2003年11月30日 0942時 東太平洋海面下

 それは、水圧という自然に対する雌伏の終焉を迎えていた。
 まるで死んだように動かなかったそれが、身体に積もった泥や砂を振り払うように、ゆっくりと浮かび上がり出す。体内に貯め込んだ海水を少しずつ吐き出し、その代わりに空気を新たに貯めながら。
 漆黒――光の届かぬ海中の世界と同じ色――の巨体は、腹を海底から離すと微かに身震いし、前方の空間にある水を押し分けて泳ぎ始めた。身体の尾部にある小さな口――ポンプジェットの噴射口から、圧力をかけられた海水が放出される。
 そのポンプジェット推進の原動力となるのが、高濃縮のウラン235を核分裂させて蒸気タービンを回し、最大4万馬力の出力を絞り出す原子炉である。ただし、今は動き始めなので、モーターと電池で駆動しているが。
 ポンプジェットは、この巨体を音もなく前に進ませる。速力が6ノットまで上がると、ついに原子炉に火が灯る。7ノット……10ノット……15ノット……そして30秒と経たないうちに、25ノットの高速を得た。加速はそこで収まるが、尾ひれ――縦舵を使って体の向きを素早く100度回転させると、内に秘められた素晴らしい能力のひとつ――体のあちこちにある鋭敏な耳が働きを活発化させ、自らの声をどこかに潜んでいるかもしれない相手に全く聞かせることなく、周囲の海中全てに注意力を向ける。
 再び体の中にある海水が減り、空気が増える。同時に横舵が角度を微妙に変えると、巨体は上を向いて、太陽からの光がまだ及ぶ場所へ向かって、静かに、そして速く泳ぐ。
 この人工の巨鯨の名は<ベイオウルフ・π(パイ)>という。Tactics海軍のベイオウルフ級攻撃型原子力潜水艦の3番艦――同海軍において最も新しい原潜である。


 
カノンコンバットONE シャッタードエアー

   
外伝 深海の尖兵



同日 0958時 原子力潜水艦<ベイオウルフ・π>

「フローティング・アンテナ、収納して」
「宜候。フローティング・アンテナ、収納します」
 いかに海中といえども、浅海をうろついているのは潜水艦の秘匿性を保持する上で、とても好ましくない。
 したがって、無線受信という目的を果たすと、通信に使うワイヤー状のフローティング・アンテナをさっさと巻き取り、素早く深海に戻るのが吉である。
「深度300、速力30」
 <ベイオウルフ・π>の発令所で命じたのは、艦長の深山雪見中佐。Tactics海軍で唯一の女性潜水艦艦長である。軽くウェーブのかかったピンク色の髪に、海軍の制帽を乗せている。この若く美しい女性にとって不釣合いな帽子だが、これを被っていること――最新鋭原潜の責任者としての立場そのものが、深山雪見中佐のサブマリナーとしての能力を証明している。
「30ノットですか? もっと遅くても会敵予定時刻には間に合いますが」
「5分前行動よ。もうここは戦場だし、何が起こるかわからないから、余裕はあっても損はしないわ」
 意見具申をする副長に、急ぐ理由と共に自分の決定を示すと、こうつけ加えた。
「遅刻したら、本艦の高性能も全く無意味になるしね」
「ははは、そうですね。確かに良いフネですからなぁ、この<ベイオウルフ・π>は」
 副長の笑いを含んだ返答に、発令所で配置についた全ての乗組員が何かしらの好意的な反応を見せた。
 雪見が、そして乗組員の全員が、自分たちの潜水艦に大きな自信を持っていることの表れだった。

 ベイオウルフ級は、Tactics海軍が世界に誇る攻撃型原潜である。
 4隻が建造に着手され、2003年11月の時点で完成しているのが1番艦<ベイオウルフ・α>、2番艦<ベイオウルフ・ν>、雪見の指揮する3番艦<ベイオウルフ・π>。4番艦の<ベイオウルフ・Ω>はファーバンティの造船所でおよそ70パーセント完成している。
 全長103.7メートル、全幅10.9メートル。水中排水量は7400トン。船体形状は近年の主流である葉巻型である。船殻は単殻式と複殻式の併用で、国内から豊富に産出されるチタンをふんだんに使用した耐圧船殻は極めて高い強度を有し、運用潜航深度は600メートルを超え、1000メートル以上での活動も可能と言われる。
 外見は普通の潜水艦と同じ――葉巻型船体に艦首潜舵、艦尾にも潜舵がある。この艦尾潜舵はオーソドックスな十文字型だが、設計の巧みさからか、水中での小回りも大変によろしい。
 その大きく頑丈な船体の心臓は、4万馬力を発揮する原子炉。取りつけ位置を深慮された免振装置や無音冷却水循環ポンプ、キャビテーションを発生させないポンプジェット推進装置との組み合わせは、最大37ノットの水中速力でも、「ネズミの寝息よりも静か」と称されるほどの静粛性を実現した。
 潜水艦にとっての目であり耳であるソナーは、艦首下部に1基、さらに船体側面下部にフランク・アレイ・ソナー(側面ソナー)を片舷2基ずつ、合計4基を装備している。船体全面には吸音タイルがびっしりと張られており、探知能力を追求すると同時に、静粛性と非発見性も素晴らしいものに仕上がっている。
 では攻撃力はというと、魚雷発射管は艦首上部(ソナーの真上)に口径533ミリのものが7門。上に3門、下に4門と台形を描くように重ねられて配置されている。魚雷搭載数は42本とかなり多い。この内には水中発射型対艦ミサイルも含まれるが、魚雷との比率はミッションによって異なる。
 そして、ソナー類と兵装を、複数のコンピューターを媒体として一元管理する統合戦闘システムも、独自開発で相当に発達したものが用意されている。このシステムと優秀な乗組員の組み合わせは艦に想定された以上の戦闘力を発揮させることができるだろう。
 統合戦闘システムの存在は艦の省力化にもつながり、7400トンの大型潜水艦にもかかわらず、乗員は僅かに68名。それは同時に居住性の向上にも貢献し、全ての乗員に専用の寝台を与えることができた。特に艦長室には小さいシャワー室まで用意されている。これは女性である雪見にはこの上なくありがたい設備で、彼女はその専用シャワーを、この艦で最も重要な設備のひとつと認識していた。
 このようにベイオウルフ級は、攻撃力・速力・静粛性・探知能力・潜航深度とあらゆる点で世界第1級の実力を持つ。無論、これらの性能の大部分は機密のヴェールが被せられて公開されてはいないが、原潜の建造・運用に関して世界で最もノウハウを持ったアメリカ海軍は、ベイオウルフ級の性能をかなり正確に予測していた。
 アメリカはシーウルフ級という、性能だけならベイオウルフ級を上回る潜水艦を建造していたが、これは冷戦の終結により3隻のみの予算が承認された。しかし、Tactics海軍が、現在主力のロサンゼルス級を遥かに超える潜水艦を4隻建造するという情報が入ると、シーウルフ級の追加建造をという声が高まる。
 結局それは(予算の問題から)実現しなかったが、特殊部隊輸送を考慮に入れる設計変更を受けたシーウルフ級3番艦<ジミー・カーター>は、ベイオウルフに対抗すべく当初の計画通り、純粋な攻撃型として完成している。
 アメリカ海軍潜水艦部隊は、これら4隻のベイオウルフに対して、3隻のシーウルフ級と従来のロサンゼルス級、そしてロサンゼルス級の後継として建造中のヴァージニア級――「海から陸への力の投射」を目標とした艦で、沿岸部での活動を前提として静粛性は優れているが、速力・潜航深度は低め――など、量で対抗する方針を採択したのだ。

「通信を解読しました」
 プリンターで印刷された文章は、先ほどフローティング・アンテナで受信し、コンピューターでふるいにかけられた――暗号から普通の文に翻訳された通信文だった。
 そして、識別コードで最終的な確認に入る。
 副長が命令書に書かれた単語の羅列を朗読すると、雪見も自分の首から下げられた今日専用の識別カードに記載された文字を読み上げて副長に続く。
「アルファ、ベータ、アルファ、チャーリー、チャーリー、ベータ、アルファ」
「アルファ、ベータ、アルファ、チャーリー、チャーリー、ベータ、アルファ。合ってるわね」
「同意します」
 これで、電文が友軍――他の潜水艦から発せられたまぎれもない正式のものであることの裏付けが取れた。
「……やっぱり、そうだったのね」
 雪見の口調は、道端に落ちている何の変哲もない石ころを見つめているかのような、つまらなげなものだった。
 だがしかし、彼女の瞳の奥に篭る感情は全く正反対で、それは口元に微かな笑みとなって見え隠れしていた。
「でも、わたしとしてはそれで良かったけど」
 雪見は、今度ははっきりとした笑いを顔に浮かべた。それは美しくもあり、同時に研ぎ澄まされた鋭いナイフのような凄みを含んでいた。

