、爆弾で木っ端微塵にされたものはもはや論外としても、破片を浴びてボロボロにされたり、自分の愛機と同じように敵弾で蜂の巣にされたような、つまりは飛べない機体が大半だった。飛べる機体は奇襲のショックから立ち直ったパイロットを乗せて無事な滑走路に殺到し、卑劣な奇襲を加えてきたTactics空軍に遅ればせながら復讐しようとジェットの轟音を高めつつある。
斉藤がそれに加わることができたのは、1棟だけ無傷で残された格納庫の中で、予備機として稼動状態で保管されていたF−5EタイガーUを見つけ、生き残った整備員から空対空ミサイルと燃料の補給を受けた10分後のことだった。
同日 1246時 Kanon国西部上空
『地上レーダーサイトは全て破壊された。こちらからの誘導は不可能。以後の管制はAWACSからとなる。コールサインは“スカイエンジェル”だ。これからはそちらの指示に従うように。グッドラック、ボーイズ! 交信終わり』
「こちらサポーター、了解!」
どうにか要撃隊の一員として、蒼空の世界に到達した斉藤は、空元気でも出していないとやっていられないとばかりに、半ばヤケクソ気味に威勢良く答えた。コールサイン「サポーター」。これが空における斉藤の名前である。
(やっぱりレーダーがやられてたか。だから奇襲を許したんだな)
何もかもが後手後手に回っている。おかげで俺の愛機もスクラップにされちまった。まぁ、代わりの機は見つかったけど。
破壊されたF−16Cの代わりに命を預けているF−5Eは、訓練生だった数ヵ月前までは練習機として日常的に扱っていた機体だ。勝手知ったる機に乗っているのが、せめてもの救いだった。
(それに、AWACSがいるなら、とりあえずは安心だな)
Kanon国防空軍は10年前にE−3、2年前からはKE−767を導入している。そいつらのレーダーならルックダウン能力(低空捜索能力)も高い。地上レーダーサイトよりも信頼が置けるだろう。
気持ちを良い方向へ切り替えると、手元にある友軍周波数表を見ながら(旧式のF−5Eは国防空軍の自動防空管制システムに対応していないため)無線のチューニングをする。一刻も早くAWACSとの回線を開いて、頼りになる電子の目の支援を受けたかった。
ダイヤルを回すが、ガリガリと鳴るノイズがじれったい。F−16なら何もしなくても、自動で合わせてくれたのに……。内心で愚痴りつつ、周波数をリストにあるのと同じところに合わせた。
(さて、これでようやく戦況がわかるぞ)
先行した連中は一体どうしたのか。そしてまともな管制を受けられるという期待を抱く。
しかし、彼の期待は、無線の先から聞こえてきた謎の声によって瞬時に疑問へと変化した。
『……っ、んっ……えっ、ぐすっ……うぐぅ……っ……』
「? 何だこれは?」
思わずそう口走っていた。次いで周波数を確認する。しかしそれは正しかった。このすすり泣いているような声は、間違いなく友軍のAWACSからのものだ。
でも、おかしい。AWACSは俺たちパイロットに適切な指示を出すのが仕事だ。一体どうなってるんだ?
念のためもう一度、周波数表を見直す。それでも結論は変わりない。斉藤の行動には何の問題もなく、問題があるのはAWACSからの声の方だ。
『うぐぅ……こんな、こんなのって……』
と、ここで明らかに女の子と判る声が届いた。つい今までか弱く慟哭していたのと同じ声質――同一人物だ。
(まさか、管制官が泣いてるのか? そんな管制官がいるのかよ?)
信じられない。だが、泣き声は幻聴などではない。
『も、もう嫌だよっ! こんなのってないよっ! ボク、ボクは……うぐっ、うっ、えぐっ、ひっく……』
(おいおい、マジかよ……)
現状に感情が追従できなくなったのか、女性管制官の明らかな嘆きの言葉が聞こえ出した。戦闘中の前線航空統制官――AWACSのオペレーターとしては、実にあるまじき行為だと斉藤はやたらと冷静にそう思った。
でも、放ってはおけないな。管制官がいなけりゃ戦いは不利になるし、それに……。
(何だか、とにかく気になるんだよな。女の子だからかな?)
そう考えた時、彼はごく自然にAWACSへの送信回線をオープンにしていた。
「なぁ、“スカイエンジェル”だっけ? あんた」
『うぐぅっ……ボク?』
「ああ。こっちのサインは“サポーター”だ」
斉藤は相手に安心感を与えたいと思い、あえて優しい声になるように話した。
「泣かないでくれよ。気持ちはわかる、俺だって泣きたい。でも、あんたにしっかりしてもらわなきゃ、俺たちはどうにもならないんだ。頼むから……」
斉藤の脳裏に、先ほどまでの光景が再生される。
立ち昇る黒煙。爆砕される兵舎。離陸直前に機銃掃射を受け、もんどりうって滑走路に叩きつけられる友軍機。自分を狙って迫る敵機。砕かれる傍らの地面。そして、あちこちに転がった同僚たちの屍……。
斉藤の声も、聞く者によっては涙声になっていたかもしれない。そんな彼の言葉を、コールサイン「スカイエンジェル」は泣くのを中止して黙って聞いていた。
『……』
無線が静寂に包まれる。斉藤の耳に入るのは、自機のエンジン――2基のJ85−GE−21ターボジェットのかすかな音だけ。
やがて、斉藤は一言、無線を介した向こうにいる純真無垢(と彼は想像している)な管制官の女の子に、いつになく真剣な声音で懇願していた。
「頼む。俺を勝利に導いてくれ」
『……うぐぅ、ごめんね。取り乱しちゃって』
数秒の沈黙の後、しゃくり上げる声が止まり、代わりに聞こえたのは、凛とした軍用機の管制官に相応しい迅速な指示だった。