 2003年の7月、Air皇国領内に建造されたストーンヘンジへの侵攻により、後世に「クラナド大陸戦争」と称される大戦争の幕が開いた。
 戦いは現在、Tacticsにとって極めて有利な方向へと進んでいる。ストーンヘンジはそっくりそのまま手に入り、その最大射程1200キロ、口径120センチの牙は抵抗を続けている敵軍を(空陸問わず)食い千切り、引き裂いた。
 Tactics軍はストーンヘンジをバックボーンとして進撃を続け、Air皇国は早々に独立国の資格を失い、またKanon国も完全崩壊には至っていないものの、ほぼ似たような状況に陥っている。なおこの11月末日現在、大陸南東部の戦線はKanonの一大港湾都市にして屈指の軍港でもあるコンベース市まで約100キロに迫っていた。
 陸がこのような状況なら、海もまた同様だった。Tactics海軍第1艦隊――「高槻艦隊」と呼ばれる4万5000トンの戦艦1隻、7万トン超の原子力空母2隻を持つ強力な海上打撃戦力が大陸東海域の制海権を奪いつつあったので、陸海両面から追い詰められたKanon国は風前の灯だった。
 その危機的情勢の中、領土は奪われてもせめて兵力だけは失うまいと、Kanon国防軍は大陸からの撤退を必死になって行っている。彼らの行き先はノースポイント。大陸の北東にあるKanon国の島々だ。そこでKanon国防軍やAir防衛隊などのTacticsと戦っていた勢力の残存はISAF(独立国家連合軍)を結成して将来に希望を繋ごうとしているらしい。
 その「希望」を具現化したものが、Kanon国防海軍――ISAF海軍には存在した。
 その名を<イタル・ヒノウエ>という。全長340メートル、全幅77メートル、満載排水量11万1200トンにも達する、アメリカ海軍の改ニミッツ級をも上回る世界最大の空母、いや軍艦だ。機関は当然のことながら原子力で、定数一杯の艦載機を載せた場合、その戦闘力と続戦能力はTacticsにとって恐るべきものとなる。
 <イタル・ヒノウエ>はコンベースの造船所で建造されていたのだが、就役するよりも早くTactics軍の侵攻が始まったので、未完成の状態であり「運用」されてはいない。しかし、滅びつつある祖国を脱出してノースポイントへと逃れ、そこで完全に使えるようにしようということらしい。
 しかもそれには、ひとつの大きなおまけがついていた。
 空母<スノーシティー>。退役したアメリカ海軍のフォレスタル級空母3番艦<レンジャー>をKanonが購入し、自軍へ編入した艦だ。1957年竣工の古い空母だが、航空機運用能力はニミッツ級と比べてもそんなに劣るものではなく、未だに侮りがたい性能を持つ。
 これまでの戦いで航空戦力の大半を損耗していた<スノーシティー>も、部隊再編のため<イタル・ヒノウエ>と一緒に大陸から引き上げるらしい。
 しかし、それを黙って見逃すほどTactics海軍は甘くはなかった。
 この巨大空母たちが戦力化して、再び自分たちに刃を向ける前に無力化する――沈めるべく、海軍は潜水艦隊をコンベース沖200〜300キロの範囲に展開し、迎撃体勢を迅速に整えたのだ。
 作戦名「サベージ・シャーク(凶暴な鮫)」の発動である。
 だがこの作戦に、不満をあらわにした人物がいる。第1艦隊の司令官、高槻中将だ。
 現在、高槻艦隊は母港のファーバンティに帰港している。開戦初頭に浮かぶ航空基地としての役割を存分に果たし、陸軍の戦いを支援した結果、乗組員やパイロットの疲労がピークに達して帰還命令が下されたのだ。そんな時に、あまりにも魅力的な獲物の2大空母がコンベースから逃げ出す――。
 雪見は敵空母迎撃の命令をファーバンティの海軍総司令部で、潜水艦隊司令長官の小坂由紀子中将から直接受けたが、彼女はその直後、偶然にも高槻と顔を合わせていた。彼は絶好のチャンスを逸した鬱憤を、自分に代わって空母撃沈の任を負った雪見にぶちまけた。
 高槻はまず自分の部下たちのことを、
「根性なしどもめ。奴らが弛んでるから俺は小癪な敵の空母を沈められなくなったんだ」
 と口汚く罵り、さらに雪見にも暴言の矛先を向け、
「はっ! 貴様らドン亀乗りに空母をやれるのかあぁぁっ!?」
 と面罵したのだった。
(「ドン亀」って、一体いつの時代よ。今や原潜はあんたら水上艦よりも早いんだからね)
 雪見はそう反論したかったが、相手の方が4つも階級が上では、どうにもならない。彼女は耐えたが、階級を笠に着た高槻はさらに露骨な嫌味をなすりつけてきた。
 このときばかりは人のできた雪見も、目の前の下衆男に本気で殺意を覚えたものだった。この身勝手で、自己顕示欲だけは旺盛な男の下で命を賭けなければならない第1艦隊の将兵たちに深く同情しつつ……。
(こうなったら、何としてでも<イタル・ヒノウエ>を沈めて、あの男の鼻を明かしてやりたいわね)
 そうしたら、高槻はどんな顔をするのかしら? それを想像すると思わず可笑しくなる。雪見の唇の端が少しだけ持ち上がる。
 しかしその時、彼女ははっとなって表情を引き締めた。自分の個人的な願望と、任務を同一視してしまっている、と。
(いけないわね。少し冷静にならなくちゃ)
 自分の功名や立身出世のために、部下を犠牲にしてはならない。これは雪見が任務を遂行するにあたり、最も戒めている点のひとつである。彼女は部下たちを非常に信頼していた。
 その中でも、信頼度が最高の部下に聞く。
「発令所よりソナー室へ。みさき、何か聞こえる?」
『雪ちゃん? ううん。周りはまだ静かだよ』

 ソナー室からの声はスピーカーを通してもたらされた。ソナー室は発令所のちょうど前方にあり、防音ドアに隔てられているからだ。そこの責任者は雪見と同じように魅力的な女性、川名みさき大尉である。
 雪見の幼なじみであるみさきは、聴音手の頂点――水測長として<ベイオウルフ・π>の探知手段のほとんどを担っている。いわば彼女はこの艦の目と耳の両方なのだ。艦長に勝るとも劣らない極めて重要なポストである。
「そうよね。さっきの通信にあった位置ではもっと遠いみたいだし。あんたの耳でもさすがに無理か」
『うん。もっと耳を済ませてみるよ』
「よろしく、みさき」
 ごくあっさりとした、まるで世間話のようなやり取りだが、声の奥には、互いへの信用と信頼が等分され、高い配合率で含まれていた。ふたりの関係は上官と部下にとどまらず、また単なる幼なじみでもない。それらを凌駕するほどの絆で結ばれた、素晴らしいパートナーなのだった。

 川名みさきは12歳の時、不運な事故によって両眼の視力を完全に失った。闇に包まれた世界で生きていくことを余儀なくされ、そんな現状と未来に絶望した少女は、自らの人生を強制終了させることすら真剣に考えたが、それが実行されることはなかった。
 ある時、自分の境遇を呪うみさきに、幼い頃からの親友、雪見がこう言ったのだ。
「将来、お医者さんがもっと多くの怪我や病気を治せるようになるから。それまではわたしがみさきの手を引っ張って、背中を押してあげるわ」
 この一言が、闇の世界にひとり放り込まれたみさきの、一筋の希望の光となった。そして雪見もこの言葉を忠実に実行した。やがて、みさきは笑顔を取り戻し、もう自ら命を絶とういう考えは起きなくなった。それから、7年の月日が流れた。
 この間の医学の進歩には著しいものがあったらしく、雪見の言葉は現実となった。みさきの目が治せる見込みが出てきたのだ。新しい治療法であるからその分費用も高額となって、川名家の家計をずいぶんと逼迫させたが、雪見はその手術費の一部すら負担し、みさきを精神面・物理面の両方からバックアップしたのだった。
 長い手術を終え、手術室から出て3日後、かくしてみさきは光と影の世界へ帰って来た。7年ぶりに得た視界の中に、最初に現れたのは両親ではなく雪見だった。みさきは誰よりも先に、まずこの素晴らしき親友の成長した姿を瞼に焼きつけ、抱きついて、感謝と喜びの声を張り上げて大泣きしたという。
 こうして不自由ない生活を取り戻すと、今度はみさきの身の振り方が問題となった。周囲は受験勉強と大学への進学を勧めたが、既にこの時、雪見は海軍の軍人を志し、その実現に向けて力を注いでいた。
 みさきはそんな親友の姿を見て、自分を救ってくれた彼女のために何かをしたい。今度は自分が雪見の支えとなって、恩を返したい――という一念を抱くようになる。みさきが雪見と同じ道を歩む決意を固めるのに、そう長い時間は必要としなかった。
 一足先に正規の海軍軍人となった雪見が、現代海軍のエリート――サブマリナーを目指していたのは、みさきと雪見のふたりにとって幸運だったと言えよう。その理由は、目の見えない頃のみさきが社会で生きぬくために、自然的に身につけた能力にあった。
 視覚から情報を得られないのであれば、他の4感――聴覚・嗅覚・触覚・味覚から得なければならない。彼女に残されたこの4感のうち、外部情報の収集に最も適しているのが耳である。彼女の聴覚は闇の世界で鍛えられ、極めて鋭敏になっていたのだ。
 潜水艦における聴音手の役割は、艦長と並んで艦の運命を左右するこの上なく大きいものである。潜水艦は(浮上航行時及び潜望鏡使用時以外は)ソナーのみが情報収集の手段となる。Tactics海軍は、みさきにソナーマンとしてダイヤモンドの原石並みの価値を見出した。
 適切な訓練を受けたみさきは、高カラットのダイヤモンドへと加工された。一方、雪見も努力の末に自力で潜水艦の指揮ができるまでに成長した。こうして後に「海軍潜水艦隊の至宝」とまで称される深山雪見・川名みさきのゴールデン・コンビが誕生したのである。
 関係者たちは雪見の大胆かつ慎重な指揮ぶりに舌を巻き、みさきの超人的な聴力に垂涎をもよおすほどの眼差しを注いだ。事実、ふたりの乗り込む潜水艦は向かうところ敵なしで、旧ソ連製のキロ級ディーゼル潜(当時、退役間際の旧式艦)を使って、原潜の改ドウセイ級2隻を「撃沈」した演習は関係者たちの間で語り草、いや神話となっている。
 こうして実戦に近い訓練で能力を実証したふたりだったが、2003年7月、本当に有能であることを見せつける機会がやってきた。
 大陸戦争開戦の時、彼女たちは通常動力潜水艦の<ドウセイ>を操っていた。そして開戦日の翌日、いきなり大きな戦果を上げる。Air皇国の巡洋艦<カンナ>を撃沈したのだ。
 <カンナ>――1951年にAirへ売却された旧大日本帝国海軍重巡洋艦<利根>は、長らく海防艦隊の旗艦を務め、観艦式の際には皇家のお召し艦となる栄誉を受けた文字通りAir海防隊の象徴的存在だった。それを単艦で襲撃し、舷側に2本の533ミリ魚雷を命中させたのだ。
 1940年に完成したこの旧式艦は、第2次大戦時とは比較にならない威力の炸薬を載せた2本の魚雷のダメージに耐えることはできなかった。命中から20分後、<カンナ>は横転沈没し、雪見たちの<ドウセイ>も敵の対潜攻撃をかいくぐって無事に逃げおおせた。
 その後帰還するまでの間に、KanonとAirの商船を数隻沈めた雪見とみさきを待っていたのは、完成したばかりの最新鋭原潜<ベイオウルフ・π>への転属――栄転だった。<カンナ>撃沈は、Air海防隊をして国家崩壊までの間、艦隊温存主義にさせて活発な活動を封じ込めた。Tactics海軍はその功績に報い、まだ若い彼女たちに新型原潜を預けたのだ。そして約3ヶ月の慣熟訓練を終え、ファーバンティに帰港したばかりのところへもたらされた命令が、サベージ・シャーク作戦への参加だった。
 雪見は(高槻に散々なことを言われつつも)休養もそこそこに、兵装を満載した<ベイオウルフ・π>を指揮して、大急ぎで割り当てられた海域に到達したのだ。

 もうすぐ訪れるだろう戦いへの緊張感で、命令の伝達や復唱など、最低限の音しか立たない発令所。そこの静寂を破ったのは、みさきの新たな報告だった。
『ソナー室より発令所へ。ソナーに感。9時の方向に2つ……』
「敵? それとも味方?」
『音紋確認。左に2隻、改ドウセイ級。いずれも友軍だよ』 
 みさきの言うドウセイ級とは、ベイオウルフ級より1〜2世代前の潜水艦である。比較的新しいクラスで、ベイオウルフ級の竣工まではTactics海軍潜水艦隊の主力として活躍した。合計6隻建造されたが、前期型――ネームシップの<ドウセイ>(前までのふたりの乗艦だった艦)、2番艦<メグミ・サエキ>、3番艦<トモミ・サカモト>、4番艦<リエ・ササキ>はディーゼル機関の通常動力潜で、全長83メートル、水中排水量3100トン。
 しかし改ドウセイ級として分類される残りの後期型2隻――5番艦<マナミ・ミナセ>と6番艦<マサキ・ヤマダ>は1万6000馬力の原子炉を備える原潜であり(訓練で雪見たちに「撃沈」された経験もあるが)、はっきり言って「改」などとは呼べないほど変化している。原子炉を載せたため全長が90メートルに伸び、水中排水量も900トン増加して4000トンとなっている。なお、この2隻がベイオウルフ級の技術的基礎となり、その意味でもTactics潜水艦隊の功労者と言える。
「了解。ほぼ予定通りの時間ね……こっちにも出たわ。みさき、ありがと」
 統合戦闘システムは、ソナーが得た情報を、コンピューターを媒体として発令所のモニターに映し出す。それはレーダーの画面のように明快なものである。
 このように、雪見はあえてみさきから報告を受けずとも、正確な外部状況を解り易い形で得ることができるのだが、彼女はみさきに必ず聞く。雪見がみさきの聴力、そして彼女の存在そのものをこの上なく信頼している証左だ。
 実際、発令所のモニターに味方潜水艦が表示されたのは、みさきの報告から10秒後のことだった。この10秒の差は、戦闘において生死を分けるかもしれない。
 さらに、みさきからの報告が続く。
『ソナーに新たな感あり! 方位10時、多数のスクリュー音。3、4、5隻――ううん、それ以上。うち2隻は……4軸推進の大型艦! 輪陣形を組んで16ノットで北東へ向かってるよ!』
 これも10秒近く遅れて、発令所のモニターに反映される。今度映し出されたそれは、壮観の一言に尽きた。中央に2隻の4軸推進艦があり、その2隻を10隻は優に越える数の駆逐艦・フリゲート艦がぐるりと円状に取り囲んでいる。こんなに厳重な対潜警戒は珍しい。となると、これが――。
「間違いないわね。これで役者が揃ったわ!」
 雪見はモニターから視線を外し、自分の傍らに、今回特別にあつらえた椅子に座っている小柄な人物――私服で、頭に大きなリボンをつけている――に顔を向けると、これまでの堂々な態度を一変させて申し訳なさそうに言った。
「悪いわね、上月さん。民間人のあなたを実戦に巻き込んじゃうことになるわ」
 すると、上月さんと呼ばれた彼女は、膝に乗せていたスケッチブックを開くと、女の子らしい丁寧で可愛らしい文字を書き、こう語った。
『あのね、気にしないで欲しいの』
 その発言(口から出たわけではないが)とは裏腹に、彼女の表情は不安、いやそれを超えて恐怖に近くなっていたが、それでも雪見に笑みを見せてくれた。
 彼女の名は上月澪。<ベイオウルフ・π>の乗員でもなければ、ましてや軍人ですらない。一介の新聞記者だった。

「運命」と言う表現が陳腐に感じられるほど劇的な人生を経てサブマリナーになった雪見とみさき。
 一方、今回臨時に乗り込んだ、現在<ベイオウルフ・π>に乗る3人の女性のうちのひとり――上月澪記者も、世話になっているふたりには劣るかもしれないが、それなりに数奇な道を歩んできている。
 澪は言葉を話せない。彼女は生まれついて声を出す能力を失ってしまっていた。そんな澪は他人とのコミュニケーションが上手く取れないこともあり、社交的な女の子ではなかった。人と話せない自分に悲しくなり、とかく塞ぎ込んでいたことも多かった。
 しかしある日、公園でひとりの男の子と出逢ったことが、彼女の運命を変えた。彼から貸し出された1冊のスケッチブックと1セットのクレヨンが、澪に「感情を表現する」ことを可能にさせたのである。
 その後、澪は自らのハンディキャップを感じさせないほど明るく前向きな女の子になった。1週間という期限つきで名も知らぬ男の子から貸してもらったスケッチブックは、現在もなお澪の手元で大切にされている。その男の子は、澪の前に2度と姿を現すことはなかったのだった。
 こうして生まれ変わった澪は、平穏無事に日常を過ごし大人に成長したが、彼女が社会人になるにあたり選択した職業とは、新聞記者だった。「表現できる」ことの素晴らしさを実感していたゆえの決断だった。
 声の変わりにスケッチブックへ書いた文字で意思疎通を――筆談をしていた彼女の文章力は、自分でも知らないうちに世間の平均を大きく上回っていたから、国内最大の新聞社であるファーバンティタイムズ社への入社が叶った。こうして自分の望む道を歩み出したのだが、それは同時に上月澪の(限定的ながら)不幸の始まりでもあった。
 入社してから少しの記者経験を経て、仕事にも慣れてきた2003年7月、戦争が勃発した。当然のことながら、澪も戦争の記事を書かなくてはならなくなったが、彼女はそれを(表には出せないものの)嫌がった。澪は戦争を好まない平和主義者だった(国防を否定するほど偏狭ではないが)。
 しかし、ここまではまだ「不幸」というほどでもない。本当の意味でのそれは、戦争勃発から4ヵ月後にやってきた。
 潜水艦への搭乗取材を命じられたのである。しかも、敵艦隊への襲撃を前提として作戦行動を開始する最新鋭原潜<ベイオウルフ・π>へ。澪はよりにもよって、嫌いな戦争の中心へとその身を投じなければならなくなったのだ。
 元々臆病な性格で、暗がりを極端に怖がる澪にとって、潜水艦の艦内は真夜中の校舎を上回る恐怖の場所だった。水圧で船殻が軋むたびに肩を震わせ、傾くたびにバランスを崩して転びかける。時折聞こえる鯨やイルカなど、海生動物の鳴き声は亡霊の叫びに等しい効果を小柄な新聞記者にもたらした。
 そのような苛酷な中に救いを見出すとすれば、乗員はみな親切で気持ちの良い連中だったことだろう。彼らは澪に様々な便宜を図り、彼女に大きな不便をさせなかったが、その中でも、深山雪見と川名みさきのふたりは、同じ女性ということもあり、特に親切にしてくれた。
 潜水艦勤務は海軍の中でも最も悪条件と言われ、サブマリナー徽章を持つ者は、それだけで尊敬の対象となる。当然、これを与えられる者は厳しい訓練と試験で勝ち残った「選ばれし者」、いわゆるエリートなのだ。
 一方、選ばれたどころか全くの素人である澪が今の潜水艦生活にどうにか耐えていられるのは、雪見から艦長室のシャワーを貸してもらったり(これはみさきも同様)、みさきと様々な会話をしたりと、このような親しい関係を結べたことが大きい。このふたりの年上の女性は、澪にとって頼れて甘えられる「姉」のような存在なのだった。
 雪見とみさきも姉のように振るまい、またそうすることが澪にとって(この状況下において)最も幸せだと判断していた。もっとも打算などなくとも、ふたりは澪に大きな好感を持っていたからそうしているのだが。
「そろそろシートベルトを締めて。何だか拘束するようで悪いけど、潜水艦の動きは飛行機に近いから、ね」
『あのね、邪魔にはなりたくないから、大丈夫なの』
 スケッチブックを掲げながら、にっこりと笑う澪の様子を見ていると、やはり彼女は無理をしていることが窺える。
(まさか……彼女は声を出せないから潜水艦取材なんてさせられてるのかしら?)
 正直、自分が指揮に没頭しているとき「外野」からとやかく言われたくはないし、戦闘中にパニックに陥って騒がれても気が削がれるだけだ。しかし、不謹慎な考えになるが、澪に関しては少なくとも、叫んで発令所の面々を困らせることはない。
 ともかく申し訳ないとは思うが、潜水艦については素人の澪には、自分のような専門家の指示に従ってもらうしかない。また澪は素直な女性だったので、自分がどんな立場にあるのかをよく理解していた。
『こっちは気にしないで、頑張って欲しいの』
 澪の健気な笑顔が、発令所の中に咲いた。

 上月澪記者が戦争の洗礼を受けようとしているのは、ISAFとTacticsという狸と狐の化かし合いにおいて、Tactics側が少しばかり不覚を取っていたからである。
 Tactics潜水艦によるISAF空母襲撃作戦「サベージ・シャーク」は成功した……はずだった。少なくとも、先ほど通信を受ける前までは。
 コンベース沖で網を張っていた潜水艦の1隻――ベイオウルフ級の2番艦<ベイオウルフ・ν>が、<イタル・ヒノウエ>を撃沈したとの「勝利宣言」が通信室にもたらされたのが、昨日11月29日の2137時。しかし、それに添付されていた敵艦隊の編成と戦闘詳報に、雪見は不信感を抱いた。
 <ベイオウルフ・ν>は、単艦で襲撃したそうだが、そのISAF艦隊は<イタル・ヒノウエ>と思しき空母以外には、護衛艦が僅かに6隻しかついていなかったという。しかも、同じ艦隊に編入されたという話のある<スノーシティー>の姿は、どこにもなかったらしい。
 現在のISAF海軍――その中核を成すKanon国防海軍には、曲がりなりにも3隻の空母が存在する。まず先日までTacticsをそれなりに困らせていた<スノーシティー>。次に未完成だが、完成すれば極めて大きな脅威になるだろう<イタル・ヒノウエ>。そしてもう1隻、<スノーシティー>を導入したため、退役となった旧<イタル・ヒノウエ>――元大日本帝国海軍の<生駒>、現在は艦名なし――だ。
 もしかしたら、<ベイオウルフ・ν>が撃沈したと言うのは囮で、その正体は、今は名無しの古い<イタル・ヒノウエ>かもしれない――。
 そう分析した雪見は、まだこの海域に留まると同時に、近くにいる友軍潜水艦――<マナミ・ミナセ>と<マサキ・ヤマダ>の2隻の原潜にその意思を告げ、2艦の艦長もそれに加わった。
 それから12時間ほどが経過し、<マナミ・ミナセ>からもたらされた通信文(先ほど受信したものだ)は、雪見の勘が正しかったことを証明した。<マナミ・ミナセ>のソナーが、大規模な艦隊が移動する音を捉えたのだ。これで雪見たちの行動は決定した。<ベイオウルフ・π>は、<マナミ・ミナセ><マサキ・ヤマダ>と協同して、すなわち群狼戦術(ウルフ・パック)を持ってISAF艦隊を襲撃、「本物」の<イタル・ヒノウエ>を討ち取るのだ。

 これで、僚艦との合流を果たした。後は攻撃行動に移るのみだ。
 襲撃の方法も既に決めてある。それを忠実に実行するため、海面近くまで浮上した後、雪見は命令を下した。
「発令所より魚雷室へ。1番から7番、対艦ミサイル装填」
『魚雷室より発令所へ。1番から7番、対艦ミサイル。宜候』
 雪見の命令は、艦首の魚雷室において直ちに成された。7門の魚雷発射管に、カプセルに包まれた国産の対艦ミサイルSSM−92B(水中発射型)が、魚雷庫から伸ばされたガイドレールの中を通って装填される。その間、人の力は一切必要とされない。装填作業はほとんど自動化されているのだ(ただし、各部のチェックや機械故障に備えて、常時7名――1門につき1名の操作員が配置についているが)。
 10秒でミサイルは発射管に挿入され、その後5秒でハッチが閉じられ、さらにその後の15秒で発射管に海水が充填されて、ミサイルの発射準備が終わる。作業の開始から終了まで30秒、実に素早い。この装填速度の早さも<ベイオウルフ・π>の強みである。
『全門発射準備完了。いつでもいけます』
 目標までの推定距離はおよそ15キロ。ミサイルを発射してすぐに(改ドウセイ級の速力32ノットに合わせて)突撃すれば、約15分で目標に肉迫できる。これ以上近いと発射前に発見される恐れがあり、遠いとミサイル発射と攻撃点への到達のタイムラグが大き過ぎ、敵に立ち直る余裕を与えてしまう。
(まぁ、わたしたちが先行すれば良いだけだしね)
 37ノットの<ベイオウルフ・π>ならば、12分もあれば15キロの距離を走り切ることができる。それを考慮に入れ、雪見は決断した。
「1番から7番、発射! 続けて全門に対艦ミサイル装填、完了次第発射! 機関前進全速、第2撃発射後に急速潜行、深度200!」
 直後、ミサイルのカプセルは水圧の力で発射管外に押し出され、また原子炉での核分裂反応がにわかに活発化し、4万馬力の出力で艦を勢い良く加速させた。
 これまで一応は平和だった東太平洋のこの一角は、急速に混乱と破壊と恐怖の巷に変わろうとしている。