『こちらAWACS“スカイエンジェル”です。ごめんなさい、今から管制を再開するから、よろしくお願いします』
(おっ、結構カッコいいぞ。しかも可愛い声だ)
これなら大丈夫だな。今乗ってるF−5Eはレーダーが弱いけど、AWACSの強力なレーダーを持つ彼女が補ってくれる。斉藤は管制管の女の子の声によって、胸中にほんのりと安心感が広がっていくのを感じる。
『G−31空域の国防空軍戦闘機のみんなへ。敵第2派、G−30空域で友軍第1派と交戦中。でもかなり押されてるから、早く助けてあげて』
だろうなぁ。こっちはてんやわんやの末にどうにかスクランブルできた連中しかいない。「烏合の衆」と言うほどまでは酷くないが、訓練でやってるような、組織的な迎撃などとても不可能だ。まぁ、彼女が泣いている時点で不利なのはなんとなく理解できたけど……。
『敵機は34機。Su−27とMig−29が大体半分ずつ。乱戦になってるから、中距離ミサイルはなるべく使わないで。誤射の危険があるから。それと、ドッグファイトになっても同士討ちに気をつけてね』
慌てて上がったから、俺のタイガーUは短距離用のサイドワインダーを2発しか積んでない。誤射の心配はないな。同士討ちに関しては……基地にあった戦闘機はファルコンとファントムだけだから、双尾翼が特徴的なフランカー、ファルクラムと間違えることは多分ないだろ。
俺が敵と誤解されることについては……神様、どうかお守りください。
と、自分の生存を超自然的な存在に懇願していると、
『みんな、お願いします……生き残ってください』
スカイエンジェルが、斉藤も含めたパイロットたち全員の無事を祈ってくれた。本当に真剣そのものの声で。彼にはこの言葉が神のお告げよりも頼もしく、救いになるように感じられた。
だから、斉藤も「生き残って見せる」との気概を込めて、威勢良く答えた。
「サポーターよりスカイエンジェルへ。了解!」
復活したスカイエンジェルからの指示を受けて飛ぶことおよそ5分、蒼穹のキャンバスに黒い染みがポツポツと混じっているのが見て取れた。空中戦の激しさを如実に物語っている光景だ。
「……」
緊張が全身を満たす。斉藤にとって初めての実戦。しかし、不思議と恐怖は感じない。今はあの混沌の渦中に飛び込んで戦わねばならないという、国防軍軍人としての使命感が先行しているのだ。それともうひとつ――。
『方位60より敵編隊が接近中、2時の方向に厳重注意して。味方とは少し分離してるから……さっきのは訂正。中距離ミサイル使用自由だよっ』
この声が彼を落ち着かせてくれる。「空の天使」というコールサインは実に彼女に相応しい。斉藤の耳には、スカイエンジェルの声はまさに天使の声として響いた。
彼の近くに展開する友軍機の翼から細長い物体が高速で飛び出し、白のラインが空に引かれる。スカイエンジェルの言葉に従い、中距離空対空ミサイル――AIM−7スパローか、もしくはAIM−120アムラーム――を発射したのだ。
しかし斉藤のF−5Eには中距離AAMがないので、敵の放ったミサイルを回避するのに全神経を集中する。
(……来る!)
『敵のミサイルが来るよっ! あと10秒!』
スカイエンジェルの警告から5秒して、斉藤はブレークに移った。早過ぎたら追尾をかわし切れない。遅過ぎたら真正面から直撃してしまう。そのタイミングは難しいが、5秒前に退避、というのが斉藤の判断だ。
風景がぐるりと回転する。これまで頭上に広がっていた真っ青な空が、緑も鮮やかな大地に変わる。大地を覆う一面の田園はのどかさを感じさせる光景だが、見とれている暇はない。機体を反転させて急降下、それで敵ミサイルの射線上から退かなければこの空を墓場にするだけだ。
(いくらなんでも、真後ろに飛んでったミサイルまで追いかけては来ないだろ――ぐうっ……!)
無言で全身にかかる圧力――Gに耐える。これに勝たないことには敵にも勝てない。
回避に移ってから数秒後、ミサイル警報は消えた。彼の機が木端微塵になることもなかった。
「よしっ!」
生き延びたことを実感するように、歓喜の言葉を短く発する。それで機体を水平に戻し、下がった高度を回復すべく上昇に転ずる。回避前と同じ高さに到達した時には、彼より少しだけ先行した味方が早速空中戦にもつれ込んでいた。
『ベイカー、交戦開始』
『後ろにつかれた! 誰か援護してくれ!』
『くそっ、脱出する!』
『フォックス2……ヒット、ヒット! やった!』
交信から判断するに、戦況は多少不利らしい。じゃあ俺が加われば……そんなに変わらないだろうな。でもとにかく戦わないと。そして連中に目にものを見せてやる。
闘志を新たにして、混沌の真っ只中に飛び込む。巴戦で互いの背後を取り合い、不覚を取れば瞬時に炎の衣に包まれる金属製の鳥たち。敵なのか味方なのか、どちらが殺られたにせよ斉藤の胸の内には、少しだけ悲しさが込み上げる。
元々、蒼い大空に憧れてパイロットになったのだ。その大好きな空がこのように、人命が浪費される場所になって嬉しい訳がない。
だが、戦いの空は斉藤にとっても苛酷な世界だった。彼をあの世に叩き墜とそうとする者が確実に存在する。
『スカイエンジェルよりサポーター。チェック・シックス! 狙われてるよっ!』
咄嗟に背後を振り向き、大空をバックに浮かぶ影を確認した。斉藤の2.3の視力は、常人には点にしか見えないそれが何なのかを識別する。
(Su−27?――いや、違う。あいつは――!)