同日 1023時 東太平洋海面上

 カプセルは、頭を上にして浮き上がるように設計されている。発射管から踊り出た7本のカプセルは、垂直に近い角度になって浮上する。間もなく水面上にジャンプするかのごとく浮上を果たすと、鉈を振るわれた竹よろしく、真ん中から縦に、綺麗に分離する。
 すると中から現れたのは禍々しいハイテクのかぐや姫――SSM−92B対艦ミサイルで、それは海面上から完全に飛び出すと、3ヶ所それぞれ4枚ある羽根を開いて安定性を得ると同時に、ロケットブースターに点火、これまで自分を保護してくれたカプセルを吹き飛ばして高度を得ようと叫ぶ。
 あいにく、開発者から彼らに与えられた信頼性は高く、全員が海面に激突する危険性から脱した。一度高度を落として海面すれすれで水平飛行に転じたミサイルたちは、役割を終えたブースターを放り捨てると、体内のターボジェットエンジンを起動させて巡航を始める。
 これら一連の、恐ろしくもあり爽快な光景は、Tactics潜水艦の潜むいくつかの場所で同時多発的に起こっていた。群狼戦術の前にミサイル飽和攻撃で敵を混乱させ、襲撃を容易にするためだ。
 あらかじめ設定された場所――敵機動部隊の存在する海域を目指して一目散に飛ぶ彼らは、迂回コースを取るといった面倒なことはしない。ただ、それぞれが一定の間隔を保って秩序だった飛行をし、最終的には敵艦隊を包み込むようにプログラムされている。
 彼らが、このサベージ・シャーク作戦の一番槍――それも、とてつもなく長い槍――なのだ。

 Tactics潜水艦隊から発射された対艦ミサイルは、合計で26発(<ベイオウルフ・π>が2斉射14発、<マナミ・ミナセ>と<マサキ・ヤマダ>がそれぞれ1斉射6発ずつ)。これらの標的となったISAFとて、全く警戒していたわけではない。ミサイルは海面上に飛び出した直後から、彼らのレーダーに捉えられていた。迎撃態勢を整えた護衛艦艇からシースパロー艦対空ミサイルが発射されたのが補足から20秒後、その10秒後には艦載砲が叫び始めた。
 だが、ISAFは確実に浮き足立っていたので、対応の早さは個艦で差が生じている。自分たちの目と鼻の先から、いきなりミサイルが現れたのだから無理もない。それでも、卓越した防空能力を持つイージス艦があれば全てを叩き墜とすことが可能だったかもしれないが、不幸にも今のISAFにイージスはない。
 ミサイルはシースパロー艦対空ミサイルで6発、艦砲で3発、そして艦を守る最後の盾、CIWS――近接防空火器により3発が失われた。さらにチャフで正確な誘導を拒まれたのが4発ある。しかしそこまでがISAF艦隊の限界だった。最終的に10発が、発射されてからおよそ1分後に目標へと突入、250キロの弾頭が正確に作動して、彼らは義務を果たした。
 平甲板の船体の上に、細長い箱を乗せただけのようなフリゲートから紅蓮の炎が噴き出し、その箱型の艦上構造物の一部が抉られたように消失する。ミサイルがホップアップし、前甲板に配置された12.7センチ単装砲塔を真上から痛打された駆逐艦が、命中の直後に艦首をへし折られる。砲塔直下にあった弾薬庫が誘爆し、自らの船体をふたつに分断したのだ。
 またそこまで瞬時に破壊されなくとも、火のついたロケットモーターの燃料を浴びて燃え出す艦もある。このまま鎮火できなければ戦闘力を失い、やがては搭載する弾薬にも火が回り、自分を引き裂くだろう。
 このように護衛艦たちが甚大な被害を蒙っている中でも、2隻の空母は無傷だった。<イタル・ヒノウエ>は11万トンの巨艦だが、ステルス艦であるためレーダーに映りにくく、それでミサイルを誤魔化せたのだ。一方、レーダー反射率が最も大きい<スノーシティー>は護衛艦の奮闘と自らの防御火器で難を逃れた。
 もっとも、空母のような大型艦に1、2発のミサイルが命中したところで沈むという事態はまず考えられない。雪見たちもそんな僥倖にははなから期待などしていない。これらを確実に撃沈するには、魚雷を舷側なり船底なりに叩きつけ、海水の通る穴を開けてやらねばならない。ミサイルでの先制攻撃は、あくまでもその作業の邪魔をする護衛艦艇を少しでも減らすためだ。
 そして、このミサイル攻撃は、雪見たちのほぼ期待通りの効果をもたらした。6隻の艦が撃沈もしくは戦闘不能に陥ったのだ。さらに数隻が戦闘を離れ、沈む艦の乗員救助に拘束されるだろうから、これでTactics原潜3隻の敵艦隊輪陣形への接近は、攻撃前より容易になった。
 しかし、それはあくまでも比較に過ぎない。この奇襲で敵潜水艦の存在を確実に察知したISAF艦が、刀――対潜兵器を鞘から抜き払い、狼藉者を切り捨てて主君である空母を守ろうと、闘志をみなぎらせているのもまた確実だったのだ。


同日 1035時 原子力潜水艦<ベイオウルフ・π>

「みさき、全周囲に耳を澄ませといてね。ここはもう敵の本陣なんだから」
『うん』
 ミサイル発射からおよそ12分後、200メートルの深度を15ノットの低速で進む<ベイオウルフ・π>の艦内で、小声でごく短い会話が交わされた。状況は雪見の告げた通り、彼女たちの潜水艦はミサイルの2斉射の後に全速で敵艦隊に接近し、その下に潜り込んで空母を雷撃する機会を窺っている。
 みさきの返答は明確かつ簡潔だった。彼女は水上艦の動きだけでなく、もしかしたらいるかもしれない敵潜水艦を聴き逃すまいと全神経を左右ふたつの耳に集約している。余計な言葉を紡いで集中力を削ぐことはしない。
 そんなみさきに導かれ、<ベイオウルフ・π>はゆっくりと海水を掻き分ける。いくら<ベイオウルフ・π>が静粛性に優れていても、出力を全開にしていれば騒音はどうしても出てしまう。それで発見されては元も子もない。とにかく敵の混乱につけ込んで、首尾良く<イタル・ヒノウエ>と余裕があれば<スノーシティー>に引導を渡さなければならない。
『周囲に潜水艦の存在は確認できないよ』
「そう、なら良かったわ」
 みさきからの報告に、雪見は顔を僅かに安堵へと変化させて、これまた安堵の滲んだ声で答えた。
 最良の対潜兵器は潜水艦だ。ISAFはTacticsのように原潜を保有してはいないが、通常動力潜水艦は静かなことで知られ、<ベイオウルフ・π>にとって大きな脅威になり得る。それがいないのだから、仕事は最悪の想定よりもだいぶやり易くなる。
(後は、水上艦の反撃を――)
 そう考えた瞬間だった。みさきが極めて冷静な声で、実に厄介なことが外部で起こったことを伝えてきた。それは雪見の思考と全く合致していた。
『アスロック着水音、ひとつ、ふたつ……4本を確認』
 アスロック対戦ロケット弾。対潜誘導短魚雷をブースターで投射する兵器である。基本的に無誘導で、投射距離はブースターの切り離しで調整するが、VLSから発射され、姿勢制御機能を持ったものもある。果たしてどちらのタイプが<ベイオウルフ・π>を刺し貫こうとしているのかはわからないが、切り離された短魚雷はパラシュートを開いて静かに着水する。みさきが聴いたのはその音だった。
「機関停止、無音」
 パッシブ・アクティブを併用して敵潜の捜索モードに入るアスロック。海面は阿鼻叫喚、対艦ミサイルを食らって沈む艦、それらから脱出した乗員を助けようとしている艦、さらには自分たちをこんな目に合わせた憎き敵潜に報復しようと駆け回る艦で、騒音に満ちている。アスロックは敵を求めて水中をうろつきながら、しきりに探信音を放っている。
(上がこの状況だから、アスロックの耳を狂わせてくれるかも……。後は、こっちから音を出さなければ、逃げられるかしら?)
 だが一方で、敵がアスロックを発射し、さほど遠くない場所に着水させたということは、自分たちの位置が知られていることを意味する。いかに誘導魚雷といえども、当てずっぽうに放って命中するほど都合良くはできていない。
 吸音タイルを貼りつけた<ベイオウルフ・π>の船体が超音波で叩かれ、溜息の音ひとつ漏らすまいと努力している乗員たちの不安をかき立てる。そして、アスロックは彼らの希望を実現させないくらい賢かった。ピン(探信音)の間隔が、徐々に短くなっていく。
「雪ちゃん、捕まったよ! こっちに来るのは2本」
「機関全開。前部バラストタンク注水、トリムダウン30!」
 軽く舌打ちをしながら、即座に命じる。捕捉された以上、いくら静かに身を潜めていても無駄だ。
「宜候。機関全開。トリムダウン30」
 反応は早かった。人も、艦も。
 雪見の命令と同時に操舵手は操縦桿(ジェット旅客機と同じ形式のもの)をぐっと押し込むと、前部の潜舵が下向きに、後部のそれは上向きになる。また第1メインバラストタンクが海水を急速に飲み込み、艦首を重くした。原子炉の吹き上がりも迅速で、<ベイオウルフ・π>に膨大な推進力を供給し、水圧がますます厳しくなる世界に向かわせる。
 こうして敵魚雷への対策を整えるが、もちろん雪見はそれだけで満足した訳ではない。万一に備えるため、能動的な回避方法も準備しておく。
「デコイ(囮魚雷)、ノイズメーカーを用意して」
「いつでも射出できます、艦長」
 雪見の言葉は優秀な乗員たちによって素早く実現される。こうして68名が文字通り一体となって生き延びる努力を図っている間にも、アスロックのピンは大きく、短くなっていく。いくら吸音タイルを全身に纏っているといっても、音の反射率を0パーセントにすることは不可能だった。
『本数2、雷速50ノット。距離は500……450……400……』
 みさきが敵魚雷の動向を逐一教えてくれる。機関の推進力と自艦の重みで<ベイオウルフ・π>は最速を上回る40ノット近い速力を出しているが、それでも相手の方が10ノットは速い。
 前に大きく傾いた発令所の中、雪見は転倒を避けるため潜望鏡につかまりながら、同乗している新聞記者の上月澪を見やる。特設の椅子に(床に放り出されないように)固定された彼女は気の毒なほどに青ざめていた。
「上月さん」
 いきなり声をかけられた澪は、ビクッ、と身を震わせると恐る恐る雪見に顔を向けた。
「……」
 彼女は声を出せない。が、その純真な瞳が口ほどにものを語っている。『怖いの。命中したらどうなるの?』と。
「大丈夫よ」
 潜望鏡につかまった不自然な体勢のまま、雪見は泣きじゃくる子供をあやすような口調と気持ちで言った。
「この艦は絶対にやられないから。わたしが艦長をして、みさきが耳になってるんだから。それでわたしたちのコンビは海軍でもちょっとした有名人なのよ。だから、上月さんは何も心配しなくても、大丈夫」
 まだ顔は引きつっていたが、澪はどうにか笑い顔を見せると、大きなリボンを揺らして何度も頷いた。
(健気ね……)
 上月さんも不運よね。いくら仕事とはいえ、こんな狭い所で、いきなり実戦を経験するなんて……。でも、不運以上には――悲劇のヒロインにはさせないわ。それに、わたしもみさきもそんなのにはなりたくないしね。
『距離300を切ったよ。さらに接近中』
 敵魚雷のピンが<ベイオウルフ・π>を乱打する。そこからも、ますます近づいていることが理解できる。ここで雪見は次なる1手を打った。
「面舵一杯。デコイ1番、10秒後に発射 2番はそれから5秒後」
 深海へ向けて進みつつも、艦首が大きく右に振られる。ベイオウルフ級の舵の効きは良い。すぐに急旋回を始める。そうして反対側にデコイを放ち、艦の進路とは逆の方向にアスロックを逸らそうという魂胆だ。引っかかってくれるかどうかは、やってみないとわからないが……。
『魚雷、本艦を追尾中! 距離250、続けて1本、270!』
「全員何かにつかまって! デコイ1番、射出!」
 命令は間髪入れずに実行された。艦尾付近から、魚雷と良く似た(サイズは小さいが)物体がひとつ飛び出すと、自らの小さい存在を誇張するように雑音を周囲にばら撒く。デコイは母艦から急速に離れつつ、母艦を追っていた対潜魚雷に正対するような機動をする。
「デコイ2番、射出! 来るわよ!」
『距離220! あっ、かかったよ!』
 そしてデコイは、わが身を呈して<ベイオウルフ・π>を守った。1発目も、2発目も。
 デコイと敵魚雷が接触すると、真っ暗な水中に紅い光の花が2輪、一瞬だけ咲く。すると周囲の水圧が激変した。
 鼓膜を破らんばかりの轟音。続けて水中衝撃波が<ベイオウルフ・π>に叩きつけられる。アスロックの本体、Mk46Mob5短魚雷の炸薬は45キロと少なめだが、それが2本、艦からそう離れていない所で爆発したのだから、水中排水量7400トンの巨体すら今にも破壊されるのではないかと錯覚するほどに振り回される。まるで直下型大地震に晒されているようで、生きた心地がしない。良く訓練を受けた雪見ですらそう感じるのだから、澪は一体どうなっているのだろうか?
 潜望鏡にしがみつき激震に対抗しながら、横目でちらりと澪を観察すると、案の定だった。身体はシートベルトで固定されているから床に叩きつけられることはないが、激しく揺れているので頭だけがぶんぶんと振られ、涙の飛沫が四方八方に飛び散る。もし彼女が声を出せていたら、恐怖を示す大声を張り上げていただろう。
 やがて、振動が終息すると、澪は目を回して完全に気を失っていた。雪見は安堵の溜息を吐いて敵魚雷の回避を内心で喜ぶと、澪を介抱するため彼女の肩を抱いて軽く揺さぶった。そうしながら、命じる。
「機関中速。トリムアップ20。浮上、深度30。今度はこっちの番、射点につけるわよ」
 目を覚ました澪は、またも泣きじゃくりながら、雪見の胸にしっかりと抱きついた。
 澪をなだめながらも適切な指示を出すのは面倒なことだったが、雪見はそれを嫌だとは感じなかった。彼女は(みさきとの関係からもわかる通り)面倒見の良い女性で、指揮官として必要な条件を天性から満たしているのだった。

 一気に浮上に移った<ベイオウルフ・π>だが、この艦なら深度400メートルからでも雷撃が可能だ。しかし、先ほどのように対潜魚雷の危険な嫌がらせを受けていたら、落ち着いて雷撃などできない。
 そこで、未だに騒音が激しい浅深度まで浮上して、その音のヴェールで自らを隠すのだ。だが同時に、それは自らの耳も麻痺する領域に入ることを意味するのだが、雪見には勝算があった。世界一(と彼女は信頼している)の聴音手、川名みさきの聴力と、そして……。
「深度15でトリム水平。潜望鏡用意」
 雪見は、自らの目で狙いをつけて、雷撃を敢行しようとしていた。第2次大戦以来、ソナーと誘導魚雷の進歩によって忘れ去られた戦術、直接照準雷撃である。
 敵艦隊の大まかな配置は、みさきが掴んでいる。後は実際に潜望鏡で細かい確認をすれば――。
 <ベイオウルフ・π>は、雪見の意図を実現させるためにジェット水流を活発に噴き出しつつ、上に向かう。深度が浅くなるに従い、聞こえてくる騒音が大きくなってきた。敵艦のスクリュー音、対潜ロケット弾の着水音。
 ひときわ大きいのは、味方潜水艦の魚雷が敵艦の舷側を抉って炸裂した音だろうか。衝撃波が彼女の艦の船殻をビリビリと震わせる。直後、何かを引き裂く悲鳴のような金属音。被雷した艦のキールがへし折れ、船体が真っ二つに分断されたのかもしれない。
 その狂乱の海を駆ける<ベイオウルフ・π>は、艦長の冷静な指揮操艦と幸運に恵まれ、敵に気づかれることなく所定の場所に達した。
「深度15です、艦長」
「潜望鏡上げ! それと、艦長より魚雷室へ。1番、2番、3番発射管は有線。4番、5番、6番、7番は無誘導装填。急いで!」
 この時点で、雪見は雷撃方針を最終的に決定した。やはり直接照準を行い、艦首を敵艦に指向する。有線誘導魚雷はそれができない場合の保険だ。
 魚雷は装填装置により、迅速に管内に収められ、海水が入って泳ぎだす準備が整う。それと相前後して、潜望鏡が水面上に突き出される。
 これから雪見が使おうとしているこの潜望鏡は、非貫通型のものだ。従来のように、船殻を貫通して直接画像を得るものではなく、先端のカメラが捉えた光景は電子機器によって映像に変換され、艦内に送られる。耐圧船殻に大きな穴を開けないで済むので、貫通式に比べて損傷に強いなど、様々な利点がある。
 ともかく、これで雪見は外部の状況を直に確認することができた訳だが、彼女の頭上約15メートルで展開されている光景は、彼女をして思わずこう呟かせていた。
「凄いチャンスね」
 あくまでも穏やかな口調だが、静粛性を追求される潜水艦の中でなければ、歓声を上げていたかもしれない。
 狭い視界の中に映るのは、2隻の巨艦。手前に見えるのも奥にあるのも良く似ている――平べったい甲板に、小さな箱が載っているが、雪見はそれらを見分けるため敵の艦影識別表をすっかり暗記していた。
 手前は<スノーシティー>。煙突と一体化した艦橋が艦のほぼ中央部にあるのが特徴だ。1950年代に登場した古い艦だから、もう見慣れている。そして奥の方は……艦の後ろ寄りにある長方形に近い台形の艦橋、実にすっきりとして突起物があまり目立たない外観は、明らかにステルスを意識している。Kanonの誇る世界最大の原子力空母<イタル・ヒノウエ>だ。
 もっとも、もし仮に潜望鏡深度にあらず、雪見が敵を目視できなかったとしても、艦の耳たる川名みさき水測長が両者の違い――キャビテーション・ノイズの差異を明らかにして、それを雪見に教えているだろう。いや、雪見が潜望鏡を覗いていても、みさきは律儀に報告してきた。
『10時の方向に<スノーシティー>、距離2700。その奥正面<イタル・ヒノウエ>、距離3000だよ。雪ちゃん!』
「わかってるわよ」
 みさきもこの絶好の好機を逃したくないらしい。興奮の混じった声で雪見を促す。
 一方、雪見も気持ちは同じだが、艦長たる彼女はひとつの選択を迫られていた。
 一体、どちらの艦を狙うのか――。
 手前の<スノーシティー>なら、距離が近いから当て易いし、艦齢も古いから沈めるのも容易だろう。とは言うものの、これまでの戦いで艦載機の大半を失っている。飛行機のない空母に意味などない。囮ぐらいには使えるだろうが……。
 飛行機がないのは、奥の<イタル・ヒノウエ>も同じなのだが、こちらはまだ完成すらしていない新し過ぎる空母だ。その価値は<スノーシティー>とは比較にならない。まだ戦争は終わっていないから、艦載機を満載して戦場に出てくる前にこいつを殺れれば……。
 かくして、将来のシーパワーバランスは、片側のみに分銅を乗せられた天秤のように、Tactics側に大きく傾くだろう。
『雪ちゃん! どうするの!?』
 珍しくもみさきが荒々しい声で雪見を急かした。そして雪見も迷うのを止めた。とても単純な回答が、彼女の頭脳からはじき出され、口から実行力の伴う命令となって発せられた。
「1番から3番<スノーシティー>。4番から7番<イタル・ヒノウエ>。用意――」
 すなわち、雪見は両方を一度に仕留めようとしたのだ。
 顔を潜望鏡に押しつけたまま、大きく息を吸い、止めた。そして彼女の闘志はたったひとつの短い言葉となって、一気に吐き出された。
「射えっ!!」