主翼の前に伸びて優雅なラインを描くなストレーキの上に、さらに翼が。見事なまでの「スリー・サーフィス」形状。美しさの中にも、刃の鋭い騎士の両手剣を思わせる凄みを滲ませたシルエット。それが斉藤の小さいF−5Eを威嚇するかのように迫る。
「Su−35かよ! よりにもよってっ!」
よりにもよって、Tactics空軍最強の戦闘機に狙われちまった。Su−35フランカー。Su−27にカナードを追加し、エンジンを強化して機動力を高めたものだ。しかしTacticsのことだから、中身のアヴィオニクスにも何かと手を加えているに違いない。大変な強敵だ。
それに比べると、こっちは……。
(倉庫に眠っていた、半ば引退しかけたタイガーUだぞ。まともに戦えるか! ここは逃げ……駄目だ)
不愉快な騒音が斉藤の耳を打つ。ロックオン警報。敵のレーダー波を浴びて眠りから醒めた警報機が活動を開始したのだ。生殺与奪権を背後の敵機に握られてしまった。となると、次に来るのは当然――。
『サポーター、避けてっ!』
「くっ!」
スカイエンジェルの声よりも僅かに早く操縦桿を倒し、急旋回と急降下を同時に行う。機動は軽くて速い。もしかしたら、今日地上撃破されてしまった元の愛機F−16Cよりも。
だが、残念ながらそれだけの機体だ。軽いボディは高機動力を保障するが、エンジン推力から来る速力や瞬発力は大幅に劣る。もちろん、後方の敵とはさらに差を詰められているはずだ。
連続したブザーの音が、斉藤の恐怖を駆り立てる。「死」の一文字が脳裏をよぎる。
(嫌だ……俺は)
「まだ死にたくないっ!」
そう叫んでチャフとフレアを放出する。それは斉藤の切実な願いを運命の女神が聞き届けてくれたのか、敵機から発射された赤外線誘導AAMを引き寄せる餌となり、斉藤とF−5Eを守った。
「はぁっ、はぁ――っ! まだかっ!?」
航空機は旋回を行うと、運動エネルギーを失って速力が落ちる。ミサイルを回避した代償に、斉藤機は敵機Su−35に肉迫されていた。圧倒的な威圧感をもって、全長22.1メートル、全幅14.7メートルの大型機が迫る。
「畜生!」
未だに薄れない、それどころかさらに増した恐怖心が斉藤にエンジンスロットルを開かせた。アフターバーナー点火。ぐっ、と全身に軽い漬物石をまんべんなく乗せられたような感覚。機体が加速しているのだ。
しかし、今の場合その機動は大きな失敗だった。彼がそれに気づいたのは、暫定の愛機が敵機の30ミリ機関砲GSh−301の有効射程内に入ってしまい、照準レティクルの中央に捉えられる寸前のことだった。
空中戦において、追われる者が追う者から逃げる手段は基本的にふたつ。避けるか引き離すかである。
避けると後方の敵もそれに追従して動くが、敵よりも機敏に動くことができれば、敵を自分の前に飛び出させる――オーバーシュートさせて形成は逆転する。追われる者が追う立場になれるのだ。ただしそれにはブレーク(退避)を繰り返し、シザーズ戦術と呼ばれる複雑な空戦機動を行い、なおかつそれを敵よりも機敏にしなければならない。
一方、引き離すには加速するだけで良く、それにはエンジン推力を全開にしてGに耐えることしか要求されない。が、パイロットの腕前に比重が置かれるシザーズに対し、これには機体の性能が色濃く反映される。
F−5EタイガーUとSu−35フランカー。性能はSu−35に軍配が上がる。比べ物にならないほどに。特に加速力の目安になる推力重量比を単純に計算すると、F−5Eが自重4.4トンに対しエンジン推力2268キログラム×2基の双発なので1.02となる。Su−35は自重18.4トンの機体に推力1万4000キロのAL−35Fターボファンエンジンを2基搭載しているので、推力重量比は1.52の高数値となる。F−5Eのおよそ5割増だ。
この差は極めて大きい。したがって、Su−35から逃げるべく加速した斉藤があっさりと追いつかれたのは当然過ぎる結果であり、それは戦闘機乗りとして第一線に立ったのが数ヵ月前という斉藤のキャリアの低さがもたらしたものだった。
「くそっ!」
背後には敵戦闘機の姿が見える。幼い頃、母親に寝床で読み聞かせてもらった「アラビアン・ナイト」の有名な1節「船乗りシンドバッド」に登場する怪鳥ロックを連想させる迫力を放っているが、コクピット内に響く警報が、敵の恐ろしさを増長させている。
(このままじゃ、殺られる――!)
『サポーター、速度を落としてっ!』
「!?」
斉藤の脳内に悲観的な思考が生まれた時、AWACSから突然音声が飛び込む。一瞬――0コンマ2秒ほどの間をおいて、彼はそのアドバイスを無意識のうちに実行した。
全開にしていたエンジンスロットルを一気に引き絞る。なぜそうしたのかはわからない。しかし、彼女の声にとにかく従わなければならないと思ったのだ。斉藤にとってスカイエンジェルの一言は、天からの啓示と同等だったのかもしれない。
そしてそれが、彼の幸運の――生涯に渡って彼に幸せをもたらす女性が与えてくれた幸運の実質的な第1号ともなった。
急減速すると、これまでとは逆のGがかかる。背中から何かにのしかかられるような感覚を味わっていると、目の前を一条の光点が上から下に通り過ぎた。光の五月雨が一瞬だけ降ったような光景。だが、これがもし機体にひとつでも当たっていたら、彼の機体はバラバラになり、彼自身も破片の一部となって高空に投げ出されていただろう。
斉藤が減速したのと全く同じタイミングで、Su−35が後方斜め上から発砲したのだ。しかし、照準は完璧だったその1斉射は、斉藤の――スカイエンジェルの機転により外された。
(ま、また助かった……)
先ほどのミサイル、そして今の機銃掃射を回避した。ほんの少しの安堵が生まれるが、本格的に沸く前にそれは萎えて消えた。目を剥き、前方を凝視しながら。
頭上が一瞬だけ影に覆われたかと思うと、彼を追い回していたSu−35が、後方警戒レーダーが特徴的な尾部を見せながら現れたのだった。
なぜ敵機がオーバーシュートしたのか斉藤にはわからなかったが、幸運以外にもその要因を求めるとすれば、敵機の高性能とパイロットの油断が上げられるだろう。
Tactics空軍の戦闘機――Mig−29シリーズやSu−27シリーズなどの新しい部類――には、IRST(赤外線捜索追尾システム)がキャノピー手前に組み込まれている。自らは何も発しないパッシブ式の探知装置で、赤外線を捉えるのでレーダーを狂わせる電波妨害など関係ないという優れた代物だ。ステルス機にもある程度の有効性がある。
しかし、これは目標の方位しか探知できない欠点があり、そのためIRSTにはレーザー測距儀が内蔵されている。赤外線探知で得られた目標の方位にレーザーを照射し、それで距離の情報を引き出すのである。
この測距精度はセンチ単位という精密なものであり、一定時間の距離変化と自機の速度を計算すれば、目標の速度すら明らかにできる。斉藤の敵も当然このシステムを活用しており、斉藤機の動きを――加速による離脱をしっかりと探知していた。
そこで彼(彼女かもしれないが)は、優越した加速力を生かして距離を詰め、機関砲で一撃して小生意気な旧式機に引導を渡そうと考えた。それは目論見通りになり、Su−35の素晴らしい加速性能はごく短時間で機体を目標に肉迫させ、HUDの中央に小柄な機体を投影した。1連射しかできない速度――1回攻撃したら敵を追い抜いてしまうほどの速度を出しながら……。
Su−35は確かに優れた戦闘力を持つ戦闘機だが、そのパイロットは自機の性能を過信し、旧式の敵機を侮ったのだ。それにスカイエンジェルが斉藤にもたらした幸運が重なった。
結果、敵機の射弾を紙一重で逃れた斉藤の目前に、バーナーを噴かせて赤い炎を灯すSu−35の無防備な尾部がさらけ出された。かくして、形勢は瞬時に逆転、斉藤にとって敵機撃墜の好機が巡ってきたのだが、それをいち早く指摘したのは、またもやスカイエンジェルだった。
『サポーターっ! 早く撃って! チャンスだよっ!』
「っ! お、おう!」
全く持ってその通りだ。ごく近くに、これまで自分をさんざん怖がらせてくれた仇敵がいる。しかもこれ以上は望めないと言うほどの隙を見せている。しかしこの優位も数秒の間だけだろう。大きい推力を保ち、なおかつ機動性にも秀でた敵機なら、斉藤の貧弱なF−5Eの追撃を逃れてしまうからだ。
つまり、そうなる前に手を打たなければならない。
あいにくとFCSは既にそのための行動を始めている。HUD内のミサイルシーカーが目標を追尾して動き、すぐに重なった。表示色が赤に変わり、連続した電子音と共に、ロックオンが完了したことを操縦者に通告する。
「フォックス2、フォックス2!」
間髪を入れず、斉藤は反撃のミサイルを放つ。2回同じ言葉を叫んだのは、2発の――現在持つ全てのAIM−9Sを同時発射したからだ。今の斉藤には、1目標に2発のミサイルを消費して、その後の攻撃手段が2門の20ミリ機関砲M39A2しかなくなってしまうことに対する懸念は浮かばなかった。
もっとも、1機に2発も撃ったのだから命中率も高まることが期待されたが、そこまでする必要はなかったようだ。
1発目がそのまま敵機の尾部に吸い込まれる。近距離から撃たれたこの敵は回避運動をする機会が全くなかった。一瞬、火力の強いライターのように炎を噴き出したところへ2発目が直撃、今度は火にくべられたスプレー缶のごとく爆発した。
「うわっ!」
機体の進路上に突如湧いた炎の雲と反射的に避ける。主翼や胴体をバラバラになったSu−35の破片に叩かれる。それでも、大きい破片で機体を損傷しなかったり、空気取入口に侵入してエンジンを痛めなかったのは幸運だった。
なおも破片を撒き散らしながら、先ほどまでは自分の天下だったこの空域を火葬場にして墜ちるSu−35。落下しつつもしばらくは惰性で前へと進んでいたが、勢いがなくなり運動が垂直降下になると、ついに燃え尽きた。後には黒煙の筋しか残らない。文字通り空に散ったのだ。
『グッド・キル! サポーター、1機撃墜おめでとうっ』
「あ、ありがとう……。は、ははは……」
惨めな敵の最期を呆然と見つめながら、スカイエンジェルからの祝辞を、斉藤はただ虚ろに笑いながら受け止めることしかできなかった。
Tactics空軍の猛威が一時ながら去ったのは、斉藤の敵機初撃墜とほぼ同じ時刻のことだった。
2006年4月22日 スノーシティー Kanon空運ホテル結婚式場
「……というのが斉藤とあゆの出逢いでした。互いの顔もわからなければ名前も知らない訳ですから、“出逢い”と言えるのかはちょっと微妙ですが」
(……メビウス1、俺の過去をことごとく暴露してくれるな)
もう止めさせたほうが良いかな? と思ったが、そもそも彼を式の仲人に、と望んだのは斉藤本人(とあゆ)だった。今更後には引けない。
それに、斉藤にとって祐一は恩人だった。彼と出逢い、戦友にならなければ、今自分の隣にいる女性との出逢いも、幸せもなかったに違いない。
内心に複雑なものを巡らせていると、その隣の愛する人が斉藤の方を向いて言った。あゆはまだウェデイングドレス姿のままだ。この純白の衣装を気に入っている彼女の希望を酌んで、式ではお色直しをしないことになっている。
「そうだったんだ、あの“サポーター”って――」
「ああ、そうだよ。あの時は本当に助けられたよ、ありがとう」
「ううん、助けられたのはボクの方だよ。あの時、励ましてくれたから、ボクは管制官を続けていけたんだと思う。本当に嬉しかったよ……」
「あゆ……」
「だから、ボクの方こそありがとう、だよっ!」
こんな微笑ましい会話をしている間にも、祐一の「暴露話」は次なる段階へと移行する。
「でも、斉藤も相手の顔を知る時がやってきます……」
2004年5月1日 ノースポイント ニューフィールド島 ISAF空軍アレンフォート基地
「終わった終わった。いつもながら疲れるな、待ってるだけなのに」
長時間に渡るアラート任務(スクランブル待機任務)から解放された斉藤は、ひとりそう呟きながら待機所からPX(売店)へと向かっていた。
疑問調の台詞とは裏腹に、ろくに動きもしないのに疲れる理由はわかりきっている。重い対Gスーツを着込んだまま、いつ来るとも知れない敵に備えるのだ。敵は今のところは、たまに偵察機を飛ばして来るだけだが、これがいつ戦爆連合の大編隊となって来襲するかと思うと背筋が寒くなる。
そんな不安からくる緊張が、斉藤に疲労を強いていた。ただ、これは同じ任務に就いていた同僚たちも同じだろう。
「早く買い物を済ませて、後は寝ちまおう」
今は小康状態だけど、敵が大挙して押し寄せて来たら、惰眠を貪るという贅沢も許されなくなるのだから……。
クラナド大陸戦争開戦からおよそ9ヵ月。この島に辿り着く過程において、斉藤は何度か死戦をくぐり抜けてそのつど命を長らえることができた。今ではもうベテランのひとりに分類されている。自覚はあまりないのだが、彼の経験とは(Su−35を墜とした数少ないパイロットである実績も含めて)ベテランと呼ばれるに見合ったものだった。
しかし、彼の祖国はそれよりも苛酷な道を辿って、いや転がり落ちてきた。
斉藤たちKanon国防空軍の奮闘も実を結ぶことなく、2003年12月3日には北部の重要都市スノーシティーが敵の軍門に降り、17日には首都のポートエドワーズがその後を追った。さらに翌2004年1月6日には南部の大港湾都市コンベースまでもが陥落し、Kanon国はその領土のほとんどをTactics軍に蹂躙されたのである。