 7本の魚雷は、間隔を空けずに飛び出し、最初で最後の航海を開始した。雷速は瞬く間に70ノットに達し、一番遠い<イタル・ヒノウエ>まで3000メートルであるから、最大でも僅か90秒ほどの航海である。
 発射された7本のうち、3本――艦の軸線上にいない<スノーシティー>に向かうのは有線誘導で、残りの4本――真正面にいる<イタル・ヒノウエ>を直接目指すのは無誘導魚雷。艦長の腕前によって命中が決まる、この場合は雪見の真の実力をはっきりとさせる単純な魚雷だ。
 全部を誘導魚雷にすれば、ふたつの目標を同時に食える可能性は飛躍的に高まるだろう。が、有線誘導はワイヤーを引っ張って魚雷が泳ぐ。敵艦を始めとして、あらゆる障害物が浮沈する混沌の海で、ワイヤーが途中で絡まったりでもしたら、絶好の射点につけるためこれまで払ってきた努力が水の(海水の)泡となる。
 かといって、音響誘導も難しかった。慌てた敵がむやみやたらに走り回り、手当たり次第に対潜魚雷や爆雷を放り込んでいるのだから、魚雷のソナーも狂わされる。ましてや<イタル・ヒノウエ>は全貌がまだ掴めてはいない新型、正確な命中を期すには音響データが少な過ぎた。だから雪見は自分の腕に賭けたのだった。
「命中まで60秒」
 ごくり、と唾を飲み込む。あと1分我慢すれば、獲物を仕留めた瞬間を見届けることができる。しかし、敵が潜望鏡を発見して、速射砲を撃ち込んできたら……。潜望鏡には電波吸収剤が塗りたくられてレーダーに掛かりにくいが、目でははっきりと見える。
 願望と恐怖が入り混じる中でも、時間は確実に過ぎてゆく。命中までのカウントダウンがそれを雪見に教えるが、彼女は表情にこそ出さないものの、現状にどうしようもない苛立ちを感じていた。
(ああもう長いわね! まだなのっ!?)
 心の中でそう叫ぶが、それで時間が早く流れる訳でも、雷速が増す訳でもない。こうなると雪見も一傍観者に過ぎない。とにかく待つ。自分の一撃が期待通りの結果に終わることを祈りつつ……。
「命中まで、30秒……」
 カウントダウンを行う副長の声に含まれる緊張の度合いも、徐々に濃くなる。
 だが、程よい緊張感は、みさきの逼迫した口調での報告により、瞬時に吹き飛ばされた。
『右舷前方より敵艦接近! 魚雷の射線に割り込むよっ!』
「!」
 雪見は潜望鏡を右に回し、約30度まで旋回させた時点で、その光景を目撃した。
 突然、潜望鏡の視界に飛び込んできた水上艦艇――アメリカのスプルーアンス級駆逐艦をふた回りばかり小さくしたような艦、Air海防隊のズイジン級フリゲートが、32ノットの最大戦速で<イタル・ヒノウエ>と魚雷の間に割って入ってきたのだ。
 Airの最新艦、ソード(太刀)級より一世代前の汎用フリゲートは、あまりにも苛烈な自己犠牲の精神を発露しつつあった。
「な……!」
 後はもう言葉にならない。潜望鏡のスコープに顔を貼りつけたまま、唖然となる。
 戦場の只中にいる軍人としてはあるまじき精神状態になってしまった雪見だが、仮に彼女が冷静だったとしても、その後の結果は変わらなかっただろう。
 <イタル・ヒノウエ>に向かう魚雷は直進しかできない無誘導で、敵のフリゲートの操艦――空母を救う代わりに、自分を確実に殺してしまう最期の操舵と速力調整――は完璧だったからだ。
 耳の肥えたみさきも、<ベイオウルフ・π>の音紋データも気づかなかったが、雪見とみさきは、目の前のズイジン級1番艦<ズイジン>とはこれで2度目の手合わせとなる。1度目は、彼女たちが今の乗艦を与えられるきっかけとなった<カンナ>撃沈の時。<ズイジン>は、この時<カンナ>の護衛としてついており、義務を全うできなかった。
 しかし、<ズイジン>は今度こそ護衛の対象を、それこそ自らを水面の底に沈めてでも守ろうとの意志を固めている。それは主を目の前で討ち取られたかつての無念と屈辱を晴らす最後の機会、そして唯一の手段だと思っているのかもしれない。
 やがて、その決定的な瞬間がやってきた。雪見の思考が停止してから、正確に25秒後のことだった。
 全長130メートル、排水量3300トンの船体が震え、そして噴き上がった4本の水柱によって隠された。爆音が<ベイオウルフ・π>に達して乗組員たちの耳を打つ中、ソナー室のみさきが「魚雷命中! 敵フリゲート轟沈したよっ!」と雪見にとっては全く不必要な報告を律儀に送ってくる。
 現に、水柱の合間に火柱(おそらく、弾薬庫の誘爆)が上がるのを確認し、続いて艦首とおぼしき部分が千切れて海面上に飛び上がるのを目の当たりにしていた雪見は、悔しさを隠し切れない声で命じていた。
「急速潜行、深度500! 機関全力!」
 この一撃で仕留め損なった。しかし、第2撃を許すほどISAFも甘くはないだろう。これ以上敵新型空母にこだわっては、自分と艦と67名の乗組員、ひとりの新聞記者を危険に晒す。艦長としての責任が、大戦果を得る機会を捨てさせたのである。 
 その直後、彼女たちの頭上で爆発音が3つ、連続して発生した。誘導魚雷のワイヤーは、艦の行動自由化のため、潜行開始時に切り離してある。誘導が無効になった時には命中寸前だった<ベイオウルフ・π>の死の銛が、<スノーシティー>の船底を食い破り、直径数メートルの大穴を穿った瞬間である。しかもそのうちの1本は、キールに重大な損傷を与えていた。
 こうして、1959年竣工の<スノーシティー>は、3本の魚雷の船底爆発によってその生命を絶たれた。なお、彼女の沈没は被雷から2時間後。艦齢45年の艦にしては、よくそこまで耐久したと褒めても良いだろう。その最期は、水平を保ったままゆっくりと、静かに海面下に姿を消していったという。冬になると、名の由来となった街に降る初雪が、地面に触れ、溶けてなくなるように……。
 そのKanonの北にある都市、スノーシティーが無防備都市宣言をし、朝日の昇るような勢いで大陸を席巻していたTactics陸軍の軍門に降ったのは、同じ名を持つ空母の戦没から僅か3日後のことだった。名前が同じということで、街の誇りでもあった6万トン空母の訃報を聞き、侵略者への抗戦を覚悟していた市関係者や市民たちが戦意を喪失してしまったのかもしれない。
 しかし、今はそれに注意を払っている余裕などない。一刻も早く深海に達しないと、今度は自分たちが<スノーシティー>と同じ目にあう。実際、逃げる<ベイオウルフ・π>に、雪見の予想通り、いくつもの対潜魚雷が食い下がり、<スノーシティー>の仇を討たんと牙を剥いてくる。
「ポリマー準備! デコイ3番、4番スタンバイして! 早くっ!」
 悲鳴のような声で矢継ぎ早に命じる。
 やがて、<ベイオウルフ・π>とその中にいる68名の乗員プラス1名の新聞記者たちは、立て続けに起こる水中爆発に翻弄されるようになる。ジェットコースターのような振動と破断したパイプからの漏水に悩まされながらも、死なないための努力を最大限に発揮した。

 それから15分後、<ベイオウルフ・π>は地獄の鍋底のような海から抜け出すことに成功していた。
 恐怖のために引きつりそうでも、部下の前ではみっともない顔はできないと、彼女は我慢していた。その見栄と意地からようやく解放される雪見は、明らかに安堵した声音でみさきに訊ねた。
「追っ手は来ない?」
『うん。大丈夫だよ、多分。上もそれどころじゃないんだよ』
「大物をひとつ討ったからね」
 その代わり、お返しはずいぶんひどいものだったけど。とつけ加えて、額の汗をハンカチで拭った。乾いたハンカチは、水分を吸ってたちまち湿っぽくなる。
「僚艦はどうしてるかわかる?」
『……わからないよ。海はまだ煮えたぎってるから、ちょっと遠くまでは……』
 時折、何かの爆発が水中衝撃波となって伝わってくる。まだ戦いは収まってはいないが、彼女たちは最悪の状況からは抜け出せたらしい。
「そうね。わたしたちも自分たちのことで精一杯だったから……」
『うん。大変だったね』
 みさきの声にも、雪見の声にも疲労の色が濃く滲んでいた。空母雷撃前を上回る猛攻に曝された結果、<ベイオウルフ・π>の全乗員が、いい加減グロッキー寸前になっていた。
 そのような訳であるから、先ほど気絶した上月澪がこれに我慢できる道理もなく、再び気を失った彼女は既に医務室へと運ばれている。
(上月さんは気の毒だったけど……)
 澪がいた特設席の周囲に、紙切れが乱雑に散らばっている。蛇がのたうったような、かろうじて字と判るものが書かれていた。どうやら彼女は悲鳴をも書き示していたらしい。『きゃああああっ! なの』と書かれた1枚を拾い上げ、雪見はひとつの確約を果たしたことに微かな満足感を覚え、思った。
 とにかく、約束は守れた。絶対に死なせない、という約束を。あれだけの対潜攻撃を受けながらも<ベイオウルフ・π>はこうして無傷で存在している。
 これというのも、乗組員たちが持てる全ての能力を出し切って、それぞれの義務をしっかりと果たしてくれたために他ならない。
 発令所をぐるりと見渡して、その思いをさらに強くする雪見だったが、発令所の各員は、皆一様に複雑な表情をしていた。安堵が6割、喜びが3割、そして悔しさが1割。雪見はそう読み取った。
「艦長より全乗員へ。良く聞いて」
 マイクを手に取り、全艦内放送にセットする。
「もう知ってると思うけど、本艦は敵空母2隻に雷撃を敢行。その内1隻、<スノーシティー>に3本命中。撃沈は確実と思われるわ。でも、肝心の<イタル・ヒノウエ>は……」
 そこで一度区切り、一呼吸置いて、
「みんな、ごめんなさい」
 と、雪見は詫びていた。艦の行動の責任は最終的に、全て艦長に属する。部下の貴重な生命を死の危険に晒したにも関わらず、最大の目標<イタル・ヒノウエ>を討ち漏らしてしまった。結局、作戦は失敗したのだ。
 雪見はマイクをフォルダに戻すと、うつむきながら唇を噛み締めた。
「仕方ないですよ。あんな激しい妨害を受けては、1撃がやっとでした。もたもたしてたら、我々は今頃水圧でペシャンコです」
 これまでの威厳はどこに放置されたのか、しおらしくなってしまった雪見にそう声をかけたのは、やはり全身から安堵感を滲み出させているような感じの副長だった。彼も冷や汗を拭うが、清潔な上官のようにハンカチを使わず、手の甲でそれを行った。
「いや、わたしが言いたいのは――」
「一度に2隻を狙ったことですか?」
「ええ、あそこで1隻に絞っていれば」
「艦長の決断は的確だったと判断します。照準も完璧でした。あの状況で、あれ以上の好条件は望めません。ただ、今回は」
「私も、フリゲート艦が割って入るなんて、驚いたよ。雪ちゃん」
 と、女性の新たな声が発令所に小さく響く。ソナー室に詰めていた川名みさきが、最悪の状況を脱したため、後の任務を部下に任せて発令所に姿を見せたのだ。
「みさき、おつかれさま」
「うん。おつかれさま」
 これまで艦の目となり耳となり、アクロバットな動きをする艦内で、激しい騒音と振動に悩まされながらも恐ろしいまでの集中力を維持してきたのだ。確実に疲れ、憔悴しているのが声や表情からうかがえる。
「自分を盾にするなんて、よっぽど……」
 大切な空母だったんだね。と言ったみさきの顔は、今にも泣きそうになっていた。外部からの情報には最も敏感な彼女のことだ。もしかしたら、ズイジン級の断末魔の爆音の中に、乗組員の最期の嘆きや叫びをも聞き取っていたのかもしれない。
 軍人になっても、彼女の優しさは昔と何ら変わっていない。それが川名みさきという女性だった。
「しかし、1隻は確実に沈めました。敵さんにとっては<スノーシティー>だけでもずいぶんと大きな損害になるはずです」
「そうだよ。だからそんなにがっかりしなくても大丈夫だよ、雪ちゃん」
 副長とみさきが楽観論を述べるのは、自分を気遣ってのことだというのは、雪見は良く理解できる。特にみさきとは付き合いが長い。彼女がどれだけ思いやりのある女性なのかは雪見が一番知っている。
 しかし、だからこそ雪見は、信頼すべき部下たちが堂々と胸を張り、サブマリナー徽章を顕示できるだけの戦果を上げたかったし、そうしなければならなかった。
 このことについて口を開きかけた時、雪見は背中に暖かい圧力を感じた。
 驚いて振り向くと、医務室に運ばれていたはずの上月澪が、ぴったりと張りついていた。両手でしっかりと、まるで幼子が、母親を小さな腕で抱くように。
「上月さん!? もう大丈夫なの?」
 首を後ろに向けて聞く雪見。小柄な澪は自分の背中に隠れて見えない。そんな雪見に対し、澪は抱きついたままうんうんと何度も頷き、やがて離れると、スケッチブックに雪見の問いとはあまり関係のないことを書く。しかし、それには澪の全ての感情が込められていた。
『あのね、守ってくれてありがとうなの』
 それを見た瞬間、雪見の目が潤んだ。
 何に感動したのか、自分でも良くわからない。澪の素直な――何の打算も存在しない清らかな心にかもしれないし、その心が生み出す感謝を一身に浴びていることにかもしれない。
 とにかくこれで、発令所内の空気がにわかに変化した。それはもちろん良い方向へとだった。その空気を察知した副長が、今の雰囲気を守るべくすかさず言った。
「彼女の言う通りです。生きている者が勝利者、とも言いますからね」
「そうだよ、雪ちゃん。だから元気出して」
「……そうね。そうよね。ありがと」
 みさきもそれに加わると、雪見はようやく笑みを見せた。そしてマイクを手に取ると、落ち着いた声で宣言する。
「進路変更、180度。本艦はこれよりファーバンティに帰投するわ。みんな、本当におつかれさま。以上終わりっ!」
 艦内に歓声が起こる。生きて祖国に帰れる喜びが艦内を支配する。無論、状況は発令所も同じだ。手を叩き合ったりする者や、ほっとして笑い合う者が続出する。
「ね、雪ちゃん。帰ったらカレー食べに行こうよ」
「そうね。用意してきたカレーはあんたが全部食べちゃったからね」
「うー……」
 発令所にひとしきり笑いが起こる。からかった雪見も、からかわれたみさきも、そして傍観していた澪も笑う。こうして<ベイオウルフ・π>の乗員たちには笑顔が戻り、艦は南へ――クラナド大陸南部を迂回して、母港に帰還するための行動を開始した。雪見もとりあえずのところは、自分の失敗を考えるのは止めにする。みさきたちの明るい笑い声が、今だけは嫌な考えを忘れさせてくれたのだ。