だが戦争はまだ続いている。国土の大部分を失ったKanonは、Air皇国やTacticsに侵略されたその他の国々と残存兵力を統合してISAF(独立国家連合軍)を結成、Tacticsに徹底抗戦する意志を表明した。とは言え、大陸で多くの戦力を失ったISAFは現在戦力再編の真っ最中で、実態は「張り子の虎」である。
戦況も変化を見せず、ISAFにとって圧倒的不利な状況のままだった。昨日4月30日には最後まで維持していた北部の港湾都市セントアークを放棄し、残るISAFの拠点はここノースポイントとコモナ諸島など、大陸東岸沖の島だけとなってしまっていた。
ただ、将来にあえて希望を求めようとすれば、セントアークを守備していた3個師団がほぼまるまる撤退に成功したため、陸軍の再編が予想よりスムーズに行くのではないか、ということが上げられる。
「でも、こっちには直接関係ないからなぁ」
空軍もセントアーク撤退の支援をしていたが、斉藤はそれに参加していないので所詮他人事だった。それに陸軍の再編は進んでも、自分がそのおこぼれに与れる訳ではない。
だが、彼はまだ知らない。ノースポイント本島では、諸外国から供与された戦闘機の第1陣が整備と改修を受けていて、ひと月以内に実戦化が可能となっていることを。その中には、アラブ首長国連邦に売られるはずだったF−16シリーズの最新機、F−16ブロック60すら含まれていた。
こうして陸軍のみならず空軍の戦力回復も着々と行われていたが、彼がそれを実感するのはしばらく先――およそ半年後にアメリカの中古品のF/A−18Cホーネットに乗り換えてからのことである。それまでは、開戦初日に偶然見つけたF−5Eが彼のパートナーだ。
「これと、あとこれと……」
PXに着いた斉藤は、カップラーメンや缶ジュースなど、小腹が空いた時に重宝するものを適当に物色し、買い物籠に放り込む。なるべく早く切り上げて、自室に戻りベッドに転がり込むつもりだった。
そうして手早く品を定めると、決済するためレジへと持って行く。今、このPXには斉藤以外に客はいない。待たずに会計を済ませられることが、ほんの少しだけ得したように感じた。
「あれ?」
斉藤の目が、レジスターの脇に置かれた写真――いわゆるブロマイドに釘づけとなった。
それに注目した理由は、至極簡単なことだった。写真の被写体が、魅力的な女性なのだ。
ISAF空軍――正確にはKanon国防空軍の女性士官用制服を着ているから、広義における彼の戦友であることは間違いない。その内側にある女性特有のふたつの膨らみは、大き過ぎず小さ過ぎない(斉藤の独断に基づいた)平均的なものだ。そこから下は、写真のサイズの問題から写ってはいない。だが、女性として理想的なスタイルを保っているだろうことは容易に想像できた。
その想像を確信にさせたのは、被写体の容姿である。栗色の髪はほぼ肩と同じ高さのショートカットで、艶がありサラサラしていると思わせる綺麗なものだ。その頂部には赤いカチューシャが栄えている。
そして、輪郭の整った顔に、赤い瞳をした大きい目、程良い高さの鼻、さくらんぼのような可憐な唇がバランス良くついている。端整な可愛い顔だ。しかもそこには、大人の美貌が僅かに含まれている。
隠し撮りでもされたのか、その可愛い美人はカメラが自分に向けられているのに気づいていないようだ。目線はファインダーに向いておらず、ごく自然な表情をしている。
「……」
斉藤はしばらく、写真の女性を眺め続けた。いや、見惚れていた。彼の思考回路の演算能力が全て小さい紙切れの中の女性士官に動員される。
やがて、斉藤は顔見知りとなった店の責任者に短く言った。
「これ誰ですか?」
「おっ、お目が高いねぇ。気になったかい?」
「ええ、まぁ」
「これは“スカイエンジェル”だよ。聞いたことくらいあるだろ」
「え!? 彼女が?」
素っ頓狂な声を上げる斉藤。「聞いたことがある」どころではない。
彼は空を飛んでおらず、なおかつ仕事とは関係ない時間の一部を彼女のために使用していた。早い話が、余暇の時間は一度だけ管制してもらったスカイエンジェルのことばかりを考えていたのだ。
理由は自分でも良くわからない。が、とにかく気になって仕方がなかった。開戦の日の出来事は、初めての実戦――危ういところを的確な管制で救われた経験と共に、彼の心に不思議な興味を植えつけていた。
そして今日、興味を多大に抱いているその女性の顔が判明したのだ。
驚きの表情を緩めると、再び写真に視線を移す。
(そうか、これがあの“スカイエンジェル”だったのか……)
可愛い女の子だなと思わせるには十分な声を持っていたけど、まさか本当に、こんなに可愛くて綺麗だったなんて……。はぁっ。
大きく溜息をつき、内心で起きた驚きと、何とも言えない複雑な感情を吐き出すと、意を決して斉藤はPXのおじさんに告げた。
「これ、いくらですか? 3、4枚欲しいんですけど」
この数日後、スカイエンジェルのブロマイドは店頭から消えていた。聞いたところによると、全て売れてしまったという。斉藤は自分の先見性の高さを誇りに思った。
やがて、彼の周りでもスカイエンジェルについての話題が頻繁に聞かれるようになった。それらを要約すると、皆が彼女に憧れているという1点に絞られる。斉藤も進んで同僚たちの話の輪に加わったが、人気女優のように語られるスカイエンジェルの名声はやがてISAF空軍中に広まり、そんな中で斉藤はひとつの確信とひとつの危機感を抱くようになる。
俺は彼女が、スカイエンジェルのことが好きなんだ。そして彼女をゲットするにはライバルが多すぎる。このままじゃ、俺は数千人のスカイエンジェルファンの中に埋もれてしまう。と。
その危機感が彼をして、新たなコールサインを生み出すきっかけとなる。スカイエンジェルの写真を愛機のコクピットやパスケースに収め始めた1ヵ月後、斉藤はコールサインを変える申請を行い、それは受理され彼は「アクトレス(女優)」になった。
2006年4月22日 スノーシティー Kanon空運ホテル結婚式場
「と、斉藤は憧れの女の子の顔をこうして知った訳です……」
祐一の口から、(あゆの知らない)事実がまたひとつ判明すると、あゆは事実確認を行うため、夫になったばかりの斉藤に問う。
「ボクの写真なんてあったの?」
「あ、ああ……良く取れてる、可愛い写真だよ」
さりげなく褒められると、あゆは頬を赤らめる。そしてそれが具体的にどんなものかが気になり始めた。
「うぐぅ……。何だか恥ずかしいよ。ね、まだ持ってるの?」
「そりゃ当然持ってるよ。俺の宝物だからな」
ごそごそとズボンのポケットを探り、パスケースを取り出す。そこにはあの日、アレンフォートのPXで購入したものが収められていた。状態は、まるで昨日現像されたかのように良好だ。斉藤がいかにこれを大切に持っていたのかが窺える。
「確かにボクだね……」
きょとんとして写真の中の自分を見つめるあゆ。撮影された自覚は全くなかった。
「一体いつ取られたんだろう? あ、このナンバーは――ボクが新しい機体に乗り換えた後だよ。4年の4月10日以降かな」
と、軍服の肩にあるパッチに注目し、その部分を細く綺麗な指で示す。斉藤も一緒になって覗き込むと、角度の関係から半分しか見えないが「−767 01」と刺繍が施されているのが確認できた。
「ああ、これは知ってたけど……。じゃあこれは俺たちの良く知ってるE−767だったのか」
「うん。本当はここは『ISAF AWACS E−767 01』ってなってるんだ。ボクはこれの前はセントリーに乗ってたから」
「肝心な所が隠れてるんだよな〜。ここからじゃEなのかKEなのかわからないぞ」
斉藤は一度、この写真からスカイエンジェルの搭乗機を探り当てようとしたことがある。しかし特定までは出来ずに終わっている。
ISAFのAWACSはKE−767(E−767に空中給油機としての能力を付加した機)が主力であり、E−767は1機しか保有していない。大陸の拠点を捨ててノースポイントに篭城した後、世界各国はISAFに援助の手を差し伸べたのだが、日本から提供されたのが、「メビウス1」のパートナーとして、「スカイエンジェル」のコールサインで戦史にその名を残したE−767だ。
最後に「01」とあるから、EかKEの1号機なのは確実だが、この写真のパッチがもっと端まで見えていたらどっちだかわかったんだけど……。いや、今となってはまぁいいか。俺はあゆとこうして結婚できたんだし。そう思い直し、改めて写真を見る。
戦争の中盤以降、斉藤はE−767乗るあゆに――写真の中の月宮あゆ中尉に導かれて勝利を掴んだ。それを思うと、何とも感慨深い。
「ふーん、そうか……じゃあ、この写真は君が新しい機体に乗ってすぐに撮られたんだな」
「いつ撮られても恥ずかしいのは変わらないよ。こんなのが出回ってたなんて」
「でも、おかげで俺は憧れの“スカイエンジェル”の顔を知ることができたし、それにこの写真は俺の最高のお守りになったよ」
「うぐぅ……」
照れてしまって俯いてしまう。そんなあゆを斉藤は改めて愛らしく思うのだが、彼の行動は肩に手を置いて顔を上げさせるだけに留まった。祐一の挨拶(というより暴露話)はまだ続いているのだ。
ふたりの良い雰囲気を知ってか知らずか、祐一は今の写真話に区切りをつけて、また新たな話題を会場内に提供しようとしていた。
「これでますます斉藤の中のあゆ天使度は上昇していったんです。しかし、斉藤が言うには、俺も天使――何と言いますか、縁結びのキューピッドだとか……自分でも笑っちまいます。ただ、確かに斉藤とあゆが初めて『実際に』逢った時、俺もそこにいましたから……」
2004年10月20日 ノースポイント ニューフィールド島 アレンフォート基地
「今日もお見事だったな、メビウス1」
「そっちもな、斉藤。もうそろそろ新しい機体にも慣れたんじゃないか?」
「ああ、前のタイガーUとは性能が段違いだ。ようやくツキが回って来た、って感じかな」
去る10月5日、限定的ながら実行された大陸東部のTactics軍飛行場に対する航空攻撃は、斉藤も参加したリグリー飛行場を筆頭としてある程度の成功を収めた。多数の爆撃機を地上で破壊し、ノースポイントの安全度を高めることができたのだ。
こうして戦争はひとつの転機を迎えたのだが、斉藤もまた同じだった。今傍らで談笑している僚機(リーダーかウィングマンかは状況によって変化)、相沢祐一少尉――コールサイン「メビウス1」との出逢いが、今後の彼の軍歴を劇的な方向へと流す一因子となるのだが、斉藤は預言者ではない。
しかし、何かが変わりつつあるのは、彼にも感じられた。実際、今の話題は1年以上前から乗っていたF−5Eに代わって与えられた新しい戦闘機、F/A−18Cホーネットについてである。
ISAFも敵の攻勢に耐え抜き、ついに反撃を始めた。それに、装備も強化されつつある。このぶんなら、俺たちは大陸に――祖国に還れるかもしれない。その前に戦死しなけりゃ、だけど。
後半の縁起でもないことを省いて、現状の変化についてさらに言及しようとしたその時、
「祐一君っ!」
背後から元気な声がかけられた。ふたりはその声の方に同時に振り向く。
「あ? おっ、あゆか」
「お疲れ様、訓練だったんでしょ?」
「ああ、機種転換のな。そう言うお前はどうしてここに?」
「えっとね、ボクたちは今日からしばらくここに配備されることになったんだ。寝泊りは飛行機の中だけどね」
「ふーん、そうか。じゃあしばらくよろしくな」
「うんっ!」
相沢祐一と月宮あゆ。Kanonの北方にある都市、スノーシティーで友人同士だったふたり。ついこの前、およそ3年ぶりに再会したばかりだが、昔からの友情は変わっておらず、その時のようにごく自然に話し、笑い合う。
しかし、一時的にしろ蚊帳の外に置かれた感じの斉藤には、極めて非現実的な光景として映っていた。
「す、すっ、すすす……」
何事か意味不明な言葉を発して、やがて絶句した。顔は呆けが5割、驚愕5割といった表情で成り立っている。
「?」
あゆがそんな様子の斉藤を見て、少し首をかしげる。初めて見る顔なのだから、それが誰なのか疑問に思うのは当然だが、祐一はそこではたと気づいた。あ、こいつらは今日が初顔合わせになるんだっけ。
「そうか、お前はまだ知らなかったよな。紹介しとくか。こっちの奴は斉藤、コールサイン“アクトレス”だ。俺の戦友だよ」
祐一は「戦友」と、そう明言した。リグリー攻撃の時からこれまで、そう長くない期間にかなりの信頼関係を構築していた証左だ。もちろん、斉藤も祐一と同じ考えを持っている。戦闘機に乗っていても脚を地につけていても、彼らは妙に馬が合っていた。
「……」
だが、その信頼されている斉藤は、祐一のリアクションに対して全くの無反応で応えた。ただし、彼の内部では様々な思考回路が働き出している。
(あの“スカイエンジェル”が今、俺の目の前にいる……)
ISAF空軍のアイドル的存在。優秀な航空管制官。可愛くてしかも美人な女の子。俺のコールサインを「アクトレス」に変えさせた張本人。そして、俺の憧れ、俺の好きな……。
「おい斉藤、どうしたんだ?」
「あ? あ、いやその……」
呆けたような顔つきをして、死人のように反応しない斉藤を促す祐一。するとようやく返事を寄越すが、何とも歯切れが悪い。
祐一は、斉藤の不可思議な言動を訝しげに思う。いつもは明快な戦友がこんなにはっきりとしない、まるで白昼夢から醒めたような態度を見せるのは初めてだった。しかし、それへの追及はしない。今はあゆを彼に紹介する方が重要なのだ。
「? 変な奴だな……まぁいいや。こっちは月宮あゆ。“スカイエンジェル”ってコールサインを持ってる」
「よろしくお願いします、斉藤さんっ」
(!!)