 しかし、彼女は後にあの時の自分の決断を、激しく後悔することになる。
 なぜなら、この約10ヵ月後の2004年9月に、完成して艦載機を満載し、大陸の海に還ってきた<イタル・ヒノウエ>から飛び立った戦闘機がノースポイント、ニューフィールド島防空戦に勝利して、大陸戦争にひとつの節目を作ったからだ。
 その中でも特に重大だったのは、この沈め損ねた巨大空母から、メビウスの輪をあしらったマークを描いた戦闘機が初めて出撃したことである。それのパイロットこそ、大陸戦争におけるISAF最高のエースとなり、戦局にも重大な(Tacticsにとって不利になる)影響を及ぼした「メビウス1」だった。
 彼は、今回の最重要目標<イタル・ヒノウエ>から初陣を果たし、やがてISAFの勝利の象徴となるのである。
 そして<イタル・ヒノウエ>も、ISAFで最も強力な海上航空戦力としてコンベース奇襲、ISAFの偵察衛星打ち上げを巡り生起したコモナ諸島防空戦など、幾多の戦いに参加し、ISAFの勝利の一翼を担うことになる。
 そのコンベース奇襲において<ベイオウルフ・π>も、収容されていたブンカーごと破壊され、雪見自慢の部下も半分が戦死傷するという過酷な運命が待ち受けている。
 もしも、<イタル・ヒノウエ>の撃沈に成功していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない……。
 だが、これらは現在の雪見たちは与り知らぬ未来のことなので、当面の彼女たちには、生きている喜びを噛み締める権利が与えられている。
 69名を乗せた<ベイオウルフ・π>は、敵意に満ちた海から、祖国の海に向けて駆け抜くのだった。


2003年12月8日 Tactics連邦 首都ファーバンティ 国防総省 海軍潜水艦隊司令部

 狂乱の海から生還し、ホームグラウンドたるファーバンティ軍港へ帰還した翌日、深山雪見中佐は潜水艦隊の司令部に出頭していた。彼女は1艦を預かる者の責任として、戦闘の報告書を提出し、口頭でもそれを上官に告げなければならない。
「大体わかったわ。深山中佐」
 デスクに座って、じっと戦闘詳報に目を通していた潜水艦隊司令長官の小坂由紀子中将が、その一言と共に顔を上げ、雪見を見やった。視線はどことなく優しげで、雪見をいたわっているような温かさを含んでいたが、それが返って、任務を半分以上果たせなかった雪見の責任感を圧迫した。
「申し訳ありませんでした」
 ついに耐え切れなくなった雪見は詫びの言葉と共に深々と頭を下げた。ウェーブのかかった綺麗な髪がふわりと揺れ、垂れ下がる。
「ごくろうさま。良くやってくれたわ、あなたたちは」
「しかし、わたしは――」
 ねぎらう由紀子に対して、自らを責めようとする雪見。だが彼女の上官はそれを途中で遮り、ISAF機動部隊襲撃戦直後に<ベイオウルフ・π>の乗員たちが雪見に言ったことと大して変わらない内容の言葉をかけた。
「深山中佐。戦争には相手がいるのよ。必死なのは敵も味方も同じ。<イタル・ヒノウエ>を沈められなかったのは確かに惜しいけど、でも、今はそれよりも」
 そして、由紀子は口元にやわらかい――まるで、母親が子供を安心させる時のような笑みを浮かべて、言葉を続けた。
「貴重な艦と、68人の命を無事に連れ還ってきてくれたことに感謝するわ。あ、もちろんあなた自身がここにいることもね」
「長官……」
「それに、もしあなたが敵の囮作戦に気づいてなかったら、<スノーシティー>も沈められなかったのかもしれないのよ。これは立派な功績よ。ありがとう」
 由紀子はそこで深く頭を下げた。雪見は驚いて絶句したが、彼女が恐縮したまま「頭を上げてください」と言う前に、由紀子は顔を雪見に向け、笑いながらくだけた調子になって言った。
「さ、この一件はもういいわ。退室してよろしい。それと、今後1週間はここに来なくても良いわよ。おつかれさま!」
 雪見には1週間の休暇が与えられたことを示唆して、由紀子は雪見を任務から解放した。
「ありがとうございます。失礼します」の一言を残して長官室を後にする雪見を見送り、ひとりとなった由紀子は、ここでついに真の感情を表に出した。はぁ、と憂鬱をたっぷりと含んだ溜息を吐き出すと、考えを巡らせる。
(失敗か……どうしようかしら……)
 由紀子は「失敗」と内心で断じた。彼女の想定では、今回の作戦で<イタル・ヒノウエ>を何としてでも撃沈しなければならなかった。それを達成した場合、作戦の進捗率は約70パーセントになる。早い話、他の艦はどうでも良い。11万トンの最新鋭空母さえ仕留められれば、それで良かったのだ。
 しかし、深山中佐たちは本当に良くやってくれた。報告を見る限りそれは疑いないし、実際に前線で命を張った彼女たちの働きを疑うこと自体、犯罪に匹敵する。
 結局のところ、作戦失敗の理由は2つある。作戦参加艦の少なさと、ISAFを甘く見たことだ。艦の数は限られていることなので仕方がないが、もう少し敵を高く評価して、もっと多くの艦を投入できなかったものか。潜水艦での勤務経験がないのになぜか潜水艦隊司令に抜擢された自分の詰めの甘さをひたすらに悔いる由紀子は、それでも自分なりの分析を脳内で行う。
 今回のサベージ・シャーク作戦に投入された潜水艦は10隻。うち4隻は原潜で、整備中の<ベイオウルフ・α>を除いたTacticsの持つ原潜の80パーセントを集中してはいるが、まず敵の囮作戦にまんまと騙されそうになった。それは機転の利く深山中佐のおかげで、本物を捕捉して襲うことはできたが、残念ながら厳重な護衛のつけられた1個機動部隊を襲撃するには駒が足りなかった。現に、肝心の空母に雷撃を敢行できたのは<ベイオウルフ・π>のみで、改ドウセイ級の2隻はエスコート艦を数隻撃沈し、後は敵の反撃から逃れるだけで精一杯だったのだ。
 また、ISAFの対潜戦術は、敵ながら見事という他なかった。騒音溢れる海中で、敵潜水艦を探知して、適切な攻撃を加えてきたのだから。最新鋭の<ベイオウルフ・π>が幾度もアスロックを投射されたのはその証明だ。これが原潜でなければ、かなりの確立で撃沈されていただろう。
 ともかくも、もう既に終わってしまったことだ。<イタル・ヒノウエ>は安全圏に逃れた。由紀子も結果を受け止めた上で、また新たな仕事に取りかからなければならない。彼女は立ち上がり、今から1時間後に開かれる海軍の今後の軍事行動を決める作戦会議に出席するため、資料を手早くまとめると地下の大会議室へと向かった。
 誰ひとりいなくなった部屋の机には、写真立てに納まった一組の若い男女――共に「156TH TACTICAL FIGHTER WING」と書かれたワッペンがついた空軍のフライトジャケットを羽織っている――の写真だけ残された。その情景は、由紀子とその親しい人々の未来を暗示しているようでもあった。

 小坂由紀子も後に、この作戦をもっと徹底的にするべきだったと、深山雪見と同じく大変悔やむことになる。<イタル・ヒノウエ>から「メビウス1」が初陣を果たしたことには既に触れたが、彼女の養子である空軍の「黄色の13」折原浩平少佐とそのパートナー「黄色の4」長森瑞佳大尉は、ISAF屈指のエースに成長したメビウス1と戦って敗れる未来が待っていたからである。
 無論、<イタル・ヒノウエ>を撃沈していたからといって、メビウス1が現れないとは限らない。だが、息子の大切な人と、最愛の息子そのものまでを喪った(最終的にふたりは死んでいなかったが)時は、嘆き悲しむと同時に自殺したくなるほどの後悔の念を抱いたのだった。小坂由紀子は、軍人である以前に、ひとりの母親だった。
 ともかくも、サベージ・シャーク作戦の結果は、戦争の流れをとある方向へ誘導する舵のひとつとなった。それはTacticsにとっては悪い方向になるのだが、これを評価するのは後世の人々であって、少なくとも今の深山雪見や小坂由紀子ではない。
 ただ、彼女たちが祖国の負託に応えようと全力を尽くした軍人であることは、歴史がどのように動こうとも変わりはない。


2007年5月28日 Tactics連邦 首都ファーバンティ 喫茶店「山葉堂」

「ふぅ……今はここまでね」
 深山雪見はそう言うと、これまでノートパソコンのキーボード上を走らせていた白魚のような美しい指を止めた。
 手が空くと、ディスプレイに集中していた視線を向かいに座っている相棒、川名みさきに向ける機会が生まれた。だがそれを実行した彼女は次の瞬間、あっけに取られて、すぐに思わず叫んでいた。
「あっ!? みさきっ! なにひとりで食べちゃってるのよっ!」
「だって、お腹がすいてたんだよ」
 そう平然と言い切ったみさきの前には、ほとんどなくなりかけた大きな皿がある。つい先ほどまで、この中にはワッフルが山積みになっていたはずなのに。
「まったく……」
 あんたも有名なデザイナーになったのに、その食い意地だけは相変わらずよね……。雪見は溜息をつきながら、表情でそう語りかけた。