あゆは元気良く言い、ぴしりと敬礼をして見せ、そしてにっこりと笑った。その瞬間、斉藤の心臓が跳ね上がる。機関砲弾に貫かれたのではないかと思うほどの衝撃だった。
動機がにわかに激しくなり、全ての思考が目の前の可愛い笑顔に集中される。憧れの女性の、写真を肌身離さず持っているほど恋焦がれている女性の、純真無垢であまりにも魅力的な表情に、完全に心を奪われた斉藤の脳は過負荷によりフリーズ、何も考えられなくなった。
しかも、彼の網膜は投影された画像を脳に送り続けていたため、停止状態から抜け出すのは自力では無理だった。斉藤を現実の世界に引き戻したのは可愛い声音。その綺麗な音色により、ようやく斉藤は我に帰る。
「どうしたんですか? ボクの顔に何かついてる?」
「あ!? あ、い、いいえ、そんなことはないです!」
「そう? じゃ、よろしくお願いしますっ」
「こ、こちら、こそ……」
訝しげにきょとんと首をかしげる仕種すら、斉藤の脳髄を直撃する。そして再び明るい笑顔に戻って呼びかける天使に対しての返事は、変哲のない一言が精一杯だった。
その弾みで一連のショック状態からようやく抜け出すことができたが、まともに戻りつつある思考の中で最初にインプットされたのは、相手の名前だった。
(月宮あゆ……あゆさん、か……)
この後、3人で取った昼食の時間は、斉藤にとっては夢のようなひとときとなった。スカイエンジェルの魅力が外見だけでないことも確認できた。そしてますます彼女に惹かれたのである。
こうして得難い経験をした彼は、月宮あゆと初めて逢ったこの日のこの時を生涯忘れまいと誓った。そしてさらに、今日を境にまた何かが良い方向へと変わるのではないか、自分の人生に何か大きなものが加わるんじゃないか、という漠然とした予感を抱くのだった。
いや、それは予感だけではなく、願望でもあった。彼の予感は見事に的中――願望が最も理想的な形で叶うのは、この日からおよそ1年と8ヵ月後のことになる。
2006年4月22日 スノーシティー Kanon空運ホテル結婚式場
「これで、今日こうなるための条件が揃ったんです。その後は……俺の知らない所で色々とあったのかもしれませんが、斉藤は良い奴ですし、あゆもそこに惹かれたんでしょう。俺がそのきっかけになれたことは、今のふたりを見ていると光栄なことだと思います……」
確かに色々とあった。それは幸運ばかりではなく、斉藤の努力も大きかった。彼の積極的なアプローチや空中での勇気、そして優しさがあゆの心を掴み、今現在に至る道を開拓したのだ。
「うぐぅ……。初めて知ったことばかりだよ」
ただ、それを成し遂げた張本人に、自らの道程を回想する余裕はない。今回公表された数々の新事実に驚いているあゆに思わず謝っていたからだった。
「……ごめん、悪かった」
「え? 何のこと?」
「ああ、いや、その――隠すつもりじゃなかったけど、迷惑だったかな……って」
「?」
「ほら、あゆが俺のことを好きになってくれたのは最近のことだけど、俺はそれよりも前で、それに一方的だったからさ」
苦笑いを浮かべる斉藤だが、内心は冷や汗ものだった。今でこそこういう関係になってはいるが、相手のことを想い慕っていたキャリアは斉藤のほうがずっと長いのだ。それをこれまで黙っていた。結果的に、妻に――最も信頼すべき人生のパートナーに秘密を作っていたということになる。
「でも、もっと前に言っといた方が良かったよな……。もしかして、怒ってる?」
「ううん……」
不安げに聞いた斉藤に、あゆはゆっくりとかぶりを振った。白いヴェールもゆったりと流れる。
「嬉しいんだよ。だって――」
一旦言葉を区切り、目元を拭う。涙の飛沫が、一瞬だけダイヤモンドのような美しい輝きを放った。
「そんなに前から、ボクのことを想ってくれてたんだから。そんな人と一緒になれて、ボクは……ボク……うぐぅ……」
ほんの少しの間だけ、口をつぐんで微笑を見せるが、
「ボク、幸せだよっ!」
再び口を開いてそう宣言した時には満面の笑みになっていた。
それは、彼だけのものだった。花が咲くような、いや、世界中を春にしてしまうようなあゆの笑顔。つい先ほど、妻になったばかりの女性に対して、無限の愛おしさが喚起される。
その大きい想いは、短い言葉となって表現された。たった一言。だが、それで十分だった。
「あゆ、愛してる」
「うん、ボクも……」
そうして言葉はいらなくなった。視線のみで感情を伝え合うと、ゆっくりと顔を近づける。徐々に互いを隔てる空間がなくなり、やがてふたりの唇が密着した。
披露宴会場にざわめきが走る。その時、挨拶を纏めに入っていた祐一も、会場内の視線が一点に――新郎新婦に集中されているのに気がついた。
「ふたりの出会いは運命、と言って良いのか――」
ちらりとそちらに目を向けた祐一は、それ以上言葉を発することができなくなる。
目前で新しい夫婦が、唇を熱く重ね合っているのだ。その光景を前にして、祐一はかつて戦場の空でも経験したことのないような混乱に苛まれる。こんな状況でこの後一体、どう言葉を続けようか?
救いを求めるように、来賓の席へ顔を向けなおす。すると、答えはそこにあった。
顔を紅くして、どぎまぎしながら行方を見守っていた、2ヵ月後には彼の妻になることが確定している女性が祐一の視線に気づくと、微笑んで首を横に振ったのだ。
(そっか、わかったよ。ありがとう。愛してるぞ、名雪)
愛する女性への感謝の念と共に呆れた思考から抜け出て、自分の想いをアイコンタクトで伝えようと目配せをする。すると、本当に通じたのか、名雪はさらに頬を染めて可愛らしい笑みを浮かべた。
(うん、わたしも愛してるよ、祐一)
このふたりの絆も、視線のみで「会話」を可能にすることからもわかるように、斉藤夫妻に負けず劣らず極めて強いものなのだった。
祐一は愛しの女性に対し、返事の代わりに軽く頷いた。そうして自分たちの世界に入り込んだカップルに視線を戻すと、失笑を隠しきれない声で、独り言のように言う。
「やれやれ、さっき誓い合ったばかりなのに、また誓ってるのか」
しかし、互いへの愛しさのみで成り立っている今のふたりには、この軽い皮肉は聞こえていないらしい。名雪が教えてくれたように、これ以上は何を喋っても意味はないな。ひとつ息を吐くと、ごく一般的な一言で自らの挨拶を締めくくった。
「何はともあれ、おめでとさん!」
それを合図として沸き起こる拍手、そして一部の人々の鳴らす口笛は、斉藤夫妻に「おめでとう」と告げるファンファーレであると同時に、今後の人生に幸多かれという祈りとして響き渡るのだった。
そのような中でも、祝福されるこの花婿と花嫁は、幸せなキスを続けていた……。
――完――
あとがき
どうも、作者のU−2Kです。この度も拙作にお付き合いくださり、ありがとうございました。
前作「深海の尖兵」でお約束した通り、どうにか空戦もの、という一線は守れたのですが……。果たして、全体的には空戦ものと言えるのかどうか(苦笑)。
特に今回は本編エピローグで少しだけ扱った月宮あゆと斉藤の関係の変化、その顛末がメインとなっています。この組み合わせについて、違和感や不快感を抱かれた方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかも斉藤は原作においてはいわゆる「名前だけ」キャラで、KCOでは作者の思う通りに動いてくれましたから。
ただ、言い訳じみたものを言わせていただければ、ギャルゲーにおいて主人公に選ばれなかったヒロインはどうすれば幸せになれるのかを考えると、方法は色々あります。例えば、まだ諦めていないとか、またはハーレムEndとか。
しかし、一番現実性があるのは、主人公に見切りをつけて新しい幸せを探すことだと思います。KCO本編のエピローグも、そんな私の思想を前提にしてああしてみた次第です。まぁここ3年半近く、祐一×名雪に萌え狂っている輩が書いているシリーズなので、勘弁してください(笑)。と言いつつ、これを書いている間にあゆへの萌えが増大していたりして(爆)。
さて、次の外伝の構想はほとんど完成してはいるのですが……CLANNADが出てくれないとどうにもならないです。しかし、いつ出るのかどころか本当に出るのかすら疑わしく思えてなりません……。前回と今回で「CLANNAD市国」の名前を出したのは、どうにか今年中に出て欲しいという願望が込められているのですが(爆)。
それでは、いつになるのかは不明ですが、また次作でお会いできれば幸せです。どうもありがとうございました。
管理人のコメント
U−2KさんからまたしてもKCOの外伝を戴いてしまいました。いつもありがとうございます。
これまでの外伝シリーズはハードな戦争ものでしたが、今回はラブラブです(爆)。
>「あゆちゃん、綺麗……」
どうしてもあゆに「綺麗」とか「大人」と言う単語が結びつかない私です(笑)。
>「栞ももうすぐ着れるわよ。いつもお店に来るあの学生さん、ウチのメニューよりも栞のほうが絶対に本命よ」
>「えっ!? あっ、それは――ちっ、違いますっ! 隣町の人で、レジスタンスの時に少しお世話になっただけですっ!」
>「近所の中華料理屋さんの肉まんよりも、あのコックのお兄さんが目的なんじゃないですか?」
>「あ、あうっ! あ、あいつはそんなんじゃないわよっ! 真琴は肉まんが好きなだけで――」
>「何よ、美汐だって気があるんじゃないの? 店の大家さんの息子に」
>「……そ、そんな酷なことはないでしょう」
過酷な戦争の中、この3人もそれぞれに愛を育んでいたようで…あれ、佐祐理と舞は?
>ハンサムに見えなくもない凛々しいエースパイロット
…誉め言葉なのかどうか、実に微妙な言い回しです。
>Kanon領内にあるCLANNAD市国は独自の国防組織を持っておらず
元ネタも形が出てきてませんしねぇ…(禁句)
>「泣かないでくれよ。気持ちはわかる、俺だって泣きたい。でも、あんたにしっかりしてもらわなきゃ、俺たちはどうにもならないんだ。頼むから……」
斎藤、なかなかの男ぶりです。
>『グッド・キル! サポーター、1機撃墜おめでとうっ』
F-5EでSu-35を叩き落すとは…「スカイエンジェル」の名管制ぶり、大した物です。
>レジスターの脇に置かれた写真――いわゆるブロマイドに
女性兵士も買い物に来るであろう場所に大胆な。それとも、男性兵士のブロマイドもあって、女性将兵が買っているのでしょうか(笑)。
手前味噌ながら、シャーマンこと川口茂美少尉のブロマイドもあるのか気になったりします。
>「何はともあれ、おめでとさん!」
管理人も一読者として、この言葉に全面的に賛同させていただきます(笑)。
それにしても、U−2Kさんはラブラブな話を書かせてもイケますね。私も負けずに精進したいと思います。次回作も楽しみにしています。
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