 クラナド戦争が終わってから約2年が経った。
 2005年9月19日、彼女たちのいるここファーバンティは、ISAFとの戦争の決戦場となった。そのさなか、この大都市は核の惨禍の中に消えかかった。Tactics軍の指導部は、完成しながらも制海権の喪失で外洋に出る機会を奪われたベイオウルフ級4番艦<ベイオウルフ・Ω>の原子炉を自爆させて、ファーバンティに攻め込んだISAFをまとめて無力化しようとしたのだ。
 しかし、そんなことをしたら軍に加わって戦う、または戦禍におびえる市民たちももちろん無事では済まない。この時、核爆弾と位置づけられた<ベイオウルフ・Ω>の幹部乗組員となっていた雪見とみさきは、こんなことに同意できるはずもなく、この暴挙を非常手段で――督戦にやって来た陸軍将校を暗殺して阻止した。
 ファーバンティ市民は彼女たちに感謝すべきだが、この事実を雪見もみさきも、その他の当事者たちも一切口外していない。いや、話して自慢すべきことではない。少なくとも彼女たちはそう考えた。
 戦後、海軍の再建は茨の道となる。特に潜水艦ではそれが著しかった。
 6隻建造された原潜のうち、生き残ったのは3隻、改ドウセイ級2隻と自爆を免れた<ベイオウルフ・Ω>。それらはISAFに没収された。今頃はアメリカで徹底的な調査を受けているだろう。もちろん祖国に帰還する兆しは見えない。
 その上、通常動力潜も開戦前の3分の1近くに減ってしまったため、サブマリナーの需要も激減した。そのような向かい風を受けて、雪見とみさきは海軍を引き、その後1年間、職を探して世間の冷たさを味わった(戦争の熱さよりは楽だったかもしれないが)。
 しかし、どういう運命の巡り合わせか、雪見は洒落で書いた演劇のシナリオがなぜか高く評価され、舞台脚本家として鮮烈なデビューをした。みさきは雪見の劇に使う舞台衣装をデザインしたところ、ファッション界の目にとまった。
 こうして、今はふたりとも新進気鋭の脚本家/デザイナーとして、その地位を確立している。
(少しはこの国に余裕が出てきた、ってところかしら? そう言えば、新聞でも悪い話題が少なくなってるような気がする……)
 ま、そうでもなければ、誰も好きこのんでわたしの芝居なんか観に来ないわよね。みさきの創った服は素敵だと思うから、あれが良く売れるのは当然だろうけど。
 でも、それはそれで良いことね。国が平和になって、みんな芝居とかファッションとかで楽しむことができるようになったんだから。
 そのような訳で、ふたりともここ最近は忙しい毎日を送っているが、今日こうしてワッフルが美味しいことで知られる喫茶店にいるのは、今の仕事とは別件である。ついでに言えば、雪見がパソコンのワープロで何かを打っていたのは、劇の脚本ではない。
 雪見がひとりで考え込んでいたその時、店のドアがチリンチリン、と涼しい音色を響かせ、新たな来客を告げた。
「あっ、澪ちゃん! 澪ちゃーんっ!」
 雪見に注意されながらも、なおワッフルに執着しようとしていたみさきが、来店した小柄な女性の客を確認すると、ワッフルに伸ばしかけた手を振って、自分たちをアピールする。すると、その女性――上月澪もみさきと雪見に気づいて、駆け寄る。
『あのね、お久しぶりなの』
 と笑顔でスケッチブックに書き込めば、ふたりも心からの笑顔で返す。
「澪ちゃん、お久しぶりだね」
「上月さん、元気だった?」
『うん、とても元気なの』
 開戦4ヵ月目から終戦まで、すなわち約2年間、雪見の指揮する潜水艦に乗艦取材したファーバンティタイムズ社記者、上月澪は雪見とみさきにとってかけがえのない「戦友」である。3人の親しさは、その絆の強さをはっきりと表していた。
「悪かったわね。忙しいのにわざわざ呼び出しちゃったりして」
『ううん、逢えて嬉しいの』
「澪ちゃんの記事、いつも読んでるよ。頑張ってるね」
『ありがとうなの。わたしも雪見さんの劇を観たり、みさきさんの服も買ったの』
「えっ? あれを観てくれたの? なんか照れるわね……」
「うー、何だか恥ずかしいよ……」
 ひとしきり再会を喜び合う。話題はもちろん自分たちの近況である。それが30分くらい続き、一区切りつくと、雪見が本題を――今日、ここに集合した理由を切り出す。
「で、上月さん。この前の話なんだけど、協力してくれるかしら?」
『うん、良いの。よろしくなの』
「そうだ。澪ちゃんの所に、岡崎さんから連絡届いてる?」
『うん。メールをもらったの』
 ことの始まりは2ヵ月前に遡る。脚本家としての生活にも慣れてきた頃、雪見に一通の手紙が届いた。差出人は岡崎直幸。Kanonの領内に成立する独立都市国家CLANNAD市国出身の戦史研究家で、彼の名は大陸全体に広く知れ渡っている。雪見も彼の著書は何冊か読んだことがある。
 その岡崎が、クラナド戦争における潜水艦の戦いを、手記という形で本にしてみないか、と雪見に誘いをかけたのだ。その数日後、岡崎ははるばるTacticsまでやって来て、雪見に直談判を試みた。
 岡崎は、数字だけでは表現できないいわゆる「生」の戦いを調べていて、サベージ・シャーク作戦で空母<スノーシティー>に引導を渡した雪見の実体験を知りたいと言ってきた。彼はその日、ISAFへの取材のため、ノースポイントに逃れる<イタル・ヒノウエ>に乗っていて、<ベイオウルフ・π>の渾身の雷撃と、その結果――空母とフリゲートがそれぞれ1隻撃沈――を目の当たりにしていた。
 あれが命中していたら、自分は死んでいたかもしれないと、岡崎は笑って言ったものだった。しかし、次の瞬間には穏やながらも真顔になって、彼女たちの奮闘がこのまま埋もれてしまうのは大変惜しいとも言った。しかも「君たちならジョセフ・エンライトの『SHINANO!』を超える本を書ける」とまで言われた。
 この初老の戦史研究家の飾らない人柄と誠実な態度に好感を覚え、さらに第2次大戦中に日本の超大型空母<信濃>を撃沈したアメリカの名潜水艦長と比較されてはもはや断ることはできなくなった。雪見は執筆を決意し、岡崎の誘いに乗った。
 もっともその決断の陰には、自分が青春を注いだ潜水艦と、コンベースで戦死した<ベイオウルフ・π>副長を始めとする、ヴァルハラへと召された部下たちへの想いがくすぶっていたのかもしれない。
 ただし、雪見は執筆にあたってひとつの条件をつけた。戦争の間、苦楽を共にした川名みさきと上月澪にも執筆に協力してもらう、というものだ。岡崎は快諾し、それに基づいて3人は今こうして打ち合わせのために集結している、という訳だった。
 なお、雪見が先ほどまでノートパソコンを使って書いていたのは、新たに出す本の草稿である。
「上月さんは文を書くのが上手いから、心配はないわね」
『でも、私はあの時、気絶してただけなの』
「戦闘だけじゃなくて、普段港にいた時のこととかにも触れるから、そんなに心配しないで。むしろ問題は……みさきよね」
「雪ちゃん、それってどういうこと?」
「あら、あんた、作文なんて得意だったっけ?」
「うーん、それを言われると、ちょっと困るかな……」
『みさきさんなら大丈夫なの。困ったら私が手伝ってあげるの』
「うん、ありがとうっ」
 彼女たちはそれぞれ試行錯誤しつつも、自分の体験を後世に残そうと頑張る心づもりを決めていた。どういう内容になるのかはまだ具体的には定まっていないが、雪見にはひとつだけ、胸に秘めたものがある。
 それを皆に告げる前に、澪が雪見の心境を先読みしていたかのごとくに述べた。
『あのね、本のタイトルはどうするの?』
「あ、そうだね。まずはそれから決めちゃおうか?」
「ええ。で、そのことなんだけど……」
 やがて、雪見がゆっくりと、それでいて心持ち弾んだ声で言った。そしてその言葉こそが、彼女たち3人の、本の完成へ向けた新たな「戦い」の始まりを告げるものともなったのである。
「本のタイトルは『深海の尖兵』なんてどうかしら?」


  ――完――


Tactics海軍ベイオウルフ級攻撃型原子力潜水艦
<ベイオウルフ・α>2000年就役 2005年戦没
<ベイオウルフ・ν>2002年就役 2004年戦没
<ベイオウルフ・π>2003年就役 2004年戦没
<ベイオウルフ・Ω>2005年就役 
水上排水量6550トン
水中排水量7400トン
全長103.7メートル
全幅10.9メートル
喫水9.9メートル
主機原子炉/蒸気タービン 1軸
出力4万馬力
速力水中37ノット
兵装533ミリ魚雷発射管 7門(魚雷・対艦ミサイルなど計42本)

 
あとがき

 まずは、さたびーさん。HP開設2周年、真におめでとうございます。
 その記念として、本作を捧げさせていただきます。遅くなった上「捧げ物」として相応しいだけの価値があれば良いのですが。

 前作「鋼鉄の記憶」に引き続き、今回のKCO外伝も海戦を取り扱ってみました。ただし、頭の中でイメージしやすい水上砲戦とは全く逆の戦闘――なかなかわかりにくい潜水艦戦闘です。果たして読者の皆様にどれだけ「潜水艦の戦い」らしさをお伝えできたかどうか、それは自身でも全く定かではありません。執筆中に映画「クリムゾン・タイド」がTV放映されたので、脳内でその戦闘の光景を思い出しながら書いていたりしたのですが(笑)。
 しかも、潜水艦の性能はどこの国でも最高級の軍事機密でありまして、水中速力や潜水深度などは特にカタログデータが信用できない(実際より低く公表している)と考えています。ですから、本作で登場したベイオウルフ級の性能も「現代の最新鋭原潜ならこれだけの性能を出せるんじゃないか」という私の独断と偏見に基づくものであります(米のシーウルフ級だと、カタログデータの2割増くらいの性能を出せるんじゃないかと、特に根拠もなく思っていますが)。
 このように曖昧な知識しかなく、その上リアルらしさを出しつつもシチュエーション優先(潜望鏡を覗いて雷撃するなど)で書き進めたため、実際にはあり得ないであろうことも発生しているかもしれません。このシチュエーションを踏まえつつ、潜水艦に詳しい方に不自然な点をご指摘いただければ嬉しいです。
 なぜ今回のような話を思いついたのかは良く覚えていないのですが(爆)、多分本編で悲惨過ぎる初登場をした演劇部(と助っ人)の面々に活躍の場を与えてやりたい、と欲したのではないかと、今になってみるとそう思います。
 本作の執筆に当たり「トム・クランシーの原潜解剖」(新潮文庫)「現代の潜水艦」(学習研究社)「大図解 世界の潜水艦」(グリーンアロー出版社)などの潜水艦関連書籍を購入し、読むことによって色々と勉強になりました。
 現代の潜水艦は、技術の発達によって昔とは比較にならないほどの性能と価値を持たされ、役割も大変に大きいです。そして実態は把握しにくく、存在すると思わせるだけで相手に大きなプレッシャーを与える、まさに抑止力の最前線を行く存在であることが再確認できただけでも収穫でした。それは我が日本の潜水艦も例外ではないでしょう。
 なお今回のタイトルは、例のごとく私の敬愛する横山信義氏の著作をヒント――もとい、パクらせていただきました(爆)。しかし、潜水艦の戦術・戦略的存在を考えると「深海の尖兵」という言葉は結構合っているのではないか……と思うことしきりです。
 では、今回もお読みくださり、どうもありがとうございました。次のKCO外伝(があれば)ではなんとか空戦ものを……(汗)。


管理人のコメント
 今回もU−2Kさんから素晴らしい作品を戴きました。前回の大砲撃戦から一転して、今回は静かなる深海の戦いです。
 今回のメインヒロインたる雪見、みさき、そして澪たちの友情も素晴らしいですが、由起子の「母親」としての姿や、フリゲート艦<ズイジン>の無名の乗員たちの献身的な戦いなど、見所も満載で、もはや下手な感想を書くのがもったいないほどです。
 U−2Kさん、ありがとうございました。次回作にも非常に期待しています。


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